ザクロの華   作:理乃碧王

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ep9:暴果実

 タフネス。

 その言葉の意味を読者諸君はご存じだろうか?

 ――肉体的な頑強さ。

 ――あるいは精神的な不屈さ。

 辞書を引けばそう記されているだろう。

 

 しかしである。

 この果樹の室において、その言葉は生と死の境界線を這いずるための『執念』と同義であった。

 

「……ぐ……ウオ……オオッ!」

 

 リングの床に崩れ落ちたザクロの指先が、微かに動いた。

 マンダリンの放った子安キックは確実にザクロの側頭部を捉え、脳を揺らしたはずだった。

 常人であれば、否――並の格闘家であっても、そのまま永遠にステーキが食えない体になる一撃だ。

 だが、ザクロは死んでいなかった。

 まほろとの夜、幾度となく極められ、首を捻じられ絞め落とされそうになった経験。

 その濃厚な夜の経験が、彼の肉体に『致命傷をズラす』本能を無意識下に植え付けていたのだ。

 

「……ほう。まだ動くとは驚きですけん」

 

 マンダリンが目を細める。

 

「立て……立つんだ……」

 

 ザクロは自身の汗で濡れたキャンバスを掴み、ゆっくりと、だが確実に膝を立てる。

 その赤い覆面の奥の瞳はマンダリンへの恐怖に染まるどころか、イーグレの足を破壊した時のようにギラギラとした獣の光を放っていた。

 

「へえ、マンダリンちゃん。あいつ、まだ生きてるぜ」

 

 リングサイドでスマホのパズルゲームから目を離さず、力王が下劣な笑みを浮かべて呟く。

 

「グリーンボーイ、わちの連撃を受けて立ち上がるとは……」

「マンダリンちゃんよォ! 約束だぜェ? お前の芦崎空手を見せてくれや!」

 

 サバキ! サバキ! サバキ! サバキ! サバキ!

 そう叫び、そう手を叩き、そう煽る力王――孤独な観客は静かに盛り上げる。

 

「約束は……約束ですけんね」

 

 構えるマンダリン。

 その構えは一種独特のものであった。

 フルコンタクトではない、かといって伝統派のものでもない。

 それは、相手の攻撃線から完全に身を隠すように極端に半身を切った特異な構え。

 

 打撃を力で受け止めるのではない。

 円の動きでいなし、死角へと回り込んで一撃で仕留める。

 それが『サバキ』を謳う芦崎空手の真髄であった。

 

 芦崎空手。

 それは伝説的な空手家・松泰達の弟子『芦崎幸英』が創始した空手武闘団体。

 直線的な力押しを愚とし、円の動きを用いて相手の攻撃線から脱出すると同時に相手の死角――絶対的な優位点(ブラインド・スポット)を奪い取る。

 相手の攻撃をいなし、崩し、自分の攻撃だけが当たる位置へと瞬時に移動する。

 攻防一体を極めたその流麗な動きは芸術とすら称される。

 

「行くですけん!」

 

 マンダリンが滑るように間合いを詰める。

 そのステップには一切の力みがなく、まるで水面を滑るかのようだった。

 しかし、ザクロは逃げなかった。

 まほろに組み敷かれた夜、痛みとともに刷り込まれた本能が、防御を捨てて前へ出ることを選択させたのだ。

 その瞳の奥に宿るのは、焦げ茶色の毛並みを逆立てて牙を剥く『飢えた獣の闘争心』。

 

「キェイイイッ!」

 

 マンダリンの手刀がザクロの首筋を捉えようとした瞬間だった。

 

「ガアアアアアッ!」

 

 ザクロは自らその懐へと飛び込み、喰らいつくようにマンダリンの両肩を鷲掴みにした。

 

「チィッ! 離すですけん!」

 

 マンダリンは体勢を崩しながらも、至近距離から肘打ちを放とうとする。

 道着がないため、ザクロのグリップは汗で滑りそうになる。

 が、獣のようなザクロの闘争心は牙。

 グリップが外れるより早く、己の全体重を真下へと掛けた。

 優雅なサバキの達人を、泥臭いグラウンドへと引きずり落とす強引なテイクダウン。

 

 バァァンッ!

 

 とキャンバスが大きく跳ねた直後、ザクロは下からの体勢を取り、蛇のようにマンダリンの体に絡みついた。

 片足でマンダリンの首を巻き込み、もう一方の足でがっちりとロックを完成させる。

 

「……これは、三角絞め……ッ?!」

 

 マンダリンの喉から掠れた音が漏れた。

 それは、あの夜。

 まほろがザクロの意識を刈り取ろうとした死の技術の完全なる再現。

 

「……沈め……」

 

 赤いマスクの奥の瞳が冷酷に光り、ザクロは太ももの力でマンダリンの頸動脈を容赦なく締め上げた。

 

「ぐぎイイイィィィッ!」

 

 万力のような三角絞めがマンダリンの頸動脈を圧迫する。

 意識が急速に白濁していく中、マンダリンの脳裏で警鐘が鳴り響いた。

 このままでは死ぬ――技術などと言っている余裕はない。

 

「ウオオオオオオオッ!」

 

 マンダリンの筋肉が異常なまでに膨張した。

 彼はザクロの腰帯のあたりを強引に掴み、凄まじいデッドリフトの要領で自身の首に絡みつくザクロごと力任せに持ち上げた。

 

「ヒャハハハッ! いいぞォ、マンダリンちゃん! そのままぶっ潰せェ!」

 

 リングサイドの力王が狂喜の声を上げる。

 自分の全体重以上の人間を引き剥がすのではなく、持ち上げて叩き潰す。

 それは極限状態に追い込まれた格闘家だけが発揮できる、生存本能が生み出した純粋な『暴力』だった。

 

「シィィィィッ!!」

 

 渾身の気合いと共に、マンダリンはザクロの背中をリングの床へと急降下爆撃のごとく叩きつける。

 

 ドゴォォォンッ!!

 

 リングの鉄骨が悲鳴を上げるほどのパワーボム。

 衝撃でザクロの意識が一瞬飛び、完璧だった三角絞めのロックが無惨にほどけ散った。

 

「むんッ!」

 

 パワーボムの反動でマットに横たわる相手へ、即座に無慈悲な踏み付けを敢行するマンダリン。

 だが、ザクロはキャンバスを這うようにして間一髪でそれを躱すと、両手をリングの床に激しく叩きつけた。

 

「はァッ!」

 

 その反動を利用し、逆立ちの姿勢から己の脚を鋭く跳ね上げる。

 それはまさしく、先ほどマンダリン自身がザクロを沈めた変則蹴り――『子安キック』の完全なる意趣返しであった。

 

「……あっ……えっ?」

 

 サバキの達人たるマンダリンの予測を完全に超えた、掟破りの模倣技。

 無防備なマンダリンの側頭部に、ザクロの踵が強烈な破裂音とともにクリーンヒットした。

 脳髄を凄まじい衝撃が揺さぶり、マンダリンの視界は瞬時にブラックアウトする。

 意識を完全に刈り取られたサバキの達人は――もはや受身を取ることもできず、大木がへし折れるようにリングの床へと沈み込み……そのまま完全に沈黙した。

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