『先生、これで大丈夫ですか?』
『凄いです!先生!』
『先生、これってどう使うのですか?』
『……ありがとうございます、先生』
『先生はとても、綺麗ですよ……』
……脳裏で由太郎の事を思い返せば、吾輩の事を慕う姿しか思い出せない。
……そうだ。
由太郎は吾輩を慕っている。
先生と呼び、雛のように付いて周り、屈託のない笑顔で笑う。
まるで歳の離れた弟のようだ。
……いつか、吾輩に剣を教わるのだと、真っ直ぐに鍛錬をしている。
教えるつもりなど、吾輩にはないのに。
剣は凶器。
剣術は殺人術。
どんな綺麗事や、お題目を口にしても……それは真実。
分かっている。
分かってはいる。
それでも……人を殺めるために生まれた剣術と、人を活かすために生まれた剣術では違う。
違うのだ。
活人剣は理想論であり綺麗事だとしても、そこに向かおうという意思は……何よりも尊い。
他人を傷付けようと剣を学ぶか。
他人を助けようと剣を学ぶか。
彼には後者を……活人剣を修めて欲しい。
それが吾輩の我儘だとしても。
由太郎自身が望んでいないとしても。
だとすれば──
彼からの信頼は邪魔である。
彼からの親愛は邪魔である。
彼からの憧憬は邪魔である。
由太郎はきっと、吾輩が口にしても納得はしない。
ならば……いっそ、吾輩に幻滅してくれれば良い。
罪悪感もなく、清々しく……吾輩を捨てて、新たな道へ行って欲しいのだ。
そうとも、どうすれば幻滅されるか……吾輩はよく知っている。
記憶の中に、没頭する。
神谷道場で初めて剣を握り、剣術の楽しさに目覚める由太郎を。
『石動 雷十太』に腕の腱を切られ、剣術の道を失った筈の由太郎を。
五年後、神谷道場で片腕のみの師範代となり、友と笑い合う由太郎を。
そう遠くない未来だ。
五年という月日が、彼を剣客へと連れ戻す。
吾輩は知っている。
仲間に囲まれ、友人と軽口を叩く、成長した由太郎の姿を。
だが、それだけでは足りぬ。
生来、吾輩は欲張りなのだ。
友人と絆で結ばれる未来も、腕の腱を切られなかった未来も……どちらも欲している。
全てを得るには、何かを捨てねばならない。
両腕で抱えられる物の量は決まっている。
何を捨てれば良いか?
最も、重いものを捨てれば良い。
そうすれば、身軽になり……望む未来を掴めるだろう。
なに『私』のような不純物が消えるだけだ。
たった二年の出会い。
これからの人生の方が長い。
由太郎ならばきっと、腐らずに──
「先生!」
閉じていた、目を開ける。
木々が見える。
ここは神社……東京の低い山中にある神社だ。
そこで吾輩は木を背にしていた。
「……どうした?由太郎」
「いえ、そろそろ休憩は終えて……その、道場へ行きませんか?」
由太郎は日除けに外套を被っていた。
しかし、吾輩は浪人笠がある故に、いつも通りの格好だ。
吾輩は頷く。
「そうだな」
今日も今日とて、道場破りである。
しかし、今日の道場破りとは……いつもと、訳が違う。
由太郎が手元の紙束を捲る。
彼自身が作成した、この辺りの道場の情報を纏めた資料だ。
「中越流前川道場……師範の前川宮内は、強いのでしょうか?」
「その男は若い頃から剣に生き、自身の流派を開いた。腕は立つだろう」
「なるほど……自分の流派を……先生と同じですね?」
「……広義で見れば、だ」
「はは、そうですね。先生と一緒にしたら、失礼でした」
……そうとも。
吾輩は彼と違い、未来なき剣の使い手だ。
誰にも教えず、誰も導かない。
ならば、吾輩と彼を比べるのは、おこがましい。
吾輩は竹刀袋に入った真剣を強く握り、立ち上がった。
「あぁ、それと……本日、前川道場に神谷活神流?という流派が、出稽古に来るそうですよ」
「……ほう」
「最近、神谷道場に住み着いた
「……よく知っているな」
「いえ、戦う前に情報収集はすべきかと思いまして……あ、いえ、俺が戦う訳ではないですが、その──
「責めている訳ではない。褒めている……謝らなくて良い」
……豪商の息子なだけある。
父親を嫌っていようとも、商人の跡取り息子として……その才覚はあるのだろう。
目配せして、歩き出す。
「よし、ついて来い。由太郎」
「はい!」
草鞋で地面を踏み締めて、吾輩は歩き出した。
『雷十太編』の始まりへと。
◇◆◇
「ほら!懐に入られても、慌てたりしない!腰を引かずに相手を見なさい!」
薫殿が前川道場の門下生へ、指導をしている。
竹刀を持った薫殿と、打ち合う門下生の顔は心なしか明るい。
拙者は道場の隅で、座布団に座りながらそれを見ていた。
神谷 薫。
神谷活神流の師範代であり、まだ十七と若い。
見てくれも良く、指導も真面目。
それが男だらけの前川道場の門下生から人気の理由だろう。
やる気の源はどうであれ、真面目に稽古を受けているのなら良い事だろう。
「剣心君」
感心していると、背後から声を掛けられた。
初老の剣客……師範、前川宮内が立っていた。
「いかがかな、ウチの道場は」
「……良いでござるな。門下生も多く、活気もある」
「……普段はこうではない。薫君が来るからと来ている者も多いが──
前川殿が苦笑した。
「今の時代に剣術など流行らんのかも知れんな。評判の剣術小町が来なければ、真面目に取り組もうとしない」
「……そんなに卑下する事ではござらんよ、前川殿」
湯呑みに手を伸ばし、茶を口に含む。
穏やかな光景を見つつ、息を吐く。
「緊張感がないのだ……毎日のように道場破りが来ていた頃が懐かしい程に」
「……平和で良いではござらぬか」
「だが、事実。内輪の中で気心が知れた者同士でしか打ち合えないのであれば……それは最早、武術と呼べるのだろうか」
「…………」
答えは返さない。
前川殿はきっと、拙者に同意をして欲しいのだろう。
だが、拙者は……争い事が無いのであれば、無いに越した事はないと……そう考えている。
故に、肯定もせず、否定もしない。
良いではないか。
こうやって、剣術を娯楽として……健全な鍛錬として、身と心を鍛えようというのも。
武を必要としない、平和な世界である証なのだから。
「こら、弥彦!稽古待ちだからって、サボって!そうやって手を抜いてたら、いつまでたっても──
「あー!うるせぇ!今からやる所なんだよ!」
……おろ?
少し目を離している間に、薫殿と弥彦が喧嘩していた。
明神 弥彦。
神谷活神流、唯一の門下生。
年齢は十、まだまだ生意気盛りな男児。
今日もいつも通り、薫殿に反抗的な態度を取っている。
その様子を見て、頬を緩めていると──
「あぁ、道場破りと言えば──
前川殿が口を開いた。
「剣心君、君はここ最近に現れた道場破りの事を知っているか?」
「この時代に道場破り……で、ござるか?」
少し驚く。
道場破りは礼儀がない、無礼な行為とされている。
……剣に打ち込む心、礼節を重んじる竹刀剣術において、御法度の筈だ。
先程の前川殿の言葉の通り、廃れた物だと思っていたが。
「あぁ。ウチに出稽古に来た、別の道場生から聞いた。浪人笠を被った大きな男が、その道場主を再起不能にしたと」
「再起不能……」
物騒な言葉に眉を顰める。
「詳しい内容は知らんが、剣を握る事に恐怖を覚えてしまったとか……」
「それは何とも、危うい奴でござるな」
他人事とは思えないのだろう。
前川殿は眉を顰めた。
拙者は湯呑みをお盆に置き、前川殿へ顔を向けた。
「して、名は?どんな流派を使うでござるか?」
「名は『石動 雷十太』と言うらしい。流派は分からんが……恐らく、古流剣術らしきものを使っている、とか」
「『雷十太』……で、ござるか」
幕末に聞いた名前では無い。
だがしかし、浪人笠の大男……そして、古流剣術。
……偽・抜刀斎事件の夜に出会った、あの男を思い出す。
それは偶然の一致か。
それとも──
ガラガラと、引き戸が音を出した。
遅刻した門下生かと視線を向ければ──
いいや、違う。
浪人笠を被った、大きな男。
……前川殿に言われた言葉と一致する。
「噂をすれば、何とやら……か」
前川殿が小さく呟いた。
間違いない……あの夜に見た剣客。
なるほど、町の道場主では荷が重い、か。
その浪人笠の剣客は、土足で道場に踏み込んだ。
それを見た門下生の表情が険しくなる。
道場は神聖な場所。
敬意を払うべきなのだと……そう学んでいるのだろう。
しかし、そんな事は無視し、浪人笠の剣客はこちらへ足を進める。
そして、前川殿の目の前で足を止めた。
「中越流開祖、前川宮内と見受けた」
「……そうだ。何か御用か?」
「一つ、手合わせ願おう」
瞬間、前川殿と剣客の間で……空気が震えた様に見えた。
緊迫感と共に、気迫が衝突した。
前川殿は表情を険しくしながら、口を開いた。
「その前に──
前川殿が立ち上がった。
しかし、体格差は歴然。
相手の背丈は六尺程ある。
武術に於いて、体格が全てを決める訳ではない。
だが、背丈は射程に直結し、体重差は力の差になる。
この戦い、前川殿が不利──
「先に名を名乗るが良い」
視線が交差する。
しかし、道場破りは浪人笠をかぶっている。
その目は見えない。
何を思うか、拙者には分からない。
「吾輩は『石動 雷十太』。日本剣術の行く末を、真に憂う者である」
……やはり、前川殿が言っていた道場破り、『石動 雷十太』でござるか。
そんな膠着していた空気を破り、門下生が動いた。
「か、帰れ!当道場は、他流試合をしていない!」
この中で、よく動けた。
前川殿に無礼を働く、道場破りへの怒りからか。
……やはり前川殿が卑下する程ではござらん。
彼等も彼等なりの勇気を持っている。
しかし──
「待て」
それを、前川殿が制止した。
……先程、拙者と会話していた時とは目が違う。
険しく、鋭く……なるほど、これが『道場主』としてではなく『剣客』としての『前川 宮内』でござるか。
……日本剣術の行く末を憂う……それは、前川殿も憂いている事。
何ぞ、思う所があるのだろう。
「雷十太よ、よかろう。相手をしてやる。但し三本勝負……先に二本取った者が勝者とする。よろしいな」
「……フン、良いだろう」
雷十太からの返答。
そこに礼儀はない。
負ける事はないと高を括っているのか、それとも別の何か──
しかし、今の前川殿では雷十太に勝つのは厳しい。
奴は只者ではない。
立ち振る舞い、自信の表れ……そして、あの夜、拙者が肌に感じた剣気。
何か、ある。
ただの剣客ではない。
ただの古流剣術家ではない。
常識を逸した何かが──
「前川殿──
「分かっている。だが退けぬ……戦ってみたくなったのだ」
「…………」
もう、止める事は出来ない。
戦うと決めた剣客を前に、無粋を働く事は出来ない。
ここで怪我を負おうとも、名誉を傷付けられる方が苦しいだろう。
なら、拙者は見ている事しか出来ない。
直後、雷十太が道場の入り口へ、視線を向けた。
「由太郎、もう入って良い」
誰か、名前を呼ぶと道場の戸を開けて……一人の少年が姿を現した。
弥彦に近い年齢の子供だ。
草履を脱ぎ捨て、道場へ入ってくる。
雷十太の関係者でござるか?
……しかし、彼よりは礼儀に気を付けている様に見えた。
……道場破りという都合上、門下生から袋叩きに遭ってもおかしくはない。
目の前の男ならば、何人集まろうと対処できるだろう。
しかし、子供を連れているとなれば……万が一を考えれば、試合の段取りが出来るまで道場に入れないのは正しい。
……やはり雷十太という輩。
ただの、無礼なだけの剣客ではない、か。
「先生、手合わせですね。真剣ですか?」
「いや、竹刀だ」
雷十太の言葉を聞いて、由太郎と呼ばれた少年は……ため息を吐いた。
「なぁんだ。はは、ここも竹刀なんですね」
それは明らかな呆れと嘲笑。
その言葉に門下生は少なからず、不快な想いを──
「痛っ!?」
由太郎が、蹴られた。
「何だよ、急に出てきてぐちゃぐちゃ言いやがって、おめーはよ!」
蹴ったのは前川道場の門下生ではない。
神谷道場の門下生……弥彦だ。
由太郎は少しよろけたが、転ける事もなく弥彦へ振り返った。
……同年齢の男児に蹴られ、それでもよろめく程度。
体幹、体の芯、それがよく鍛えられているでござるな。
「いきなり、何をするんだ!」
「お前がいきなり来て、バカにしてくるからだろーが!」
年相応の喧嘩をしている。
その様子に、周りの門下生の溜飲が下がったようだ。
所詮は子供の言う事だと、そう思ったのだろう。
由太郎と弥彦が睨み合っている。
先に口を開いたのは、弥彦だ。
「俺は神谷活心流、一番門下生。東京府士族の明神 弥彦だ!覚えとけ!」
名乗り、それに由太郎は反応した。
特に『士族』という部分で、眉がぴくりと動いていた。
「……俺は雷十太先生の一番弟子、東京府士族の塚山 由太郎だ!今の蹴り、絶対に許さないからな!」
啀み合い、睨み合っている。
……先程の前川殿と雷十太の睨み合いとは違い、少し滑稽な空気を感じる。
子供の喧嘩だ。
それに、互いにそれほど本気ではないのだろう。
……ちら、と雷十太へ視線を向ける。
何をする訳でもなく、弥彦と由太郎の喧嘩を見ていた。
止める事もなく……何かを考えている様に見えた。
……しかし、誰も止めないのであれば、拙者が止めなければ──
「二人とも、そろそろ、その辺に──
「こら!弥彦!周りに迷惑かけないの!」
直後、薫殿が弥彦の首元を掴んだ。
おろ……要らぬお節介でござったか。
ここは薫殿に任せるとしよう。
しかし、弥彦は止められたが怒りは収まっていない様子だ。
「は!?相手が先に喧嘩売って来たんだろうが!邪魔すんな、ブス!」
ガツン!
と、大きな音がした。
薫殿が弥彦の頭を殴った音だ。
……アレは痛い。
目を回している弥彦はそのまま、薫殿に連れて行かれた。
その様子を見て、由太郎は頬を緩めた。
「ハ、情けない奴……」
「由太郎」
しかし、雷十太に声を掛けられて背筋を伸ばした。
その姿に師弟関係が垣間見えた。
「せ、先生……」
「喧嘩も程々にな……それと、竹刀を寄越せ」
「は、はい」
由太郎は安堵した様な表情で、自身の背負っていた竹刀袋を開いた。
……しかし、雷十太も竹刀袋を背負っている。
なら、アレは何の為に持っている?
……竹刀ではない、という事。
つまり、真剣──
でござるか。
雷十太が竹刀を受け取り、それを見た前川殿が薫殿へ視線を向ける。
その視線の意図を察して、薫殿が頷いた。
「では、公平を期すため審判は他流の……不肖、神谷 薫が務めさせて頂きます」
「構わぬ」
前川殿が竹刀を構える。
対して、雷十太は竹刀を持ったまま……構えずに、向き合う。
……何をしている?
構え方を知らない訳ではなかろう。
それに、かぶった傘すら外していない。
前川殿もそれを不審がって、口を開いた。
「その笠は外さんのか」
「生憎、貴様らに見せる顔はない。外させたければ、一本取って見せよ」
「……後で、視界が悪かった所為で負けた等とほざくなよ」
「無論」
前川殿が目を細めると同時に──
「では、一本目!始め!」
試合が始まった。
前川殿の竹刀を握る手が強まる。
しかし、雷十太は依然、構えすらしない。
あの夜、雷十太は確実に抜刀の構えを取った。
古流と言えども、竹刀で構えぬ……という事はなかろう。
故に、こうも構えぬのは……侮っているのか。
「……どうした、雷十太よ。早く、竹刀を構え──
「話にならんな」
雷十太が言葉を被せた。
その言葉に前川殿の眉間に、皺が寄る。
「早計だな。話になるかならんか、教えてやろう……!」
「教えてくれずとも、既に分かっている」
「……何だと?」
雷十太が一歩、前川殿の間合いに近づく。
竹刀は構えぬまま、まるで慣れ親しんだ道を歩くかの様に──
「『竹刀で三本勝負』という時点で最早、貴様は『話にならん』のだ!」
瞬間、雷十太が大きくなった。
いや、大きくなった様に見えた。
強烈な『剣気』……一流の剣客のみが発する気迫。
満ちる暴力の気配。
それが、後方にいた拙者の肌を叩いた。
竹刀が振り上げられ──
「いかん!逃げろ、前川ど──
気付けば、拙者は片足を立てて叫んでいた。
ミシリ、床に張り詰めた木の板が軋んだ。
雷十太の強烈な踏み込みに、軋んだのだ。
鍛えた筋肉、長い四肢、質量、踏み込み。
そこから放たれる一撃は──
刹那、竹刀から爆ぜるような音がした。
凡そ、人体から出て良い音ではない打撃音が、前川殿の身体に響いた。
「が、ぁ……!?」
飛び込みの瞬間、辛うじて目で追う事は出来た。
しかし、それは神速の剣技『飛天御剣流』を習得している拙者が『辛うじて』であるという事実だ。
恐らく、前川殿も……審判の薫殿も見えなかったであろう。
雷十太は巨体。
前川殿よりも遥かに大きい。
そんな巨躯にも関わらず、この速さ。
更に、その速さは威力へと換算される。
肩に命中したが、恐らく……身体の芯、内臓まで衝撃が伝わっているであろう。
「フン……」
バシン、と前川殿の頭が竹刀で叩かれた。
足を竦ませ、前川殿は……白目を剥いて崩れ落ちた。
「ま、前川先生!」
床へと頭をぶつける直前、薫殿が抱え込んだ。
完全に気を失っているようで、薫殿の表情は強張っている。
「お、折れてる……」
呆然としている薫殿に雷十太が、一歩近付いた。
「審判、今の面は有効か」
「なっ、今はそんな状況じゃ……」
「有効か、と聞いている」
雷十太が凄む。
……拙者は手を、腰の逆刃刀へと伸ばす。
何かあれば、拙者が動かなければならない。
「ゆ、有効よ」
「そうか」
それを聞くと、数歩下がり……竹刀を由太郎へと受け渡した。
拙者は視線をズラし、弥彦を見る。
呆けたように口を開いていた。
「……すげぇ、最初は外したが……あの打ち下ろし、とんでもねぇ重さだ」
弥彦がそう口にした瞬間、由太郎が笑いながら側に寄った。
「あれは外したんじゃない」
「……あ?」
「脳天への一撃は頭蓋骨の丸みで滑る事がある。だから打ち下ろしで仕留めるなら、肩口を狙う……古流剣術の定石だぜ」
由太郎が弥彦を笑い、弥彦は由太郎を睨み付けた。
……いや、今はそれどころではないか。
倒れた前川殿の方へ寄る。
前川殿の前で狼狽える門下生の、肩を叩く。
「前川殿を近く、手当てできる医者まで連れて行くでござるよ」
「は、はい!分かりました!」
試合は中断。
前川殿は道場の外へと運ばれていく。
……拙者は、雷十太へと向き直る。
視線……いや敵意に気付いたからだ。
雷十太は拙者に、『剣気』を飛ばしている。
「……お主、何故、拙者へ敵意を向けるでござるか」
「フン。貴様こそ、先程の吾輩の踏み込み……見えていただろう」
周りから息を呑む声が聞こえた。
視界の隅で、弥彦と由太郎も啀み合うのをやめて……拙者達を見ている。
「はて、どうでござるかな」
「あの夜の続き、ここで一つ手合わせ願おう──
雷十太が一歩、こちらへ踏み込んだ。
物理的にも、心理的にも。
「無論、真剣で……だ」
雷十太の視線は、拙者が腰に下げている逆刃刀へ向いていた。
この明治の時代、廃刀令が出ているにもかかわらず剣を腰に差しているのならば……力自慢か、殺し合いを所望しているのか……どちらかと思うだろう。
しかし、拙者は首を横に振る。
「力比べや、人に見せる為の剣を振るう気はござらん。それに──
鞘を持ち、水平に抜き……刀身を見せる。
刃と背が逆になった、逆刃刀の刀身を。
「この通り、拙者は殺人剣を禁じているでござる」
「……フン、手合わせをするつもりはないと」
「ないでござるよ」
威圧感が増す。
しかし、その剣気を柳のように受け流す。
此奴、どうしても拙者と戦いたいらしい。
強い剣客と戦いたいという欲か、自己顕示欲か、自惚れか。
もしくは『何か別の目的があるのか』。
しかし、拙者には戦う理由がない。
……直後、雷十太は拙者から顔を背けた。
何とか、争わずに済んだかと……拙者は安堵し──
「由太郎、この道場の看板を燃やせ」
「え?あ、はい……はい!?」
周りの門下生達が騒めく。
「吾輩はここの道場主に勝った。ならば、看板を如何に扱おうと吾輩の勝手」
雷十太は由太郎に渡していた竹刀を手に取り、周りへ顔を向けた。
「無論、止めたければ止めれば良い。
雷十太がその浪人笠を向ければ……門下生達は、顔を下げた。
……仕方あるまい。
先程の前川殿の姿を見れば、誰も戦おうとしない。
「どうした?看板はいらないのか?……全く、話にならん。だがまぁ……遊びで剣を振るっているなら、仕方あるまいか」
拙者は彼等を、臆病と罵る事はしない。
自身より強い師が、完膚なきまでに叩きのめされたのだ。
足が動かなくとも、仕方あるまい。
それに、動いていないのは拙者も同じ。
他流には他流の流儀がある。
拙者のような余所者が、その道場の問題に首を突っ込むは良くない。
心苦しく思えど、動く事は──
「……いいわ、私が相手よ」
「薫殿……?」
薫殿が立ち上がり、竹刀を片手に……雷十太へと向き合った。
「他流と言えども、世話になっている道場の危機は放っておけないわ。敵わなくても……一矢、報いてみせる」
薫殿の竹刀を持つ手に力が籠る。
雷十太は……依然、構える事なく、それでも薫殿へ視線を向けた。
「吾輩は女子供相手にも容赦はせん。前川と同じようになりたいか」
「……貴方は私達が遊びで竹刀を振るっているように見えるかも知れない。けど、それでも……剣客としての矜持が、退けない時があるのよ」
「……フ」
雷十太が、小さく笑った。
しかし、その笑いは嘲笑ではなく、喜んだような笑いに感じた。
……拙者は逆刃刀を床に置き、立ち上がる。
「薫殿」
「剣心、止めないで──
「そこを何とか収めて……この男は、拙者が相手するでござるよ」
薫殿が目を見開き、拙者の顔を見た。
確かに、拙者が此奴と戦う理由はない。
しかし、薫殿がああ言うのであれば……これ以上、周りに被害が及ばぬよう、戦うのもやむを得ない。
「……ふむ、それは好都合」
「だが、これはあくまで道場での手合わせ。得物は竹刀でござるよ」
「よかろう」
拙者は竹刀を薫殿から受け取る。
……感触を確かめる。
拙者、竹刀を使った事はあまりない。
だが、なんとか……心許ないが。
竹刀を持ち、雷十太へと向き合う。
拙者が構えれば、雷十太も構えた。
……なるほど、一切の侮りは無い、と。
「始めるぞ」
「審判はどうするでござるか」
「不要。貴様にも分かっているだろう」
向き合い、間合いを測る。
……あの夜とは違い、雷十太の間合いは竹刀の長さと同じ。
面妖な術は持ち合わせていないのか……それとも、今は使う気がないのか。
「行くぞ」
瞬間、間合いを詰めてきた。
縮小した筋肉をバネのように弾く事で一瞬で詰めてくる……だが、拙者の目には見えている。
一歩、引く。
雷十太の竹刀、その先端が道場の床とぶつかり……轟音を響かせた。
……大振りの一撃。
しかし、その後は隙だらけ──
いや、違う。
踏み込みの足が曲がっている。
あれは踏み込みと同時に、更なる踏み込みへと繋がる一手。
初撃は……囮か!
「
本命は両手無用、片手での面打ち!
しかし、拙者には見えている。
半身ズラし、その剣を辛うじての所で避けた。
再び、竹刀が床を叩き……轟音を響かせた。
……途轍もない威力の籠った重い一撃。
腕にでも擦れば、骨折は免れない。
一手で終わらぬ、凶暴な攻めの剣術。
一撃必殺の重い一撃故、防御を最低限にした連携攻撃。
正に、荒れ狂う暴風の如く。
なるほど、一度でも戦った剣客が怯える訳だ。
反撃を恐れてか、一旦、距離を取った。
……あの一撃、竹刀で受けようものなら拙者の身体ごと弾き飛ばされるであろう。
単純な剣技の差ではなく、体重の差故に如何ともし難い。
拙者に出来るのは防御ではなく、回避のみ。
雷十太の視線は、拙者を追従している。
「何故、打ち返さぬ。吾輩を愚弄しているのか」
ふと、雷十太が口を開いた。
拙者は首を横に振る。
「そうではござらん。言ったであろう?力比べや、人に見せる為の剣を振るう気はないと」
「……時間が過ぎ、吾輩が諦めるのを待っているのか。ただの一度も当たる事はないと」
雷十太がまた、竹刀を構えた。
そして、言葉を繋げる。
「成程、引き分けに持ち込めば、剣を振るわずとも看板を守れると……そう思っているのか」
……雷十太が持つ竹刀を上段へ構えた。
「強固な信念だ。だからこそ……無理矢理にでも、こじ開けさせて貰おう」
剣気が拙者との間に走る。
木板が、弾けるような音を鳴らす。
「
瞬間、竹刀が振り下ろされる。
速い!
しかし、これならば回避が間に合う──
竹刀の剣先が、歪んだ。
目の錯覚か?
陽炎のように……剣先がブレる。
何だ──
これは?
身に走る危険、それを六感とも呼べる感覚で感知する。
故に、無意識のうちに、拙者を大きく横へ避け『させた』。
竹刀が、床へぶつかる。
しかし、それは先程までの重い音を鳴らさなかった。
アレほどの衝撃、大きな音が鳴ってもおかしくはない筈……何故、大きな音が鳴らなかったのか。
竹刀の先、そこでは──
木板に、まるで真剣で切り付けたかのような切り傷があった。
「これはっ──
「
剣先の軌道が捻じ曲がり、切り上げられる。
逆袈裟!
先程の一撃を思い出す。
竹刀で受ける事は不可!
擦れば致命傷!
そして、回避を続けども、猛攻は続く!
この間、一瞬。
拙者の脳は考えるよりも、早く……決断した。
それは幕末の人斬り時代で培った、一瞬の判断能力。
時には脳で考えるよりも、反射で動くべき時がある。
逆袈裟、その隙間を抜ける事は出来ない。
ならば!
拙者は床を強く踏み、跳躍した。
直後、雷十太の剣は宙を切った。
「っ!?」
相手からすれば、突如視界から消えたように見えただろう。
竹刀でするのは初めてだが……四の五の言ってられない。
空中で竹刀を上段に構え、雷十太の頭上から叩きつける。
「はぁっ!」
飛天御剣流──
龍槌閃。
それは大地から跳躍し、人間の死角である頭上から叩きつける技。
竹刀は雷十太のかぶっていた浪人笠を叩き、形状を強く歪め……拙者はそのまま、雷十太を飛び越え着地した。
「剣心!」
「せ、先生!?」
弥彦、由太郎が声を上げた。
片方は歓声、片方は悲鳴のような声だった。
薫殿は……まだ、驚いたように手で口を塞いでいた。
「……成程、素晴らしい一撃だった」
拙者は、視線を雷十太へ戻す。
被っていた浪人笠は衝撃に潰され、視界の穴も捻じ曲がっている。
これでは前を見るのも難儀するだろう。
拙者は息を深く吐く。
「……この勝負、剣を振るわせたお主の勝ちだ」
「だが、試合では貴様の勝ちだ……緋村 剣心」
思わず、眉を顰める。
名を全て名乗った覚えはない。
苗字まで……何故知っている?
拙者が動揺していると、雷十太が自身の笠に手を触れた。
「それに、真剣勝負ならば吾輩はこの一本で死んでいる」
そのまま、押しつぶされた浪人笠を脱ぎ……床へと投げ捨てた。
その顔が、顕になった。
「ならば、吾輩は負けを認めざるを得ない。そうだろう?」
……女?
浪人笠の下にあったのは、切れ目の女性の顔だった。
薫殿も、弥彦も……門下生達も困惑している。
「……お、女ぁ!?」
いや、弥彦だけが声に出した。
それにカチンと来たのか、由太郎が弥彦の胸倉を掴もうとして──
「帰るぞ、由太郎」
「ですが──
「構わん」
雷十太の言葉に、由太郎は目を強く瞑り……そして、弥彦を睨みつけた。
「お前とはいずれ
「あ!?ボコボコにされるのはてめーだろうが!」
そうして、雷十太は竹刀を由太郎に持たせて……拙者の方へ近付いて来た。
「け、剣心?」
「安心するでござるよ、薫殿」
既に敵意はない。
言外にそう込めて、雷十太と向き合う。
目は……澱んでいる。
負の感情だけならば、こうも澱まない。
正と負、二つが入り混じり……複雑な感情を示していた。
「一つ、訊きたい」
「何でござるか?」
「女の身で剣を握る事を、どう思う?」
それは問い掛けだった。
単純な、だが複雑な問い。
心なしか、薫殿も回答が気になっているようだ。
しかし、拙者の答えは──
「どうも思わないでござるよ」
「……何?」
何でもない、だ。
「男だろうと女だろうと……剣を持ち、振るうのならば『剣客』でござろう。それ以上でも、それ以下でもないでござる」
その回答に、満足するのか、否か。
「……なるほど、そうか」
しかして、雷十太は……表情も変えず、由太郎のもとへ歩き出した。
そして、顔も向けず口を開いた。
「その強さ、申し分なし。いずれまた……次は真剣にて」
そんな様子の雷十太を、由太郎は不安そうに見上げ……二人、道場を後にした。
真剣にて、か。
そんな事が起きぬ事を、望むしかない。
……しかし、あの雷十太という女。
澱んだ気を醸し出している。
あの気に、拙者はどこか、覚えがあった。
どこで見たか……どこで感じたか。
『誰か』に似ている……。
いずれにしても、争いたいとは思えない。
……何より、露悪的に振る舞ってはいるが、その性根は腐っているように見えなかった。
勘違いでなければいいが、剣を打ち合わせた者同士にのみ分かる互いの感情として……そう信じたい。
「……何だか、嵐が来た後みたい」
遅れて、薫殿がそう呟いた。
残ったのは床についた打撃痕、そして『切断』痕。
拙者はしゃがみ込み、床の傷へ手を触れる。
鋭利過ぎる切断面。
……真剣どころではない。
これは、それ以上の鋭さで切断されている。
今の技を真剣で扱えば、恐らく金剛石すら真っ二つに出来る筈。
一介の道場破りが使う技ではない。
石動 雷十太……か。
いったい、何者でござる。
拙者は、床に置いていた逆刃刀を拾い上げ……彼等の出ていった出口を見る。
この剣、抜かずにいられれば……そう、想いを馳せた。
「つーか、剣心、この床の傷どうすんだよ」
「……おろ?」
「そうよ、誰が直すの?木板の張り替え、結構大変なのよ?」
「おろろ?」
「試合してた奴が直すべきなんじゃねぇの。つっても、あの
「……せ、拙者が直すでござるよ」
その後、空が茜色に染まるまで、木板と釘、金槌を持って途方にくれる羽目になった。
門下生も手伝ってはくれたが……雷十太が残した傷は深く、広く。
何枚も木板を交換する羽目になったでござる。
酷く疲れる一日だったと、当分は忘れる事はないでござるな。
◇◆◇
「先生、先生!」
前を歩く、雷十太先生を呼び止める。
「……どうした、由太郎」
「いえ、その大丈夫かと──
竹刀とはいえ、頭を強く叩かれたのだ。
心配してもおかしい話ではな──
「……先生?」
……先生が、見た事のない笑みを浮かべていた。
普段、俺を撫でる時のような優しい笑みではない。
獰猛な、獣のような笑み。
……そうだ。
最後に頭を撫でて貰ったのは、いつ、だろうか。
最近、先生から俺へ接触してくる機会は少ない。
それは俺が大人の男になったから……ではないのを、よく知っている。
ならば、何故──
「あの剣心という男、『やはり』凄まじい剣捌きだった」
……やはり?
「……せ、先生は、その
「あぁ……言っていなかったか?」
「き、聞いてませんよ!」
先程、先生が負けた。
そんな姿、初めて見た。
先生が負けるなんて、俺は少しも考えてなかった。
だから、あの緋村 剣心という男が、途轍もない強者だという事は分かった。
だけど、どうにも尊敬はできない。
いや、それどころか……ソイツの事を考えると苛々してくる。
「……先生は、その、剣心という
「うむ」
先生がまた、俺の知らない笑みを浮かべる。
心なしか、憧れ……のような、喜びのような……そんな、顔を浮かべている。
……そんな、顔……俺に向けてくれた事は、無かったのに。
心の中がぐちゃぐちゃになる。
先生は剣客だ。
強い相手を敬ったり、好意的に見てもおかしくはない。
だからアレは、違う。
好意といっても、そういう意味じゃない筈だ。
分かっている。
いや、そう思いたい。
それでも、苛立ってしまう。
そんな自分が情けなく思えて……下唇を噛んだ。
あの、明神 弥彦とかいう奴もムカつく。
酷く生意気で、小馬鹿にしたような態度が垣間見える。
……だめだ。
こんな感情に流されたくない。
何より、先生にこんな……器の小さい人間だと思われたくない。
「あぁ、そうだ。緋村 剣心を塚山邸へ招待して良いか?」
「え?あ、いえ……そ、それは親父に訊いてください」
「む……そうか」
俺は俯いたまま、先生の後ろをついて歩いた。
先生は、俺のこと……もう、どうでも良いのだろうか。
最近は俺を避けているように感じている。
少し前までは、休みの日によく付けてくれていた
俺なんかより、強い剣客の方が気になるのだろうか。
……そんな事はない、と信じたいけれど。
逃避するように、思考を振り払い……足を進めた。
……結局、その日も一度も頭を撫でて貰えなかった。
ガバチャー雷十太