にじさんじヤンデレ物語   作:にじさんじヤンデレ委員会非常勤員

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戌亥22

「返せ……奈田クンは私のや……」

 

 車の前に立ちふさがる戌亥は、到底まともな状態とは言えなかった。

 呆然と立ち尽くしてこちらを見るオッドアイは敵意に漲っていた。

 

 だらりとぶら下がった両腕が不気味に揺れ、ミステリアスで人を引き付ける声色は色を失っていた。

 

「アンジュ、奈田さん……どうしますか?」

 

 助手席に座ったリゼさんが声だけで問うてくる。

 

「奈田君、コレは奈田君の問題なんだ。私達ができるのは手を貸すことだけ、どうするかは全部奈田君が決めな」

 

 アンジュの力強い言葉が及び腰な俺の背中を押してくれる。

 

「……行くさ、アンジュ曰く俺はモテるらしいからな」

 

「それでこそ漢や! いったれ奈田君!」

 

「後で黒歴史になって悶えたら教えてください、対処法は心得てるので」

 

「リゼ? もうそろそろその話題から離れない? ほら見てよ、奈田君すっごい恥ずかしくなっちゃってるじゃん、別の意味で震えちゃってるよ」

 

「……行きます」

 

 アンジュ、その言葉は刺し傷を増やしてるだけなんだけど、二人のおかげで少しでも空気が軽くなったのは事実だ、後で二人には礼をしないとな。

 

 車から一人で降りた俺は、戌亥と車のヘッドライトの間に立つ。

 

「奈田クン……どうして逃げるんや? 私と一緒になろうや、そしたらずぅっと楽しいで?」

 

 着物を綺麗に着こなして、髪も手入れされているのに、薄笑いを浮かべて手を伸ばしてくる戌亥は、初めて会った時以上にボロボロに傷ついて見えた。

 

 他でもない、中途半端に逃げてきた俺が彼女を傷つけたんだ。

 

「戌亥、俺の話を聞いてくれ」

 

「後で聞く、今は私の手を取ってや……なぁ、外はもう暗いで? 帰ろうや」

 

「ダメだ。俺達は今、ここで話すんだ。頼むから、俺の話を」

 

「そんなん後でええ‼」

 

 俺の言葉を遮るように、戌亥が悲痛な声で啼いた。

 

「話ならいくらでも聞いたる! 一緒にご飯食べながらでも、風呂上がりでも、一緒に寝てるときでも! いつだって話せる! でもここは嫌や! 私以外の女がいるここじゃ嫌や!」

 

「……」

 

 何かに怯えるように、戌亥は自分の体を抱きしめる。

 

「奈田クン……そないな所、いないでくれへんか……私の隣にいてや……。怖いことなんてない、私が守ったるから……気持ちええことも、いっぱいしようや……」

 

「戌亥……」

 

「奈田クン……」

 

 雨に震える子犬が差し出された人の手に縋るように、一歩ずつ今にも倒れそうな足取りで戌亥が近づいてくる。

 

「私な、ンジュもィゼも好きやで。でもな、奈田クンはもっと好きなんや……」

 

 地面を擦る靴音が、たどたどしく聞こえる。

 

「奈田クンもやろ……? だって私がこんなに好きなんやで、奈田クンもそうじゃないとおかしいやん……な?」

 

 ポツリ、ポツリと音もなく頭を水が濡らし始める。

 雨が降り始めた。

 

 決して大雨ではない、でも雨音は大きくなりながら防ぐ術を持たない俺達を容赦なく濡らしていく。

 

「ジャガ、イモ……せや、家に帰ったらジャガイモ蒸かそうや……。こんな雨に濡れた体には、あっつあつのジャガイモがええんよ……」

 

 それほど離れた距離でもないのに、長い時間を掛けて目の前まで来た戌亥の手が、俺の頬に触れる。

 

「こんなに冷えて……私が温めてあげる、ケルベロスの手って……九十度ぐらい簡単に熱くなるんやで? 凄いやろ?」

 

 頬に触れる戌亥の手が、人肌を超える熱を発する。

 体は震えるほど寒いのに、頬だけは異常なほど温かかった。

 

「ほら、偉いことしたら褒めてや……。今は、濡れちゃってるからアレやけど、普段は頑張って手入れしてるんやで? サラサラの方が、奈田クンもええやろ?」

 

「戌亥……」

 

「どうしてや……? どうして頭を撫でてくれへんの? 足らないんか……? なら言ってや、して欲しいこと……全部、全部かなえてあげるから……」

 

 濡れた髪の隙間から、特徴的なオッドアイが見上げてくる。

 不安や焦燥で揺れた、弱弱しい光が雨の中で儚く輝いていた。

 

「初めてなんや、こんな気持ちになるの……どうしたらいいのか、分からへんねん」

 

「ごめん、戌亥……!」

 

 そっと抱きしめた体は人よりも圧倒的に強く、種としての上位に位置するはずなのに……なんとも脆く感じた。

 

「奈田クン撫でてくれへんの……?」

 

「撫でる、幾らでも撫でるから。そんな顔をしないでくれ……!」

 

 優しく髪を撫でる。

 いつものサラサラな髪は雨に濡れて揺れることはなかった、それでも彼女は撫でられると嬉しそうに微笑みを向けてくる。

 

「あはぁ……嬉しいなぁ。どうしてやろ、ただ手が触れてるだけなのに……凄く胸がポカポカする」

 

「ご、めん……ごめ……ん」

 

 声が震えて上手く出せない。

 寒いからじゃない。自分が情けなくて、涙が出てしまう。

 

 頬に添えられた手が離れて、代わり俺の頭に乗せられた。

 

「奈田クンないてんの? ならしかたないなぁ、私が慰めてあげる……。どうや? 撫でられるって、心がポカポカして、温かくなるやろ?」

 

 俺以上にボロボロで泣きたそうな顔をしているのに、戌亥の声は驚くほどに柔らかくて、慈しみを伴っていた。

 故に叩きつけられる、如実に自身が犯してきた愚行を……。ここまで想ってくれる相手にしてしまった蛮行。

 

「こんなにも震えてるんやから、早う帰ろうや……。あそこは雨にも濡れへんし、奈田クンの匂いでいっぱいやから落ち着くんよ、奈田クンも……一緒やったらええなぁ」

 

 だからこそ、ここで間違えてはいけない。

 これ以上、過ちを犯してはならない。

 

「戌亥……話を聞いてくれ……」

 

「……まだ、そんなこと言うんやな」

 

 戌亥の声に黒が混ざる。

 そして、彼女の視線が肩越しに見える車へと向けられた。

 

「あぁ……奈田クンらしくないと思ったら、アンジュ達の入れ知恵か……」

 

 頭を撫でている戌亥の手に力が込められたことを悟った俺は、彼女を抱きしめている腕に力を込めた。

 少し前までならともかく、今の彼女を二人に近づけさせるわけにはいかなかった。

 

「そない抱きしめてくれるなんて嬉しいんやけど、それって私のためじゃないんやろ? そんなん要らんよ」

 

「グッ⁉」

 

 呆れにも似た声と共に、強烈な力で俺は吹き飛ばされてしまう。

 水たまりを転がりながらも戌亥を見れば、車に向けて歩みを進めていた。

 

 胸部に感じる痛みに耐えながらも立ち上がるが、既に戌亥は車に触れられる位置にいた。

 

「ンジュ、ィゼ……私も二人に傷つけたくない、だから出てきてや」

 

 その言葉に車のドアが二つ開く。

 

「戌亥……」

 

「とこちゃん……」

 

 出てきた二人の表情は曇っていて、リゼさんは今にも泣きそうなほどに顔を歪めていた。

 

「二人ともお願いがあるんよ、もう二度と奈田クンに近づかんといて欲しい」

 

 戌亥の言葉はある程度予想していた、だけどそれは平然と受け入れられるのとは違う。

 

「戌亥っ⁉ なにを言って……」

 

 思わず声が出た俺に対して、アンジュとリゼさんの表情は苦いままだった。

 

「嫌だね、私と奈田君の関係を戌亥にとやかく言われる筋合いはないねーっだ!」

 

 だが、次の瞬間には挑発的な笑みと共にアンジュは堂々と言い放った。

 

「ごめん私もアンジュと同じだよ、とこちゃん」

 

 リゼさんは申し訳なさそうに、しかし強く戌亥を見据えていた。

 以外に狼狽したのは戌亥だった。

 

「なんで……」

 

「「友達だから」」

 

 ありきたりな理由でここまで啖呵を切れるものなのか、戌亥だけでなく俺ですら信じられない思いだった。

 

「とこちゃんは私達の友達だよ、でもね奈田さんも一緒にゲームしたり遊んだりする友達なんだよ」

 

「別に奈田君が戌亥の男なら手なんかださないからさ、今までみたいに仲良くやっていけばいいじゃん」

 

 アンジュの言う通り、普通であるならそれでまかり通ることだろう。

 だけど、それが許容できていれば彼女はここまで乱れることはなかったはずだ。

 

 案の定、二人の言葉は戌亥に届くことはなく、鋭い視線を二人に向けるのみだった。

 

「そんなん一緒にいたら欲しくなるかもしれないやん、私の奈田クン、私だけの奈田クンなんや……誰にも触れて欲しくない」

 

「戌亥、束縛する女は嫌われるぞ? 戌亥は超絶別嬪さんなんだからもっと堂々としてればええやん」

 

「……嫌われる? 私が……奈田クンに……?」

 

 アンジュの安心させるために放った言葉、しかし言葉の全てを戌亥は受け取ることなく、自身にとって最悪となるキーワードしか認識できていなかった。

 

 戌亥は俺からは聞こえないほど小さな声でぶつぶつと呟き続ける。

 

「ア、アンジュ! いくら何でも言い方があるよ!」

 

「いいんだよリゼ、こういうときは誰かがビシッと言わないとその人のためにならないんだから。汚れ役はなれてるよ」

 

 悲し気に笑ったアンジュだったが、次の瞬間には表情を引き締めていて、瞳には覚悟の色が窺えた。

 

「さっきから聞いてれば奈田君を物みたいに言ってさ、それって勝手すぎるでしょ。さっきだって奈田君の話をちゃんと聞いた? 聞かないで自分の意見だけ押し通すなんて虫が良すぎるよ戌亥。今の奈田君を見てみなよ」

 

 ちょ、ここで俺に矛先を向けさせるのか?

 

 さび付いたブリキ人形のように、ぎこちない動作で戌亥がこちらを窺う。

 衝撃を受けた胸を抑えるようにして立っている俺を見た彼女は、ハッとした表情を見せる。

 

「戌亥が奈田君の話を聞いていれば、突き飛ばすこともなかったはずだよ。奈田君が傷ついていい理由なんてないじゃん、なのにどうして奈田君は戌亥に突き飛ばされた場所を抑えてるの? 痛いからじゃないんか?」

 

「あ……ぁあ……」

 

 今までの仕置きや躾と言った戌亥なりの免罪符、しかしさっき行動は明らかに衝動的に行われたものだ。

 それを初めて認識した彼女は一息に絶望の色に染まる。

 

 動揺する声が、次第に絶叫へと変わった。

 

「あぁ……ああ! アァァアアアアァアア‼」

 

 涙を流して戌亥が駆け寄ってくる。

 それほど離れていない距離なのに、バランスを崩しながら不格好に駆ける彼女の姿は、目を背けたくなるほどに悲痛だった。

 

 ごめん。俺がこんなにも情けないばかりに……。戌亥をここまで傷つけてしまっていたのか。

 

「奈田、くん! ごめん! ごめんな! 私、ひ、酷いこと……! け、怪我! 怪我してない⁉」

 

 戌亥は必死に駆け寄り、枯れ掛けている花を触るように震える手で顔や手脚を確認してくる。

 

 いつもはなにを考えているのかが分からない、ミステリアスな雰囲気が魅力的な彼女。

 だけど今は手に取るように、彼女の嘆きが聞こえてくる。

 

「大丈夫、怪我はしてないから……」

 

「で、でも私、強く突き放してもうたんや……み、見えないところとか……」

 

 どれだけ安心させようと言葉を重ねても、それは戌亥を余計に不安がらせるだけだった。

 ふと、そんな俺達に近づいてくるリゼさんとアンジュ。

 

「とこちゃん……奈田さんとしっかり話してさ、今まで通り皆で仲良く遊ぼうよ。ね?」

 

「戌亥、もう少し奈田君を楽にさせてげなよ。それで、また四人で遊ぼうや」

 

 リゼさんとアンジュがそれぞれの手を差し出す、手間のかかる友人に向けられた穏やかな笑みを携えて。

 戌亥も二人に向きなり、涙を流しながら申し訳なさを伴った笑みを浮かべた。

 

 二人からすれば俺も戌亥も友人であり、変わらずこの関係を続けていきたい。そう言ってもらえるのは彼女達の性格、そして戌亥が二人にそう思ってもらえる関係を築いていたからだ。

 

 種の壁すら彼女達の前ではなんら意味をなさなかった。

 

「アンジュ、リゼ……ありがとう」

 

 

 ……今までは。

 

 

「でも、やっぱり無理なんや」

 

 一秒が何十倍にも引き延ばされたような世界で、俺は動いていた。

 今まで失敗し続けて、彼女たちを無自覚に傷つけて来た。だから今度は間違えないために、傷つくのなら俺だけで十分だから。

 

 それくらいにしか、ここまで心配してくれた友達に返せる恩が見つからなかった。

 それでしか、こんな俺を好きだと言ってくれた最愛の人を救える気がしなかった。

 

 夢のようなゆっくりとした時間の流れの中で、自身の体がここまで動けるとは思えなかった。

 もはや震えていた足は力強く地面を踏みしめ、身を守るために縮こまっていた腕は守るために広げることができた。

 

 店でアンジュ達に助けられたとき、俺は戌亥に背を向けて逃げた。

 だから今回は助けるために背を向ける、もう情けない姿は見せたくないから。

 

 長く感じた短い時間が――加速する。

 

「え……」

 

「あ……」

 

 元の速さを取り戻した瞬間、俺の両腕はリゼさんとアンジュを力の限り突き飛ばしていた。

 呆然とした二人の声が聞こえた。

 

「な……」

 

 後ろから聞こえた戌亥の声も、目の前の二人と同じぐらいに間抜けで、三人の仲の良さがここで見れるとは思わなかった。

 

 背中の肉を抉られた激痛が襲い来る瞬間まで、俺はこの三人は笑っていられただろうか。

 

「な、奈田さん!」

 

「奈田君!」

 

 痛いはずなのに、叫び声すら出せなかった。

 だけど倒れた視界に映る水たまりに混ざっていく赤い血の色と、大声で叫ぶ二人の声を聴けば重症なのだと十分に理解できる。

 

「な、奈田……クン…………。違う、違うんや……私。私……」

 

 戌亥の声が聞こえる。

 痛いし、起き上がるのも面倒だから、首だけでもどうにか彼女の方に向ける。

 

 そこには地面にへたり込んで、何かのうわ言を紡ぎ続ける戌亥の姿があった。

 

「戌亥……」

 

 頑張った割には小さい声だった、虫の息というのはこのことなのかもしれない。

 でも、ケルベロスご自慢の耳はしっかりと聞き届けてくれているようで、戌亥は小さく体を震わせた。

 

「……奈田……クン」

 

 焦点すら定まっていなかった彼女の視線が、俺に向けられる。

 

「アンジュ! 傷薬! ポーション! 何でもいいから持ってきて!」

 

「わ、分かってるって! 車に常備させてるのがあるはずだから! 直ぐに持ってくる!」

 

 焦った二人の声が聞こえて、水たまりを弾く音が遠ざかっていく。

 そんなことはどうでもいい、今は言うべきことがあるだろ。

 

「俺……戌亥のこと、好きだ……やっと気づけた……ごめんな」

 

「い、や……どないして、いま……今言うんや……わ、たし、こんなこと……」

 

 戌亥は泣いていた、また傷つけてしまったのだろう。

 でももう大丈夫だ、これから彼女が傷つくなんてことはない。

 

「店で本を読んでいた戌亥を、見てるのが好きだった……。ジャガイモで、笑う戌亥が……好きだった」

 

 好きという言葉にどこか気恥ずかしさを感じていた。

 不思議だ、今は溢れるようにその言葉を口にしたいと思える。

 

「痛いのは、いやだった……けど。それぐらい、想ってくれて、嬉しかった……。ちょっとしたことで怒られるときは、流石に困ったけどな……」

 

「アンジュ! まだなの⁉ 早く持ってきて!」

 

「髪、いつも手入れしていて、不思議だった……でも、俺のためだったんだな……ありがとう」

 

 もっと早く、自分の気持ちに向き合えば、今の状況も少しはマシになっていたのかもな。

 これだから経験ゼロの童貞は、拗らせてばっかでかっこ悪い。

 

「俺な、戌亥と、リゼさんとアンジュが……楽しそうに、ゲームしてる。見るのが好きだった。三人が、笑ってるのが……」

 

「ごめ、ん……奈田、クン……ごめん…………!」

 

「アンジュ、はやく……。奈田さん……っ!」

 

 頭上で、また一つ、水たまりの跳ねる音が遠ざかって行った。

 それが誰のものなのか、考えるのが面倒だった。

 

「私が、奈田クンに合わなければよかったんや……そうしたら、奈田くんがこんなことになるなんて……、どうして、どうしていつも……やっとなんや、やっと見つけたのに……嫌や……」

 

「戌亥、こっちに来てくれ」

 

「――ッ⁉」

 

 そう言えば戌亥は大きく体を震わせ、へたり込んだ状態から、着物が地面に擦れるのも気にせずに四つん這いで近づいてくる。

 

 おかしい、視界には彼女が映っていたはずなのに、近づいてきてくれているはずなのに、顔が見えない。

 でも、彼女細い腕が俺を抱き上げたのは分かった。

 

「見えない……もっと近くで、顔が、見たい……」

 

「なだ、くん……。こ、これでええか? 見える……?」

 

 どんな体制でいるのか分からないが、それでも彼女の甘い匂いを感じて、近くにいるのだとわかった。

 面倒だけど、手で彼女の顔を確かめる。

 

 自分から触るのなんて、初めてだ。

 思えば俺から戌亥になにかをしてあげた記憶がない……最後まで情けないじゃないか。

 

「柔らかい……」

 

「い、幾らでも触ってええから! こんなんでええなら! ずっと! 何万回でも……!」

 

 死ぬほど恥ずかしくても死ねば全部チャラだ。だから最後ぐらい、かっこつけてもいいよな?

 手の感覚だけを頼りに、柔らかい感触の中でもより一層柔らかい場所を探す。

 

 ハハ……普段だったら絶対にしない。キモイ行動だ。

 でも、戌亥は何も言わずに受け入れてくれている。

 

 だるい体を無理矢理動かして、見つけた彼女の唇に自分のを重ねる。

 

「――ッ⁉」

 

 瞬間、戌亥の体に力が入ったのが分かった。

 たった数秒で離してしまった、店で彼女にされたことに比べれば軽すぎるくらいで、逆に足りなく感じてしまう。

 

 だけど、今はこれぐらいが丁度良い気がする。

 

「俺から、してなかったから……お返しだ」

 

「な、だ……くん……」

 

 ふと、アンジュと話していたことを思い出す。

 まだ、言ってやりたいことが残っていた。

 

「好きだ、一緒になろう……。こっちでも……あっちでも……どんな、姿でも……一緒に…………」

 

「――――」

 

 言い切れば途端に眠気と倦怠感に襲われ、数秒ですら意識を保っていられなかった。

 

 薄れていく意識の中で、戌亥がどんな顔で、何を言っていたのか。俺は知ることができなかった。

 

「とこちゃん! 奈田さんを早く!」

 

「おらあああ! 錬金術師の意地見せたらあああ!」

 

 小さく呟いた戌亥の言葉は、百メートル先でも聞き取れそうなほどの大声に掻き消されてしまったから。

 でも、それを遮るように口に何かを当てられた気がした。

 

 それは少し苦くて、温かくて、彼女の匂いがした。

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