ザクロの地獄のようなトレーニングが始まった。
午前はマンダリンによる打撃特訓。
基本の突き、蹴り、受けはもちろん、芦崎空手特有の足捌きを徹底的に叩き込まれる。
「キィス……足が止まっているですけん! サバキは円の動き、死角を奪うまで這いつくばってでも動くですけんッ!」
胃液を吐き散らすほどの苛烈なミット打ちが何時間も続いたかと思えば、休む間もなくドリル形式の型稽古で攻防の理を脳髄に焼き付けさせられる。
その締めくくりは、骨が軋み筋肉が悲鳴を上げる限界ギリギリの組手であった。
「へイヤー! 死ぬぞゥ!? 気を抜いたら死ぬぞゥ!!」
午後になると、今度は力王による狂気のスパルタ式レスリングが幕を開ける。
「どうしたァ、ザクロちゃーん! もうステーキが食えねェ体になっちまったかァ!? 休んでる暇はねェぞオラァッ!」
「ぐふっ!」
「何がぐふっ!だよ! 〇〇クエとかいうカビ臭いRPGじゃないだぞ! そーれっ! もう二発ゥ!!」
容赦のないパワーボムやスープレックスでリングへ叩きつけられ、終わる頃にはもはや自分が生きているのか死んでいるのかすらわからないほどに肉体は破壊され尽くしていた。
そして、夜――。
極限状態のザクロを待っているのは、まほろとの夜伽という名の特別稽古。
女の艶やかな肢体が蔓のように絡みつき、息の根を止めにかかる絞め技と寝技の無限地獄であった。
「ふふ……あら、もう意識が飛びそうね。でもダメよ……ここで気を抜いたら、本当にあなたのこと、喰い殺してあげるわ」
甘い吐息とともに首を刈り取らんとする彼女の腕の中で、ザクロは終わらない地獄を這い続ける。
「ハア……ハァふぅ……ハァハァ……」
安ベッドで横になるザクロ。
そんなザクロを見て、まほろは微笑む。
「ケガの質が変わったわね。力任せに投げられた打撲というより……骨の髄まで響くような、打撃特有の傷跡が増えてる」
「そう見えるか……」
「あなた……私以外と、浮気をしているようね」
「わかるか?」
「ええ、匂いでわかるわ。血と汗に混じって……別の誰かに弄られた無様な痛みの匂いがする」
まほろは冷たい指先で、ザクロの肋骨に浮かぶ痣をグッと無造作に押し込んだ。
「ぐっ……!」
「嫌な子。私が手塩にかけて壊してあげているのに、よそで壊れかけて帰ってくるなんて……ちょっとお仕置きが必要ね」
艶やかな微笑みの裏にぞくりとする殺気を潜ませ、まほろは再びザクロの関節に絡みついた。
「その汚い打撃の痕ごと、私がもう一度グズグズに作り変えてあげるわ」
まほろが馬乗りになり、ザクロの腕を極めにかかった刹那。
「――ッ!」
ザクロは極められるより早く、空いた方の手でまほろの脇腹に鋭い当身を沈めた。
「あンっ……!」
急所を突かれたまほろの体がビクンと跳ね、力が抜ける。
その一瞬の隙を見逃さず、ザクロは腰を捻って上下を入れ替えた。
今度はザクロがまほろをベッドに組み敷く形になる。
「……あんたの教え通りだ。隙を見せたら喰われるんだろ?」
ザクロが見下ろすと、まほろは苦痛よりも快楽が勝ったような、熱を帯びた瞳で彼を見つめ返した。
「……ふふ、ふふふっ。まさか私に打撃を合わせるなんて。それに、なんて冷たくていい目……」
まほろは拘束されながらも、妖艶に唇を舐める。
「上出来よ、ザクロ……ようやく私を喰える『男』になりつつあるわね」
ザクロは無言のまま彼女の両手首をベッドに縫い付け、そのしなやかな太ももを己の膝で強引に割り開いた。
「……教えてくれ、まほろ。この体勢から逃れる術を」
「ふふっ……無理ね。今のあなたは、私が教えたどの絞め技よりも……深く、熱く、私を逃がしてくれそうにないもの」
まほろの潤んだ瞳が、暗がりの中で妖しく煌めく。
格闘の攻防は、いつしかオスとメスの剥き出しの絡み合いへと変貌していく。
日中の特訓で負った筋肉の軋みも、打撃の痛みも、すべてを濃厚な快楽で塗り潰すかのように。
二人の熱を帯びた肌は夜の底で深く、深く重なり合っていった――。
○○○
特訓から約3カ月が過ぎた。
ザグロの体から傷は少なくなり、代わりに鋼のような肉体へと変貌しつつある。
そして、今日は力王は『私用』があるとのことでおらず、ザグロはマンダリンとリングで相対していた。
「組手を――いきますけん」
その言葉と同時、マンダリンの姿が掻き消えた。
芦崎空手特有の円の動き。
ザクロの死角へと瞬時に滑り込み、側頭部を刈り取る必殺のカポエラキックが放たれる。
だが――ザクロは振り返りすらしなかった。
「……遅い」
ザクロは背中に目があるかのように僅かに首を傾け、致死の一撃をミリ単位で躱す。
それと同時に、マンダリンの軸足のさらに外側……完全なる『死角の死角』へと踏み込んでいた。
「なっ……!?」
攻防が逆転した刹那、ザクロの放った重い裏拳が空を裂き――マンダリンの黄みがかった赤色のマスク、その鼻先のわずか一ミリの距離でピタリと静止した。
寸止め。
巻き起こった風圧だけで、マンダリンのマスクが小さく揺れる。
「屈辱……そこまでですけん」
冷や汗を流しながらも、マンダリンはニヤリと口角を上げた。
「キィス……たった三ヶ月でわちのサバキをここまで吸収するとは。だが、調子に乗るなよグリーンボーイ。わちはまだ、芦崎空手の『裏の殺人技』をお前に見せていないですけん」
負け惜しみか、あるいは本物の暗黒闘士としての矜持か。
マンダリンの目には確かな余裕と凄みが残っていた。
「今日はお前に別れの挨拶に来たんですけん」
「別れだと?」
「――わちはこれからアフリカへ向かう」
「……アフリカ!」
「ああ。黒き大陸に潜む『ある人物』を殺すためにな……力王によろしく言っておくですけん。せいぜい、腐れ蜜柑に潰されないように生き残ることだな」
マンダリンは背を向けると、手をひらひらと振る。
「どういうことだマンダリン! 説明しろ!」
「マンダリン? マンダリン『さん』だろ、赤マスク野郎。短期間だが、わちはお前の師匠だぞ」
飄々とした口調で振り返りもせずに言うマンダリンに、ザクロは毒気を抜かれたように小さく息を吐いた。
「……マンダリン『さん』……これでいいか?」
「キィス。それでいい……端的に説明すると『一族の意地』に関わりますことですけん」
「一族の意地……?」
「ザグロ、お前にも何れわかるさ。生きて帰ったら、わちの『裏の殺人技』を教えてやるけんな」
リングを降り、マンダリンは果樹の室の薄暗い出口へと歩を進めていく。
だが、その遠ざかる背中を見つめていたザクロの背筋に、突如として氷のような悪寒が走った。
「……ッ!?」
照明の加減か、あるいは極限の特訓で研ぎ澄まされたザクロの本能が幻視させたのか。
マンダリンの背後に、巨大で底知れぬ漆黒の影――まるで鎌を振り上げた『死神』が、ねっとりと寄り添って歩いているように見えたのだ。
「おい……待て、行くなッ!」
嫌な予感に駆られ、ザクロは思わず手を伸ばして呼び止めた。
しかし、マンダリンが足を止めることはなかった。
彼はそのまま闇の奥へと溶け込み、二度と姿を見せることはなかった。
――それが、ザクロが彼と交わした最後の言葉となった。
○○○
それから数週間後のこと。
果樹の室の医務室でトレーニング後の傷の手当てを受けていたザクロ。
治療を施す双子の熟れたオーレンジ――小梅と小竹から、唐突にその知らせを受けた。
「そいや……ぼんや、マンダリンが死にましたぞえ」
「アフリカの地で、見事に闘死いたしましたじゃ」
ザクロの動きがピタリと止まる。
「……闘死、だと?」
「そうじゃ。あやつの技量をもってしても、届かぬバケモノがおったということじゃ」
「出し惜しみしていた『裏の殺人技』ごと、完膚なきまでに叩き潰されたそうじゃて。無念じゃのう、無念じゃのう」
小梅と小竹は「キィスキス」と不気味な笑い声を響かせながら、まるで今日の天気を語るかのように淡々と身内の死を語った。
そこに悲哀はなく、ただ弱者が強者に喰われたという冷徹な事実だけが横たわっていた。
(……あの時、背中に視えた死神は本物だったのか)
ザクロは無言のまま、強く拳を握りしめた。
今、ザクロの足元を支えている強固な打撃の技術は、間違いなくあの男から叩き込まれたものだ。
もう見ることが叶わなくなった『裏の殺人技』。
そして、底知れぬ強者が蠢く世界の広さと理不尽さ。
(天国があれば……行けるといいなマンダリン。いや、お互いに地獄がお似合いか……師匠よ)
ザクロは沈黙の中、自身に牙を与えてくれた奇妙な蜜柑仮面の師匠へと、心の中で静かに別れを告げた。