「ああ、殺そう」
夏油がその言葉を口にした瞬間、白い部屋が真っ赤に染まった。
「────」
言葉が出ない、声が出ない。
白かった五条の髪も、天内理子が包まれているシーツも、そのすべてが真っ赤に染まる。
「殺した」
悲鳴は無かった、感情も無かった。
五条は道端の虫でも潰すかのように、この部屋に居た
「傑」
名前を呼ばれ、前を見る。
そこには、天内理子の遺体を差し出す五条の姿があった。
「高専に持って帰ってくれ。上の連中も皆殺しにしてくる」
「さと──」
天内理子を受け取った。受け取ってしまった。
その瞬間、五条悟は視界の中から消えていた。
「……なんで……一人でやるんだよ……」
もう、戻らないつもりだろう。
一緒に泥をかぶる覚悟はあった。
一緒に堕ちる覚悟はあった。
ただ、五条が夏油の想像を越えていただけ。
ただ、それだけ。
「……悟」
呼び掛けには応えない。
いつも隣にあった影は、手の届かない場所へ行ってしまった。
本日より、五条悟を呪詛師と認定。
以後、抹殺対象とする。
◆◇◆◇
「夜蛾先生……」
「何も言うな……まずは休め」
天内理子の遺体と共に、高専へ帰還する。
入口で出迎えてくれた夜蛾は、遺体を受け取ると校舎の方へと歩き去ってしまった。
「…………」
茫然自失のまま、高専の敷地内を歩き回る。
シャワー室は何処だったか。
寮は何処だったか。
まるで知らない学校にでも迷い込んでしまったように、自分が何処を歩いているのか分からない。
「な~に徘徊してんの? ボケ老人かよ」
不意に、後ろから声が掛かる。
聞き慣れた女性の声。
「……硝子」
「酷いカッコしてんねー。血まみれじゃん」
「……私の血じゃないよ」
「知ってるっての」
べちゃり、と顔に濡れたタオルが当たる。
冷たい水でよく冷やされた、大きめのタオルだった。
「それで顔拭いて、体洗ってサッサと寝な」
「……しかし」
「医者の言うことは素直に聞くもんだよ」
まだ医者じゃないだろう、なんて反論する気も起きなかった。
身体が鉛のように重い。思考が鈍っている自覚がある。夜蛾と家入の言う通りだろう。
早く血まみれの体を洗って、眠ってしまった方が楽になれる。
「……悟は」
「戻って来てないよ」
分かっていた事だが、その返答を聞いて一層足が重くなる。
もう、皆に知られているのだろうか。
「にしても、アイツが呪詛師になるなんてね。ちょっと予想外だったわ」
「……もう知られてるのか」
「大ニュースだもん。今も誰かの式神が言いふらしてるんじゃない?」
吐き気をこらえる。
そんな資格は無いと、無理やり平常心を保とうとする。
「何処行くの」
背中にかかる、家入の声。
「……探しに行ってくる」
「そんな体で?」
フラフラで、今にも倒れそうな肢体。
それが肉体的疲労から来るものか、精神的疲労から来るものかは分からなかったが──ただ、夏油の心は前へと進もうとしていた。
「……悟が呪詛師になったのは、私の責任だ」
殺そうなどと言わなければ。
自分が先に殺していれば。
「……探し出して、連れ戻す」
上の奴らは納得させる。
二人だったら絶対にできる。
「……どこだ、ここ」
気がつけば、ビルの屋上に立っていた。
どうやって登ったのかも、どうやってここまで来たのかも全く覚えていない。
まるで夢遊病患者のように、何かに誘われるように沈みゆく夕焼けを見つめていた。
「傑」
名前を、呼ばれる。
聞き慣れた声だった。
「悟……!」
「よ、さっきぶり」
驚いて振り向けば、そこには私服の五条が立っていた。
体にも髪にも血はついておらず、仄かにシャンプーの香りがした。
「まだ体洗ってなかったのかよ。他の奴らに見られたらどうすんだ?」
「……問題無いよ。移動には呪霊を使っている……下から見上げただけじゃ、私の姿は見えない」
「へぇ」
カツカツ、と靴の音が近づいてくる。
何かアクションを起こす気にはなれなかった。どういった対応をすれば正解なのか、まるで分からなかった。
「悟……すまな──」
「謝んなよ。俺が勝手にやったことだ」
シャンプーの香りが通り過ぎ、白い人影が宙に浮かぶ。
「俺にとっちゃ、一人殺すのも百人殺すのも一緒だ」
つい先程戦った、一人の男が脳裏をよぎる。
あの時、伏黒甚爾を殺した時点で、五条は罪を被っていた。人殺しという、人間にとって最も重い原罪を。
「天内を殺されたからって、アイツを殺していい理由にはならない。それはお前も良くわかってるだろ」
「…………」
五条の言い分は正しい。
護衛を失敗した時点で、もう五条と夏油は天内理子とは無関係になったのだから。
「……だが」
「難しく考えすぎなんだよ、傑は」
ばっ、と両手を拡げる。
世界をすべて手中に収めたような笑顔で、五条は笑った。
「肩書きなんてどうでもいい」
他人からのイメージなんてどうでもいい。
「いい気分なんだぜ、本当に」
夏休みを謳歌する小学生のように、五条は笑う。
「ありがとな、傑」
告げられたのは、感謝の言葉。
受け取れば本来心地いいであろうその言葉は、しかし。
「……すまない。すまない……悟」
まるで呪いのように、夏油の心に突き刺さった。
ここで、お前が殺したのは人間じゃなくてゴリラだ、くらい言えれば戻ってきてくれたかもしれない。
続かない。