――予定より少し遅くなった。早く帰らないと、あの三人がお腹を空かせてしまう。
石川葵はそんなことを考えながら、ガーデンから自宅への道のりを速足で歩き続けていた。
彼女の両手にはずっしりと重い買い物袋がぶら下がっていたが、葵はその重量などまるで気にしないかのような軽い足どりで、どんどんと市街地の歩道を進んでいく。
夕暮れが徐々に迫り、葵と同じく下校途中の学生や買い物客などで、人通りはそれなりに多かったが、混雑しているというほどでもなかった。
葵がいる場所は旧横須賀市内、鎌倉府5大ガーデンの一角にして、百合ヶ丘女学院と双璧をなす聖メルクリウスインターナショナルの敷地内。
聖メルクリウスが百合ヶ丘と違うのは、ガーデン全体が城塞都市のように何重もの物理的・マギ的な防壁で囲まれていることだ。
主要な行政機関や住宅、商業地などは、全て防壁の内側に建設されている。
外部からのヒュージの襲来に対しては、聖メルクリウスのガーデンはレギオンを防壁の外側に展開して迎撃し、これまで一般市民の人的・物的被害は皆無に抑えられていた。
ただし、そうした徹底的な防衛インフラを国内の主要都市に構築することは、コスト面で到底不可能だった。
そのため、東京エリアを始めとする大都市圏の多くは、次善の策としてエリアディフェンスや光壁システムによる広域バリア機能によって、ヒュージの発生と侵入を防ぐ方法を採用している。
また、ヒュージへの攻撃に関しては、聖メルクリウスは「方舟」と呼ばれる超大型のガンシップによる飛空艇団打撃群を配備している。
飛空艇団は全7機の「方舟」から編成されており、この大規模機動部隊によって遠隔地への速やかなレギオンの派遣と展開が可能になり、外征において聖メルクリウスは他ガーデンを圧倒する機動性を有していた。
これらの正面装備のみならず、人員育成の面においても聖メルクリウスは卓越した結果を残しており、その実績は百合ヶ丘女学院と並んで世界的名門と称されるに相応しいものだった。
バチカン市国やモナコ公国の如く、極めて潤沢な経済的・政治的リソースによって、聖メルクリウスインターナショナルは対ヒュージ防衛と攻撃の両面において、世界でも屈指の理想的な環境の構築に成功していると言えた。
その歴史と人材の優秀さゆえに、「王と貴族の学院」と呼ばれることもある聖メルクリウスだったが、その生徒である葵はそうした事情には至って無頓着だった。
それ自体が彼女の出自や育ちの良さを裏付けるものだったかもしれないが、葵は自分が超の付くレベルの実力を有するリリィであることを、鼻にかけたりする性格ではなかった。
彼女にとって最も価値のあるものは、もっと別のものだったから。
目下の葵の関心は、今まさに自分が向かっている家路の先にあった。
気忙しく歩を進めること10分ほど、市街地の外れにある古めかしい洋館が、葵の視界に入ってきた。
聞いたところでは、この西洋風の屋敷は明治時代に建築されたもので、部屋数は三十ほどもあるとのことだったが、葵は実際に数えてみたことは無かった。
その大きな屋敷に、葵は同居人である楓・J・ヌーベルと一緒に生活していたのだが、最近になってその同居人が二人増えた。
屋敷の扉を開け、葵は館内に入るとずんずんと歩を進めて、幅の広い廊下を進んでいく。
葵はリビング兼ダイニングキッチンとしてリフォームされた部屋へとまっすぐに向かって、数十歩後にその部屋の扉の前に立った。
いさかか大げさなウォールナット材の重厚な扉を軽くノックして、いつものように返事を待たずに扉を開く。
葵の目に入ってきたのは、リビングのソファーに座ってローテーブルに向かっている三人の少女の姿だった。
「ただいま、遅くなってごめん」
三人が同時に顔を上げて、葵の方を見る。
最初に葵へ言葉をかけたのは、この屋敷で以前から同居している楓・J・ヌーベルだった。
楓は他の二人より明らかに大人びた雰囲気を漂わせ、落ち着いた余裕のある微笑みを葵に向けた。
「お帰りなさいませ、葵さん。
結梨さんとレミエさんの課題を手伝っていたところですわ。
もうすぐ区切りがつきますので、そうしたら私も夕食の支度を手伝いますわ」
「楓、私も晩ご飯のお手伝いしたい」
「私も」
葵が返事をする前に、二人の少女がほとんど同時に楓に迫った。
「お待ちなさい、お二人とも。
あなたたちは課題を全部終わらせるのが最優先ですわよ。
それから夕飯の手伝いをするのなら、何も問題はありませんわ」
楓は教導官か上級生のような、いささか仰々しい口調で釘を刺し、二人の希望をあっさりと却下した。
「……分かったわ、さっさと片づければいいんでしょ。
結梨、私は通信途絶時におけるロジスティクスの課題をやるから、あなたは夜間戦闘でのノインヴェルト戦術フォーメーションをお願い」
「うん、この場合はマギスフィアを曳光弾に見立てて考えたらいいのかな」
「それはね、もっと別のやり方があって……」
二人の少女は渋々と言った様子で、再びローテーブルの上の戦術理論の課題に取り組み始めた。
二人のうち一人は、プラチナブロンドの長い髪と青い瞳を持つイタリア系のリリィで、名をレミエ・アレッサンドリーニという。
レミエの姉は聖メルクリウス生徒会副会長にして、第1飛空艇団ミカエル団長のアルテア・アレッサンドリーニ。
アルテアは「メルクリウスの暴君」の異名を持つ2年生で、その二つ名に相応しく、御台場迎撃戦を始めとして数々の戦功を挙げ、現在の聖メルクリウスを代表するリリィの一人である。
そしてレミエもまた、姉に勝るとも劣らぬ類稀な素質と才能を持つリリィであることは間違いなかった。
だが、レミエは余りにも偉大な姉を持つゆえの劣等感に苛まれ、また精神の未熟さも相まって、リリィとしての評価はまだまだ発展途上の段階に留まっていた。
もう一人のリリィは名を一柳結梨といい、元々は同じ鎌倉府の百合ヶ丘女学院に在籍するリリィだった。
彼女はG.E.H.E.N.A.の実験によって、ヒュージ幹細胞からヒトの遺伝子のみを抽出して生み出された一種の人造人間であり、実験の唯一の成功例だった。
結梨の身柄を巡る一連の騒動の後、百合ヶ丘のガーデンは彼女を死亡扱いとし、その実は特務レギオンであるLGロスヴァイセ預かりの身として生存を秘匿した。
結梨はLGロスヴァイセ隊長の従姉妹としての戸籍を新たに用意され、強化リリィ救出を中心に幾つもの作戦に参加してきた。
しかし最近になって百合ヶ丘は、結梨に干渉しようとする不審人物の侵入を許してしまったという。
その後の百合ヶ丘の理事会と生徒会の判断によって、同じ反G.E.H.E.N.A.主義ガーデンであり、百合ヶ丘に比して格段に堅牢な防衛機能を有する聖メルクリウスに、結梨の身柄を預けることが決定された。
こうして結梨は百合ヶ丘女学院から聖メルクリウスインターナショナルへと秘密裏に転校し、楓たちと一緒に生活することとなった。
この決定には、楓の父親が経営するCHARMメーカーであるグランギニョル社が、人造リリィの計画に技術協力を行っていた事実も少なからず影響していた。
これらの事情に関しては、結梨が百合ヶ丘女学院から聖メルクリウスインターナショナルへ転校する際に、聖メルクリウスのガーデンから楓たち三人に情報が開示されていた。
楓は結梨の件について以前から父親と連絡を重ねており、結梨の保護者兼学友として彼女を受け入れる心の準備はできていた。
一方、葵とレミエは当初、結梨の出生に関する事実を知って当惑を隠せなかった。
だが、実際に結梨の姿を見ると、どこにも怪しむべき点は見当たらなかったので、単純に一人の転校生として結梨と接することに異存は全然無かった。
葵、楓、レミエ、結梨の四人のリリィは、その全員が現時点でどのレギオンにも所属していないフリーランスの立場だった。
彼女たちのいずれもが非凡な能力を持ちながら無所属のリリィとなっていることには、それぞれに事情があったのだが、彼女たちはそれを全面的にではないものの、止むを得ない現実として今の所は受け入れていた。
「……よし、これで今日の課題は全部終わりね」
「うん、早く楓と葵を手伝いに行こう」
いつもより何割か増しで手早く課題を終えたレミエと結梨は、先にキッチンで夕食の用意を進めている楓と葵の傍へ、足早に歩み寄っていった。
楓の実家であるヌーベル家からの仕送りによって、この屋敷に暮らす四人のリリィは、何不自由無いと言っていい水準の生活を送っている。
大きな洋館の屋敷もヌーベル家の所有する不動産の一部であり、生活するにあたって必要な経費のほとんどはヌーベル家から支給されている。
それについて葵は楓に応分の負担を申し出たことがあったが、それには及ばないというのが楓の答えだった。
「葵さんが気になさることはありませんわ。
私だって家賃も生活費もお父様に支払っておりませんもの」
「そうは言っても……」
「葵さんとレミエさんは私の大切な親友ですし、グランギニョル社は結梨さんに百万回謝っても足りないくらいですわ」
だからそういうことは気にする必要は無いと楓は言い、更にこう付け加えた。
「……それに、こんなに広い屋敷に一人で住んでみたところで、何の甲斐もありませんわ」
「それはその通りね。私だってここに一人で住めと言われたら、ちょっと遠慮してしまうでしょうね」
「ですから、それよりは気の置けない人たちと一緒に生活する方が、私にとっても余程充実した日々が送れるというものですわ」
四人がかりでこしらえた豪勢な夕食を食べ終え、後片付けと入浴を済ませた楓たちは、部活動の合宿よろしく大部屋に置かれたベッドの上に寝そべっている。
ただし、そのベッドはキングサイズより更に大きい特注品で、四人が手足を伸ばしてもなお余裕のある広さを誇っている。
館内には部屋が有り余っているのだから、他の部屋を個人単位での居室や寝室として利用することは幾らでもできた。
それにもかかわらず、葵もレミエも結梨もこの大部屋にいつも集まって、ガーデンでの今日の出来事や休日の予定など、四人で取り留めも無いお喋りに興じるのが常だった。
「私たち、これからどうしようかな」
ぽつりと葵が呟くと、隣りにいた結梨が恐る恐るという感じで提案する。
「私たちでレギオンを作るとか……」
「自主結成レギオンってこと?
そんなの今までメルクリウスであったかしら?
そもそも四人だけじゃレギオンとは呼べないし」
「他に加わってくれるリリィを探してみる?」
「私たちみんな訳ありだから、なかなか難しいでしょうね」
葵が溜息をついた時、その手を楓が握った。
楓は葵の目を見つめて、普段の彼女らしからぬ憂いをその顔に浮かべながら言う。
「そもそもの原因は私の優柔不断さにありますわ。
皆さんの責任ではありません。
私と一緒にいて下さるのは嬉しいですが、そのために葵さんやレミエさんの立場が悪くなるのは……」
「楓だって理由があって百合ヶ丘に行かなかったんだし、楓と一緒に戦えないならレギオンに所属してる意味なんて無いわ」
「そうよ、あたしたちが他のレギオンよりも活躍して、実力であたしたちのことを認めさせるしかないんだから!」
「お二人とも、冷静になって――」
所属していたレギオンを自らの意志で去った葵とレミエの勢いに、楓が珍しく気圧されかけた時、離れた机の上に置いていた楓の携帯通信端末が振動を始めた。
「少しお待ちを」
机の方へ歩いて行った楓は、持ち上げた端末の画面を見て怪訝な表情をした。
「どうしたの、楓」
葵の声で振り向いた楓は、それまでより少し引き締まった面持ちで三人に答えた。
「私たち四人に、明日ティシア様の所へ参上するよう、連絡が入りましたわ」
楓が口にした人物は、「聖帝」の異名を持つ聖メルクリウスの生徒会長、ティシア・パウムガルトナーだった。
前作の番外編では葵ちゃんの一人称視点で書いてみましたが、やはり心情の描写は一人称の方が書きやすかったようです。
設定が少し違っていますが、よろしければ前作の番外編もご一読ください。
次回更新は8月16日ごろの予定です。