「リコール!」
自身の時間を巻き戻したことを高らかに宣言するトレーサーは、即座にブリンクで距離を詰め、すぐ近くにいる敵のマーシーを倒そうと
「…あれ?」
そこに誰もいないことに気づくのに、彼女は数瞬を要した。
敵のマーシーだけではない。後ろにいるはずのエコーも、ウィンストンも、離れたところで正対していたはずのルシオも、誰もいなかった。
それに近くの建造物も、さっきとは全く違っている。
ヴェネツィアの街並みであることは確かなのだが、大きな橋の上にいたはずなのに、周りに川はなく、一本道を建物に囲まれている。まるで路地裏だ。
手首のプロテクターに
また、別次元に来てしまったの…?
幼き頃の恐怖が蘇りかけたが、もうあの頃とは違う。あれから何度も窮地を切り抜けてきたトレーサーには、緊急事態など慣れっこなのだ。
取り敢えず、通りまで出てみよう。
そう思い道を進んでみようとしたその時、後ろの方から誰かの怒声が聞こえた。
「待てって言ってんだろ!」
振り返ると、細い道の先に人影が2つよぎった。1人は白い髪と肌をした少女、もう1人は赤みのかかった茶髪に黒い肌を持つ男。少女は追いかけられているのだろうか。
それに一瞬だったが、男の方が銃を持っているのが見えた。
危険な目に遭っている人を放っておくことはできない。トレーサーの中にあるヒーローの心がそう言っている。
助けなきゃ!
そう思う前に体は動き始めていた。地を蹴り、時間加速装置でブリンク。一気に曲がり角まで到達し、彼らの後を追う。
その目で茶髪が着ている白いジャケットを捉えた次の瞬間。茶髪の手に何処からともなく炎が湧き出た。トレーサーは驚愕する。特に装置が仕込まれているわけではなさそうな男の手のひらに、
しかしトレーサーの走りも虚しく、すぐに火の球は投げられた。それは走り続ける少女の前で落ち、地面を燃やす。このままでは少女が炎に突っ込むと思ったトレーサーは三連ブリンクで少女を止めようと思ったが、青白い光は一回も纏えなかった。エネルギーが切れていたのだ。
間に合わない!
少女が炎に片足を突っ込む。トレーサーはその続きを見たくないために目を瞑った。
刹那、聞こえてきたのは少女の悲鳴ではなく、風の音だった。
目を開けると、少女は屋根の上に乗っている。
身長の2、3倍もの高さの大跳躍。彼女もまた常人ではないことをトレーサーは悟った。
間髪入れずに男が少女に発砲する。弾丸は少女の肩をかすめ、よろけた彼女はそのまま屋根から転落した。
ドスン、と鈍い音が響く。男は再び炎を手に纏い、少女が落ちたところに
少女と男が分断されたのを確信したトレーサーは、回復しきっていないエネルギーを一度全回復させて、三連ブリンクを使って男が反応する前に少女を回収することにした。物陰に隠れ、男の動向を見守る。
しかし男はトレーサーを待ってくれるはずもなく、自ら炎を纏い、少女が落ちた方向に歩き出した。
来た!
エネルギーが全回復したことを確認したトレーサーはすぐさま物陰から飛び出し、男の方へ猛ダッシュする。十分な距離を詰め、ブリンクを起動。
男が炎の中に飛び込もうとしたその瞬間、炎の壁を突き破って少女が躍り出てくる。その手にはサイレンサー付きのピストル。銃口は男に向けられ、引き金が引かれるその寸前––––トレーサーは2人の間に割って入った。
「ねぇ、何してるの?」
状況を理解した彼女の口から発されたのは、少女を助けるヒーローではなく、争いを止める仲介者の声だった。