深夜、塚山邸。
吾輩は縁側に座り、夜風に当たっていた。
空には少し欠けた月が浮かんでいる。
月見をするには少し風情がない。
それでも吾輩は何を飲む訳でもなく、何を食う訳でもなく。
ただ、月を見ていた。
膝下に置いた鞘に触れる。
少し抜いて、刀身に映る自分を見る。
……酷い顔をしている。
陰鬱で、覇気も感じられない顔。
また、ため息を吐く。
……今日も日中、由太郎は神谷道場に行っていた。
吾輩に隠すようにして、一人で。
それを責めるつもりはなく、それ自体に不満がある訳でもない。
寧ろ、吾輩の企みは上手くいったのだと喜んでいる。
しかして、初日。
由太郎が薫に放った言葉が脳裏に焼き付いていた。
『けど、やっぱり……俺、強くなるのは雷十太先生のもとがいいから』
……そう言って、神谷活心流を学ぶ事を拒否していた。
その言葉を聞いた時──
『吾輩』は落胆した。
『私』は安堵してしまった。
由太郎が神谷活心流に……活人剣を学ぶように仕向けた筈だ。
それが失敗したのだから、落胆するべきなのに。
なのに、私は……由太郎の言葉に──
「……何もかも、中途半端だな。『私』らしい」
相反する感情に動揺し、それを剣心に悟られ……隠れていた場所がバレそうになったのは、一生の不覚だ。
そうして吾輩は、深く息を吐き出した。
自分の中にある泥のような渦巻く感情を全て吐き出せたら……なんて考えて。
……ふと、足音が聞こえた。
子供の重さとは違う音、その持ち主は──
「……由左衛門か」
「雷十太先生、眠れないのですか?」
私の雇い主、由太郎の父親だ。
少しは姿勢を正すべき……なのだろうが、そういった事をしなくていい程には、気心が知れた仲だ。
縁側に腰を下ろしたままでいると、由左衛門が隣に座った。
「……少し、気に掛かる事があってな」
「そうですか……それは、由太郎の事ですか?」
その問いに吾輩は少し迷い、首を縦に振った。
「吾輩は、由太郎に幸せになって貰いたい。だが、今の自身の行いが正しいのかと……何度も考えてしまう」
「……分かりますよ。なんと言っても私は親ですからね。子育てとは難しいもので」
「それを言えば、吾輩は部外者だからな。幾分かはマシ──
「いいえ、先生は部外者ではありませんよ」
その言葉に、由左衛門の顔を見る。
世辞ではなく、気遣いでもない。
「先生は私達にとって、家族ですから」
心の底から……そう、嘘もなく言った。
その言葉を嬉しいと思いつつ、重石のように感じてしまう。
責任。
吾輩はそれを背負う事を忌避していて、目の前の男はそれを背負う事に躊躇がない。
「……強いな」
「私が、ですか?先生の足元にも及びませんが」
力ではなく、心が、だ。
明治維新後の世界、確かに力の強さも必要になる場面があるかも知れない。
しかし、それは例外。
力よりも心の強さが重視される事の方が多いだろう。
彼は一家の大黒柱として財を成し、それでも善性を保ち続け、家族を養っている。
どちらかと言えば普遍的だ。
だが、その普遍性を守る事が難しい事を吾輩は知っている。
「……由左衛門には世話になってばかりだ。すまない」
「構いませんよ。世話になっているのは、私もそうですから」
「……そうか?」
「ええ。由太郎の面倒を見てくれているでしょう?あの子の良い先生として、振る舞ってくれているではないですか」
「……そう、だろうか」
そんな事はない。
吾輩は……彼の模範になれない。
導く事は出来ない。
そんな吾輩の顔を見て、由左衛門は小さくため息を吐いた。
「謙遜……ではないですね?自己評価が低いのは先生の欠点ですよ」
「……正しく己を評価してるつもりだが」
「いいえ、全く出来ていません」
「自惚れるよりはマシだろう」
「貴女は少し自惚れた方が良いぐらいです」
なんて笑われて、少し眉を顰めた。
そうして由左衛門は立ち上がり、笑顔を返してきた。
「えぇ、そうですよ。もっと自身を肯定すべきです。自信満々に胡座でも掻いて、いつまでも此処に居て良いのですから」
「……だが」
「要は何がしたいか、何処に居たいのか……それだけで良いのです。人は我儘なぐらいが丁度良いのですから」
「…………」
「先生。春先とは言え、夜は冷えます。あまり夜風に当たり過ぎないよう」
その背を目で追いながら、吾輩は……強く、刀の柄を握った。
自身を含めて幸せになれる道……そんなものは……筋書きには無く。
定められた筋書きに沿う事が由太郎の為になると……そう信じている。
それが、揺らぐ。
揺らいではならないと、己を叱責する。
それでも、揺らぐ。
決意を揺らげてはならぬと、己を戒める。
最早、猶予は無い。
己がこれ以上、惰弱になる前に……動かねばならない。
立ち上がり、目を強く瞑った。
◇◆◇
かつかつと、お椀に入った白飯を口に含む。
やっぱり、稽古の後のご飯は美味しい。
日課になりつつある、神谷道場での稽古後、道場にいた全員で牛鍋屋の『赤べこ』に来ていた。
一度、先生とも来た事がある飯屋だ。
前と変わらず、美味しい。
空になった茶碗に視線を落として……『赤べこ』の前掛けをした弥彦に視線を向けた。
「そこの店員サン、おかわり頼んで良いか?」
「……チッ、てめぇに食わせるメシなんてねーよ」
「なんだと?俺は客だぞ?」
「あーあー、やだねぇ。金払ってるからって偉そうな客は」
悪態を吐きまくる弥彦にイライラしつつも、店内だという事で我慢する。
弥彦は何故か『赤べこ』日雇いで裏方の雑用をしている。
理由を薫さんに聞いたら「うーん、勝手に話す事じゃないから……」なんて言われてしまった。
訝しんでいると──
「弥彦くん、ダメですよ……お客さんにそんな事言ったら」
なんて弥彦に声を掛ける少女は現れた。
年齢は俺達と同世代ぐらいか……弥彦と違い『赤べこ』の制服を着ている。
髪の短い……まぁ、可愛らしい女の子だった。
「は?別に良いんだよ!」
「ひゃっ……」
「燕も覚えとけ!コイツにはコレぐれぇの扱いで──
直後、弥彦の頭に拳骨が落ちた。
落としたのは薫さんだ。
「燕ちゃんを怖がらせるんじゃないの!」
……成程、燕って言うのか。
随分と弥彦と仲が良さそうだし……ははぁ、そういう事か?
頭を殴られた弥彦は涙目になりながら、俺達をじとっとした目で睨んだ。
「くそ……俺に味方はいねぇ!みんな敵だぜ……!」
なんて悪態を吐くものだから、トリ頭……左之助がため息を吐いた。
「いじけんなよ。みっともねェ」
そして、箸で肉を掻っ攫った。
一つ、大きな鍋を囲って俺と薫さん、剣心と左之助の四人で食事している。
そんな鍋で肉ばかり食う行為は、かなり不躾な事なのだが。
それに、この食事代を払っているのは薫さんだ。
せめて、俺の分ぐらいは親父から貰っている小遣いで払おうとしたけれど……遠慮されてしまった。
なのに、左之助は肉ばかり食っている。
なんて図々しい奴だ。
食事も終盤、漬物を口に含んでいると……剣心が俺に視線を向けていた。
気になって、茶碗を置く。
「……なんだよ?」
「いや何……少し訊きたい事があるのだが、良いでござるか?」
訊きたい事?
訝しみながらも頷く。
「内容によりけり、だな」
「……では、雷十太殿の事について訊いて良いでござるか?」
「……先生の?」
「そう、雷十太殿について教えて貰いたいでござるよ」
ピクリ、と視界の隅で弥彦が動いた。
……気になっているようだ。
「ふん、嫌だね。先生とお前は敵だろ……?そう易々と、それも勝手に、手の内を晒して良い訳がないだろ」
目の前の男が良い奴だってのは分かってる。
善良で優しく、強い剣客だって知っている。
だからと言って、先生の敵である事に変わりない。
仲良くしても良いが、勝手に先生の剣技について話すつもりは──
「そうではなく、雷十太殿の人柄について教えて欲しいでござるよ」
「人柄……?」
剣心の言葉に薫さんも頷いた。
「私も気になるわ」
「おう。俺も知ってんのは通り名と、前の庭園の盗み聞きぐれぇだからな」
左之助も同意し、弥彦は黙って俺達の近くまで来て突っ立っていた。
「それなら、まぁ……」
……これは先生の名誉を守る好機だ。
俺は何を話そうか迷い……脳裏に焼き付いている、あの夜のことを思い出した。
「先生に初めて会ったのは──
ぽつり、ぽつりと話す。
あの夜、凶賊から助けてくれた先生の姿を。
悪党を一撃で打ち払った強さを。
……真っ先に俺を心配してくれた優しさを。
「……そうでござったか」
剣心が頷くと同時に、左之助が訝しむような顔をした。
「あの雷十太が人助け、ねぇ?なんか嘘くせー話だな」
その言葉に俺は目を見開いた。
「黙れトリ頭!嘘じゃない……!先生は優しいんだ……!無口で無表情だから、みんな誤解してるだけなんだよ……!」
「お、おう……そうか、そりゃ悪かったな?」
左之助はたじたじ、と言った様子で申し訳なさそうに謝罪した。
こいつはクソ野郎だが、弥彦と違い大人だ。
悪いと思ったことはキチンと謝る人間のようだ。
薫さんに背中を撫でられた。
「由太郎君は、その雷十太先生の事を信じているのね」
「あ、あぁ……先生は本当に凄いんだ」
剣心も弥彦も興味深そうに耳を傾けてくれている。
俺は……込み上がってくる思いを口にする。
「先生は強くて──
あの夜、悪漢を打ち払った瞬間を思い出した。
「剣術も凄くて──
俺の目の前で巻藁を容易く斬った瞬間を思い出した。
「勉強熱心で──
夜中、書斎で本を読んでいる先生を思い出した。
俺が覗いている事に気付くと、小さく微笑んで手招いてくれた。
灯りの油が切れるまで、並んで本を読んだ。
「誰にでも優しくて──
街中で迷子になっている子供を見つけた時を思い出した。
先生はその子の両親が見つかるまで、手を繋ぎ探した。
引き合わせた母親が謝礼を渡そうとしても受け取らず、子供の頭を撫でて別れた。
「でも……少し、抜けてる所があって──
奉公人に頼まれて、先生が朝食の火の番をした日を思い出した。
その日の、俺の朝ごはんは酷く焼けこげた卵焼きだった。
……先生の皿の上にあった卵焼きは、俺よりももっと焦げていたけれど。
マシな方を俺に回したのだと、何となく分かったんだ。
「……涙脆い所もあって──
時折り利用していた商会の、跡取り娘が病死した時を思い出した。
先生は無表情のまま涙を流して、墓に花を供えていた。
「強いけど……弱い所もあるんだ」
そう、俺が言うと左之助が片眉を上げた。
「なんだそりゃ。よくわかんねぇな」
反論する事もせず、俺は俯いた。
なんだか、体が熱くなって……心の芯が痛くなっていた。
左之助の所為ではない。
ただ、昔の事を考えると、どうしてか苦しくなってしまう。
思い出の中の先生は、いつも綺麗だったから。
そんな俺の頭を、剣心の手が触れた。
「拙者には分かるでござるよ」
「……何が、分かるっていうんだよ」
「拙者、由太郎殿の事は信用しているでござる。そんな由太郎殿が信用しているのだから、それはきっと真実だと……拙者も、そう信じられるでござるよ」
そう言われて……何故か、服の裾が濡れた。
それが自分の流した涙だって、そう気付くのに少し時間が掛かった。
目元を拭うと……肩を小突かれた。
振り返ると、不機嫌そうな顔の弥彦が居た。
「っ……何だよ」
「あぁいや……何だ?その……」
歯切れが悪そうにしている。
「……はっきり言えよ。男が泣くのはダサいって」
「ち、違ぇよ。そうじゃなくて、なぁ……」
弥彦は頬を掻いて、気まずそうにして──
「悪かったな」
何故か、謝った。
「……何が、だよ」
「お前のセンセーの悪口言って、悪かったって言ってんだよ」
「……何で今更」
「別に良いだろ……クソッ、俺は謝ったからな!」
そう言って俺を睨んで来た。
……全く、何なんだコイツ。
お陰で涙が引っ込んでしまったじゃないか。
「じゃあ、まだ俺は仕事があっから……チッ、柄でもねー事しちまったぜ……!」
そう言いながら、弥彦は『赤べこ』の奥の方へ消えていった。
その姿を見た薫さんは少し笑っていた。
「……素直じゃないわね」
「だな」
「そうでござるな」
三人が頷いて……弥彦は、愛されてるんだな……なんて、心からそう感じた。
茶碗に視線を落として……薄い黄色の沢庵に箸を伸ばした。
日は落ちて、少しずつ東京を赤く染めていた。
日は更に落ちて、夕と夜の狭間。
暗くなって来たからと『赤べこ』から、そのまま家まで送ってくれる事になった。
林道を歩きながら、ふと思った。
先生と初めて会った場所も、こんな場所で、こんな時間だったな……なんて。
先生が真剣を振るった所を見たのは、あの時が最初で最後だった。
だけど、その強さに……俺は綺麗だと、そう憧れたんだ。
だから、今でも。
「緋村 剣心」
「おろ?何でござるか?」
前を向いたまま、少し後ろにいる剣心に話しかける。
「いずれ、先生と戦うんだろ?」
「……それは、拙者にも分からないでござるよ」
「でも先生は何故か戦いたがってるけど」
「……それでも、拙者に争うつもりはないでござるよ」
砂利を踏む音が耳に響く。
「でも、もしも……戦う事になったらさ。その時は正々堂々戦って欲しいんだ。真っ向勝負で……前は先生が負けたかも知れないけどさ。次は──
「由太郎殿」
剣心の声は少し鋭かった。
砂利を踏む音が、止まる。
振り返ると……剣心は柄に手を当てながら、後ろを見ていた。
それに薫さんが反応した。
「剣心?」
それに左之助が反応した。
「……オイ、どうした」
それに弥彦が反応した。
「あ?何かあったか?」
俺を含む四人に訝しまれても、剣心は警戒するような表情で……今まで歩いて来た道を見ていた。
そして、口を開いた。
「……古流剣術に於いて、歩法は隠されるべきものとされている」
何故、そんな事を言い始めたのか分からなくて俺は困惑する。
薫さんも、弥彦も。
しかし、左之助は何か気付いたようで……顔を険しくさせた。
「素早い飛び込みには『地を蹴る事』が重要であるが……逆も然り。地を蹴らず、踏み鳴らさず……隠して、見えぬようにする事で攻撃の所作を見破れないようにする」
少しそうしていると……耳に少し、砂利が転がる音が聞こえた。
とても、小さい音だ。
それが俺達が歩いて来た場所から聞こえたんだ。
「地を滑るように……静かに。聞こえず見えず。それ即ち、古流歩法の奥義。そうでござるな?」
空を覆っていた雲が掃けると……ようやく、俺達の後ろから誰かが……足音を消して追って来ていたのだと気付いた。
「雷十太殿」
そこに居たのは先生だ。
いつもの服装で、頭には浪人笠をかぶっていて……表情は分からない。
しかし、その手には……既に、真剣が握られていた。
「せ、先生?」
しかし、俺の言葉は聞こえない素振りで……視線は剣心へ向いていた。
「……よく気付いたな」
「獣よりも静かであった……故に、お主だと気付いたでござるよ。音を無くそうとする人の意思があった故に」
「……それで気付くのは貴様ぐらいだ」
剣心の表情は険しい。
真剣の抜刀……二人は剣客。
ならば今から行われるのは、命の奪い合い。
背筋が冷たくなる。
先生が負ける事はないと信じている。
だけど、それでも──
「せ、先生!」
「……何だ」
少し前に出て、声を出せば……無視できないと思ったのか、先生が声を出した。
いつもと違う、冷たい声色だ。
だけど、怯えずに声を振り絞る。
「緋村 剣心は悪い剣客ではないです!真剣での勝負なんて、先生にはして欲しくな──
「口を噤め、由太郎」
そう言われて、反射的に黙ってしまう。
先生から威圧感を感じた。
肌に痺れるような感覚がして、腰が抜けそうになって──
「由太郎殿、拙者の後ろに」
庇うように、剣心が俺の前に立った。
それだけで、少しマシになって……息を深く吐いた。
そんな俺の様子を見て、剣心の目は鋭くなった。
「離れるでござるよ、薫殿。弥彦を連れて」
「う、うん……」
薫さんが頷き、弥彦を連れて……道の横へ離れた。
左之助はそんな二人を庇うように立っている。
「由太郎殿も」
「で、でも──
「頼む、でござるよ」
その目があまりに真剣だから……俺はボヤけた視線のまま頷いて、左之助達の方へ合流した。
そうして、剣心と先生が向き合った。
「それで……雷十太殿。拙者の話した言葉を考えた上での行動でござるか?」
「無論」
それでも、剣心は柄に手を乗せたまま……刃を抜かなかった。
「拙者はお主と戦うつもりはない、そう言った筈だが」
「貴様に無くとも、吾輩にはある」
何かが軋む音がした。
先生の存在感が大きくなった……気がした。
俺が、弥彦が……薫さんが、左之助が息を呑んだ。
しかし、存在感に晒されている剣心は……何事もないかのように、少しの反応もしなかった。
「……お主が何をしようとも、拙者に剣を抜くつもりは──
瞬間、地面が爆ぜた。
先生が踏み込んだ反動で、砂利が舞う。
「せ──
俺が声を出すよりも早く、技が放たれた。
秘剣『飯綱』。
刀身が蜻蛉のように歪んだ。
見せて貰った事が何度かある。
刃のない棒でも巻藁を切り裂く、先生の秘剣。
しかし、今握っているのは竹刀でも金属の棒でもない。
真剣だ。
故に……何倍も鋭く、速く、剣が振り下ろされた。
凡そ、金属音ではない切断音が響いた。
「先生!?」
しかし、剣心は数歩引いており……切ったのは地面だけだ。
敷き詰められた砂利が、幾つか切断され綺麗な断面を見せていた。
先生は剣を持ち上げ、再度上段に構えた。
「緋村 剣心……いや、人斬り抜刀斎。まだ、剣を抜かぬか」
……人斬り、抜刀斎?
俺は頭の中で、微かに聞いた事がある人斬りの伝説を思い出した。
緋村 剣心が、その抜刀斎、なのか?
その強さの秘訣に納得しつつ、あの優しい剣客が人斬りだった事に……少し、恐怖する。
「……雷十太殿。まだ間に合うでござる。その剣を納めて──
また、地が爆ぜた。
上段から剣が振り下ろされる。
それを剣心は回避するも……追撃が迫る。
その追撃すら剣心は避けるが……地は切り裂かれ、背後の木も寸断された。
当たれば致命傷なのは、俺でも理解できる。
故に、先生が本気で剣心を殺そうとしているのだと……理解した。
俺が呆然としていると、左之助が目を細めた。
「どんなに威力があろうと、当たらなきゃ意味がねぇ。だが……あのままだと、ちと拙いな」
「拙い……?」
「反撃しねぇなら、攻撃は止まねぇ。雷十太が疲弊するのが先か、剣心に当たるのが先か……分の悪過ぎる賭けだぜ」
先生が剣を薙いだ。
その剣、全てが『飯綱』。
全てが致命傷に繋がる。
そして、微か、数歩の踏み込みが状況を変えた。
剣心の服の袖を切ったのだ。
「剣心!?」
「な、何やってんだ!?」
薫さんと弥彦が声を上げた。
と、同時に剣心は地を蹴り……大きく距離を取った。
いつも着ている赤い和服の袖に、大きな切り口が出来ている。
「安心しな、嬢ちゃん。切れたのは袖だけだ」
左之助の言葉に、確かに袖に血が付いていないと……納得した。
ホッとするような顔を薫さんが浮かべた。
対して弥彦の顔は、まだ険しい。
「……アイツ、あんなに強かったのかよ」
そう、小さく呟いていた。
今じゃなければ喜んでいたかも知れない。
だけど、今……この状況。
世話になった人を、先生が殺そうとしている。
その状況であれば、素直に喜ぶ事は出来なかった。
しかして、先生が刀を背負うように構えた。
独特な、構え……見た事のない、構えだ。
浪人笠から僅かに見える口元が、微かに笑っていた。
「どうやら貴様は、『纏飯綱』の方で
……
飯綱は……見せて貰った方、だけじゃない、のか?
「こちらの『飯綱』は奥の手だったが……抜刀斎、貴様には出し惜しみなど出来ぬようだ」
「雷十太殿……」
剣心が警戒するような目をしている。
強く、強く、先生が振りかぶる。
その刀身が、歪む。
「往くぞ」
そして、明らかに……刀身の届かぬ範囲で、剣を振るった。
空気が弾けて、何かが切断される音が聞こえた。
何が起こって──
そう、思った瞬間……剣心が肩から血を流し──
背後にいた俺の、右腕に……鋭い、痛みが走った。
目の前で、赤い血が舞った。
◇◆◇
目の前で、雷十太殿が剣を振りかぶった。
間合いの外の筈だ。
だが、しかし……あの日、あの夜でも見た異常な制空権。
その射程の内に、拙者は入ってしまっている。
これがハッタリではないのであれば──
剣が振るわれた。
瞬間、違和感。
肌で感じる空気の、不自然さ。
何だ?
即座に横へ回避した。
『何か』が刀身から『放たれた』。
見えない『何か』が。
斬線の軌道から離れようとして……一手、遅れた。
肩に、痛み。
「っ!?」
『何か』に切られた。
衝撃を感じながらも、地を滑るように転がる。
肩を手で押さえる。
傷は……浅い。
皮膚の表面を剃刀で切ったような傷。
血が流れているが、見た目よりは重傷ではない。
これならば──
「由太郎君!?」
瞬間、己の失態を悟った。
拙者の背後には、由太郎が居た。
「由太郎!」
思わず、敬称を忘れてしまう程の衝撃。
由太郎の着ている服の袖が、赤く滲んでいた。
「お、おい!大丈夫かよ!?」
少し遅れて弥彦が、倒れそうになっている由太郎を支えた。
「ぐ、うぅ……
由太郎は苦悶の表情を浮かべている。
「チッ……!」
左之助が手に巻いていた
その
「大変!早く医者に見せないと──
「放っておけ。皮膚の表面を切っただけだ」
雷十太殿の言葉に、薫殿も弥彦も……目を見開いた。
そんな彼等を無視して、雷十太殿が口を開く。
「先程の『飛飯綱』は加減した。急所に当たらなければ死ぬ事はない。ただの擦り傷だ」
思わず、拙者も顔を顰める。
しかし、拙者より早く弥彦が口を開いた。
「馬鹿野郎!てめぇの技で弟子が怪我してんだぞ!傷の深さとか……そんなんじゃねぇよ!分かってねェのかよ!」
その罵声を、雷十太殿は咀嚼するように頷き……聞こえるように、ため息を吐いた。
「分かっていないのは貴様らだ。吾輩が本気で、そんな小童を弟子にすると思っていたのか?」
「……何ですって?」
薫殿も表情を険しくしている。
ここに居る誰も彼もが、目の前の悪人に対して怒りを抱いている。
「今の剣術が金にならん事は貴様らも理解している筈だ。だろう?弱小流派の師範代」
「……それが、どうしたって言うのよ」
「フン、その小童は吾輩の支援者の息子。面倒なのを我慢して、先生のフリをしていただけに過ぎん」
薫殿の腕の中で、痛みに堪えている由太郎が、目を見開いた。
大粒の涙が溢れていた。
それは身の痛みからか、心の痛みからか。
「しかし、
由太郎が痛みを堪えて、身体を乗り出す。
「先生……嘘、ですよね」
縋るような声に、雷十太殿は見向きもしない。
「代わりなど、どうにでもなる。先生ごっこは、これで終いだ」
その言葉に、由太郎は顔を俯かせた。
咽せるような声が、聞こえる。
泣いているのだろう。
だが、その声を悟られないように必死に抑えている……か。
地面を踏み締める音が真横で聞こえた。
「左之……」
「手ぇ出すな……なんて言うなよ。俺も腑が煮えくり返ってんだよ。この、とんでもねェクソ女に」
左之助が怒っている。
自身の女子供とは喧嘩しないという信念を曲げてまで、怒っているのだ。
しかし──
「それでも、手出しは不要でござる」
「はぁ……!?」
「左之は由太郎殿を、恵殿の所まで連れて行くでござる」
道場近くの診療所まで、由太郎を連れて行くよう頼む。
左之助は少し、悩むような素振りを見せて……頷いた。
「……チッ、負けんなよ」
「当然。負けるつもりはないでござるよ」
そう言って……雷十太殿へ背を向る。
敵前で背を向けるのが気に食わないのか、雷十太殿が口を開いた。
「……勝負を捨てるつもりか」
「……しばし待たれよ。お主の望み通り、戦ってやる。だが、その前に──
由太郎の側に座り込む。
涙と血が入り混じっている……呆然とした顔。
その、頭を撫でる。
「由太郎殿、どうしたいでござるか?」
「……どう、って」
「そのままの意味でござる」
痛む筈だ。
まだ子供……こんな怪我を負った事はないだろう。
そんな状態で話させようとするなんて、酷い事をしていると言われても仕方ない。
それでも、訊かねばならない。
「お主は、どうしたいでござるか?」
「お、俺は……俺はっ──
だが、由太郎は……頬を食いしばり……思いの丈を……吐いた。
「先生に……元の優しい先生に、戻って……帰って来て、欲しい……!」
小さく、雷十太殿にも聞こえないほど小さい声で……それでも振り絞るように声を出した。
「……左様でござるか」
「……頼んでも、良い、かな」
「無論。拙者に任せるでござるよ」
拙者は立ち上がり、左之助に目配せした。
それに頷き、由太郎殿を抱えた。
薫殿から心配する視線を感じる。
弥彦から不安そうな視線を感じる。
左之助から問いかけるような視線を感じる。
由太郎から……縋るような視線を感じる。
「由太郎殿を頼んだでござるよ。ここは拙者が何とかするでござる」
そう笑いながら言えば……納得したように、由太郎を抱き抱えた左之助と、薫殿は来た道を戻って行った。
しかし、弥彦はその場に留まっていた。
「弥彦も──
「……っ、雷十太!」
拙者の横で、雷十太殿へ怒鳴りつけた。
「アイツは努力家なんだ!知ってるか!?剣を握ってまだ十日程度だって言うのに、すげぇ綺麗に竹刀を振るんだ!」
「…………」
しかし、雷十太殿は全く反応しない。
怒り返す事もなく、嘲る事もなく……ただただ、聞いていた。
「お前なんかより、よっぽど強くなるんだ!才能もあるんだ!後で後悔したって、遅ぇからな!」
そう言い切って……鋭い視線のまま、拙者に顔を向けた。
その目は少し、涙で濡れていた。
「クソッ……俺じゃまだ、アイツに勝てねェから……頼んだぜ、剣心……!」
「承知、頼まれたでござるよ」
そうして弥彦は、薫殿達を追って走って行った。
夜道、雷十太殿と二人っきり……向き合う。
「待たせたでござるか?」
「今際の際だ。その程度の分別はある。貴様は此処で、死ぬのだからな」
「……そうでござるか。腹を割って話すつもりはない、と」
地を踏み締める。
砂利が音を鳴らす。
腰に刺した刀、その柄に手を触れる。
「正直に言えば……お主と戦うのは、まだ本意ではない」
「…………」
「お主が本当は優しい事を、拙者は知っている」
「……優しくなど、ない」
「本当に優しくない者は、否定しないでござるよ」
「……世迷言を口にするな」
「……全く、お主は素直ではないでござるな。いや、それとも……素直になりたくないだけなのか」
金属が小さく擦れる音がした。
「しかし、約束したでござる」
「……約束、だと?」
「うむ、由太郎殿に頼まれたでござる。故に──
それは拙者が鞘から『逆刃刀』を抜いた音だ。
「その性根、拙者が叩き直させて貰う」
息を深く吐く。
柄を握る手に力が込められる。
月明かりの下、剣を構えて向き合った。
↓↘︎→+A 飛飯綱(弱)