ある日の平日の朝の事。
志歩は制服姿でシブヤにある公園でベンチに座ってソワソワしながら、手鏡を取り出して前髪を何度も必要以上にチェックしていた。
「だ、大丈夫かな? 変じゃないかな……? 寝ぐせとかついてないよね……? 司先輩にヘンに思われないよね……? よし、大丈夫。こんどこそ……絶対、大丈夫」
そう言って、もうここについてから15分以上も何度も繰り返した『大丈夫』の言葉を呟く志歩。
彼女は今、とっても緊張していた。正直言ってしまえば他バンドのヘルプで入るライブの直前よりもよっぽど緊張していた。
彼女がこんなにも緊張している理由を解説するには、先週の金曜日の放課後にまで時計の針を巻き戻す必要があった。
その日、志歩は司と偶然出会っていつも通り世間話をする中で、意を決し“とある頼み”を司に提案したのだ。
『なに? 良ければこれから朝、都合が良い日は一緒に学校に登校しないかだと?』
『~~っ、は、はいそうですっ……! あ……あのっ、わ、私、せ、折角司先輩と一緒の学校なんですし、もう少し……その……何と言いますか……いっ、一緒にお話できる時間を増やしたいって、常日頃からそう思ってまして……! ですから、そ、そのっ……ど、どうですか……? あっ、朝が忙しいというなら、勿論無理には言いませんけど……』
そんな些細な事のように思える提案が、志歩という少女にとってはどれぐらい一世一代の勇気を振り絞った提案だったのかという事は、もはや文字にして記すのも無粋だろう。
つまり、それほど恥ずかしい思いをねじ伏せられるぐらいに志歩は、司との接点をより多く持ちたかった。
それは、例え同じ学校に通っていても、学年が違えば案外それほど多く司と接する機会に恵まれるという事がないという事を、最近悟りつつあったからかもしれない。
そんな、まるで清水寺から飛び降りる気持ちで口にした司へのお願いの返事を、志歩は両目をギュッと瞑りながら待つ。
その返事は勿論——。
『ああ! それぐらい勿論構わんぞ! ふっ……それにしても、それ程までにオレと共に居る時間が欲しいとは……志歩、相変わらず可愛げのある後輩だなお前はぁ……! オレは、猛烈に嬉しいぞっ……!』
『……っ、ま、まぁ……そ、そうですよ。先輩と一緒に居たくてこの高校に来たんですから、それぐらい……当然じゃないですか』
そんな、ある意味で予想通りの承諾の返事に、志歩は恥ずかしい思いもあったが、何とか素直にそう言って頷いた。
この時、照れ隠しの憎まれ口が司に対して飛び出さないようになったのは進歩だと志歩は自身を褒めたくもなった。
それにしても、最早ここまで言っても、ただの後輩が先輩を慕うが故の行為だと思われてしまっている時点で、もう自分は司にストレートな告白以外なら何をやっても気持ちはバレないのでは? と、志歩は思った。
そして今日、週明けの月曜日の朝。
志歩はドキドキと高鳴る胸をおさえながら、約束の時間の15分も前から公園でこうして、司がやってくるのを待っているのだった。
「よ、よし……約束の時間まで、あと一分……もうそろそろ先輩来るかな? い、いや、さすがに時間ピッタリは無茶だろうし、少しぐらい遅れるかな? うぅ、時間が長く感じる……いや、ってかそもそも15分も前から来る私の方がおかしいんだって……浮かれすぎでしょ私」
そう呟き、志歩は自身の浮かれ具合にため息を吐く。
だがしかし、同時に志歩は内心で浮かれてしまうのも無理はないと自己弁護する。
何故なら、大好きな先輩と朝に待ち合わせをして一緒に登校するという、まるで少女漫画でよく見るような『青春』っぽいイベントを前に、浮かれずに居ろというのが無茶な相談。
だからこそ、志歩はふわふわと浮き足立つ気分で、1秒1秒を待ち遠しく待っていた。
——さて、今日はなんの話をしようかな? 司先輩が役者の演技が良いからってオススメしてくれたドラマは昨日観た。共通の話題で盛り上がれるはず……楽しみ。
と、そんな事を考えながら、志歩が司を待ち続けていた時だった。
「おはよう志歩! 待たせてしまったな、すまない!」
ウキウキ気分が最高潮に高まった志歩の耳に、好き好き大好き好感度MAX上限突破、そして今も尚好感度上昇中の相手である天馬司の声が届く。
志歩はその瞬間、まるで瞬時に犬耳と尻尾が生えたかのようにピンと背筋を伸ばして反応した。
そう、最早この瞬間、いつもクールで好戦的な一匹狼の日野森志歩はもういない。
天馬司に飼い慣らされ、司に懐きまくった一匹のワンコが居るのみだった。そんな一匹のワンコは、自らの尻尾を千切れんばかりに勢いよく振りながら、口元を緩ませた笑みを浮かべて振り返る。
「司先輩……! おはようございます。いえ、私はさっき来たばかりで全然待っ…………」
そんな笑顔で『全然待ってませんよ』と大ウソを言おうとしたワンコの口は、一瞬で凍りつく。
何故ならばそこには——
「おっはよー! しほちゃん! 今日はいい天気だねっ!」
最近病院から退院して宮女にも復帰したばかりの
志歩はそんな、笑顔が眩しい大事な大事な幼馴染の姿を見て、自身もニコリと笑みを返してこう言う。
「うん、悪いけどすっごい邪魔だから帰って、咲希」
「え~~~!? なんでぇ!?」
わんこモード早くも終了。一匹狼な日野森志歩が無事再ログイン。
大声を上げる咲希の元に、志歩はその額にピクピクと青筋を浮かべた怒りの表情でツカツカと歩みより、その肩を掴んで司から少し距離を取って背を向かせながら、声を潜めて叫ぶ。
「どうしてアンタが居るの咲希っ……!? 私が一緒に学校に行こうって言ったのは司先輩だけなのにっ……! アンタの事は呼んでないから私っ……!」
「そんなの、お兄ちゃんからしほちゃんと今日から一緒に学校行くって聞いたからに決まってるじゃん……! いいじゃん、アタシも一緒に行かせてよ~! アタシ達友達でしょ志歩ちゃん!」
「いや……確かにそうだし、まぁ……本気でイヤとは言わないよ私もさ!? でもね咲希、ちょっと空気読まない……!? 司先輩と二人だけで登校したかったんだって、私の気持ちを汲まない……!?」
そんな猛烈な志歩の抗議に、咲希はしれっとした表情で言う。
「え? そんなの、逆に空気読んだからこそ来たに決まってんじゃん? 言っとくけどね、しほちゃん? 今まではアタシが病院で大人しくするしかなかったから、しほちゃんがお兄ちゃんにアタックかけるのに何も出来なかったけど、これからはもう今まで通りにはいかないからね……!? 絶対、全力で、お兄ちゃんと良い雰囲気になんて、このアタシがさせないから……!」
「この
「絶対しませ~ん! しほちゃん、アタシを普通のブラコンだと思わないでよ? 日本の法律が変わって、二親等以内の結婚が許可される日が来るのを今でも待ってるような、そんなガチ勢だから……! 今でも兄妹で結婚できる国を探し続けてるぐらいのブラコンだからねアタシ……!」
「そんなのある訳ないでしょ! さっさと諦めて私に司さんを譲りなよ……!」
「あります~! だって、女の子同士や男の子同士の結婚が検討される時代が今まさに来てるもん……! 結婚の自由が認められる時代が来てるもん……! だったらこの流れで兄妹だって結婚許されてもいいんじゃない……!? 血を分けあった兄妹だからって、恋愛の自由が認められない世界なんておかしいって思うんだけどアタシ……!?」
「アンタのその思想の方がイカレてるって事にいい加減気付きなよっ……! ねぇ、私さアンタみたいなヤバイ女が、司さんと今は同じ屋根の下で暮らしてるって事実に今ゾッとしてるんだけど? ねぇ、大丈夫? まさか司さんにヘンな事何もしてないよね!? もしシてたらいくら咲希でも本気で許さないよ私……!」
「アタシがお兄ちゃんに嫌われるって分かってる事する訳ないじゃん! ギリギリの所で踏みとどまってるしっ……! アタシ分かってるもん! お兄ちゃんと結ばれたいって考え方が異常って事ぐらい……! そもそもこの考え自体、志歩ちゃんがお兄ちゃんの事好きって言いださなかったら、ずっと皆にも黙ってようと思ってた“想い”なんだから……!」
「自覚してるんだったら黙って私に譲ってよ……! もう咲希の気持ちは十分わかったし、もし司さんと付き合えた後も私、アンタが必要以上に司さんにベタベタしてても大目に見てあげるから……!」
「やだッ! それでもお兄ちゃんは誰にも渡さないもん! 一生お兄ちゃんはアタシと一緒なんだもん! お兄ちゃんは生涯だれとも結婚しないんだもん!」
「このっ……子供なのアンタは……!?」
そんな風に、小声で司を巡る小競り合いを繰り広げる咲希と志歩。しかしそんな二人の姿を見た司は、出会った直後に二人で密談を交わしている様子が仲睦まじく感じたのか、上機嫌で笑って言う。
「ハハハッ! 咲希も志歩も、久しぶりに会えてとても嬉しいようで何よりだ! やはり人は多く居た方が楽しいに決まっているからな! 咲希を連れて来たオレの判断は間違っていなかった!」
大笑いをする司に、志歩は少しだけジトっとした視線を向けた後、小声でため息を吐く。
「……ハァ、本当に無神経」
「でしょ? しほちゃん、お兄ちゃんに愛想尽かすなら今だよ? お兄ちゃんはやめといて、早めに他の人に乗り換えよ? ほらほら、折角共学なんだし素敵な出会いをもっと求めたらいいじゃん。しほちゃんぐらい可愛いんだったらもう、男の子いっぱい選びたい放題だよ~?」
「残念でした、それだけは無いから。この先一生、司さん以外の人を好きにならないって、私もう心に決めてるから」
「重っ……!? しほちゃん、それは重いよ……愛が」
「——は? 誰が重い女って? そっちはヤンデレに片足突っ込んでるブラコン妹じゃん。他人の事とやかく言わないでもらっていい?」
「ヤンデレ妹!? ちょっとしほちゃん、それは流石に言い過ぎじゃない……!? まぁ……でも、ちょっと自分でも怪しいかもな~って自覚は正直あるけど……」
「自覚あるんじゃん……!」
小声でなおも小競り合いを続ける二人。
だが司は、そんな聞こえない小声の二人のやり取りに興味は一切ないようで、ケロリと笑顔で言う。
「よし! 仲良く話していたいお前達の気持ちも分かるが、そろそろ行かないと遅刻してしまうぞ」
「……っ、は、はい……そうですね。行きます、これ以上話しててもキリ無いですし」
「お兄ちゃん了解っ! よーし、行こ行こしほちゃん!」
「咲希、切り替え早……はぁ……こんなつもりじゃなかったのに」
志歩は深いため息をつき、脳内で描いていた司と2人きりの楽しいひとときが台無しになったことを、心から残念に思いながら咲希と司の後に続いて歩いて行く。
だがしかし、彼女にとって悪くはないと思える事も一つ。
「ねぇねぇお兄ちゃん! こうして一緒にしほちゃんと登校してたらさ、なんだか小学生の頃に戻ったみたいじゃない?」
「おお、言われてみれば確かにな! 懐かしい、あの頃は一歌達もオレも全員一緒に同じ小学校に通っていたな……」
「ね〜? えへへっ、ちょっとだけ子供に戻ったみたいで嬉しいな〜」
そう言って笑顔で、大好きな兄の隣に立って一緒に学校へと向かう咲希の姿を、こうして再び見る事が出来たこと。それだけは少しだけ良かったと彼女は思う。
(まぁ、色々困った子だけど……でも一応、上手くいったら私の未来の
志歩はそんな事を密かに思いながら駆け足で二人の元へと向かい、自分達の小学生の頃の思い出話に参加するのだった。
こうして、好きな人物を共有してまった事により衝突する事が以前より多くなってしまった志歩と咲希の二人だが——その仲は意外と
「じゃあ……しほちゃん、アタシはここまでだけど、お兄ちゃんと一緒に神高にこれからも通う以上——やる事は言わなくても分かってるよね?」
「勿論……言われなくても任せといてよ咲希。司さんにつきそうな悪い
「おっけ~。ここは共同戦線で行こうねしほちゃん? 上手くいったらお兄ちゃんの貴重な寝顔写真送るから、それでよろしく!」
「——ふっ、いいね咲希、今の私の扱い方上手く心得てるじゃん。……ねぇ、もしあれだったらなんだけど、司さんが寝起きで寝ぐせがついてる所とか、その他にもだらしなくて可愛い所撮った写真とか……ある?」
「ふっふっふ……それはしほちゃんの今後の働きによるかなぁ~?」
「ふーん……充分。じゃ、取引成立で」
「うん、よろしくねしほちゃんっ!」
宮女と神高への分かれ道、そう言って二人は司の見えない所で密かに密談で取引を交わし、軽くハイタッチをして別れるのだった。
……むしろ二人の仲は、ある意味では以前よりも良好と言えるのかもしれない。