それきり伊原も話しかけてこず、静寂が再び訪れる。ということは、伊原は今パソコンで候補地でも探しているのだろうか。まだ一カ月程度もあるというのに、なんとも用意周到なことだ。これなら俺も、観光名所探しという面倒なことをしなくて済む。まぁ、なんだ。一応は俺のモットーは達成されているということか。
それにしても。千反田を元気づけるという伊原の考えは勿論素晴らしいことだが、外の人間がそれをするというのもなかなか難しいことだ。そもそも伊原は千反田の現状を正確に把握しているわけではないというのに。かといって、俺が千反田から聞いた家の内情を伊原に話すというのも、気が引ける。
また、内情を把握したからといって、どうにかなるものでもあるまい。誰も悪くないのだ。原因があればそれを取り除けばいいだろう、しかし無いならどうしようもない。単純に励ましても、今は逆効果になる気もする。
ただ、伊原の行為も、間違ってはいないだろう。
「よし。じゃあ、私帰るから。鍵よろしくね」
伊原が立ち上がり、伸びをして言った。俺は小説に目を向けたまま、軽くうなずく。
考えていても、どうしようもないことだ。無駄な思索は何も生みだしはしない。俺は再び、本を読むという知的作業に戻った。
「……あ、折木さん」
ガタっと音がして扉が開いた。
「ああ……千反田か。少し前までは伊原がいたんだがな。もう帰った」
時計に目をやると彼女が帰ってから既に数十分が経過し、下校時間が近づいていた。
「もう下校時間間近だが、おかしなタイミングだ」
「最近顔を出せていなかったので……少しだけでもと」
そんなに強制力を持つ集まりではないのだが。まぁ、彼女の生真面目な性分によるものだろう。
「俺はそろそろ帰るが、どうする?」
「そうですね、では一緒に帰りましょうか」
「そうか。わざわざ来たのに、悪いな」
「いえ……」
軽く机を整頓して、鍵をかける。特に会話もなく職員室まで行き、鍵を返して靴箱へ向かった。そのまま二人、並木道を歩く。
「折木さん、この後、お暇ですか?」
「ああ。特に何もない」
「そうですか。……少しお時間貰えますか?」
軽くうなずく。いつもの交差点を普段と違い右に曲がった。
「……そういえばこの前、大日向に会った」
特に千反田から話しかけてくる様子もないので、気まずいというわけではないが軽く話題を振った。千反田はこちらに顔を向ける。
「そう、ですか」
「元気にしていたよ。今は軽音部に入っているらしい」
「そうなんですね、初耳です。楽しそうにやっているなら、何よりですね」
「全くだ」
もし。
もし、彼女が古典部に入っていたら、千反田と大日向が二人で一緒に帰る未来もあったのだろうか。
「折木さんには助けてもらってばかりですね。氷菓の件も、文化祭も、大日向さんの時も、直近は合唱祭の時だって」
「またそれか。そう気に病むことはない」
「……いえ。わたし……」
そこでいったん言葉を区切った。
「わたし、自分に失望してるんです。こんなにも何もできないのか、って」
「物事には適材適所ってものがあるだろう」
「……そうですけど。でも」
そこで千反田は、自嘲するような笑みを浮かべた。
「……いや、そうですね。もはや私は千反田家の家督を継がなくてもいいので、そう自分に負わなくてもいいんですから」
俯く。今の顔を、他人に見られたくないかのように。
「折木さんに、一つ謝らないといけないことがあるんです」
「……俺に?」