にじさんじヤンデレ物語   作:にじさんじヤンデレ委員会非常勤員

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戌亥13

「……」

「すぅ……すぅ……」

 

 朝起きたら、隣に可愛らしい獣耳を持った美女がおりました……。

 

「……」

 

 おかしいと思ったんだ、なんか普段より暖か過ぎて若干汗掻いてるもん。

 そして右半身に感じる生暖かい感触。そして目覚めを彩る爽やかな匂い。

 

「……」

 

 まだ若干の痛みを残していた右腕なんか痛みの一切が感じられず、獣耳の戌亥さんに拘束されていること以外はなんの問題もない。

 

「……」

 

 一旦冷静になろうとしても、戌亥さんに右腕をがっちりホールドされてしまい身動きができない。

 というか、ちょっとでも引っ張ろう物なら万力の如き力がそれを阻止してくるのだ。

 

「……戌亥さっ⁉」

 

 起きて貰おうと名前を呼び掛けたところで昨日の出来事がフラッシュバックした。

 あの痛みと恐怖に震えそうになる体を必死に押さえ、浅い呼吸を続ける。

 

「い、戌亥。起きてくれないか?」

 

 再度、今度は話し方に注意を払いながら呼び掛ける。

 

「うぅん……」

 

 テンポ良く続いていた寝息に不協和音が加わり、戌亥の瞼がうっすらと開く、のぞくオッドアイは暫し宙を彷徨うがこちらに焦点が合う。

 目尻が下がり、満足そうな微笑みを見せる。

 

「あぁ、奈田くんか。おはよう」

 

 いつもより少し低い声で挨拶をした戌亥さん。

 そこには昨日の出来事がなかったかのように、普段通りの彼女の姿にしか見えなかった。

 

 だが、戌亥さんの声を聞いた瞬間。体の奥からどうしようもなく湧いてくる感情が、昨日の出来事が真実だと現実を押し付けてくる。

 

「起きるの早ない?」

 

「いつも通りだよ、顔を洗いに行きたいから手を放してくれないかな?」

 

「そうなんか、そら悪かったな」

 

 すぐさまここを離れたかった。

 寝起きが一番頭の回転が良いと言われているが、今はそれがありがた迷惑に思えるほど、思考の渦は俺から冷静さを奪い取ろうとしてくる。

 

 幸い、お願いすれば戌亥さんは簡単に俺を解放してくれた。

 

「戌亥さ、戌亥はまだ寝てて良いから」

 

「ありがとうな、私意外と朝が弱いねんから助かるわ」

 

 そう言って俺の布団に再び潜り込んでいく戌亥を後にして、洗面所に向かう。

 

 冷たい水を顔に掛ければ少しは意識が切り替えられる。

 思い出したくないが昨日の出来事を引っ張り出す、そうしてこれから俺が取るべき行動を今のうちにでも決めておかないと。

 

 タオルで顔の水を拭き取り終えたとき、俺はあることに気がついた。

 

「あれ? 腕にこんな……痣? なんかあったか?」

 

 戌亥さんに初めて噛まれて以降、左手より数奇な人生を歩んでいる右腕にいくつかの痣が出来ていた。

 しかも痣の中心には小さなかさぶたまであった。

 

 ……そこまで気付いた俺は考えるのを止めた。

 

「俺の右腕に恨みでもあるのかな?」

 

 最初につけられたかみ跡は最初と比べれば小さくなっていたのは幸いだ、その代わりに増えた誰かのかみ跡のことは今優先するべき物じゃないはずだ。

 

「それより、現状の整理だ」

 

 これはとあるお客さんから教えて貰ったのだが、考え事をする際に思考をスムーズにするためには独り言が有効らしい。

 

 紙に書き出す方が良いらしいが、今回は初動が早い独り言を採用だ。

 

「まず、戌亥さんとの……ダメだな。どうしてもコッチが出てしまう」

 

 敬称をつけない、そして敬語を使わない。簡単なようで習慣化された言動というのは自制が聞きづらい。

 

「敬語は禁止、そして嘘もだめ。戌亥を騙すのもダメ……これはしたこともないし、する気も起きないから大丈夫か」

 

 女性の可愛らしいお願いと済ますには約束を破ったときの代償がデカすぎる、昨日体験したあの痛みはもう二度と経験したくない。

 頭の中でひたすら敬語を使わないことを自信に言い聞かせる。

 

 とはいえ、昨日と違い今日は営業日だ。やることリストを上からなぞるよう思い出しながら洗面所を出た。

 

 

 

「戌亥、ご飯が出来たよ」

 

「お、ありがとうな。こっちも掃除が終わったら行くから」

 

 諸々の開店準備を終えた俺達は朝食を取ることにした。

 朝食を取りながらも俺の意識は戌亥さんに向けられ、彼女も当然のようにそれに気がついていた。

 

「なに? 私になにか言いたいことあるんとちゃう?」

 

「その、戌亥にタメ口で接するのは分かったんだけど。で、できれば、業務中はその敬語で話してもいいかな?」

 

「……なんで?」

 

 聞き返してきた戌亥の表情は変わらない、だが明らかに空気が一段階重くなった。

 向けられるオッドアイから探るような、試すような視線が向けられた。

 

「し、仕事中に従業員にタメ口で話す店長って、お客さんから見ればちょっと高圧的にみえたりするし。この間まで敬語だったのに、急にタメ口で話すものお客さんからすれば良い風には見えないだろ?」

 

「だから? 私との約束よりも、周りの人間を気にするっていうんか?」

 

 また、空気が重くなる。

 だけどここで引くわけにはいかない、本業が上手くいかなければ戌亥さんに殺されるよりも先に、俺は路頭に迷ってしまうのだ。

 

「公私を分けたいんだ。仕事では仕事仲間として戌亥と接したい、そういうのは仕事をする上では重要だろ?」

 

 できる限り偽りを持たせないように訴えかければ、重かった空気が消えていき、戌亥さんの表情も少しいじけた表情に変わった。

 

 最近見るようになった、不服なときの戌亥さんだ。

 

「私ケルベロスだから知らん」

 

「今やここの従業員でしょ、協力してくれ」

 

「……仕事以外やったら、ちゃんとタメで話してくれるんよな?」

 

「そりゃもちろん、約束したからな」

 

 かなり一方的ではあるが、このさいポジティブに考えていくしかない。

 実際、素の話し方はアンジュと話していたときの物だし。

 

 自然体であると言えば、自然体なのだ。

 

「……じゃぁ、仕方ないから許したる」

 

「ありがとう」

 

 あれほど恐ろしいと感じていた戌亥さんだったけど、こうしてしっかりと話せば案外話は通じる。

 若干ではあるが、彼女とのこれからの関係を続けていく上では良いことだ。

 

 昨日のはきっと、戌亥さんも焦っていたりとかあったのかもしれない。

 友達が他の友達に取られるような、そんな子供じみた理由が根っこにはあったのかもと思えば、彼女ともまだ上手くやっていけるように思えた。

 

「私、偉いやろ?」

 

「え?」

 

「ん」

 

 そう言って頭を突き出してくる戌亥さん。

 もしかしなくても頭を撫でろってことなんだろうな、昨日同じことされたし。

 

 恐る恐る彼女の頭を撫でれば嬉しそうに笑う。

 昨日の恐ろしい彼女は似ても似つかない、淀みのない純粋な表情だった。

 

 

 今日も今日とて仕事に励む日々。

 

 戌亥さんとの約束を取り付けてから数日経ったある日、ピーク時を過ぎて客足がなくなってきて、時間を持て余していたときだった。

 最近見なくなっていた、三船さんが久しぶりにお店にやってきた。

 

「奈田さんお久しぶりでーす」

 

「三船さん、お久しぶりです。どうぞ、お席にご案内します」

 

 席に案内して注文を用意すれば、店内のお客さんは三船さんだけになっていた。

 戌亥さんに腕を噛まれた時間以降、三船さんと山寺さんとは秘密を共有する仲になっていた。

 

 だからだろう、近くを通った俺に三船さんが小さく声を掛けてきた。

 

「奈田さん、腕ってどうなりました?」

 

「腕なら結構良くなってますよ」

 

 普段はワイシャツに隠れているため見えることはないが、心配そうな表情を浮かべる三船さんに少しでも安心して貰えるよう、右腕の袖を捲って噛まれた箇所を見せる。

 

「本当だ、結構小さくなってますね……良かったぁ」

 

「ご心配をおかけしました。最近は痛みも無くなったので完全回復も後もう少しです」

 

「そうなんでか……あれ?」

 

 噛まれた傷が小さくなっていたことに安堵していた三船さんが、俺の腕を見ながらあることに気がつく。

 

「なんか、痣? 傷? 増えてません? 前からありましたっけ……」

 

「あ……」

 

 忘れていた。昨日までならいざ知らず、今の腕には追加で付けられた戌亥さんの噛み傷が無数に存在していた。

 

 昨日までの俺であれば三船さんに全てを話して、協力を仰ごうとしていたのかもしれないが、昨日の出来事がそれにブレーキを掛けた。

 

「い、色々ありまして……」

 

「それって……」

 

「三船さんに気にしていただくほどのことではないですよ、寝ている間にどこかに擦っただけだと思います」

 

 巻き込むわけにはいかなかった。

 戌亥さんの行動原理が未だ理解できていない今、俺は慎重に動かざるを得なかった。

 

 しかし、それで誤魔化せるのは男だけだ。女性に適当な嘘は通用しない。

 

「答えなくても良いです、これですよね」

 

 三船さんはそう言って、手を軽く広げては閉じてを数度繰り返した。

 子供に咀嚼を促すときに使われる手の形だ。つまり、噛まれたのだと三船さんは容易く気付いたのだ。

 

「……そうです」

 

 もはや誤魔化すことはできなかった。

 三船さんは少し困った表情で、「そうですか」と納得すると見せに置いてあるアンケート用の紙とペンを使ってなにかを書き始める。

 

「これ、私のLONEのアカウントIDです。何かあったら連絡してください」

 

 俺の様子からただ事ではないと気がついたのだろう、警戒した様子で紙を渡してくれるが。

 

「申し訳ございません。どんな理由があってもお客様からこういうを頂くのは……」

 

「あ、そうですよね。すみません、じゃあここに来たときとかに相談とかあれば言ってください。二人で聞きますので!」

 

 そう言って膝の上に確保したメルルの前足を軽く持ち上げる三船さん。

 等のメルルはスヤスヤと気持ちよさそうに寝ている。脚って結構敏感な部位じゃなかったっけ? メルルよ、もしかして寝たふりしてる?

 

「あ、そうだ! 右腕が噛まれてるなら、私が左腕を噛むってどうですか?」

 

「なにがどうなってそうなるんですか……」

 

「だって、噛まれてない方の腕が寂びそうじゃないですか! そ、それなら私がこうガブッと!」

 

 ガブッとされたからこの右腕が出来上がってるんだけどなぁ……。

 

「あ、山寺さんとはLONE交換してあるので、そっちにも相談して貰って大丈夫ですよ!」

 

「ありがたいですけど、山寺さん大丈夫なんですか?」

 

「へ? なにがですか?」

 

「山寺さん既婚者ですし、三船さんみたいな女性と仕事以外で連絡先持ってるのって後々面倒になるかもしれませんし……」

 

 実際、おしどり夫婦という言葉がピッタリと当てはまるほどに夫婦円満、今でも楽しげにイチャイチャしているらしいからあらぬ誤解に発展しなければいいのだが。

 

「大丈夫ですよ、少しぼかしてますけど今回の話は奥さんに話してあるらしいですし」

 

「それなら……」

 

「それに、LONEは相互で自由に見れるようになってるようなので、なにかあれば即バレしますよ!」

 

「な、なるほど……」

 

 多分奥さんからそういう風にさせられているのだろう、どちらかというと奥さんの方がベッタリな感じだったし。

 

「私、結構心配してたんですよ……? 寝ぼけていたとは言っても、噛み癖を持つ人はその癖が治しづらいと言いますし。実際、夫婦なのに噛み癖のせいで傷害事件に発展するケースもあるみたいです」

 

 傷害事件。

 その程度で収まれば御の字では? と一瞬でも思ってしまったのはきっと毒されて正常な判断基準を見失いかけているからかもしれない。

 

 言われたことはないが戌亥さんが噛みたいと言えば、俺は逆らうことなく腕を差し出してしまう。

 正常な判断を持って、仕方のないことだと割り切ってしまうだろう。

 

「そうですよね、危険なことですよね……」

 

 今更かも知れないが、少なくとも自分の中で一般的な感覚を失うわけにはいかない。

 多分、それが最後の境界線になるから。

 

「なのでこれからも危険なことは避ける! 何かあったら相談する! LONEは無理ですけど、指切りしましょう!」

 

「ゆ、指切りですか?」

 

 なんて古典的な約束の儀式を持ち出すんだ、普段の仕事が出来るキャリアウーマンの姿が薄れていくぞ。

 

 しかし、三船さんは至って真面目な様子。彼女なりの気持ちを無碍にするなんてできるわけがない。

 

「なんですかー⁉ 指切りが子供ぽいって思いましたね! いいですか、指切りというのはですね元々――」

 

「指切りですね! しましょう、今しましょう!」

 

「むぅ……指切りがどれほど素晴らしい物なのか、バックボーンも含めて知ってほしい所ですが仕方ありません。重要なのは知識ではありませんし」

 

 そうして俺と三船さんは指切りをした。

 内容は全部が全部俺を心配してのこと、善意しか感じられない三船さん達には感謝しかなかった。

 

 指切りをしてから暫くすれば他のお客さんが入店してきたので、断りを入れて業務に戻った。

 

「戌亥さん、オーダーは?」

 

「……アイスコーヒー一つ、フレンチトースト一つ」

 

「了解です!」

 

 仕事が回れば余計なことを考えずにいられた俺は、目の前にある仕事に集中していった。

 

 

「今日もお疲れ様です、戌亥さん」

 

「お疲れ様~、それで奈田くん今日はもうお仕事終わりやんな?」

 

「はい、そうですね……あ、敬語だったな。ごめん」

 

 慌てて口調を戻せば戌亥さんは嬉しそうに微笑む。

 

「ええよ、ええよ! 奈田くんがしっかりと憶えていてくれて良かったわ」

 

 口調一つでここまで喜ばれるのは彼女がケルベロスだからだろうか? それとも世の女性はこういうのを好むのだろうか?

 如何せん参考データが0件だから分からない。か、悲しくはないぞ。

 

 それよりも……。

 

「……」

 

「……」

 

 か、会話が発生しない!

 あれ、俺普段どんなふうに戌亥さんと話していたっけ?

 

 これがあの日以来からの悩みだった。

 

 会話がしたくないわけじゃない、怖くないときの戌亥はいたって平常運転であり。

 業務中も他の女性客から引っ張りだこ状態で人気も高い。

 

 だからこそ普段の戌亥とはできる限り良好な関係を築いていきたいのだが、なにか話題……。

 

「そういえばアンジュが新しい歌ってみた動画上げていたよな」

 

「あーそういえばそうやね、アンジュの声にピッタリの曲やった」

 

 流石アンジュ! 最近なにを思ってかゲーム用のPCを買えと催促してくる彼女だが、この間のコラボ以降たまに連絡を取ったりしていることもあり、話題という面ではかなり有効だ。

 

 それに戌亥さんにとっても同じグループで、仲もかなり良好。話題のチョイスには最適じゃないか。

 

「アンジュのあの低めの声って格好いいよな、あの人ならではの歌になっているというか、最近結構聞いてたりするんだよ。それにこの間の歌配信――」

 

「なぁ、奈田くん。私もこの間歌ってみたの動画上げてるんやけど……見てくれた?」

 

 どうにか話を膨らませようとしていた所を断ち切るように言い放った戌亥さんの声。

 低いトーンの声から発せられた内容に、俺は冷や汗が止まらなかった。

 

 なぜならここ最近戌亥の配信どころかチャンネルすら見ていない、意識的に避けるようにして戌亥に近いリゼさんやアンジュのチャンネル見るようにしていたからだ。

 

「……み、見てない」

 

 嘘はつけない、誤魔化しもできない。それをすればどうなるか分かっていたから。

 

 だから俺にできるのは事実を端的に述べて、下される結末をできる限り小さくなることを祈るだけだった。

 

「どうしてや? アンジュの動画は見てるんやろ?」

 

「あ、あの時。戌亥とその……色々合ったときから…………」

 

「……続きは?」

 

「こ、怖くて見に行けてなかった……。ごめんなさい」

 

「ホンマか?」

 

 戌亥の手が、俺の右の胸部にそっと触れる。

 心臓が煩く鼓動を打つ。嘘も誤魔化しもできず、彼女が不機嫌になるであろう理由を話さなければならない。

 

 胸に添えられた手によって風穴が空くのかもしれない。

 それとも、またあの痛みが……。嫌だ、二度とあんな思いは経験したくない。

 怖い、逃げ出したい……あの痛みを味わうくらいなら、いっそのこと――

 

「よう言うてくれたなぁ……」

 

 待っていた痛みや衝撃は襲ってこなかった。

 代わりに、褒める言葉と併せて戌亥さんのもう片方の手が頭を撫でてくれた。

 

「ぁ……」

 

「偉いで、ちゃーんと約束通り本当のこと言えたやん。ホント、奈田くんはいい子やな!」

 

 慈しむように、出来の悪い子供が言うとおりにできたことを手放しで褒めるように、悪いはずの俺に戌亥は微笑みかけてくれた。

 

「お、怒らないのか……?」

 

「怒るわけないやん、だって奈田くんがちゃーんと約束を守ってくれたってことやろ? 怖いなんて思われるのも仕方ない、奈田くんのタメや言うても痛いことをしたのは私やし」

 

 その言葉に、張り詰めていた緊張が一気に解けた俺はその場にへたり込んでしまった。

 

「怖がらせてしもうてごめんな? 何度でも言うで、奈田くんが私との約束を守ってくれるなら大概のことなんか笑って許してあげるって」

 

「ごめん、ごめん……ごめん……」

 

 へたり込んでしまった俺のために、戌亥は膝を崩して目線を合わせてくれた。

 そしてその間も頭に乗せられた手は離れることなく、俺のことを労ってくれている。

 

 無性に申し訳ない気持ちが湧き上がり、俺はひたすらに謝った。

 

「もう謝らんでええよ、それに怖いのもちょっとずつ慣れて行けばええだけやん」

 

 戌亥はそう言うと、頭を撫でる手はそのままに携帯を取り出す。

 数度タップすると聞いたことのない曲が流れ始める。

 

「これな、私の初めてのオリジナル曲なんよ。ほら、奈田くん聞いてみ?」

 

 耳の真横に持ってこられた携帯からは戌亥の歌声、人を惹きつける魅惑の声が脳に直接送り込まれていく。

 

「結構自信のある歌なんよ、全然怖くないやろ?」

 

「あ、あぁ。怖くない」

 

 普段のミステリアスな声と違い、歌っているときの声は力強く彼女という存在を知らしめているようだった。

 

 頭を撫でてくれていた手が離れ、頬に添えられる。

 そして携帯を向けられているのとは逆の耳元に、戌亥の口が近づけられる。

 

「これからは私の配信も見てくれるやろ? 見てくれへんと私悲しいなぁ……」

 

「そ、そうだね。怖かったのも俺が勝手に思い込んでただけだし、今度からは戌亥の配信も見る……から……」

 

「ありがとうな。あぁ……奈田くんにはいつでも私を近くに感じて欲しいから嬉しいなぁ」

 

 戌亥にそう言ってもらえるのが不思議と嬉しくて、もっと彼女に喜んで欲しかった。

 

「せや! 奈田くん約束せぇへんか?」

 

「約束?」

 

 まるで名案とばかりに戌亥の声が上ずる。

 高揚しているのか頬を僅かに染め、興奮が冷め切らない様子で目の前に戌亥の顔が視界いっぱいに広がった。

 

「私の配信をいーっぱい見てくれるって約束、こら言葉だけだと忘れてしまうかもしれへんやん? でも約束すれば忘れるなんてことないやろ?」

 

 息すら当たる距離で見せられるオッドアイは見開き、宝石と見まがう眼に吸い込まれる感覚に襲われていた俺は思わず頷いていた。

 

 そうすればより一層戌亥は嬉しそうに、あらん限りに笑みを浮かべる。

 彼女の言うことを聞けば、彼女との約束を守れば、これほどまでに喜んで貰えるのか。

 

 嬉しそうに笑う戌亥は携帯を床に置くと手をずいっと差し出してくる。

 差し出された手は拳が握られ、その中で小指だけが広げられていた。

 

「じゃあ指切り!」

 

「指切り……なんだか意外だ」

 

「なんや私を馬鹿にしてるやろ? これぐらい知っとるに決まってるやん、大事な約束は指切りがええやろ?」

 

 なにがいいのだろうか?

 でも戌亥が望むならそうしよう。

 

「そうだね、指切りしようか」

 

 戌亥の小指に、自分の小指を組み合わせる。

 ケルベロスと指切りをしたって誰に言ったら信じて貰えるだろうか、アンジュやリゼさんなら信じてくれるかな?

 

「……いま、誰を想像した?」

 

「え、あ、あぁ。アンジュとリゼさんだよ」

 

「なんで?」

 

 当然のように答えようとしたときだった、組み合わせた小指が万力に握りつぶされているのかと思えるほどの激痛に襲われた。

 

「い、いぁああああ‼」

 

「なんでって聞いてるやん、早う答え?」

 

 小首を傾げる仕草からは想像もできない力が小指に加えられ続けた。

 痛みの中でどうにか超えようと口を動かす、確かに激痛だが幸いにもあの日に経験した痛みに比べれば口を動かす程度の余裕があった。

 

「け、ケルベロスと指切り、したって。だ、だれにはなし、たら……信じてもらえるかって……」

 

「へぇ……それで?」

 

「い、いぬいと仲がいい、あの二人ならっ、信じてくれるとおお思ってっ!」

 

 言い切れば小指を襲っていた激痛が止む。

 痛みから解放されたとはいえ、残った激痛の余韻からかばうように手を引こうとする。

 

「ダメや、痛いと思うけど我慢。奈田くんはええ子やからできるやろ?」

 

 激痛だったが幸いにも小指の骨が折れているなんてことはなかった。

 しかし、痛みは俺から冷静や正常な思考を根こそぎ取っていく。抵抗なんて言葉が浮かぶはずもなく、目に涙をためながら必死に頷いた。

 

「指切りげんまん、嘘吐いたらハリセンボン、のーます」

 

 歌っているときと同じ魅惑の声で指切りを歌う戌亥、組んだ小指がテンポ良く上下する度に襲ってくる痛みに必死に耐えた。

 

「指切った」

 

 指切りが終わり、手が解放されると同時に引っ込めようとしたが、俺の手を戌亥が掴んだことで阻止されてしまう。

 

「奈田くんごめんな……?」

 

 両手で包むよう手を握る戌亥さんの表情は、申し訳なさげに眉をひそめていた。

 

「痛かったな? ごめんな? 痛くするつもりじゃなかったんや、ただちょっとカッとなってしまって……」

 

 そう言うと戌亥は俺の手を顔の前まで持ち上げ、あろうことか痛めた小指を舐め始めた。

 まるで主人の手を噛んでしまった犬が、謝罪と共に噛んだ部位を必死に舐めるように、執拗なまでに舐めていく。

 

 舌とはここまで熱を持っているのか、あまりの出来事に思考は明後日の方へ走り出してしまった。

 

「い、戌亥……ゆ、ゆび……」

 

「ごめんな? 怖かったやろ? でももう怖くない、怖がる必要はないんやで?」

 

 ピチャピチャと音を立てながら、ザラザラとした舌の感触が小指全体を包み込んでいき、小指という末端部位が戌亥の舌という情報を余すことなく脳に伝達していく。

 

「も、もういいですから! な、舐めないぎぃぁあ!」

 

 恥ずかしさのあまり、必死に止めようと発した言葉は最後まで続けられることはなかった。

 

 舐められていたはずの感触が消え、代わりに鋭い痛みが小指を襲ったからだ。

 

「今、なんつった?」

 

 そこに、先ほどまでの目尻の下がった甘い表情をした戌亥はいなかった。代わりにあの時と同じ表情をした戌亥が、俺の小指を前歯で強く噛んでいた。

 

 あれほど言われたのに……。

 あれほど同じ轍は踏むまいと自信に言い聞かせていたのに……。

 

「なぁ、なんつったか聞いてんねん。もう一回言うてみろ」

 

 俺はまた、同じ失敗を繰り返してしまった。

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