嬉しい、感謝。
あれから一月経った。
塚山家、その由左衛門に与えられた訓練用の一部屋。
「由太郎、道場破りをするぞ」
「え?あ、はい……はい?」
困惑する由太郎を放置し、竹刀袋を二つ用意する。
有事の際に使う真剣。
それと竹刀だ。
そんな吾輩の様子に、困惑した由太郎が手を挙げた。
「先生!何の説明にもなっていません!」
由太郎の抗議に、吾輩は首を捻った。
「基礎も出来てきた今、実戦を見た方が良いと思ってな」
「……俺のため、ですか?」
「……まぁ、そうなるな」
嘘だ。
本当は吾輩の目的のためだ。
……いや、遡れば由太郎の為でもあるのか?
まぁ、いい。
どうせ本当の理由は誰にも話さないのだから。
由太郎へ視線を落とす。
吾輩の剣術に関われる事が嬉しいのか……純粋に目を輝かせている。
その輝きに目を細める。
罪悪感……それが胸に滲む。
……吾輩がこの先、進んでいく道。
それは由太郎に対する裏切りである。
彼の事を案じているからといって、許される事ではないだろう。
しかし、そも許しは必要としていない。
この世界に産まれた異物である吾輩が出来る事とは……彼らの為の水先案内人となる事だけだ。
手を、由太郎の頭に置いた。
「午後には出る。準備をしておけ」
「は、はい!」
くしゃり、と撫でて……手を離した。
昼下がり。
吾輩と由太郎は町を出て、隣町まで歩く。
荷物は最小限。
吾輩は真剣を背負い、由太郎には竹刀を持たせる。
鍛錬によって身体が鍛えられているからか、由太郎は文句も言わず付いて来れている。
だが、身長差故に歩幅の差があり……少し、遅れがちだ。
結果、定期的に少し早歩きになり、吾輩の側に寄ってきている。
……到着が少し遅れるが、歩幅を狭めるか。
由太郎は普段、馬車で通る道を自分の足で歩いているのが新鮮なのか、周りを少し見渡しながら歩いている。
この経験が、彼の糧になるならば良い。
……よく見ると、由太郎は少し汗をかいていた。
ふむ。
「……由太郎、少し休憩しよう」
「え……いえ!俺は大丈夫──
「いや、吾輩が休みたい」
「……わ、分かりました」
そこから少し歩き、茶屋に入った。
由太郎は申し訳なさそうな顔をしている。
きっと、自分が足を引っ張っているのだと思っているのだろう。
それは確かに正しいが、全てでもない。
「由太郎、気にしなくていい」
「え、でも……」
「体力の差、歩幅の差……大人と子供では違って当然だ」
店員から出された茶を飲む。
僅かな苦味が、身体に染みる。
「それを込みにして、鍛錬のために吾輩が連れて来たのだ。別に急ぐ必要はない」
「……そうなんですね」
串に刺さった三色団子を口に入れる。
「それに、一人旅は寂しいからな……」
「……寂しい、ですか?」
由太郎もゆっくりと手を伸ばして、団子を手に取った。
「おかしいか?吾輩も寂しい時だってある」
「いえ、おかしくはないですが……先生は、そういう『弱さ』とは無縁だと思っていました」
「……由太郎は、吾輩を過剰に評価している節があるな」
「い、いえ……」
団子のなくなった串で、由太郎を指差した。
「一つ勘違いしている。由太郎、『弱さ』とは悪い事ではないぞ」
「……何故ですか?強い方が良いと思うのですが」
由太郎は本当に、不思議そうな顔をしていた。
『強さ』に憧れを抱いているのだ、『弱さ』に不寛容でも仕方あるまい。
あの夜、凶賊に襲われてしまった日。
実の父親が凶賊相手に頭を下げていたのを見て……自分はそうなりたくないと、士族としての在り方を示すために『強さ』を……そう考えているのだろう。
その考えは悪い事ではないが、若人の手に余る。
吾輩は串を皿に置いた。
「由太郎、そもそも『強さ』とは何だ?」
「それは、相手を打ちのめせる力を持つ事……誰にも負けない事です」
「確かに、それも『強い』と言っても良いだろう」
そう頷くと、由太郎は安堵の息を小さく吐いた。
正解の回答を出せたと思ったのだろう。
「だが、『強さ』とは一つではない」
「……一つではない、ですか?」
「そうだ」
由太郎は困惑したように首を傾げた。
吾輩は指を立てる。
「身体だけではない。心もだ。優しさや、思いやり……他者を守る意思。全てが『強さ』だ」
「……心も」
「確かに、決して敵に負けない剣客は『強い』。だが、力が強いだけで……孤独だ。人は決して独りでは生きていけない」
「…………」
「誰かを助ける事。守るべき物を守る事。それらは回り回って、己を守る『強さ』となる」
由太郎に、視線を向ける。
……真摯に話を聞いてくれている。
こういった素直さは彼の美徳だ。
「そして人を想う優しさは、由太郎の言っていた『弱さ』から生まれる。己の『弱さ』を知り、他人の『弱さ』に寛容になれるからこそ……優しく、『強い』心を持てる」
そう言うと、由太郎が恐る恐ると言った様子で手を上げた。
「……その、すみません」
「む?」
「先生が何言ってるか、ちょっと難しくて……」
「……ふっ」
思わず、少し笑った。
由太郎は申し訳なさそうな顔をしている。
十歳にする説教にしては、回りくど過ぎた。
これは吾輩が悪い。
やはり、慣れぬ説教なんてする物ではないな。
「要約するとな……人の『弱さ』を許容する事で、より『強い』心を持てるという事だ」
「『弱さ』を許容する……」
「まだ少し、分からないかも知れない。だから、二つだけ覚えておけば良い」
吾輩は指を二本立てて、由太郎の前に出す。
「他人に優しくすること。人の『弱さ』を嘲らないこと。この二つだ」
「……えっと、分かりました。その……気を付けます」
由太郎が神妙な顔をして、頷いた。
……思わず、頬を緩めて頭を撫でた。
「わ、先生……?」
「いや、なに……ここまで言っておいて何だが、由太郎は大丈夫だ。お前は優しいからな。そこまで深刻に捉える必要はない」
「……優しい?そうですか?」
「あぁ、優しいとも」
穏やかな気持ちで頭を撫でる。
出来過ぎた弟子だ。
吾輩を信頼して、言葉を懸命に咀嚼しようと聞き、真摯に向き合ってくれる。
本当に、吾輩には勿体無い程に──
手を、離す。
由太郎が少し寂しそうな表情をするが、堪える。
手を下ろして、机の下で強く握る。
「さて、休憩は終わりだ。そろそろ移動を再開しよう」
「え、えぇ!そうですね!」
由太郎は自分が寂しそうな表情をしていた自覚があるのか、ないのか……吾輩には分からぬが、それでも仕切り直すように声を張って頷いた。
金銭は吾輩が払う。
今回は由左衛門から貰った旅費ではない。
塚山家の食客である身だが、由太郎の護衛給料と称して小遣いを貰っている……何とも情けない話だが。
そうしてまた、舗装されていない道を歩く。
背中に竹刀や荷物を背負い、結構な距離を歩くのは由太郎の負担になっているだろう。
だが、先程の休憩で気力が満ちたのか、先程よりも元気よく歩いている。
……朝よりも元気なぐらいだ。
吾輩の大した事のない説教に、思う所があったのか。
◇◆◇
『強さ』。
俺は先程の、先生の話を思い出す。
……やっぱり、難しい。
難しく感じてしまうのは、俺がまだ未熟で、子供だからだろうか。
背中に背負う、竹刀袋から伸びる紐を握る。
俺にとっての『強さ』とは、先生の事だ。
あの夜、俺は憧れたんだ。
たった一撃で凶賊を打ち払った剣に。
俺を助け、心配してくれた心に。
だから、先生の言う『強さ』が心に起因するのだと理解出来た。
だけど『弱さ』を許容する事が、どうして『強さ』に繋がるのか……それは分からなかった。
俺は、親父のようになりたくなかった。
凶賊相手に頭を下げるような情けない大人になりたくなかった。
腰に差した士族の魂を売り、ペコペコするような人間になりたくなかった。
だけど、今は少しだけ親父の心も分かった。
アレは俺を守るための行動だった。
商いも家族を……俺を養う為のものだ。
だから……親父のようになりたくないとは思っても……親父の事を軽蔑するような感情は捨てた。
だけど、次にあんな状況になってしまった時、俺は頭を下げたくない。
自分の身も、守るべき人も……自分の力で守りたい。
他人に俺の大切なものを任せたくない。
俺は先生のように戦うための『強さ』が欲しかったんだ。
俺の中にある『弱さ』を否定したかったんだ。
それに、俺は先生を──
「着いたぞ、由太郎」
「……あ、はい!」
気付けば、予定をしていた道場まで来ていた。
先生は──
そのまま──
土足で、道場の中に入った。
瞬間、周りの道場生が騒めき立った。
「貴様!神聖な道場に土足で──
先生がそちらへ、浪人笠を被ったまま視線を向けた。
直後、俺は目を閉じた。
身体に強い風が通ったような、そんな感覚がしたからだ。
そして、目を開けば……道場生は言葉を失い、少し後ずさっていた。
今のは……いつか、先生の言っていた剣客の気迫……即ち『剣気』という奴だろうか?
側にいただけの俺ですら、冷や汗をかいていた。
直接受けた道場生なら、竦んでも仕方ない。
先生は道場生を無視して……奥に座っている初老の男へ足を進めた。
周りからの恐れを感じながら、俺は先生の後ろを歩く。
……少し、気まずい。
道場主であろう初老の男が、先生へ目を向けた。
口を開こうとした瞬間……先生が、先に口を開いた。
「甲源流、師範代の中岡と見受けた。違いないか」
「……左様だ。お主は──
「一つ、手合わせ願おう」
緊迫した空気が、道場内を走った。
「……道場破りか」
「そうだ」
道場主である……中岡、と言っただろうか?
彼が立ち上がり、先生と向き合った。
小さい──
いや、違う。
先生が大きいだけだ。
背丈だけではない。
存在感が違い過ぎる。
道場主も自覚はあるのか、向き合う視線も険しくなる。
それを見て、先生が小さく笑った。
「まさか、流派の名を掲げて……逃げはしまいな」
「抜かすな……通例に倣い、二本先取の三本勝負で構わないか」
「……フン、『二本先取』か。構わん」
先生は頷くと、俺へ向き直った。
「由太郎、竹刀を寄越せ」
「え?あ、はい!」
竹刀袋を開けて、竹刀を先生に渡す。
この竹刀は俺用ではない。
先生の背丈に合わせた大人用の竹刀だ。
俺が持つには長過ぎる。
先生は竹刀を握り……浪人笠をかぶったまま、道場主へ顔を向けた。
これから試合だと言うのに、顔も晒さず、名も明かしていない。
それに苛立ったのか、道場主が口を開いた。
「貴様、名は?」
「吾輩は石動 雷十太だ」
「……そうか。雷十太よ、その笠はいつまで被っているつもりだ」
その問いに、先生は小さく……側にいた俺にしか分からない程に小さく笑った。
「無論、この道場から去るまでだ」
「……
「顔が見たくば、一本、取って見せるのだな」
先生と道場主の間で、空気が破裂するような幻覚が見えた。
……凄いのは、先生だけじゃない。
この道場主も『剣気』を放っているんだ。
ごくり、と俺は喉を鳴らした。
「雷十太よ、審判はこちらで用意するぞ」
「構わん。どうせ判定など意味をなさんからな」
……どういう意味だろう?
困惑しつつも、相手側の眉間に皺が寄った事から、先生が煽ったのだと理解出来た。
……何だか、いつもの先生らしくない。
いやしかし、俺は剣客としての先生をあまり知らない。
だから、こうも違うのかと、少し怯えつつ──
「……先生」
小さく、声を掛けた。
これほど煽って大丈夫なのかと。
もし、万が一にも負けてしまったら──
「心配するな、由太郎。お前はただ、よく見ていると良い」
そう何でもないように言い切って、先生は道場の中心へ向かった。
そこには間違いなく、いつもの優しさがあった。
審判を挟み、先生と道場主が並ぶ。
道場主は竹刀を構えているが、先生は……竹刀の先端を下げ、構えてすらいない。
その様子に、道場主は表情を更に険しくした。
「では、一本目!」
審判が声を高々に──
「始め!」
試合の始まりを告げた。
しかし、どちらも動かない。
道場主は怒りながらも冷静であった。
先生が構えていない事に不気味さを覚え、警戒しているのだろう。
故に、口を開いた。
「どうした、雷十太よ。打ってこないのか」
道場主が、そう問うて──
「……一つ、教えておいてやろう」
答えはしなかった。
代わりに、先生は竹刀を軋むほど強く握り……上段に構えた。
「何を──
「貴様は『二本先取』と言ったな。だが、それが果たされる事はない」
「……何が言いたい」
遠過ぎず、近過ぎず……そんな距離を保っている。
尋常じゃない緊張。
一瞬でも目を離せば、試合が終わっているかも知れないという恐怖すら感じる。
そして、その終わりが近付いている事は、俺にも分かった。
「古流剣術に於いて……『二本目』など、最初から存在しない!」
「なっ──
刹那──
「
爆発した。
いや、爆発を幻視した。
先生が急激に接近し、竹刀を叩き付けたのだ。
凡そ、道場主の肩に直撃し……竹刀から出るとは思えない轟音を引き起こした。
全てが止まったように見えた。
道場主も、審判も、観客でさえも……何が起こったのか分からず、理解せず……固まってしまったのだ。
飛び込みは全く見えなかった。
攻撃した瞬間も……終わった後に、何が起こったのかようやく理解したのだ。
強烈な動、そして静寂。
落差に、身が震えた。
仕方ない話だ。
それ程までに一瞬。
それ程までに強烈。
道場主の顔が、少し遅れて歪み──
「勝負、あったな」
先生が、竹刀で道場主の頭を叩いた。
バチン、とようやく竹刀らしい音がして……直後、道場主は尻餅をついた。
先生が審判へ視線を向けた。
「どうした、今の面は無効か」
「あ……」
「吾輩に此奴を殺させるつもりか?」
「い、いや……め、面あり!一本!」
一本目が終わり……道場生達が道場主の周りに集まってくる。
先生は竹刀を俺に渡した。
「え?先生……?」
「終わりだ」
「ですが、二本先取では──
先生が、道場主の方を指差した。
俺もつられて目を向ける。
青ざめて、尋常じゃない量の汗を流していた。
道場生達は慌てた様子だ。
何やら内輪で話し合っているようで……そして、俺達の方に審判が来た。
「……な、中岡師範代は試合を続行出来ない」
「ふん、だろうな」
何があったのか。
ようやく……少しだけ予測できた。
つまり──
「師範代の、か、肩の骨にヒビが入って……いや、折れているかも知れない」
その言葉に、先生は何でもないような様子で頷いた。
……少し、違和感があった。
やはり先生らしくないと感じたからだ。
「なら、これで終いだ。吾輩の勝ちで違いないか」
先生はそう言って、道場主へ顔を向けた。
青ざめた顔で、頷いている。
その目には怯えが映っていた。
最早、戦える状況ではない。
たとえ身体が戦えたとしても、心が折られてしまえば──
「……雷十太殿、何が望みか」
審判が冷や汗をかきながら、そう問うた。
道場破りとは他流試合。
金銭のやり取りはないが、看板を奪うなんて話も聞いた事があるけれど──
「何も」
「……何も?」
「要らんと言っているのだ」
先生は、そう言い切った。
……そうだ。
元々、俺に剣の実戦を見せるからと道場破りしに来たんだ。
だから、目的は戦った時点で達している。
何も欲しくはないのだ。
「し、しかし、それでは甲源流の面子が──
「知らんな。面子など、そこいらの犬にでも食わせてしまえ」
あまりの言いように、驚いたような審判を無視し……先生は俺の側へ戻ってきた。
「帰るぞ、由太郎」
「え?あ、ですが……」
「これ以上、ここに居ては面倒ごとになりかねん」
「えっと……分かりました」
俺は頷き、先生の竹刀を竹刀袋へ入れた。
そうして、騒めく道場を後にした先生を、俺は後から追っていた。
東京、都市、夕方。
騒がしい喧騒の中、先生が足を止める。
そして、頭に被っていた浪人傘を脱いだ。
「……夕食、食べて帰るか」
先生が視線を向けた先に、牛鍋屋があった。
看板には『赤べこ』と書かれていた。
先生に連れられて、そのまま牛鍋屋に入る。
おどおどとした俺と同い年ぐらいの店員に連れられて、席に着く。
そのまま先生が牛鍋を注文した。
先生と俺で、一つに鍋を囲って箸でつつく。
「由太郎、何か聞きたい事はあるか?」
醤油と砂糖で味付けられたネギを食いながら、先生はそう訊いてきた。
「で、では……あの道場主と戦った時、何故、一回目の攻撃で肩を狙ったのですか?最初から頭を狙った方が良いと思ったのですが……」
「ふむ」
先生が俺の取り皿に肉を入れてくる。
逆に先生は野菜ばかり取っていた。
……先生が少し悩んで口を開いた。
「古流剣術において、頭部を狙うのは得策ではない」
「……何故ですか?」
「人の頭蓋は丸く、刃が滑りやすい」
それは確かに……と頷きつつ、さらに盛られた肉に視線を落とした。
……食事中にする話ではないかもしれない。
「まずは肩。一撃は致命傷となり、動きを封じる。そして、次に頭だな。もしくは首か……足を止めてから、トドメを刺すという事だ」
「……さ、参考になります」
肉を口に含む。
……先程の話を思い出さないようにすれば、凄く美味しい。
この店、かなり当たりの店みたいだ。
先生は豆腐を口に含み……熱かったのか、小刻みに吐息を吐いた。
「他に何かあるか?」
「いえ……えっと、な──
箸を持つ手を止めた。
……先程の先生に対する違和感。
それを……口にする。
「……先生は、その……」
「何だ?」
「竹刀剣術が嫌い、なのですか?」
そして、目を向ける。
先生の目は少し揺れて、直後……頬を緩めた。
嬉しそうに、悲しそうに。
「そう見えたのであれば、そうなのだろう」
なんて、要領を得ない回答をして、手元の皿に視線を戻した。
……俺は内心に感じている霧のような不明瞭さを、吐き出したい。
また、口を開こうとして──
「茶屋で話した事を覚えているか?」
「え?あ……はい」
慌てて、頷いた。
「力が強いだけでは、真の『強さ』ではないと教えた。心も重要なのだと」
「……はい、覚えています」
「だが、逆も然り。心がいくら強くとも、力が無ければ大切な物を守る事は出来ない」
先生は視線を少し、遠くに置いた。
悩むような、呆れるような、哀しむような……憂いを帯びた目だ。
「文明開化、廃刀令、竹刀剣術……日本の剣術は弱くなりつつある」
「……弱く、ですか」
「あぁ。竹刀剣術は所謂、試合でしかない。二本先取など、現実にはあり得ない。殺すか、殺されるか……人の命は一つ、常に一本勝負だ。だと言うのに──
先生は辛そうに、少し目を細めた。
「この日本剣術の行く末はどうなる?あらゆる意味で弱くなっていくだろう」
「……先生」
先生は目を閉じた。
「心の強さは必要だ。だが、それと共に力も強くなければならぬ。力だけでは人を救えぬが、想いだけでも人は救えぬ」
「…………」
先生は、そんな事を……考えて、憂いていたのか。
ずっと一緒にいたのに、知らなかった自分を……恥じた。
「ああやって、少しは尻を叩けば前に進むだろう。剣術とは人を守るための力を育む為の物だ。人を守れぬほど弱いのなら……価値はない」
そう、言い切って……口を閉じた。
ぐつぐつと煮だった牛鍋の湯気が、俺の視界の邪魔をする。
先生の表情は、白くボヤけて見えはしなかった。
◇◆◇
目の前で由太郎が、神妙な顔をしている。
……先程の吾輩の言葉は、確かに殆どが本音だった。
しかし、全てが本音ではない。
日本剣術の行く末を憂う?
そんな事、吾輩は憂いていない。
そもそも、憂う程、吾輩は剣に真摯ではない。
憂う資格など、ない。
剣術道場の道場やぶりも、別に相手の為ではない。
吾輩自身の為だ。
少しでも、物語の『石動 雷十太』に近付けるようにと……そう考えただけに過ぎない。
……そうだ。
吾輩はいつも楽な道を選んできた。
目標があり、分かれ道があれば……見知った道を選んできた。
原作、漫画、『るろうに剣心』。
そこには舗装され、照らされた道がある。
約束された大団円の結末がある。
ならば、それを目指そうとするのは……普通のことなのだ。
少しでも、由太郎達には幸せな道を歩んで欲しい。
それならば、この身、朽ち果てるとも──
「……先生?」
「あぁ、由太郎。どうかしたか」
気付けば牛鍋は空になっていた。
由太郎に視線を向けると、少し心配そうな顔をしていた。
「……何かあったか?」
「いえ、何もありませんが……その、空が暗くなってきたので帰らなければと」
由太郎の言葉に、外を見る。
……確かに、空が少し黒くなっている。
拙いな。
長居し過ぎたか。
これから塚山家に帰るとしても──
ちら、と由太郎を見る。
速度的に、山の中で野宿する羽目になるな。
「……由太郎、今日は宿に泊まろう」
「え!?でも、しかし──
「吾輩が時間の管理を間違えた。すまないが……夜の山を歩くのは危険だ」
吾輩が立ち上がると、由太郎も慌てて立ち上がった。
綺麗な女性の店員に金を払い、店を後にする。
牛鍋屋『赤べこ』。
『るろうに剣心』に出てくる、主人公である剣心一派がよく来る牛鍋屋。
帰りで見かけた時、少し気分が高揚してしまった。
どうにも気になり、調子に乗って入ってしまったが、これほど長居してしまうのなら……失敗だったか。
……事が終われば、ここには二度と来れないからと、入ってしまいたくなったのだから──
「由左衛門には吾輩から謝っておこう。何、明日まで連れ出すかも知れんと先に言ってはいる。それほど心配はされないだろう」
「それなら、まぁ……」
由太郎を連れて、旅館に入る。
部屋を一つ借りて、更に中へ。
少々、値が張ったが仕方あるまい。
由太郎は豪商の跡取り息子だ。
安宿で危険に晒すのは避けるべきなのだ。
しかして、通された部屋。
……中央に大きな布団が一つ。
枕は二つ。
……まぁ、仕方あるまい。
二部屋借りる選択肢もあったが、無駄遣いは出来ぬし、何より護衛と護衛対象が別室など──
「ちょ、ちょちょっと!待って下さい!先生!何をしてるのですか!?」
由太郎が騒ぎ出した。
……正直、吾輩も疲れているのだ。
さっさと眠りたい気持ちがある。
吾輩は、手に持っていた服の紐を引っ張り──
「だ、だから待って下さい!先生!」
「何だ、由太郎」
「何だ、ではありません!俺がいるのに脱がないで下さい!」
「はぁ……?では何処で寝巻きに着替えれば良いのだ」
由太郎も十歳。
思春期か?
女の裸を見るのが恥ずかしい歳頃か。
吾輩の言葉に由太郎は唸り、そして吾輩から背を向けた。
「き、着替えている間、俺は壁を見ていますから……」
「……そこまで気にしなくても良いだろうに」
「無理ですよ……!」
由太郎が憤りながらも、顔はこちらに向けない。
そういう辺りは律儀だな。
……あぁ、そういえば、塚山家の奉公人にも先日怒られたな。
だが、イマイチよく分からない。
吾輩の身体を見ても、由太郎に悪影響などないだろう?
そも、吾輩は鍛えている故に女らしさも……まぁ、強いて言えば乳房ぐらいしかない。
こんな物見て喜ぶ男など、明治の時代に居るのか?
それに吾輩は由太郎の二倍は生きている。
年齢差を考えてみれば、由太郎にとって吾輩など姉とも呼べん年齢だが。
……まぁ、由太郎を待たせていても仕方あるまい。
さっさと着替えるとしよう。
硬い布地の衣服を脱ぎ、胸に巻いていた
そうして、旅館から提供された借り物の浴衣に身を包む。
……少し小さいが、まぁこんな物か。
「由太郎、もう良いぞ」
「……あの、服はもう着ていますよね?」
「当たり前だ」
何を疑っているのか。
それほど信用がないのか。
由太郎は恐る恐るといった様子で振り返り……安堵のため息を吐いた。
「……では、俺も着替えますので」
「あぁ」
由太郎が浴衣を取り……吾輩の顔を見た。
……視線が交差する。
「……その、先生?」
「何だ?早く着替えるといいだろう」
「……う、はい……ソウデスネ」
何故か片言になり、由太郎が服を脱ぎ始めた。
……む、中々に筋肉が付いているな。
先月、共に風呂へ入った時にはじっくりと見なかったが……なるほど、日頃の鍛錬の成果だな。
「……先生、あまり見られると……その」
「む?あぁ……すまない」
うむ、やはり思春期か。
生憎、吾輩に子育ての経験はない。
今生も、前世も。
故に、思春期の少年の扱いなど、吾輩には分からない。
少し目を逸らしていると、由太郎が浴衣姿になった。
「き、着替えました」
その言葉に頷く。
……吾輩とは逆に、浴衣が少し大きいようだ。
「では寝るとしよう。明日は早くに宿を立つ。昼前には塚山家に戻らねばならん」
「そうですね。では、寝……寝……うっ」
由太郎が言葉を詰まらせた。
吾輩はそれを無視し、布団の中に身体を入れる。
……高い旅館だからか、布団の質が良い。
枕も柔らかい。
「……どうした?由太郎、早く入れ」
「え、あ、その……」
由太郎の視線が上へ、右へ、左へ。
……そんなに吾輩と一緒の布団に入るのが嫌なのか?
「由太郎、嫌なら吾輩が布団から出るが──
「い、いえ……失礼、します」
身体を緊張させながら、由太郎が布団の中に入ってきた。
……脅すようになってしまった。
由太郎は優しい……故に、ああ言われてしまっては、入らざるを得ないだろう。
だが幸い、布団は二人分程の大きさがある。
寄り添って寝れば、不便はない。
月明かりだけが部屋を照らす中、吾輩と由太郎は一つ、布団の中にいる。
由太郎は目を閉じているが、寝付けないようだ。
仕方あるまい。
普段と違う環境だ。
安心とは程遠いのだろう。
……吾輩は、由太郎を抱き込む。
「……せ、先生?」
「安心しろ、由太郎。『私』が……誰にも、お前を傷付けさせはしない」
そう言えば……由太郎は何か言いたげに、それでも言葉を飲み込み……小さく頷いた。
……抱き抱えて思うが、由太郎は小さい。
時折り、彼の聡明さに歳を忘れそうになるが……まだ十歳なのだ。
そうだ。
傷付けさせてはならない。
吾輩が守らなければ──
瞼の下で、由太郎の右腕から血が流れている情景を見た。
吾輩の……いや、石動 雷十太の『飛飯綱』が剣心に避けられ、背後にいた由太郎の腕を裂いたのだ。
……これで、由太郎は剣を握れなくなる。
好きだった、憧れていた剣術も出来なくなる。
……だめだ。
それは許容出来ない。
それだけは許容出来ない。
吾輩が守らなければ……由太郎だけは、守らなければならない。
夜は更ける。
まだ、吾輩は寝付けそうになかった。
翌日、塚山家に帰宅後……由左衛門と女奉公人に、吾輩は叱られていた。
何故か由太郎と同じ布団に入った事まで知られていた。
ちら、と由太郎を見れば視線を逸らされた。
……解せぬ。
しかして、吾輩は日常を謳歌していた。
有限の日常を。
次回、「好敵手」