アイドルマスターシャイニーカラーズ・アラカルト   作:蘭花

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サブタイの後ろに名前を付けているのはぱっと見で分かりやすくするためです。
何日かに分けて一つずつ投稿していきます。

一つ目は「凛世がプロデューサーと結ばれた未来」のお話し。


『群青に差す茜空』杜野凛世

「起きてください」

 

 柔らかく優しい口調で声をかけられて目が覚める。温もった布団をはがし、微笑んでいるのは母親だった。

 

「今日は……楽しみにしていた遠足、ですよ。寝坊はいけません」

 

 エプロン姿で話しかけてくる母は、宥めるような言い方とは裏腹に、これでもかというくらい優しく頭を撫でてくる。まだ眠気に身を任せていていいのかと勘違いしてしまいそうなくらい、静かに、優しく。

 いつまでも撫でられていたい感覚。幼い心には絶大な安心感が生まれていた。

 

「朝ごはんにいたしましょう。今日は、なんだとおもいますか?」

 

 リビングの方から漂う香ばしい匂いにつられて体が跳ねる。布団から完全に抜け出して、眠気もすっかりと消え去った。

 おそらく今日の朝食は目玉焼きと食パンといったところだろう、と予想する。母のつくる目玉焼きが大好きなあまり、寝起きなんて関係なしにとび起きてしまった。

 

「ふふ……おはようございます。よく起きました」

 

 勢い良く起床した姿に嬉しそうに笑う母は、「ですが」と続ける。

 

「今日は少しだけ、特別です……だいすきなちょことーすと、ですよ」

 

 言いながら手を引いていく。既に支度の終わっている机の上には、チョコと生地でチェック柄になっている食パンと、双子の目玉焼きが用意されていた。

 母は、たまにこのメニューを用意する。矮小で幼い“彼”になぜ今日が特別なのか理解できるはずもなかったが、どこか機嫌がよさそうだということだけは分かった。

 

「凛世は、おとうさんを呼んできます。いただきますをするまで……待っていてくださいね」

 

 母はそういうと口元をゆるめながら寝室へ向かっていった。

 ある晴れた日の早朝、なんでもないただの朝。

 

 今日も平和だ。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 ウグイスの鳴き声が聞こえる。

 晴天、閑散、寂寞、心地良い空気。

 平日の朝、室内にただ一人。空模様は窓越しにしか見えないが、きっと心がすくくらい晴れ渡っているのだろう。

 

 凛世は居間で椅子に座り、一日の過ごし方を無言で考えていた。

 

「……迎えは、二時頃……」

 

 見渡しても人は自分以外にいない。

 数十分前まで、この家にはあと二人の姿があったというのに。朝から静かな空間に一人で、明確にしなければならないことがないという生活にはやはり慣れない。

 暇、というわけではないのだが、学校やアイドルの活動があったときに比べると、時間の流れが非常に緩やかに感じる。

 

「掃除と、洗濯……ふふ、おやつのことも、考える必要がありますね」

 

 指折りでやるべきことを確認。最後の一つ以外は楽しいことではないはずなのに、ゆったりとした生活の中ですることはなんでも幸せに感じてしまう。

 この幸せの背景には、愛する夫と子どもがいるから。彼女にはそれが分かっていた。

 

 予定の確認を自分の中で終え、机上に置かれていた食器等の片付けから始めることにする。三人分の朝食が乗せられていた皿は全て綺麗に完食されており、机の表面にも目立った汚れは見当たらない。拭き掃除の必要があるのか、と思うほどだ。

 若干、ある一面だけ食パンの欠片がこぼれているのを見る。散らばり方からどんな食べ方をしていたのか思い出し、心が温かくなった。

 

「綺麗に、食べるようになりました」

 

 既に座っていた人物のいない椅子に視線を向けて言う。数か月前まではもっと掃除に手間のかかる食べ方をしていたのだが、これも成長の一つだろう。

 

 食器を運んで洗い始める。数もそれほど多くないので短い間ではあるが、静かだった室内に水音が響き始める。無機質に落ちる水の音、生活の音。幸せの、音色。

 これほど穏やかに続く心があるものかと今でもたまに疑いたくなる。しかしこの日々は現実だ。

 

「……?」

 

 洗いものを終えて机を拭いていると、椅子に置いていたスマートフォンが振動していることに気がついた。

 一面を取りこぼしなく拭いてから水色でシンプルなデザインをしたそれを手に取って、電源をつける。通知の欄にはメッセージアプリの名称と共に『果穂さん』と表示されていた。

 何だろうと思い通知を開き、画面に文章が表れる。

 

『凛世さん!

 この間はありがとうございました、またお茶しましょうっ!

 と言っていたのになかなか連絡がとれなくてごめんなさい!

 こんど、夏葉さんと買い物に出掛けることになったんですが、

 みなさんを誘ってどこか行きましょう、という話になりまして!

 樹里ちゃんとちょこ先輩はOKらしいので、凛世さんも

 いかがですか?

 都合の良い日を教えていただきたいです!』

 

「ふふ、果穂さん……予定を確認、いたしますね」

 

 文面で既に気分が高まっていることが感じられる文章だ。

 実際に会話すると、彼女は元々の活発な性格がそのまま続いて成長しているので、もっと明るく楽しい会話を繰り広げてくれる。『この間』といっても一か月ほど前の話――果穂だけでなく皆に会えると思うと、気分が弾む。

 スケジュールと照らし合わせ、この日は良い、この日は駄目、と指差しで確認。すると、思っていたよりも丸一日空いている日がないことが分かった。

 

「……」

 

 少し、彼と相談してみる必要があるかもしれない。

 子育ての合間となるとなかなか時間をとるのが難しく、口を閉ざして思考する。

 

 すると。

 

「――あ」

 

 短い着信音が一つ、果穂からだ。

 返信を送る前に追加でメッセージを送って来たらしく、先程の文章の下に吹き出しが付け足された。

 

「……では、そのように、いたしましょう」

 

 その一文は嬉しいような申し訳ないような配慮を含んだもの。

 受けた優しさのあまり、凛世は目を細くして微笑んだ。

 

 

「……ん、」

 

 視界が開く。時計を見やる、11時。

 どうやらいつの間にか眠っていたらしい。日頃そこまで疲労がたまるようなことをしている覚えはないが――やはり“この時期”は睡眠欲が増幅してしまうものなのだろうか。

 ひとまず洗濯機の方へ向かい、既に洗濯が終了しているシーツを取り出す。純白の布を持って二階に上がり、部屋の窓を開けてベランダへ出る。ほどよく日が傾き始め、日光を浴びだしている物干し竿にばさりと広げたシーツをかけた。

 

未だ眠気を残した視界に移るのは見慣れた街並み、それはひどく不変で、平和。二階から見える世界は日常そのものだ。

眠気をどうにかして払おうと両手を天に伸ばしてみるが、慣れない行為が少し恥ずかしい。洗濯の待ち時間に眠りこけるとは随分穏やかな生活を送るようになったものだと、改めて実感した。

 

「昼食は……」

 

 言いかけて、夕食でまた新しいものを作るなら昨晩の残りものは消化しておくべきだ、という結論に至る。

 色々支度をしているうちに迎えの時間に間に合わなくなるのは良くない。最適な選択だといえるだろう。

 

「おやつを作る時間は……問題、なさそうです」

 

 凛世は、午後からの予定に心を躍らせながら作業にとりかかった。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 園の窓から見える景色は、いつも誰かの親がやって来た時ほど風変わりしたものに映る。

 子ども同士で互いの親を認識して、「○○ちゃんお迎え来たよ!」と子ども同士で伝え合うくらいには、幼い人間は外の様子をしっかりと見ているのだ。

 普段は一斉に帰るのでその感覚に馴染みの無い子どももいるが、他の親と違うタイミングで迎えが来る子にとってこの感覚は標準装備のようなものだった。

 外から歩いてやってくる存在が自身の母親か父親、または家族の誰かであったときほど感情を揺さぶられる時はないだろう。

 

「あ、お母さん来たよ、せなくん」

 

 世成は、園の外からやってくる母をいつも“不思議”だと思っていた。

 着物を着る機会が比較的多いという時点で少し変わっているのだが、洋服のときにはその思いはさらに増す。

 

 だんだんと近づいてくるその姿は、ゆったりとした格好だった。少し長く伸ばした髪、ブラウスとロングスカート、半眼に細められた、濡れた赤の瞳。加えて今日は片耳にイヤホンをつけ、白い線がぶらりと垂れ下がっている。時間や音の全てを置き去りに、どこか幻想的で儚い雰囲気をもっている――もちろん、生後三年程度の子どもにそんな感想は出せないのだが。

 

「せなくんのお母さん、相変わらず綺麗だねえ……若いし」

「前にアイドルやってたんでしょ? 顔が整いすぎてるわぁほんと……」

 

 園内の保育者がそんなことをいう。言葉に悪意が含まれていないため、純粋に褒めているということを理解する。

 世成は会話を聞きながらじっと母を見つめていると、首を傾けてイヤホンを外した彼女と目が合った。母は優しく、静かに、いつものように微笑んだ。

 

「先生方、本日も息子が大変お世話になりました」

 

 外と繋がる入り口までやってきた母が、丁寧に深く礼をする。佇まいや動作の一つ一つが本当に丁寧で、世成自身も彼女に見惚れるときがあるほどだ。

 

「お母さんお疲れ様です~! 今日は公園に行くんだーってせなくんが楽しみにしてましたよ、なんなら遠足よりも楽しみにしていたくらいで!」

「そう、なのですね。遠足では……ご迷惑をおかけしませんでしたか?」

「いいえー全然! いつも通り良い子してましたよ~、ねーせなくん?」

 

 突然話題を振られ、周りに背の高い大人ばかりなことに困惑しながらも首を縦に振った。

 

「たのしかったよ、えんそく」

「良かったですね、世成」

「あ、そういえばお母さん、公園って最近みなさんが行ってるとこですか?」

「はい……散歩も兼ねてでございます」

「お父さんもご一緒で?」

「いえ、プ……主人は、仕事ゆえ。また別日に三人で、と」

 

 何か別の言葉を言いかけた母が、はっとして言い直す。日常生活の中でごく稀に出るそれがなんなのか、世成はまだしらない。

 ただ、少しだけ恥ずかしそうに頬を染める母の姿がとても印象的だった。

 

「それでは、この辺りで。明日もよろしくお願いいたします」

 

 彼女はもう一度礼をして、世成の小さな手を引いて園の外へ向かう。しばらく無言のままだったが、門を出たところでしゃがんで視線を合わせてくる。

 

「疲れているなら、おかあさんは明日でも構いませんよ」

 

 頭を優しく撫でながら、愛おしそうな目線を向けて言う。

 さすがに午前に遠足で午後に公園にでかけるというのは疲労が大きいと判断したのだろう。しかしこれからの予定は、二十分程度歩く位置にある公園には園のともだちがよく遊びに行っているため、自分も行きたい、と世成が言ったことでできたもの。行きたいに決まっている。

 

「ううん、いく!」

「……ふふ、分かりました」

 

 母は立ちあがって再び手を握り、スカートの裾を僅かに揺らして歩き出した。世成もその歩みについていく。彼女は小さな歩幅が引っ張られないよう、ゆっくり小さく歩いていた。

 

 

 道中で遠足では何をしたか、どこにいったか、どんなことがあったかなどを話され、凛世は息子が楽しく過ごせたことをまるで自分のことのように感じていた。嬉しい気持ちと、その場の息子の様子を見ることが出来なかったことに対する悔しい気持ちが少しだけ。

 土産話にしては色々な感情が掘り起こされ過ぎて、今度同じ場所に家族三人で行ってみようかとすら思った。

 

「ついたー!」

 

 凛世にとって運動不足分を消化する良い機会となった散歩の、半分が終了。そこそこ規模の大きい公園には既にかなりの親子が訪れてきており、小さなテーマパークのようでもあった。

 早く遊びに行きたいと言わんばかりに体を揺らす我が子に、凛世は大きめのバスケットを手渡す。

 

「なにーこれ?」

「おやつです。たくさん作ったから、おともだちと食べてください。……持てますか?」

「だいじょうぶ! もつよ!」

 

 元気な声での返答。サイズ的に若干無理があったように感じたけれど、意外にも持ち運ぶことはできていた。

 「んしょ、んしょ」と掛け声をだして子どもたちがいる方へ向かっていく世成。成長した姿を見届けながら凛世は近くにあったベンチに腰掛ける。

 

 ひとまず最初の三十分程度は、自由に遊ばせておいて、あとで一緒に何かして遊ぶというのが今回の予定だった。彼が遊んでいる間はいわゆる「ママ友」の人たちと会話しようと思っていたのだ。

 何人かの大人と目が合い、手を振られて振り返す。しかし誰もがこちらに足を運ぼうとするたびに何かに気が付いて歩みを止めた。

何かまずいことでもしてしまっただろうか――そう思った時。

 

「えい」

「――ひゃっ」

 

 喉に突如として訪れた極寒。横から張り付けられた異様な冷たさに思わず小さな悲鳴が漏れる。びくりと反応して体が強張った。

 何が起きたのか、誰の仕業か。ゆっくりと振り返るとそこには、夜まで会うことのできないはずの“彼”がいた。

 

「お疲れ様、凛世」

「…………あなた、どうして此方に?」

 

 彼だ。

 仕事中で、朝見送ったはずの彼――誰よりも愛している夫が、そこにいた。

 眠気が覚めきらずに幻でも見ているのかと何度か瞬きしてみるも、やはりそこには彼がいる。急に首が冷たくなってびっくりしたのとはまた別で、鼓動の高鳴りを感じた。

 

「休憩と、買い出し行かないといけなくてさ。そういえばこの辺の公園に来るって言ってたのを思い出して……君に待たるる心地して、だっけ?」

「……ふふ、今お会いできるとは、夢にも思っていませんでした」

「ちょっと、隣座るぞ」

「はい」

 

 座るついでに彼は手に持っていたペットボトルを渡してくる。反対の手には同じものが握られており、どちらも普通のお茶だった。

 

「はは、なんかアタリ引いたんだよ。貰ってくれ――といっても持ちかえったら同じ家なんだけど」

「有り難く頂きます。丁度、喉が渇いておりましたので」

 

 手の平に冷気を受けながらキャップを開けお茶を喉に流し込む。

 夏ほどの暑さがあるわけではないにしろ、冷たい飲み物は温かい日差しと合わせると革新的な潤いをもたらしてくれる。美味しいというより、生きている感じがした。

 

「世成は……えーと、あそこか。だ、大丈夫か? あんな高さまでジャングルジムを」

「はい。園では一番高いところまで、登っているようです」

「すごいな! 運動のセンスがあるのかもしれない……一見大人しそうで活発って、誰かに似てるな」

「ぷ、プロデューサーさま……あっ」

 

 癖で昔の呼び方が出てきてしまったことに気付いて口に手を当てる。

 その様子を彼は面白そうに眺めていた。

 

「仕事中ではあるから、間違ってはない……かな?」

「……活発さは、貴方さまの遺伝でございます」

「ごめんって凛世! あと呼び方なおってないぞ!」

 

 凛世は、稀に『杜野凛世』に戻ることがある。アイドルとして活動していたあのころが、ふとした拍子に表に出てくることが。不意をつかれたり昔の話を持ち出されたりして動揺すると、彼への呼称は昔のものに戻るのだ。

 「あなた」という呼び方は実は若干の無理があった。違和感と羞恥が拭いきれず、それでも普段はその呼び名を遣っている。

 

 理由は単純に、その方が妻という感じがするから、それだけだ。

 

「……本日の夕食は、世成の要望を聞き入れます」

「嘘だろ!?」

「嘘です」

「嘘かよ!」

 

 大人同士の会話。じゃれあっているだけにしか見えないやり取りが、凛世にとってはとても幸せで――今は、彼も同じ気持ちだ。

 しかしそれはそれとして、妻らしい呼び方をしようと取り繕っているものが剥がれたことは恥ずかしい。凛世は頬を膨らませてそっぽを向いた。

 

「本日、園にて。同じ過ちを犯しそうになりました」

「過ちって……プロデューサー呼びしていた時期の方が長いんだから、仕方ないんじゃないか?」

「いいえ」

 

 きっぱりと否定の声をあげる。少し強めな口調に彼は若干驚いた様子だが、正確に意思表明をしてくれることが嬉しいのか優しい眼差しで見つめてきた。

 絡む目線がいつもに増して羞恥心をくすぐる。

 

「凛世は今は、貴方さま……いえ、あなただけの妻でございます。この愛が実った証が、もっと欲しいのです」

「ちゃんと言いたいこと言ってくれるようになったなあ凛世……でもほら、愛の証っていうなら……」

 

 彼は言いながら頬を染めて視線を前に向け、遠くで遊んでいる息子を見た。何を言おうとしているのか分からずにしばらく愛しの我が子の様子を眺め――真意を理解して、凛世の顔は熟した苺のように真っ赤になった。

 

「あ、愛の証とは……っ! その通りでは、ございますが……っ!」

「昼間からする話じゃないな! すまん! 俺も恥ずかしくなってきた!」

「……。……では、夜ならば……良いのでしょうか」

「――えっと凛世。落ち着こう。その空気はまずい。仕事に戻れなくなる」

 

 明らかに昼にする話ではない方向へシフト仕掛けたときに待ったをかけられ、凛世は火照った顔を手で覆い隠す。感情の暴走と言うべきか、愛を遠慮せずに伝えられる環境が永続すると歯止めがきかなくなってしまう。

会話に区切りがつき、二人の間に静寂が訪れる。クールダウンが完了しきっていないうちに、彼は顔をちょっとだけ赤くしたまま「そろそろ行かないと」と言って立ちあがる。

 

「じゃあ、また夜に……体調には気をつけるんだぞ、凛世」

「は、はい。……いってらっしゃいませ……あなた」

 

 最愛の夫を凛世はとびきりの笑顔で送り出す。

 最後にわしゃわしゃと少し雑に撫でられた頭には、わずかな温もりが残っていた。

 

 そろそろ世成のところへ行って一緒に遊ぼうと、凛世も続けて立ち上がり、ベンチから離れていく。

 空はまだ青く、明るいままだ。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

「世成」

「なにー」

「今度、樹里おねえちゃんと果穂おねえちゃんに会えますよ」

「ほんと!? やったー!」

 

 すっかり空が夕焼けに染まった時間帯。

 公園に滞在する人もだんだんと減り始めたので、凛世と世成も帰ることにして、来た道を歩いていた。

 

 ちなみに世成は樹里と果穂にかなり懐いている。夏葉と智代子には会っている回数が少ないので、全員揃っている時に『世成くんも一緒だと嬉しいです!』と言ってくれた果穂の言葉はとても有り難かった。

 自分の大好きな人たちには、息子にも仲良くなって欲しい。凛世はそう思った。

 

「……世成。おかあさん、今日はおうたを聞いて帰っても、いいでしょうか?」

「おうた? なにきくの?」

「なんだと、思いますか」

「んー、んー? なんだろ……」

 

 わかりやすく首をひねって考える姿がとても愛おしい。

 許可を得たので凛世は懐からイヤホンを取り出すと、片耳だけに装着する。流れてくるのは明るく、しかしどこか寂れた空気を感じる、夕焼けと一緒に聞きたいあの曲だ。久々に彼女ら全員に会えると思うと朝から思い出の曲に浸りたくてしょうがなかったのだ。

 考えても答えが出なかったのか、世成は「わかんないー」と言った後に俯いた。何か別のことを思い出したらしい。

 

「……ばいばい、嫌でしたね」

「うん……」

 

 公園を出るまでには時間を要した。というのも、世成が珍しく「帰りたくない」とわがままを言ったからである。どうやら友達と今日の別れをするのがかなり嫌だったらしく、十分ほど今のような状態が続いていた。

 気持ちもおさまって帰ることが出来たと思っていたのだが、本人としてはあまり解決できていなかったらしい。

 

「ばいばい、さみしいから、したくない」

「……世成。ばいばいは、『またあした』という……約束の、代わりですよ」

「やくそく?」

「はい。ばいばいって手を振るのは、約束の代わりです。また明日も、皆に会えます」

「……うん」

 

 まだ腑に落ちないところもありそうだがひとまず落ち着いてくれたようだ。

 どうにも不機嫌な様子がおさまっていないので、軽く頭を撫でながら一つの提案をする。

 

「……おかあさんの聞いているおうた、聞いてください。世成」

「うん」

 

 イヤホンを外して世成の片耳に装着。拗ねたまま抵抗することなく受け入れ、彼は数秒後に目を丸くして流れてくる音に集中していた。

 どの辺りが今流れているのか凛世には分かる。なぜ世成が驚いているのかも、よく分かる。なぜなら今流れている音楽はあの『太陽キッス』なのだ。本当は『よりみちサンセット』を流していたが、明るい曲が良いと思って変更した――予想以上の反応を得られて凛世自身も少し驚いている。

 

「……おかあさんのこえする!」

「果穂おねえちゃんたちの声も、いっぱい、聞こえますね」

「ううん、おかあさんのこえだけ」

「……だけ?」

 

 急にぞっと寒気と嫌な予感がして、おそるおそるイヤホンのもう片方を耳に当て――恐ろしいことに、流れている曲がユニット版ではなくソロコレクションの『太陽キッス』だったことが発覚してしまった。

 

「あれ? おとなくなったよ」

「おうたはお終いです」

「えー」

「帰りましょう、世成」

 

 きっと今、昼間とは別の意味で顔が赤くなっているに違いない。なぜこんなミスをしてしまったのだろうか、気がゆるみ過ぎているのかもしれない。平和と幸せの表れといえば聞こえはいいものの、自分の子にソロコレを聞かせるのはあまりにも恥ずかしかった。

 顔を赤くしていることが世成や周りの通行人に悟られやしないだろうか、という不安が過る。しかしそれは全く不必要な思考であると、即座に理解出来た。

 

「まぶしー」

「……綺麗で眩しい、夕焼けでございますね」

 

 可愛らしく手で目元を隠す世成に、凛世はさらに上からてのひらを被せる。突き刺すような眩い西日を細く白い手指で遮って、足を止めて息子の背後に回り込む。

 

「これで、眩しくありませんよ」

「うんー!」

「…………本当に、眩しく、美しい……」

 

 夕焼けと影が伸びる世界に、凛世は昔の記憶を想起した。

 いつの日かも、こんな夕日を眺めながら、みんなと一緒に過ごしていた気がする。先程まで聞いていた曲の歌詞も相まってひどく感傷的な気分にさせられた。

 楽しい日々だった、と思う。笑って、はしゃいで、落ち込んで、励まされて、励まして、泣いて、喜んで――恋をして。波乱万丈、奇想天外、艱難辛苦に七転び八起き。何があったかを一言で語るにはあまりにも足りないほどの魅力と不思議に溢れていた、そんな毎日だった。

 

 青春。放課後クライマックスガールズ。あの日々がいつまでも続けばいいのに、時間が止まれば良いのにと、止めることのできない時の流れすらも残念に思ったことだってあった。

 あの頃と今、どちらがより幸せなのだろう。日々の生活の中で何度も表れる悪魔のような問いかけだ。

 

「……向いている未来と、同じくらい、大事な今……」

 

 あのころの未来が今だ。あのころ向いていた未来が、『彼』と世成のいる未来なのだ。

 

(凛世は、今に満足できているのでしょうか)

 

 我が子を後ろからそっと抱きかかえながら考える。

 夕方という寂れた時間は胸に小さな穴をあけ、どこか寂しい気持ちにさせてしまう。

 

「おかあさん?」

 

 幼い声音で呼びかけられてはっと我にかえる。

 純真無垢な瞳に見つめられ、脳内で巡っていた思考が現実に引き戻された。夕焼けは一層濃くなり始めている。

 

「……大丈夫ですよ。おかあさんは……“凛世”は、ここにいます」

 

 もう一度頭を撫でて立ち上がり、凛世は長く伸びた髪をふわりと揺らして空を見た。

 

 青を喰らう紅。無情に染まりゆく夕日の空。もうあの頃は、輝いていた青い春はどこにもない。

 けれども凛世はここにいる。自身の考え得る限りで一番の、最高の幸せをつかみ取ることが出来たと思う。青春はなくとも、放課後はなくとも、歩んできた道は確かに凛世の胸の内に残っていた。

 

 時間が止まれば良い、この時が永遠に続けばいい、そんな風に思っていた時期に対して、今は。

 

「帰りましょう……世成」

 

 進めば進むほど幸せを感じられる世界に停滞は必要ない。しかしそれは昔を蔑ろにするわけでも、あの頃の切ない感情を否定するわけでも無かった。

 ただ、とにかく。今この瞬間の一つ一つが幸せなのだと胸を張って言えることを噛みしめながら生きていけばいい。先も過去も考えずに、今を進めばいいのだ。迷った時にはいつだって、勇気をくれる仲間がいたのだから。

 

「……世成。もし、おにいちゃんになるのなら……」

「おにいちゃん?」

「いえ、なんでもありません。行きましょう」

 

 “今を視る”。

 

 それが凛世の答え。

 あの日の群青に対する、答えであった。

 

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