にじさんじヤンデレ物語 作:にじさんじヤンデレ委員会非常勤員
アンジュさんがメンヘラ製造機なんて呼ばれるのは、この頼りがいというか甲斐性というか、安心感と言いますか……とりあえず凄ぇです。(ん? これだとアンジュさん編のときの救い手がいない……あれ? バッドエンドまっしぐらじゃね?)
ん~……ま、いっか。
教室に戻るとリゼ様が心配した様子で向かってくる。
二人の距離が縮められるに反比例して、加速する心臓の鼓動がうるさくも逃げろと主張するのだ。
「ナナシダ大丈夫なの?」
「はい……リゼ様。少し立ち眩みをした程度ですが、誠に申し訳ありません」
「ナナシダ、ここ学校。け い ご」
「あ、あぁ。ごめん」
どうにか平静を取り繕うとするが、まるで蟻地獄のように身じろぎ一つで深みにはまっていくようだ。
「さっき保健室にいったけどアンジュがいてね。ナナシダは先に教室に戻ったって言ってたんだけど、何処に行ってたの?」
「まだ全快じゃないみたいでな、トイレで少し休んでたんだ」
「……今日はもう帰って休んだ方がいいよ、そんなに体調が悪いのに無理しちゃだめだよ」
「大丈夫だって」
原因は分からないが、結局のところ俺の役目は変わらずリゼ様を護衛することだ。
部隊を呼べば解決するのだろうが、それは最終手段だ。俺が本格的に使い物にならないか、個人では解決できない緊急時でしか取れない。
それに体調が悪いわけではない。なんと不敬か、リゼ様と一定の距離を保っていられれば任務に支障はないはずだ。
「本当にダメそうだったら言うから、授業も始まるし席に着こう」
「う、うん……。でもちゃんと言ってよね、そうじゃなかったら私の独断でナナシダを病院送りにするから!」
病院送りの前に保健室に連れて行って欲しいです。
これほどまでにご配慮をさせてしまうなんて護衛としては最低点だ、昨日までの俺ではあり得ない状況だ。明日で全てが解決すればいいのがだ……。
不安を抱えてはいたが、授業中はむしろ意識が逸れてたおかげで精神状態は何とか保つことができた。
といっても、少し背中を押されれそのまま熱湯にダイブしてしまう、某お約束状態であることは変わりないのだが。
「では、HRを終わりにします。最近は暗くのも早いです、できるだけ寄り道せずに真っすぐ家に帰るように」
クラス担当であるアンジュのHRが終わり、部活に行く生徒がパンパンに膨れたエナメルバッグを担いで足早に教室を出て行く。次いで比較的時間に余裕を持つ帰宅部が怠慢な動作で、夕方と呼ぶに相応しい暖色光に消えていく。
リゼ様がご学友と親交を深めている間、俺は現実逃避をするがごとく教室の出入り口に視線を送り続けた。
「ナナシダ、帰ろうー」
「佐藤達はもういいのか?」
「うん、皆も部活の時間だから」
幾分かマシになったリゼ様への抵抗感を見ないようにして、俺もおそらく他の生徒同様ひどく鬱屈とした心持で教室を後にする。
途中、心配げにこちらを見つめるアンジュと目が合う。彼女には俺が弱り切った小動物にでも見ているのか、交差した意識には確かな憂いが込められていた。
「ナナシダ、本当に体調は大丈夫なの?」
家までの道中、何度目になるか数えておけばよかったと思える今日何度目かのお言葉が、左側から鼓膜に突き刺さる。
リゼ様がここまで心配なさるのは単に友人を気遣うのとは意味合いが違う。自慢ではないが、リゼ様のために命を捧げると誓った5歳から、秘伝の薬物漬け状態だった俺は類まれなる頑丈な肉体を手に入れた。
アトピーなどの原因が身体の防衛機能が、常人より過剰反応したことによるものだとも言われている。俺の場合は逆に体内での浄化能力が異常なまでに高く、すべての菌を受け入れたとしても常に健康な体を保つようになっている。
毒物に対する耐性を得たことによる副次的な効果だが、そのおかげで俺の体調は常に最良をキープしているのだ。
「ナナシダがこんなにも体調を崩すなんておかしい、だから少しでも変なところがあったら隠さないで」
そんな超人がある日突然倒れたかと思えば、それ以降ずっと体調が悪いと訴えるのだ。誰が見ても単なる体調不良には思わないだろう。
「心配をかけたことは申し訳ない。だけどもう大丈夫だから、安心してくれ」
だからこそ、俺のこんな空っぽの言葉ではリゼ様を安心させることはできない。
今だって左手は普段以上に汗を掻いている。
「早く家に戻ろう、今日はもう休んだ方がいいから。これ王女命令ね」
そう言ってリゼ様が俺の左手を取る。少しでも俺の助けになろうとしてくれているのだ、主から施されるこの上ない程の光栄。
「……え」
天子のように崇めたお方の細く柔らかな手を、俺は弾いていた。
「も、申し訳ございません」
不忠、不敬、傲慢無知な振舞いに自尊心が尽く打ち砕かれていく音が聞こえた。
状況が理解できていないリゼ様の呆けたお声に、俺は謝罪以上の言葉が出てこなかった。
「菌が移るかもしれません」
どうにか絞り出したのは、なんてことはないありふれた言い訳だ。子供でも騙されない幼稚な建前を一方的に押し付け、俺は視線を落として歩き始める。
どんな顔を向けたらいいのか分からなくなっていた。
「ね、ねえナナシダ……? まってよ……」
背後から聞こえてくる困惑したリゼ様の声に、俺は気付かないフリをした。
☆
マンションに戻るまでの道中、俺達の間に会話は一切なく風で揺れる草木の音と、烏の無情な鳴き声だけがBGMの役割を果たしていた。
「ナナシダ、こっちに来て」
歩く道すがらはなにもなかったが、家に戻った直後、不安げな瞳を携えたリゼ様にリビングまで連れていかれる。
対面に座るようにしたリゼ様は、気まずげにテーブルの上で組んだ手を弄んでいた。
「私、何かしちゃった?」
ぽつりと呟かれた質問は、今の俺が答えられるほどの情報を持っていない物だった。
気絶する前の俺なら答えられたのかもしれない、明日アンジュから話を聞けばある程度は納得させられたのかもしれない。
「分かりません……」
答えたいのに、言葉が浮かんでこない。
リゼ様ではなく、俺に問題があるのかもしれないのだ。迂闊な言葉は余計な混乱の種しかならず、状況を悪くしてしまう未来だけが鮮明に見えた。
「ただ、誠に申し訳ありません。今の私はリゼ様に近づくと正常を保っていられないのです……。体が震え、まともな思考ができなくなってしまうのです」
「なに、よ……それ……」
隠し通すなんて不可能だったんだ。
気が付くと口が独りでに動いていた。まるで協会の告解室で己の罪を告白する罪人のように、自分でも説明のしようがない懺悔を吐露する。
「原因は分かりません。気を失って以降、大変失礼ながらリゼ様に関わる全てに体が反応してしまうのです」
「……それじゃぁ、私のことが嫌いになったってわけじゃないんだよね?」
「まさしく。まるで頭と精神が分かれてしまってる、と言ったらいいのでしょうか……」
「たとえば、私が今からナナシダを触ったとしたら……どうなるの?」
悪戯っ子のような笑みを携えたリゼ様が、反応を待つことなく顔に触れてくる。
瞬間、俺の体が内側から湧き出るような恐怖に侵食され、長年油を挿していない数十年来の自動車のように歪な軋みを奏でた。
「ふふっ、本当だ。体が固まっちゃったね……今どんな気分?」
「お……恐ろしい、です。体が、動く気がしません……」
未体験だが、これを金縛りというならこの恐ろしさは納得だ。
「あはは……。面白い。じゃあこれとかどうなの?」
そんな滑稽な俺の姿をいたく気にいられたのか、リゼ様は両手で俺の体を頭から撫でまわし始める。
「お止めくだ、さい……」
これが冗談で済むなら笑い話にもなりそうだが、今の俺にはそんな余裕はない。
リゼ様の手が俺の二の腕に触れた時、条件反射のように俺の腕はリゼ様の手を弾いた。
「いたい……」
皮膚と皮膚が衝突した乾いた音が響く。
突発的だったとはいえ軽い力で跳ね除けられた手を、リゼ様はこれ見よがしに庇って見せる。
「ねぇ、痛いよ。ナナシダ……凄く痛いの……」
「申し訳ございません……」
「ほら、見て? 手が赤くなっちゃったの」
問答無用で突き出された細く艶やかな手、見れば確かに赤みを帯びていた。
「痛いなぁ……凄く、ジンジンしてる……」
はたと気付く。目の前にいるリゼ様が全くの別人に見えていることに。
異質。俺の知るリゼ様であればそのようなお顔を見せない。揶揄ったり馬鹿にしたりと、子供のような愛くるしさからくる無垢を見ることはある。だが、
「ナナシダが私を初めて傷つけたんだよ……別に怒っているわけじゃないの、本当だよ? 今ね、私……凄く嬉しいの」
人の顔とはここまで妖気を放つだろうか、多様の邪気を混ぜ込んだ異質な光を放てるのだろうか。
「ナナシダは私のこと嫌い?」
「嫌いなはずありません。私はリゼ様のためならば幾万の咎を歓喜と共に受け入れましょうぞ」
「ん~それじゃあ足りないなぁ」
再びリゼ様の手が伸びる。
地獄に引きずり込もうとする苗木の蔓が、豊潤な血肉を基ているような禍々しい触手が迫る。
「ひぃっ⁉」
首筋に手が添えられた瞬間、情けない悲鳴と再び乾いた音が響く。
「や、やめ……て……」
足の感覚がなかった。
いつの間にか俺は地べたを見っともなく這いずっていた。これなら軟体生物の移動の方がよほどスマートに映るだろう。
それでも俺は必死に体を動かしていた。少しでもこの恐れから逃げるために。
「ナナシダ……? どこにいくの? 私はここよ、ここに来て……」
あれほどいつまでも聞いていたいと思えた福音が、全てを腐らせる呪詛となって体を蝕む。
「あー、子供の頃よくやったよね……鬼ごっこ」
「ぁぁ……! に、にげ……!」
「覚えてるかな? みんなで鬼ごっこをしてるとき、ナナシダっていつもいいところで逃げてたよね。私すごく頑張ったの。頑張って、頑張って、ナナシダを捕まえようとしたの」
一歩一歩、ひどくゆったりとした足音が聞こえる。
小学生の歩幅よりも短いそれは、この短い距離ですら欠伸の出る時間を要するだろう。
「でね、最後にナナシダを捕まえるといっぱい褒めてくれたよね。おかしいよね、今ならわかるよ。ナナシダはわざと捕まってくれてたんだって」
だが、そんな馬鹿にするような怠慢な動きを見せるリゼ様以上に、芋虫の如く這いずる俺は遅かった。
感覚がなくなったのは脚だけじゃなかった、床に突き立てている腕ですら、神経を切り離したように床の感触がないのだ。
「鬼ごっこなら、鬼は私だよね? がんばって逃げてね……捕まえたらご褒美もらっちゃうから」
「はぁ……はぁ……!」
数キロ程度なら全力で走っても呼吸を乱さない自信があった。なのに1メートルすら移動していないのにも関わらず、かつてない程に呼吸が乱れる。
「ほぉら、早く逃げないと捕まえちゃうよ? いいの? 早く走らないと……捕まっちゃうよ?」
そんなこと言われなくても分かっている。だから必死に手足に命令を送っている、なのにまったく言うことを聞かない。自分の体が、自分の物ではないようだった。
「あと何歩で捕まっちゃうか数えてあげるよ。いーち……にーい……さーん」
「リ、リゼ様……! おおおおおお戯れがす」
「黙れ!」
割れんばかりの絶叫。
「今は鬼ごっこ中なんだよ! なら逃げないと! 早く逃げてよ! 私が捕まえるんだから! 早く!」
状況も何も分からず。体は言うことを聞かない。後ろから近づく存在が敬愛するお方だとは思いたくなかった。
「ぅ……ぅっぐ……」
手足だけでは飽き足らずとうとう視界が霞み始める。
喉だってまともに震わせることすらできず、断続的な意味を成さない声を垂れ流すだけになってしまった。
「あぁ~あ。ナナシダ泣いちゃったの? 可哀そうねぇ……そうだ、私が慰めてあげる!」
音もなく進められていた足音が途端に野蛮な足音へと移り変わる。
今まで言うことを聞かなかった体が、ここにきてようやく生物としての役割を果たそうとした。
生物としての本能が、恐怖を少しでも見ないよううつ伏せへと体勢を変える。
子供が怖い話を聞いた後、ベッドでできる限り怖いモノが視界に映らせないため、柔らかなベッドに顔を押し付けるように。冷たく硬い床に顔を押し付けた。
「ほら、ナナシダ。私が助けてあげるからね! ほら、私に顔を見せて!」
両の肩が強引に掴まれる。
耳元で残響する声に、俺は一層取りつかれたように体を強張らせた。
「ねぇぇええ! なんで顔を見せてくれないの⁉ 泣いているなら私が慰めてあげるって言ってるんだよ! 私が! 私だけがななしだを助けてあげらるの!」
あの細いお体で驚くほどに強く引っ張られる。
だが、生物的生存の瀬戸際と判断した俺の体は、本来持っている力を十全に発揮して抵抗して見せる。
「私の言うことを聞くんでしょ! なら顔を見せて! 何もしないから! 慰めてあげるだけだから! ナナシダ! ナナシダ! どうして抵抗するのよぉ!」
「ごめん、なさい……! ごめんなさい……! ごめんなさい……!」
銃弾を軽々弾く体を持ち、車程度なら片手で悠々と持ち上げる腕力を持っているのに。
今の俺にできるのは幼子のように身を丸め、覚えたての謝罪を繰り返すだけだった。
「お許しくださいお許しくださいお許しくださいお許しくださいお許しくださいお許しくださいお許しください……!」
「……もういい」
これだけ無様な姿を見せた功か、あれほど叫び続けていた声がテレビのチャンネルを切り替えたように、180度に落ち着いた声色になる。
背中に押し付けられていた体が離れていく。
それでも俺はひたすらに謝り続けた。意味もなく、目的もなく、ただこの恐怖から逃げたい一心で……。
「ナナシダ、まだそうしているつもりなの?」
リゼ様の声は一分と待たずに聞こえた。
また、またあの恐怖が襲ってくるのか。そう思うだけで上下の平衡感覚すらない暗闇の世界に落とされたようだった。
「じゃあいいよ、勝手に慰めてあげるから」
どこか冷めた声色に続いて、何かが破かれる……いや、切り裂かれる音がした。
そして背中に感じた冷たい感触。リゼ様は、ナイフを持って俺の服を切り裂いていた。
瞬く間に切り裂かれた服は役目を果たせず、俺の背中がリゼ様の前に晒される。
「ふふっ、ナナシダの背中ってすごくあったかい」
ナイフほどではないが、それでも冷たい感触が背中を這う。
リゼ様の手が、それぞれ別の生き物のように這いまわり、そのたびに得体のしれない恐怖がこみ上げてきた。
「はぁ……あぁ……いつもは前ばっかりだったけど、背中もいいかも……」
聞こえて来た声に耳を傾けてはいけない。全て聞き流して、時間が過行くのを待つしかないのだと理性が告げていた。
だが、それでも耳を塞げない状態では、否が応でもリゼ様の声を一言一句正確に拾い上げてしまう。
「大丈夫、安心して。ナナシダも絶対に気持ちよくなるから」
そう言ってリゼ様が俺の背中に乗ると、背中を這いまわっていた手が離れていく。
それから暫く、リゼ様の微かな息遣いだけが聞こえ続けた。
「ほら、これでどう?」
背中に再び何かが触れる。
全体重を乗せたかのような感触と、忘れもしない手の感触が背中に乗る物体を避けるように再び這いまわり始めた。
「あは、あっはっはっはっは! ねえ、分かるかなっ⁉ いま私達触れ合ってるんだよ!」
背中に感じる感触は全体的に柔らかく、二つのコリコリとした小さな物体が強く押し付けられる。
そして、這いまわっている両手が左右から挟み込むように、わき腹から胸部に入り込んでくる。
「ほぉら。このままだと私の手がナナシダに潰されちゃうかもしれないよ? ね、すこーしだけ力を抜いてくれないと、私の手がどうなっちゃうんだろうねぇ……?」
わかりきっていることだ。
そう言われてしまえば、俺は床に強く押し付けていた上半身の力を緩め、リゼ様の手が傷つかないよう少しばかり隙間を作る。
用意された道を我が物顔で二つの手がするりと入り込んでくる。
「ナナシダ、ありがとう……。でも……」
入り込んできた手が生き物のように胸元を這う。
「これって、私を受け入れてくれてるってことだよね……?」
「ち、ちがっ……」
「あっはっはっはっは! かわいいぃねぇ! あんなに強いのに……! 今のななしだ女の子みたぁい!」
「やべでくだ、ざい……」
抵抗するでもない、咎めるでもない。口はひたすらに許しを請う。
あれほどの辛い薬物で手に入れた体も、積み上げた技術も何もかもが無価値だった。
「んんっ! あハッ! どぉして謝るの? ななしだは悪い子なのかな~?」
「ずびばぜん……! ずばび、ぜん……! も、もぅ……がんべんじて……くだざい……!」
今までの人生とはなんだったんだ、あの幼き頃。まともに意思の疎通すらできない赤子だったリゼ様を見たあの日から、邪道も正道も選ばずにただひたすらに突き進んできた。
この御方のためなら命を差し出すことすら誉れであり、喜ぶべき啓示なのだと断言できた。
「謝ってばかりじゃつまんないよ? 許して欲しい? ねえ、何が悪くて、何を許して欲しいのかも分かんないのにねえ! ななしだだって嬉しいんでしょ? だからこうして私を受け入れてくれてるんだよねえ⁉」
前世から見つからず、今世で初めて見つけた生きる意義。それすらもあやふやになってしまいそうだった。
このままでは、俺は壊れてしまう。何も成せず。前世と変わることなくただ人口の数を増減させるだけの人生。
「そんなの……あんまりじゃないか……。なんのために生まれて、俺……おれ……」
「私が教えてあげる、ナナシダがなんのために生まれたのか。これからナナシダがどう生きていくのか……私だけが教えてアゲラルの……」
「リ、リゼ様……」
ふと、あれほど恐ろしく感じていたリゼ様の声がするりと心の隙間に滑り込んでくる。
暗闇の中に差し込む全てを包み込むような優しい光だ。
「ナナシダに上げる……。生きる意味も、生きる目的も、生きる喜びも……妾の言葉が、信じられない?」
あぁ、俺は何を恐れていたのだ。
神の寵愛を受けるこの御方を前に……不敬にも恐怖してしまった……。
「なんてことを……私は……おれは……」
「いいの、誰にでも過ちはあるのだから。私が全て許してあげる。汚れたのなら私が綺麗にしてあげる。ほら、私の顔を見て?」
天野せせらぎに聞こえる声に導かれ振り返る。
そこには天子がいた。等しく照らす慈愛の微笑みはどこまでも美しく、さりとて散りゆく花のように可憐で刹那の愛おしさ。
あぁ、俺は間違っていたのだ。
人の身とは違う天の具象に人の理を当てはめようとしていたのだ。だから矮小な枠に収まるはずのない大いなる存在を未知と決めつけ、己が小さき心を守ろうと躍起になっていたに過ぎないのだ。
「私が怖いかしら?」
「い……え……美しく、存じます……」
「私の言葉が信じられない?」
「そのようなこと、あろうはずがございません。貴方様が白とおっしゃるのであれば、たとえ黒でも天使の翼の如き純白となりましょう……」
リゼ様のお言葉は…………絶対なのだ。
「体を仰向けにして、その体制じゃ辛いでしょ?」
「はい」
リゼ様の言葉に従い、体を仰向けにする。
満足げにリゼ様は頷くと、俺の汚れた体の腹部に腰を落ち着ける。
「怖いことなんてないの、気持ちよくて、楽しいことがあるだけ……」
するりと伸びたリゼ様の手が胸元を触れる。
最初に感じた身の毛もよだつ感覚はなかった、あるのは湧き上がるほどの歓喜。
「抵抗しちゃダメ、拒絶しちゃダメ、考えちゃダメ」
リゼ様の手が上部へとせり上がっていく。
細い指先が喉仏を通過して、顎を撫でる。
「私を受け入れて、乾くことのない渇望で私を求めて、全てに答えてあげる」
信徒が神のお言葉に浸漬するように、リゼ様のお言葉がただの空気振動を超えて胸の奥深くへと沈み込んでいく。
その感覚の心地よさは全ての問題が些末なものに思えるほどだ。ひたすらに、怠惰に、堕落していく感覚は抗いようもない甘美なる物だった。
「ん……」
唇に触れる柔かな感触。
リゼ様のお顔が目の前にある。
俺はリゼ様からキスをいただいた。
「どう……気持ちいいでしょ?」
その質問を否定するなんてできなかった。
少しばかり触れた程度なのに体の芯が熱される感覚、発散の仕方が分からない劣情を必死に押さえ込もうとした。
「ダメだよ。さっき言ったでしょ、抵抗しちゃダメ、考えちゃダメ。私を受け入れてって」
「はい……」
抵抗せず、考えず、ひたすらに受け入れる。
ただ意識するだけでそれは成された。
体がフワフワと浮き上がるような幸福感が全身を包んだ。
あぁ、やはりリゼ様のお言葉は何よりも正しい。俺はただそれを求め、受け入れるだけでよいのだ。
「ね、ナナシダ。今度はそっちから求めて……」
「御心のままに」
窓から差し込む夜光を反射する唇に、自身のそれを重ねる。
ただ体の部位が触れているだけだというのに、止めどなく溢れる名状しがたき衝動が体の内側で暴虐の限りを尽くす。
「んはぁ……ナナシダ。抵抗しちゃダメ、こんなにも窮屈ならさらけ出しちゃえばいいんだよ……私を求めて、私ならナナシダの全てを受け入れてあげるから……」
リゼ様の手が、俺の醜い感情を象った存在に触れる。
この身を焦がすほどの原始的な生物的本能を俺は抑えることができなかった。いや、抑えることを止めた。
地平まで続く砂漠に水を垂らしても潤うことがないように、俺はただ求めた。
衝動に任せて鍛え続けた体の全てを無我夢中に使った。飽くなき渇望はより泥沼の快楽と救いを欲した。
いつまでも、いつまでも……。その全てにリゼ様は答え、与えてくれたのだ。
気がつくと部屋には朝日が差し込んでいた。
「はぁ……はぁ……」
「あ、あぁ……リ、リゼ様……!」
不揃いな呼吸を繰り返すリゼ様を前に、少しばかり戻った理性が全ての罪を記憶して叩きつけてくる。
あぁ、俺は本当にやってしまったのだと。
ナナシダという存在が、リゼ様を汚し、壊してしまったのだ。
流しきったと思っていた瞳から、涙が溢れる。
情けなさと、申し訳なさと、底知れぬ後悔が黒く濁った透明な液体として目から流れ出ていた。
「ナナシダ、これでいいんだよ……私、今凄く嬉しいの」
弱々しい声と共にリゼ様の手が涙を拭き取る。しかし、拭き取ったそばから同じ道を涙が流れていく。
「もしもナナシダが死んじゃったら、私も死ぬから。同じ方法で、同じ場所に行く。ナナシダが生きてくれるなら、私は生きるよ。今まで通りの関係は難しいけど、これからは新しい関係に成ればいいだけなんだから」
「ですが……」
「ふふっ、ナナシダって強いのに子供みたい。可愛い」
そう言って、リゼ様は触れる程度のキスをして眠りにつかれた。
裸、それも汚れたままではお体に障ってしまう。俺は自らが汚し尽くしたソレを濡らしたタオルで拭き取っていく。
自らの過ちを拭うように、これ以上傷つけてしまわないように。
傷つける方法しか学ばなかったこの手を使って、不器用でもできる限り慈しみを持って拭い続けた……。