にじさんじヤンデレ物語 作:にじさんじヤンデレ委員会非常勤員
戌亥プロローグ
「なんや? 私が悪いんか?」
「い、いや……そういうわけじゃなくて……」
「ならなんや?」
「だ、だから……その……」
どうしてこうなってしまったのだろう。
狂気的に光る戌亥の八重歯を前に場違いにも俺は己の過ちを思い出していた。
「私が目の前にいるゆうのに、他のこと考えてるんか……。ふぅん……」
「あ、あぁ……ち、違う……」
「言い訳はいらんよ?」
戌亥の表情は普段と変わらない、どこか掴みどころのない言動は普段と変わらない。
だが、それは自身の指が彼女の口内に存在している現状を考慮するのであれば、到底普段通りとは言えなかった。
「ちょっとしょっぱい……どないしたん? 緊張でもしてんの?」
「そそそ、そんなわけないだろ……。指を噛まれたら誰でもこうなるだろ」
正確には彼女の八重歯が食い込んで痛い。
でもそれを言えばその後が怖い、俺にできるのは彼女の機嫌をどうにか損ねないよう細心の注意を払って言葉を選ぶことだった。
「なぁ、なぁ……私、最近店番頑張ってると思うよな?」
「そ、そうだな。俺も助かってる……」
彼女と出会った日から俺の日常は大きく変わった。
新しい繋がりも増えて楽しい日々が続く物だと思っていた。
だけど今、この状況を望んでいたわけじゃない。
「どうする? いぬいのお願い……聞くなら許してあるけど?」
「お、お願い?」
「なんや、また聞いてなかったん……?」
ヤバイ、選択を間違えた。
微かに食い込んだ彼女の八重歯の痛みに、思わず指を引き抜きたくなってしまう。
でも、それをしたら最後だ。ケルベロスたる彼女の強靭な犬歯は容易く俺の指を噛み切っていくだろう。
彼女はそれを必要であれば成す存在なのだと知っている。
「私言うたよな? 私以外見んでって、他の女に今後一切触れんでって?」
「ふ、ふ、触れてない! 女性のお客さんは君が受け持ってくれてるだろ⁉ だ、だから女性と話したのだって殆どない! し、知ってるだろ⁉」
「んーん、話した、触れた、抱いた」
な、何を言っているんだ?
恐怖と混乱の渦中、とりとめのない思考の中でもどうにか記憶をたどる。
命の危機に直面した海馬は人生の中で驚くほどの速さで情報を精査する。
でも、見つからない。
どれだけ思い出そうとしても、戌亥以外の女性と話したことなんて殆どないのだ。
触れた? 抱いた? いったい何の話なんだ……。
「メイ、チルル、みんちゃん、他にもいーっぱい……。覚えてないなんて言わんよね?」
聞き覚えのある名前だ。それもそのはず。
「それ……うちの子達だろ?」
戌亥が挙げた名前は全て、俺が経営する犬カフェで飼っている犬の名前だ。
「でもメスはメスなんよ、分かる?」
「い、今更だろ」
「気ぃついてくれるかなぁ? て、今まで我慢してきたんよ……ずぅっとなぁ」
何でなんだ、たかがメスの犬じゃないか。
「オス、オスの犬はどうなんだ。それを言うなら戌亥はオスの犬を触ってるんじゃないか?」
自分でも何を言っているのか分からない、だがたかがメスの犬で機嫌を損ね、指を嚙まれている状況に少なからず憤りがあったんだ。
でも、戌亥は飄々と答えてしまう。
「オスなんて触ってへんよ?」
「はぁ?」
「あんな、私に触れようとしたオスに言ったんよ。私に近づくなって、だからメスの犬しか触ってないんよ」
犬に言い聞かせるって……ケルベロスたる彼女なら可能なのだろうか。
そんな場違いな思考に逃げていると、不意に噛まれていた指が解放される。
自分の指と戌亥の口の間でわずかに引く糸、目の前の彼女が見せる執着心が現れているようだった。
「えらいやろ? 私えらいと思わへん?」
戌亥が俺の首筋に額を押し当ててくる。
彼女がたまに褒めてとねだるときの仕草だ。
普段であれば微笑ましく、自分だけが知っている気分屋な彼女の愛らしい姿。
……とんでもない、まるで鋭利な刃物を突き付けられたかのように背筋が凍ってしまっていた。
首なんて素人でも分かる人体の急所。そんなところの近くに彼女の頭があるんだぞ、ナイフを首筋に突き付けられる以上に危険な状況だ。
「……どうして撫でてくれへんの?」
「え、あ、す、すまない」
いつものおねだりが呪詛のように纏わりついてくる。
震える手を無理やり抑え込んで、できる限り普段通りに彼女の頭を撫でる。
「嬉しぃなぁ……」
「い、戌亥は頑張り屋だからな」
「でもなぁ? この手で色んな女の頭を撫でてたんやろ? そんな手だと思うと、あんま嬉しくないなぁってなるから不思議なんよ」
慌てるな。
ここで少しでも彼女を不快にさせる言動を取れば一発アウトだ。
何が彼女をここまで豹変させたのか、彼女がどんな想いを抱いているのか。長くはないが、それでも決して短くない付き合いだ。
ここで俺が取るべき行動は初めから決まっていた。
「すまなかった、これからは戌亥以外の女性には触れない。犬も触らないようにする」
「ほんま?」
「今後はオスは俺が、メスは戌亥が担当ってことにしよう」
ここでようやく戌亥から放たれていた圧が消えていく。
「それええな! 何でもっと早く思いつかなかったんやろ!」
痒いところに手が届いたように満足げな笑みを浮かべる戌亥。
少なからず独占欲にも似た様子は、今までにも何度か見て取れていたがまさかここまでとは思っていなかった。
そんな思考に没頭できていたのは彼女の笑みを見たからか、はたまた言い知れぬ恐怖から解放されたからか、俺は油断していたのだ。
「がぁっ⁉」
ガリッ。少しばかりの湿り気を帯びた音が首元を襲った激痛と共に響く。
「あはー、これ約束の印な」
首から離れた戌亥の口端に赤い液体が付いている。
聞かなくても分かった、俺の首元に感じた激痛は戌亥が肉を嚙みちぎったのだ。
あまりの痛さと鼓動に合わせて響くジンジンとした痛みにに思わず蹲ってしまう。
「あ、ああっ!? そうやんな! 痛かったんよな、ごめんな!? ごめんな!?」
慌てた様子で戌亥が声を上げる。
そして蹲った俺を包み込むように抱き着き、ジクジクと痛む傷口を再び彼女の口が覆った。
「ごめんな、ごめんな。でも仕方なかったんよ」
ピチャピチャと下品な水音が鼓膜を震わせる。
「い、いいんだ。俺が悪かったんだから、戌亥は悪くないよ。ごめんな、不安に、させて」
痛い、めちゃくちゃ痛い。
でも言わなければ、彼女を不安にさせてしまったのは事実。なら謝るべきは俺なんだから。
いまだ首元に舌を這わせる戌亥の頭をできる限り優しくなでる。
「フ、フフッ。こんな酷いことしちゃったのに、そう言ってくれるん?」
「わ、悪いのは俺だから……。気がつけなくてごめん」
くさいセリフだがこれに納得したのか、口周りを血で濡らした戌亥が恍惚な笑みを浮かべる。
「私、頑張るな。もっと好きになって、いっぱい褒めてもらえるように……頑張る」
ガリッ。
突然、戌亥が自身の人差し指の先を噛んだ。
「私ばっかりは不公平やからな……」
表面張力で楕円状になった血をこぼさないようにして、戌亥の指が差し出される。
「舐めて」
「え……」
何を言っているんだ?
そう思うよりも早く、戌亥の人差し指が無理やり口の中に押し込まれる。
「んぐぅっ⁉」
「舐めてぇって言ってるんよ」
口内で戌亥の指が我が物顔で暴れまわる。
舌を撫でるように指先が押し付けられる。血と、少しばかりの塩っ気が舌どころか口の中全体に広がる。
「あはー、なんかえぇなぁ……。お互いの血を交換して、まるで一つになれたみたいやんな?」
「んぐぅ!」
人差し指だけじゃ足りなかったのか、今度は中指まで押し込んでくる。
「なぁなぁ、そう思うやろ? 君も嬉しぃよなぁ?」
「んんっ!?」
指を二本も入れられて声なんて出せるわけがない。
だから戌亥の言葉の意味なんて考えずただ頷いた。それしか俺が取れる選択なんてなかった。
「約束な? 裏切ったらお仕置き、分かったぁ?」
戌亥がオッドアイを細める。
獲物を仕留めるために構え、手にしたご馳走を前に興奮しているように。
戌亥の唇を濡らす血が、口紅のように彼女に化粧を施していた。
なにも言えず、俺は黙って頷くしかできなかった。
「じゃ、指切りげんまん……しような?」
言葉に出すことなんてできない、それでも思わずにはいられなかった。
どうしてこうなった……。
どこからだ、どこで間違ったんだと。