『頑張っても自分が認められない人っていると思います。わたしもまだ、頑張ってる途中だから……もっと頑張らなきゃって、周りを見てずっと焦ってました』
『だけどわたし、最近……少しだけ。自分の頑張りを認められるようになったんです。たとえどんな結果になっても、わたしのやってきたことは全部無駄なんかじゃない、ダメなんかじゃないって』
『だから、頑張ります。どんな結果になっても、無駄じゃなかったっていえるように……もっと、良い福丸小糸になって!』
――――――――――
福丸小糸。283プロダクションの新生アイドルユニット『ノクチル』のメンバー、サインは控えめで可愛らしい丸文字の上にウサギの顔が描かれたもの。
「福丸さーん、ちょっといー?」
「ぴゃいっ!? ……な、なあに?」
言動、常に挙動不審気味。
他のメンバーと並べた際の身長やその立ち振る舞いから「小動物っぽい」と言われることが多い。
「古文の吉田センセイがなんか呼んでた。昼休みに来てだって」
「あ、そうなんだ……お、教えてくれて、ありがとう」
「ん、じゃあ。そんだけだから」
通う高校はノクチルのメンバーである浅倉、樋口、市川と同じ。現在は高校一年生にしてアイドル活動もこなしている。
「なに話してたん?」
「いやー、別に? 教師に伝言頼まれただけ」
「ふーん……」
真面目で努力家。人によっては庇護欲を刺激されることもある、という噂。
「福丸さん、アイドルやってるんだよね?」
「そんな話あったなぁ、興味ないけど。浅倉先輩と樋口先輩と、あと市川さんと一緒にだっけ」
「そそ。アタシあれ知った時びっくりしたわぁ。ウチの学校にアイドル四人、しかも全員同じユニットって!」
「二週間くらい前でしょ、その話。『W.I.N.G.』ってやつに優勝して話題高騰、二年の間じゃ元々人気だったクールな先輩二人が更にキャー素敵―って感じ。市川さんもなんか男子に結構目ぇつけられてるらしいじゃん」
「いやアンタ興味ないって言いながらがっつりだなオイ」
四人揃って一躍有名人となれば、学校で注目されるのは当然のことだった。聞けば全員幼馴染みのアイドルユニット――同世代で興味を持たない人間のほうが珍しい。
ただ、そんな話題の中で福丸小糸という少女の立ち位置はというと。
「……もしかしてアンタ、ファン?」
「んー……なりかけくらい」
「マジか。じゃあ福丸さん同じクラスだし、話せて結構嬉しいんじゃないの?」
「え? そうだなー……」
女子生徒の一人が、机に向かって予習らしき行動をとっている小糸を見た。
「人によるかもしれないけど、他の人と比べてあんまりパッとしないっていうか。別にウチのクラスも福丸さんとそこまで仲良い人いないじゃん? なんともいえないかなぁ」
調子の変わらない声音で冷静に連ねられた感想。その後彼女たちの話題はすぐに別のものへとシフトしていき、『福丸小糸』の話題は柔らかく触れる程度で終わった。
「……」
小糸は変わらず勉強に集中している。
いつまでも耳に残る、『福丸小糸』の評価を頭の中で繰り返しながら。
――――――――――
「一応、許可は出た。来週から都合の良い日を教えてほしいってさ」
「は、はい……ありがとうございます、プロデューサーさん……!」
某日、283事務所にて。
今後の予定確認ということで、プロデューサーと小糸は向き合うように座って一枚の書類を見ていた。白紙の予定表、彼女の今後を刻んでいくスケジュール表だ。
「今週の水曜から全員でオーディションに向けたレッスンが始まるから、学校から直行して……終わるのがだいたい19時だ。先生は21時までなら大丈夫だって言っている……アイドルの体調を考慮して、二日に一度ならって条件付きで」
「わ、わかりました」
「だけど今週は足並み揃えて、四人に段階的に教えていきたいから……やるなら来週からだ。全部希望が通るかは分からないが、希望日にチェックを入れてくれ」
置かれたペンを手に取って、小糸は空白欄にスラスラと記入し始める。
「えっと……この日は大丈夫で、週末になるとテストが近いから……」
「……」
「……あの、プロデューサーさん」
「どうした?」
一日おきに線を引いていた手が止まった。プロデューサーのことを呼ぶ彼女の視線には不安が宿っている。
「これ、希望が通るわけじゃないんですよね。先生にも都合がありますし……だから、その」
「……一日おきっていう条件になるなら、どの日でも大丈夫だから全部チェックを入れたいってことか?」
「は、はい! わたしはどの日に入っても頑張りますから……!」
「わかった、そう伝えておくよ」
間隔をあけてのスケジュール。小糸自身が「頑張れる」と考えるのなら、どの日に入っても問題はないのだろう。プロデューサーは静かに頷いた。
しかし一つだけ気になる点がある。
「……小糸、テストが近いんじゃないか?」
「そ、そうですね。再来週の半ばから」
「……」
それでは来週から通常のレッスンに加えて個人レッスンも入ってしまっては、勉強に割く時間が短くなるのではないか。若干の不安を覚える。
今回の期間、ノクチルは新たな一歩を踏み出すために「有名アーティストの新曲MV」に出演する――ためのオーディションを受けることになっていた。
新曲のイメージに合った少年少女を探す、という名目でオーディション形式になったらしく、採用してもらえるなら駆け出しのユニットとしてこの上ない、いい経験になるだろう。
その練習を今週からスタートする、という話だったのだが。
「両立、できそうか?」
「……はい! 任せてください、このくらいよゆーです!」
小糸自らが、その練習量を増やせないかと数日前に尋ねてきた。
意欲的な姿勢は歓迎すべきだし、レッスンの講師も「熱意があっていいわねぇ」と言ってくれている。スケジュールを組むことに問題はない。
何があったか分からないけれど、小糸にとってその選択が過剰な負担になるのではないか――それだけが唯一の懸念すべき点だ。
(まあ、とりあえず今週のレッスンの様子を聞いてみようか)
少し心配なところもあるが、かといって彼女の熱意は否定できない。プロデューサーは小糸を信じて、全て印の刻まれた紙を受け取った。
「じゃあ、来週……ああ、始まるのは今週だな。頑張ろう、小糸」
「よ、よろしくお願いします! わたし、頑張りますから!」
『W.I.N.G.』を終えて最初のステップ。
彼女たちを精一杯支援できるようにと、プロデューサーも意気込むのだった。
―――――――――
タンタン、とシューズが床を踏み鳴らす音がする。
外は既に暗い。レッスン室には小糸だけが残っていた。
「いち、に、さん……たーん、たん、たーん……で、できた!」
まだ少しぎこちないステップを踏みながら、掛け声と共に体を動かす。小さな体には不慣れながらも確かなキレがある。
金曜日。時間は三回目のレッスンが終わって20分ほど経った頃。小糸は何度も同じ動きを刻み、覚えようと繰り返す。
「……ご、ろく、たーん。わん、つ、わん、つ……よしっ!」
繰り返し繰り返しの動きの中、肉体は一つのフレーズをしっかりと記憶していく。
「ふう……」
四人で教えてもらったときにあまり上手にできなかった部分、及第点は出されたが納得のいかなかった部分、皆はうまくできていた部分。
一つ一つを丁寧に、正確に。透と円香と雛菜に並べるよう、完璧な完成度を目指して。
「よし、もう一回……!」
「……」
「……? ぴゃっ!? ま、円香ちゃん……?」
タオルで汗を拭ってさあもう一度、とターンを決めようとすると、背後に円香が経っていた。既に制服に着替えている彼女は真っ直ぐに小糸を見ている。。
「まだやってたの、小糸」
「う、うん。もうちょっとだけ、練習したくて……」
「そう、頑張ってね。……でもあんまり遅くなると危ないから」
「……もうすぐ帰るから、大丈夫だよ!」
少し強めに言うと、円香は口を閉ざした。揺れた前髪がかかりそうな目はどこか優しい。
「……」
「……え、えっと」
やりづらさを感じる。
小糸の努力はみんなに追いつくためのもの。その努力をみんなに見られるというのは恥ずかしいというか、なんというか。
動くに動けない状態が数秒続いた。
ステップを踏むべきか硬直して悩む小糸をしばらく円香は見つめ、息を吐いて歩み寄ってくる。
「はい、これ」
「……えっ、またお菓子……いいの? 円香ちゃん」
「うん。いつも頑張ってるから、小糸は」
こうして彼女からお菓子を貰うのは何度目になるだろうか。
朝会ったときや学校から帰るとき、そして今みたいにレッスン室に残って練習を続けているとき。円香はよく、小糸だけにモノをくれるのだ。
「結構美味しいよ。でも溶けないうちに食べてね」
「う、うん……わかった。あ、ありがとね……!」
「冷蔵庫入れておかないと、三分で溶けるから」
「三分で!? ……早めに、食べようかな……」
「そうしなよ。……じゃ、ばいばい」
「ば、ばいばい!」
小糸がしっかりと渡したモノを受け取ったのを確認すると、円香はふっと微笑んでから踵を返して去っていく。
残された小糸の手中にあるのは、丸いチョコレート。静かになった室内の真ん中で彼女は小首を傾げた。
「……暑くないけど、ほんとに溶けちゃうのかな……?」
包み紙を見るが、特にこれといった注意書きは見当たらない。
サイズが一口で頬張ることができない程度には大きいけれど、夏場でもない今本当にこれが三分で溶けるか、と考えると疑問だ。
「でも、円香ちゃんがそう言うなら……三分……」
大きさ的にすぐ食べきれるものでもない。キャラメル入りと書かれているから、味わうのにも時間がかかるだろう。これを食べながら練習するのは難しそうだった。
(……じゃあ、あと一回だけ……!)
部屋の隅にあった鞄の上にチョコレートを置く。あと一分程度練習して、それから食べて帰ろう――そう考えて小糸はその日、もう少し長く続ける予定だった自主練を短く切り上げた。
――――――――
「二人とも。先週のレッスン、どうだった?」
「まぁまぁ。……うん、そんな感じ」
「わ、わたしも……!」
「そうか。それなら良かった」
プロデューサーと透、そして小糸の三人。
事務室で談笑する少女二人に、デスクに向き合ったままのプロデューサーが声をかけていた。
「なんか楽しいね、あのダンス。新鮮っぽい」
「はは、新鮮っぽい、か。オーディションで採用されたら、振り付けがそのままMVに使われるらしいからな。だんだん難しくなるとは思うが……頑張ってくれ」
「……」
スマホを構いながら会話をする透。彼女はいつも通りだ。
プロデューサーは小糸がいつもより大人しい気がして、一旦仕事の手を止めて顔を上げる。
「小糸?」
「ぴぇっ!? な、なななんですかプロデューサーさん!」
「い、いや、静かだからどうしたのかなと……」
しばらく見ていなかった動揺っぷりに、逆にプロデューサーが驚く。出会って間もない頃のような慌て方だった。
「ど、どうもしてないですよ! 全然、大丈夫です!」
「……そっか。小糸も頑張ろうな」
「はい……!」
「あ」
それまでスマホの画面を見ていた透が短く声をあげ、わざわざ二人に見えるよう画面を前方に向ける。どうやら着信が入ったらしい。
「樋口から。はい、もしもし? え、何」
その場で通話を開始したが、電話の向こうからやや不機嫌そうな感じの声が聞こえてくるのが小糸には分かった。
くじ引きの結果、小道具用の備品買い出しを円香と雛菜で行ったのだ。その帰りにかけてきたのだろう。
「そう? あー。……うん、わかった。じゃあね」
「ま、円香ちゃん、なんて言ってたの?」
「え。うーん」
通話を終了して、かけられた問いに真顔のまま思考する透。彼女は腰に手を当てて少し考え、あっけらかんとして答えた。
「雛菜が荷物持たないから手伝ってってさ。行ってくる」
「えっ!? じゃ、じゃあわたしが行くよ……?」
「いいよ。私が行ってくるから、小糸は待ってて。マッハで帰る」
あまり聞かなくなった言い回しを残して、しかしマッハというにはマイペースすぎる速度で彼女は部屋を出ていってしまう。室内の存在はプロデューサーと小糸だけになり、小糸は机に向かうプロデューサーの様子が気になって少し近づいてみる。
おそらく今度のオーディションや、それ以外の仕事の書類がそこそこの数積まれていた。
「これ、MVの……ですよね」
「ああ。そろそろ音源が届くから、それ関連の書類だな。……あ。今日からだったよな、個人レッスン」
前方のカレンダーを見る。普段みんなが見るように記された黒丸と、その下に小さく赤いチェックが書かれていた。土日の休息を挟んで、彼女たちのレッスンは本格的にスタートしていく頃合いだ。
「単純に拘束時間が伸びるけど、本当に大丈夫……だな?」
「は、はい。よゆーでへっちゃらですよ! そのためにせんしゅ……あ、いえ、何でもないです!」
「……夜も遅いから、俺も残るよ。帰りは送るからさ」
「え……そ、そんな……いいですよ、わたし一人で帰れますから。プロデューサーさんも、お仕事あるのに」
「そうは言ってもな、時間が時間だし。何かあってからじゃ遅いだろ? それに」
今日は月曜日。カレンダーの赤いチェックは以前の条件通り、一日おきに記されている。あまり期間が長くない上、テストと被る関係で土曜日にも入っているため、スケジュールとしては少しハードかもしれない。
「小糸が頑張っているところ、俺もちゃんと見ておかなきゃと思って」
「……プロデューサーさん……」
「だから、いいだろ? そういうことだ」
「も、もう……本当にプロデューサーさんは、わたしがいないとだめだめなんですから……!」
このやり取りも何度目になるだろうか。
『だめだめ』。小糸がその言葉を口にするとき、決まって彼女は嬉しそうだった。
――――――――
月曜日。先週はほとんど前奏の部分のみを集中して躍っていたけど、四人全員しっかり覚えたようなので次のパートに移りました。
皆教えたところを次々とマスターしていくし、本当に筋が良い。さすがアイドルって感じがします。特に浅倉さんと市川さんは、細部を気にしなければほぼ完璧。樋口さんも上手にできてるし、福丸さんも難しいと感じるところはあるみたいだけど、個人レッスンの時間にみんなと同じくらい上達しましたよ。
火曜日。樋口さんがすごく上手になったと感じました。自主練習でもしたのかな? 感覚的に踊っている浅倉さんと市川さんに教えられるくらい上達している。福丸さんもさすがの練習量というべきか、問題なし。これからが楽しみです。
水曜日。樋口さん、細かい部分を二人にたまに指摘していますが頼りになりますね。もしかして私、必要ないかも、なんて。
個人レッスンでは福丸さんがあんまりにも頑張るものだから、ちょっと先まで教えちゃった。熱意がある子っていいですよね。
木曜日。先にパートを教えていたので福丸さんが随分余裕をもってレッスンに臨んでいたように思えました。
選考が厳しいみたいだから慎重に進めているけど、この勢いだと明日には一通り教え終わりそう。
金曜日。昨日言った通り、振り付け自体は最後まで終わりましたよ、プロデューサーさん。みんな呑み込みが早いし頑張る子も多いから、私も楽しくできました。
ただ、そこまで焦る必要はなさそう、と福丸さんに伝えたんだけど、やっぱりあの子すごく頑張り屋さんですね。最後までやり遂げました。明日のレッスンは短く設定しているので、終わったら一週間の報告をしますね。
土曜日。曲に合わせて最初から通してみましたが、バッチリです! 来週はテストが水曜日にあるんでしたよね、しばらくは時間短縮でレッスンにします。この調子ならオーディション、余裕でいけるんじゃないかと私は思いますよ!
―― ―― ―
「ねー、テスト勉強してるー? 今日明日過ぎたらもうテスト始まっちゃうけど」
「微妙。ぶっちゃけやる気出ん。バイトで忙しくってさ」
「いや勉強しろよアンタは……赤点とってもアタシしーらない」
「ま、なんとかなるって」
カリカリと、ノートの上にシャーペンを走らせる
「……」
「~?」
「…………」
「――ちゃん~?」
「…………」
「――小糸ちゃ~ん」
「……? ぴぇっ!? ひ、雛菜ちゃん……!?」
「あは~~~、やっと気づいてくれた~~~」
意識が現実に一瞬で引き戻された。机の向かいからひょっこり顔を出す雛菜は、しばらく小糸を呼び掛けていたようで、ようやく反応したことに嬉しそうに笑っている。
全然気が付かなかった。
「小糸ちゃん、何回呼んでも返事してくれないから、雛菜のこと嫌いになったかも~って思っちゃった~~~」
「ごっ! ごごごごめんね雛菜ちゃん! ぜ、全然そんなことないから! ちょっとだけ、ちょっとだけぼーっとしてただけだから!」
「いいよ~~~。雛菜、そういうの気にしないから。それより~~~、早くレッスンいこ~~~?」
「レッスン……? まだお昼休みだよ、雛菜ちゃ――え?」
雛菜がわざわざ誘いにくるのは珍しい。どういう風の吹き回しか分からないが、それよりも小糸は教室の時計を見て愕然とした。
昼休みどころではない。放課後になって既に30分ほど経過している。
「え、え、あれ……? もう放課後?」
「そうだよ? だからいこ~~~?」
「う、うん! ごめんねすぐに行くから……!」
つい数秒前、雛菜に話しかけられる直前までは昼休み――もっと言えば四限の授業が終わった頃だったはずなのに。いつの間に昼休みも午後の授業も終わって放課後になっていたというのか。
(……あれ……?)
先程まで書いていた勉強用のノートを見返す。全く進んでいない。
(ね、寝てた……のかな……)
疑問符を一人で浮かべながら学校を出る準備をする。
しかし寝ていたにしても、昼休みと五限の間にある掃除の時間などの記憶もない。教室も掃除するのだから、ずっと座って寝ているのは不可能だ。
「……? 小糸ちゃん~~~」
「あっ! い、今行くよ!」
よくわからない。
その時の小糸の脳内は、抜け落ちた記憶の部分、覚えていない授業に対する不安だけだった。
福丸小糸は努力家である。
他者からすれば、その努力こそが。努力できることこそが彼女のもつ『才能』だとすらいえるほどの努力家である。
小さい頃から勉学に励み、成績でいえば常に高い位置にいた。そうまでして彼女が勉強を続けてきた理由は、初めこそ親の教育の一環であったが――今となっては彼女の誇れる武器の一つとなっている。
頑張ることができるモノ、彼女にとってそれは勉強だった。だから励んで、励んで、親の示すとおり良い中学へ進んだ。
結果、友を失った。
幼い時からずっと一緒だった三人と、福丸小糸が唯一信頼における相手だった幼馴染みのグループとは別の中学へ進んでしまったことで、彼女は灰色の生活を三年間過ごした。今頃みんなは何をしているのだろう、元気だろうか。そんなことばかりを考えて過ごす日々が続き、ただ『頑張った』勉強だけが彼女の身に重くのしかかっていく。
苦痛だった。一人が怖かった。自分はあの輪にいなければいけないと確信した。
だから高校は意地でもみんなと同じところにしようと、生まれて初めて、努力と勉学とは関係のない道を選択したのだ。
再びみんなと一緒になって、楽しかったあの頃が戻ってきてようやく悟った。追いかけないといつかまた置いて行かれてしまうことを。なんでもこなして、格好良くて可愛くて、そんな三つの背中をずっと追わなければ、福丸小糸という少女は今度こそ追いつけなくなることを。
離れたくない。
透がアイドルをする、と突然言い出して。追うように円香も雛菜も事務所へ向かった。自分も行かなければ。四人一緒じゃないとダメだ、ダメなんだと、何度も言い聞かせて。何をするのかも分からないアイドルに、親から真実を隠してでもなった。
いつどこでバレるのかも分からない、友達と一緒に居なければという使命感だけで始めたアイドル。正直苦しかったし、どのタイミングで終わってもおかしくない道だった。
『小糸に黙って、小糸の家に電話させてもらった』
あの人に――プロデューサーにそう言われたとき、ああ終わったんだと思ってしまった。
初めは何とも思わなかったアイドル活動。けれどそれはだんだん、彼女の中で何かを変えるほど大きな意味を持つようになって。
『小糸がアイドルを始めてから、本当に一生懸命レッスンしてたのを見てきた』
『いつも真面目でひたむきで……だからきっとみんな、小糸を応援したくなる』
『――小糸は、アイドルに向いてるよ』
何もなかった、来る日も来る日も勉強しかなかった自分に、彼はそうやって言葉をかけてくれたのだ。
みんなと一緒になってレッスンに取り組む時間が楽しくて、自分も少しだけみんなと同じ特別になれたような気がして。
『だめだった時はまた一緒に考えよう。な?』
嘘をついていた自分を叱るどころか、『勝手に親に連絡してしまった』と彼は謝罪までしてくれた。その上、親との話し合いの場にもきてくれて、一緒に説得してくれた。
理想像も持たず、信念もなかった小糸がアイドルを続けることを――親が認めてくれた。彼のお陰で、認めてもらえたのだ。
なりたいと思った。支えてくれる彼に笑顔で振り向けるようなアイドルに。
頑張りたいと思った。みんなと一緒にいられる、この『特別』な世界を。
アイドルと勉強の両立。親との約束を守ったうえでの活動が正式にスタートした。
今までと同じ勉強量に加えてアイドルの活動となれば、心身にかかる負担は当然増える。けれど彼女はいつだってこう言うのだ――「全然平気です」と。
一種の魔法のようなものだ。平気、余裕、大丈夫。これらの言葉を口にする限り、福丸小糸は「みんなの横に普通に並び立てる少女」でいられる。
すごく頑張ったとか、とても大変だったとか。そんな感性は必要ない。憧れるみんなと同じくらい自分もできて、それで初めて「普通」になれるのだ。だってみんなは、自分が頑張ったくらいのところに常にいる『特別』だから。
『だけど、結果がどんなものでも、小糸が頑張ったってことは絶対に変わらないよ』
『努力ができるってことも、特別な才能のひとつだ』
そして、初めてそんな言葉をもらって、もしかしたら、と思った。
何にもなれない自分にも、『特別』があったのかもしれないと。誰よりも頑張ることのできる才能を、今までの頑張りで作っていたのかもと思った。
『今までのことも、こうして練習していることも――無駄なことなんてひとつも無い』
真っ直ぐに言葉を、ずっと心が欲しがっていた言葉をくれる彼に。
小糸はそのとき初めて、努力を認めた。
『わたしも、ちょっとだけ……。いつもよりちょっとだけ……すごく、頑張ってるなって思います』
そうして認めた努力と才能があったからこそ、彼女の努力は成果を残した。『W.I.N.G.』に優勝するという、大きな大きな、誰よりも特別な成果を。
『間違ってなかったってことですよね……わたしの、今までの全部……!』
小さな切っ掛けから始まった出来事が、彼女の全てを肯定してくれた。
そして気づいた――どんなアイドルになれるのか。福丸小糸は何になれるのか。
――自分のようになんとなく居場所がないと思う人たちが
――自分を応援して、仲間がいっぱいいて楽しいと思えて
――そんな場所がみんなと自分の居場所になればいい
そんなアイドルになりたくなった。
『小糸はもう、なってるよ。……そういうアイドルに、もうなってる』
それすらも肯定されて、もっと自分は頑張れるのだと信じることができた。
――だから頑張って、頑張って頑張ることにした。
誰かの居場所を作れるようなアイドルになるための努力を。みんなと一緒に過ごす時間を持ちながら、自分にしかできない特別を作っていくために。
結果、小糸は『頑張った』。
MV出演権獲得のためのオーディション。相当ハードルの高い審査があるということで、トレーナーも気合が入っていた。個人レッスンの時間も欲しいという申し出は、なかなかにいいタイミングだったと思う。
テストが近い。全教科万点くらいとれなければ、という勢いでいつも以上に勉強した。本来行くはずだった高校に比べれば幾らか簡単だけれど、ケアレスミスをして親に「アイドル活動にうつつを抜かしていた」と思われたくないから。
以前のレッスンよりも難しい内容のダンスレッスン。一人だけオーディションに落ちるなんてあってはならない。だから個人レッスンも可能な限り入れてもらった。
個人レッスンが始まる前の週は不安だったから、金曜日を除いて遅くまで残って自主練に励んだ。そうすれば個人レッスンが始まっても、ある程度ハードなスケジュールにも体が慣れていくはずだから。
帰りが遅くなって、勉強の時間が押した場合削られるのは睡眠時間。『W.I.N.G.』のあとも慌ただしかったから、その間にできなかった勉強もしなければならない。テストさえ終われば時間に少しは余裕ができるからと、出来る限り就寝を遅くして起床を早めた。
レッスン。勉強。みんなと一緒に過ごす時間も忘れずに、その時間が長くなって勉強時間が減るのもまずいので、寝る時間を削って。今までは比較的健康な生活を送ってきた小糸の生活リズムは、かなり過酷なものになっていった。
頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、頑張った。
どうしてそこまでしなければならなかったのか。あの言葉が忘れられないからだ。
『人によるかもしれないけど、他の人と比べてあんまりパッとしないっていうか。別にウチのクラスも福丸さんとそこまで仲良い人いないじゃん? なんともいえないかなぁ』
みんなとアイドルをしていることが学校に知れ渡って、並び立っていると思えた矢先に聞いてしまった言葉。結局、自分はまだ全然「普通」に届いていないのではないか――そんな不安を埋めるようにして、小糸はとにかく頑張る道を選んだのだ。
だって、誰よりも頑張れることが自分の才能だから――そう信じて。
少しずつ切れていく心の糸に気付かず、彼女は――。
――
「――小糸! 大丈夫か!?」
「……ん、……ぴゃぁっ!?」
「おぉっ――痛っ!」
「ぴゃぁあっ! い、いたた……え、えっ……あれ?」
突然開けた視界の中にプロデューサーがいて、驚きのあまり跳ね起きてしまった。彼の額と小糸の額が衝突し、鈍い音が頭蓋に響く。
寝起きに衝撃と刺激を受け、小糸の意識は半ば強引に覚醒した。
「ここ、事務所……です、よね」
「お、おぉ……そうだけど、今のは大丈夫なのか……?」
「……あ、ご、ごめんなさいプロデューサーさん! びっくりしちゃって……」
「いや。元気そうならいいんだ」
彼は額をさすりながら小糸の心配をしてくれている。
けれど小糸にはわからない。何を心配されているのか――そもそも、なぜ自分は事務室のソファで寝ているのか。
「……小糸。どこまで覚えてる?」
「どこまでって……」
「雛菜と遅れて来て、先にレッスンに向かった雛菜を追いかけようとして……部屋を出る直前に急に倒れたんだ」
「え……」
記憶にない。記憶がない。
雛菜と一緒に教室を出たところまでしか覚えていない。
「……すごく疲れているんじゃないか、小糸」
「そ、そんなことないですよ! 今だって全然、ほら! よゆーで!」
「目の下の隈、すごいぞ」
「ぴぇっ!? え、コンシーラーで隠してたのに……」
「……すまん、嘘だ」
「なんだ嘘ですか、びっくりしましたよプロデューサーさん! ――あ」
思わず目の下に手を当てて確認し、失言に気付いて動きが止まる。
睡眠不足なのは分かっていた。だから外見で無理しているのがわからないよう、自分でチェックして隠していたのだ。
「最近、動きが鈍かったり反応がなかったり、大丈夫かなって思うことはあったんだ。……やっぱり、ちゃんと寝てないんだな」
「い、いえ、その……。……はい、そうです……」
プロデューサーが渋い顔をする。上塗りして顔の様子は隠せても、言動までは隠せていなかったらしい。
それ以前に。最近の記憶が飛び飛びな気がしてきた。まともに熟睡していなかったせいだというのか。
「――すまん、小糸」
どんな説教を受けるのか、と覚悟していた小糸に飛んできた言葉は謝罪だった。それはいつか彼がしたときと同じように、小糸からすれば彼は全く悪くないはずなのに出た言葉で。
「……無理しているって、分かってはいたんだ。テストだってあるのに、誰だってあのスケジュールはハードだよ。本当は止めないとって思ってた……でも、今までで一番頑張ろうとする小糸を見ていると、止められなかったんだ」
「……」
「こんなに、倒れるまで疲れているのに……本当にすまん」
「ちが、違うんです! プロデューサーさんは全然悪くなんかありません!」
全て己を追い込んだ自己責任なのに。どうして彼はそこまで苦しい表情をしているというのだろう。
全部、本当は苦しかったのに無理をし続けてきて――そのうえで「大丈夫」と取り繕っていた自分が悪いのに。
小糸はぎゅっと、拳を握り締めた。
「わたし、その……怖かったんです……」
「怖い?」
怖かった。
いくら頑張って、どんな結果を出そうと、それがどれだけ無駄じゃなかったとしても、周りの評価は変わらないのではないか。
結局、特別になれたと思っているのは自分だけで、本当はもっと頑張らないとみんなの「普通」に届いていないのではないか。
怖かった。一度聞いてしまった言葉が首を絞めつけるようで怖かった。
「学校で、わたしだけアイドルになってもパッとしないって聞いちゃって……最初はそんなことないって思ってたんです。プロデューサーさんに、私にしかできないことを教えてもらいましたから」
誰よりも頑張ることのできる才能。きっと、小糸はそれを本当に持っている。
だってプロデューサーがそう言ってくれたから、それが小糸の特別なんだと思った。
「でも、分からなくなったんです。頑張っても頑張っても、それが分かるのはわたしじゃないですか……みんなにとってわたしって、周りの人にとって、わたしって……」
――ただノクチルにいるだけの一人。
「おかしい、ですよね。あんなに応援してくれるファンの人がいて、プロデューサーさんにも励ましてもらったのに……わたし、間違ってますよね……」
没個性。無個性。
裏の努力が見えない人間からすれば、彼女はただユニットの一員としか見られない。そんな考えがずっと小糸の頭を縛り付けていた。
「だからプロデューサーさんは悪くなんかありません……! わたしが……」
言ってはいけない。
「わたしがみんなと違って」
それを言えば認めることになる。
「みんなと違って……っ」
涙がひとつ、頬をつたう。それを合図に小糸の張り詰めていた心は完全に決壊した。
抑えていた、言いたくなかったことが口からあふれ出す。
「わたしが特別なんかじゃなくて、みんなの隣にいるべきじゃない、『普通』の人間だから……っ!」
――ついに言ってしまったと、心に釘を穿たれたような喪失感と痛みを覚えた。
才能のある三人を追いかける自分。決して世間体とかそんなものを気にしているわけではなく、純粋にみんなといるあの空間が大好きだから、もう離れたくなくて頑張ってきた。
しかしいくら結果を残そうと、こんな些細なことで気にしてしまう。福丸小糸はみんなに比べて地味で、すごいところが無いように見えてしまう人間だと。
本当の意味で、普通だと。
「……」
涙がぽろぽろと溢れる。拭ってもきっと止まらない。
拳を握ったまま、強張った体で。小糸は行き場のない思いを吐き続けた。
「頑張りました、頑張ってます! 『W.I.N.G.』のときも、今回も……わたし、自分にできる精一杯をやってきました。けどやっぱりみんなにとって、わたしの努力は普通なんです!」
「……小糸……」
「結局わたしは、頑張ることしか……できないんです……」
おそるおそる見上げると、先ほどよりもっと苦しそうな顔をするプロデューサーがいた。自分のわがままでこんな表情をさせてはいけないのにと、更に心が重くなる。
「……小糸」
「……」
吐いてしまった気持ちが戻らない。こぼれたまま、心が治る気がしない。
プロデューサーはしばらく黙って両の瞳で見据え、表情を変えずに口を開いた。
「……テストが終わるまで、レッスンは休みにしよう」
「――え」
「終わってから再開だ。幸い、みんなの覚えがよかったおかげでペース配分に問題はない……どころか、調子が良すぎるくらいなんだ。落ち着くまで勉強に専念して、それでもう一度頑張ろう」
「で、でも!」
「小糸だけじゃない、ノクチル全員だよ。円香は透の成績を心配していたみたいだし、雛菜も休みが欲しいと言っていたからな。金曜までの火水木の三日間、臨時の休暇だ」
「……」
優しい口調と声音。
けれど瞳は暗く、表情は苦しいまま。
小糸は何も言えなかった。もう、平気とも大丈夫とも言えない。
ただ静かに、時が過ぎて行くのを感じるだけだった。
―
プロデューサーは小糸が倒れたことを誰にも言わなかったらしく、みんなにも、親にも心配されることはなかった。誰かに言えば――特に家に伝えたら揉めることを分かっていたからだろう。
「……」
テストが終わった翌日にまた、いつものように事務室まで来てほしい。あの場で彼が最後に残した言葉だ。
レッスンがない。寝不足で少し遅れ気味だった勉強も、レッスンがないだけで驚くほど捗った。睡眠時間もある程度は確保している。倒れたり、寝ぼけて意識が飛んだりする心配はもうない。
(……でも)
教室に向かう廊下を歩きながら考える。
結局この休みは、その場しのぎでしかない。問題を先送りにしただけだ。福丸小糸という少女は、この調子だとまたどこかで同じ問題に直面する。
しかしあの調子でいくと、両立できていたか怪しかった。プロデューサーの判断は間違っていない。テストは無事に終了した。全教科、この上ない好成績を収められただろう。
(でも、これで明日戻っても……)
山を一つ乗り越えただけ。
『努力しかできない』から『特別に見えない』問題は解決していない。小糸自身が抱え続けている『みんなみたいな特別』は、未だにないままなのだ。
「……」
「あ、あの」
「ぴゃっ!?」
のろのろと俯きがちに歩いていると、背後から聞き覚えのない声がかかった。
振り向いた先にいたのは一人の女子生徒。見覚えがあるようなないような――少なくとも、同じクラスではない。
「落としたよ、こ、これ」
「あ、わたしの筆箱……」
彼女がもっていたのは、先ほどまで教科書と一緒に抱き留めていたはずの筆箱。いつの間に落としたのだろう。おずおずと差し出されるそれを受け取って、小糸は深くお辞儀をした。
「あ、ありがとうございます」
「そんな大したことしてないから……か、顔上げて、福丸さん」
「……え、」
どうして名前を――と言いかけて納得する。ノクチルの名はそれなりに広まっているのだから、名前くらいは知られているに違いない。
クラスの人もアイドルをしていることは知っていた。ただ、それだけだったが。
「あのね、私……ずっと話してみたかったんだ、おこがましいかもしれないんだけど、福丸さんと」
「……?」
何かの聞き間違いだろうか。透や円香や雛菜が似たようなことを生徒から言われる姿は何度か目にしたが、自分に向かってこんな台詞がとんできたことは一度もない。
「ほ、ほんとだよ! 『W.I.N.G.』優勝に向けて活動してるときから知ってるもん! ノクチルのことも、福丸さん……ううん、アイドルの、小糸ちゃんのことも!」
声の調子を上げた女子生徒が距離を詰めてくる。彼女の瞳は至って真面目だった。
「私もともと、283プロダクションの放クラが好きだったの。だから新しいユニットができるって聞いて、結成の時からずっと見てたんだ」
「そ、そうなんだ……でも、なんでわたしを……?」
「ラジオ番組に出演していたこと、あったよね。あの時の言葉、私……すごく感動して、共感できたんだ。だから――」
すぅ、と息を吸い込んで。
彼女は優しく嬉しそうに告げた。
「――私、あなたのファンになったんです」
脳に響く。
いつか響いた言葉と同じように、だけれど優しく。
「『頑張っても自分が認められない人っていると思います』……って、言ってたよね」
「……うん、言って……た」
深夜に放送する予定のトークラジオ。今でもよく覚えている。
『W.I.N.G.』の4シーズン目に急遽入った仕事で、「今の自分から視聴者への意気込みを」という題材で放った言葉。
『頑張っても自分が認められない人っていると思います。わたしもまだ、頑張ってる途中だから……もっと頑張らなきゃって、周りを見てずっと焦ってました』
まだ準決勝すらどうなるか分からない、それ以前に本戦にいけるかもわからないとき、素直に吐露した心の中。
『だけどわたし、最近……少しだけ。自分の頑張りを認められるようになったんです。たとえどんな結果になっても、わたしのやってきたことは全部無駄なんかじゃない、ダメなんかじゃないって』
プロデューサーの言葉が大きな支えになって、頑張ろうと思えたから。
『だから、頑張ります。どんな結果になっても、無駄じゃなかったっていえるように……もっと、良い福丸小糸になって!』
無駄なんかない。そんな彼の言葉を信じて、意気込んだのだ。
「私も、自分に自信がなくて。取り柄もないし趣味もそんなにないし……だけど、小糸ちゃんの言葉を聞いて……頑張っていいんだなって思えたの」
「わたしの、言葉……」
「だからずっと話したかった。同じ学校って知ってすごく嬉しかったけど……やっぱり、アイドルって眩しいね」
「……ま、まぶしい?」
目をぱちぱちさせて、信じられないといった表情をする小糸。
そんな言葉も初めてで、馴染みが全くない。
「眩しいよ! 小糸ちゃん可愛いし、いつも頑張ってるし、ノクチルの皆さんに負けないくらい輝いてる!」
「え、えっと……その……」
「あ――ごめん! ご、ごめんね、一人で勝手に盛り上がっちゃって」
興奮した様子で手を握ってきた女子生徒は、我に返ると恥ずかしそうに眼を逸らして言う。なんと返したものかと思考停止する小糸をよそに、彼女はだんだんと後退し始めた。
「ほんとごめんね! は、話せて嬉しかったよ……! じゃあね! 頑張って!」
「ぴゃっ、ちょ、ちょっと待――」
制止する暇もなく駆けていく。あまりに速すぎて追いかけることすらままならなかった。
「……わたしの……」
止めようと伸ばした手が虚空に浮き、つい数分前まで沈んでいたはずの心もよくわからない心地になっている。温まる何かだけが胸中に宿って、小糸は茫然と立ちつくす。
「……あれ、小糸?」
「ぴゃい! ……あ、円香ちゃん」
今度は反対から聞き覚えのある声がして振り返る。声から予想していたとおり、そこには円香がいた。
「テスト。どうだったの」
「え、テスト? なんとか――あ、よ、よゆーだったよ!」
「そう……頑張ってたもんね」
いつもと同じ柔らかい表情。稀に彼女のことを怖いという人もいるそうだが、小糸は優しく、人のことを気遣ってくれる円香にあこがれていた。
――小糸はいつも頑張ってて、偉いね。
いつかも、そんなふうに言われたのを覚えている。
「……あの、円香ちゃん」
「なに?」
「わたしって……」
聞いていいのか、この問いを投げてもいいのか。
これを円香たちに聞いてしまうのは、みんなといる時にある小糸の「普通」が崩れる可能性を孕んでいる。
それでも――
「――わたしって、頑張ってる……のか……な」
心が前に進むのを感じた。
だから絶対に出ないような言葉も、口から出た。
「……何言ってるの」
対して円香は、表情を変えずに息を吐く。
もしや不機嫌にしてしまったのではないか―――そう慌てる小糸の頭にポン、と円香が手を置いた。
「――言うまでもないでしょ」
「……円香ちゃん、それって……」
「ほら、帰るよ。テストも終わったんだから」
「えっ、う、うん……。ご、ごめんね円香ちゃん。今日はちょっと……事務所にいってくるから」
「……事務所? レッスン、明日じゃなかった?」
「そうだけど! ……プロデューサーさんに、用事が」
「あぁ――……」
「ま、円香ちゃん?」
「あの人には事務所を動かないよう言っといたから。行ってらっしゃい」
突然スマホを取り出して何かを打ち込んだ円香は、少しだけ怖かった。鬼の形相という言葉を当てはめるとするならば、あんな表情が正しいのかもしれない――そう思えるくらいには。
――――――――――
「――プロデューサーさん! お、おはようございます!」
「おはよう……というか、そろそろこんばんは、だな」
「あ……業界ではどこもおはようだって、透ちゃんがこの前話してたから、つい……」
「はは、まあ確かに間違ってないかもしれないけどな」
円香と別れてすぐ、小糸は283事務所まで向かった。レッスンは明日からで、今日は家に帰って休む日のはずだが、それでも小糸は今プロデューサーのところに行かなければならないと思ったのだ。
「……テスト、どうだったんだ?」
「……よゆーでした。本当に全然、へっちゃらです」
「そっか。やっぱり小糸はすごいな」
「……プロデューサーさん、わたし……」
入り口から歩いて、彼のいるところまで向かう。プロデューサーはいつものように仕事をしており、相変わらず机の上には書類が大量に積まれていた。
机の前までやってきた小糸は、プロデューサーの目を真っ直ぐ見る。
「ごめんなさい、プロデューサーさん。やっぱりわたしが悪くて、プロデューサーさんが謝る必要はなかったんです」
「……俺こそ、結局何も答えを出せなくてごめん」
「そ、そんなことないです! プロデューサーさんが気を遣ってくださったおかげで……わたし、見えなかったものが少しだけ見えました」
今日会った女子生徒のことを思い出す。確かに福丸小糸は、何も知らない人がノクチルを見たとき――特に四人の生活する様子を見たとき、「勉強ができる」程度の印象しか残らないのかもしれない。
その評価は決して偏見などではないし、小糸自身がコンプレックスを抱いているのも事実だった。
「わたし、自分はだめだめで……何もできないって、頑張る事だけが取り柄だって。でも頑張ってもまだ、みんなには届かないんだって思ってました。だからもっと頑張らないとって、ずっと……」
「……うん」
「だけど今日、ちょっとだけ分かりました」
合っているかは分からない。結局、根本的な問題は解決していない気がする。
それでも小糸は自分の中に見つけた言葉を吐いた。
「わたしにしか言えないことがある、わたしだけが伝えられる思いがある――前にわたしが言った、なりたいアイドル……居場所を作ることともう一つ、です」
小糸を応援することで、ライブで一緒になれる仲間ができて。そんなみんなの居場所を作ることが、福丸小糸にできるアイドルで。
だからそれにもうひとつ、できることを見つけたのだ。
「何かを目指してちょっとだけ――いえ、すごく頑張ってきた……そんなわたしだから。自分の頑張りを見失っている人を勇気づけることができる気がしたんです」
「……そうだな、小糸」
「はい……今はまだ、全然かもしれないですけど……わたし、もっと頑張ります。頑張って、もっと良い福丸小糸になって……頑張ったことは間違いなんかじゃないって、みんなに伝えられるようになります!」
切れ良く言い切って、小糸は少し恥ずかしくなって口を閉ざす。
そんな様子を見てプロデューサーは、優しく微笑んだ。
「ありがとう、小糸」
「ぴぇ!? な、なんでプロデューサーさんがお礼を言うんですか……?」
「俺も今の言葉で頑張ろうって思えたからだよ」
彼は静かに立ち上がると、机を周って小糸の隣までやってくる。
「やっぱり、小糸はすごいよ。頑張ってるし、何より……自分を持ってる」
「え、えへへ……そ、そうですかね」
「ああ。今はみんなには届かないかもしれないし、納得もいかないかもしれない。だけど小糸ならいつかきっと、今よりもっと――良い、『福丸小糸』になれる」
「……本当、ですか?」
「本当だ。俺は嘘はつかない」
「――そうですよね、プロデューサーさんはいつだって、わたしに本当をくれますから……!」
夕焼けが窓からオレンジ色を差し込み、事務室が黒と橙色に彩られていた。二人は笑顔を向き合わせ、笑い合う。小糸の心にわだかまっていたものは確かに、少しずつ消えていっていた。
「……でも、頑張りたいものは頑張りたいんだよな。明日からどうするかなんだけど」
「はい……結局、それは」
「この前すごく、今までで一番ってくらいに頑張ってただろ? でもあのまま行くと、小糸は全部頑張れなくなっていたかもしれない」
「……そうです、よね」
身体が壊れては元も子もない。それはこの間のことでよくわかった。
いくらファンを名乗る人物が現れたとして、小糸がまた何か噂などを聞いてしまって不安になったら。みんなに並べていないと、過度な頑張りを始めてしまったら――また同じことになる。
「やってきたことは無駄じゃない、って言ったな、俺」
「は、はい」
「それは否定しないけどさ、頑張れなくなるくらい頑張っちゃうのって、結果がまず残らないだろ。それは努力じゃなくて無謀って言うんだと思う」
「努力じゃなくて、無謀……」
「けど俺も、その境目は分からない。もしかしたら小糸はどこまでも頑張れるかもしれないし……だからひとつ、提案だ」
人差し指をピン、と立てて強調。小首を傾げる小糸に、プロデューサーは告げた。
「だめに……ああいや、だめだめにならないように、俺ももっと小糸のことを見るからさ。だから教えてくれ、すごく頑張らないといけないって思ったときは、素直にそう言ってほしいんだ。小糸が頑張るところ、誰よりも近くで見れるように……頑張るから」
一人で抱え込むからダメなのであって、二人で考えればいい、ということ。
頑張るという終わりの見えない行動は、下手をすれば身を滅ぼしてしまう。だから頑張りすぎてしまわないように、隣に居る存在が必要なのだ。
今まで小糸にはなかった、心を寄せられる存在が。
「俺も全然完璧なんかじゃないから、小糸が難しいって感じたことは全部教えてほしい。そしたら俺も頑張れるからさ……どうだ?」
「――本当にプロデューサーさんは、わたしがいないとだめだめなんですから」
「はは、そうだな。だめだめだよ」
「でも……」
夕日に照らされる中、小糸は今までで一番の笑みを向けた。それはこれからの未来に心を寄せるような暖かな笑みで、彼女は心が大きく弾むのを感じる。
「――わたしもプロデューサーさんがいないと、だめだめかもしれないです……!」
福丸小糸は明日もきっと、「普通でよゆーで平気」なのだというのだろう。
けれど明日からは少しだけ違う彼女が見られるはずだ。頑張ってみんなに追いついて、そうして得た言葉で誰かを励まそうとする彼女の姿が。
彼女が小糸であろうとしたその軌跡を、誰かの光にするように。