秤アツコ
「おはよう、先生。朝早くから呼び出しちゃってごめんね」
「先生には、これを見てほしかったんだ」
「うん。この前に新しく植えた花が、ちょうど咲き始めたの」
「綺麗? ありがとう。ちゃんと調べて、それなりに頑張ってお世話したんだ」
「先生、どうしたの? 花びらの裏に、何かいる?」
「てんとう虫? あぁ、この前教えてもらった虫のことだね。その子が、そこに?」
「うーん、ちょっとここからじゃ見えないみたい。えっと、先生の指の先? うん、見てみ──」
「──先生、それは」
「……そういうこと、なんだね。」
「ううん、説明してくれなくて大丈夫。本で読んだから、分かるよ」
「ちょっと動揺してるけど、ショックだったわけじゃない。いや、そう言うと嘘になっちゃうかも」
「……うん、確かに悲しいな。貴方が、どこか遠くに行ってしまったようで」
「でも、それ以上に嬉しいんだ」
「私に幸せを教えてくれた先生が、こうして自分の幸せを掴もうとしている。それ以上のことなんて、望むべくもないよ」
「……私は生徒で、貴方は先生。それはどうしようもないことだって、分かっていたから」
「それで、式はいつの予定なの? 決まったら、私にも教えてほしいな」
「貴方がいつかしてくれたように、私も花束を贈りたいんだ」
「先生に貰ったことへのお返しには足りないんだろうけど、少しでも私の気持ちを伝えたい」
「私に、私たちに未来をくれてありがとう」
「貴方は、数えきれないほどのことを教えてくれた。……この気持ちだってそう」
「だから、先生。それまでに相応しい花を──うん? ちょっと待って、って?」
「多分、指が違う?」
「婚約を示すのは、薬指? 人指し指だと、ただのファッション?」
「そう、なんだ。じゃあ、先生はまだ結婚しないの?」
「する予定もない……。なんだ、早とちりしちゃった。確かに、そんな様子じゃなかったね」
「でも、祝福したいって気持ちは本当だよ?」
「いつか今度こそそんな選択をするってなったら、何年後でも報せてほしいな。きっと、駆け付けるから」
「するかどうかも、分からない? ううん、そんなことはないよ。先生みたいな人なら、いつか良い人と巡り合えると思う」
「もしも万が一、運命に恵まれなくても──」
「──そうだね。ふふ、先生。左手を出してくれない?」
「うん、ありがとう。コレ、一度借りるよ」
「ねぇ、先生。最後に一つ、質問があるんだ」
「……私に、こんな指輪は似合うと思う?」
「ふふっ、ありがとう。でも、軽率にそんなことを言っていいのかな?」
「私は忘れないよ、先生?」
戒野ミサキ
「先生、来たんだ」
「足元には気を付けた方がいい。そこ、ガラス散らばってるから」
「別に、こんな近くに来なくてもいいのに。相変わらず、物好きな人だね」
「……?」
「先生。今は、そういうファッションが流行ってるの?」
「何って、その薬指の指輪のことだよ。まさか、本当に結婚する訳でもないでしょ?」
「まぁ、そうだよね」
「勘違いしなかったの、って? いや、そんな素振りなかったでしょ」
「……そんな幸せな状況なら、私なんかのところには来ないだろうしさ」
「ってもう、そんなに真剣に捉えなくていいから! 分かってるでしょ、本気で言ってる訳じゃないって」
「でも、貴方もいつか、誰かと結ばれるんだろうね」
「想像できない? ……そう遠い話でも、ないと思うけど」
「少しだけ、聞いてもいい?」
「いつか、先生にもっと大事な人が増えたら……。その時は、貴方は私の前から消えるのかな」
「……それまでには、私にも同じような人ができている? はぁ、楽天的な人だね」
「私にも、恋人や想い人なんてのができると思うの?」
「……即答だね」
「じゃあ。こんな傷がなかったら、私はもっと違っていたと思う?」
「……そう」
「じゃあ、さ。もし私が──」
「──アリウスではない場所で育っていたら」
「──もっと、笑えるような人間だったら」
「──それで、数年早く生まれていたら」
「いや、こんなことを言わずに済んだのなら。……もしかしたら、貴方は」
「……何でもない。忘れて」
「別に、深刻な悩みって訳じゃない。心配しなくていいから」
「ただ、最近はどうしても……。今とは違うような私を、想像してしまうようになった」
「現実なんて無意味だって、分かっていた筈だったんだけどね」
「……いつ死ぬかも分からなくて、未来なんて想像できなかったときの方が、ずっと楽だった。淡い希望に期待をするのは、思ったより苦しい」
「ううん、そういう訳じゃない。先生には感謝している」
「これは、ただの弱音のようなものだから。気にする必要はない」
「……ふふ。貴方は本当に、甘い言葉を囁くね」
「少し前までは、そんな話は虚しいだけだって思ってた。生まれに恵まれて、何不自由なく生きてきた人たちの特権だと思っていた」
「だけど、どうしてだろうね」
「今は、一度だけ騙されてみてもいいような気がしてる」
「だからさ、先生。もしいつか、私が一人で生きていけるようになったら、その時は──」
「──私と、今とは違う形で向き合ってくれない?」
「さぁ、どういう意味だろうね?」
「……さて、前置きが長くなったけど」
「先生。今日は、どんなことを教えてくれる?」
錠前サオリ
「先生、遅くなってすまなかった。仕事が長引いてしまってな」
「まだ三十分前? いや、恩人を待たせるわけにはいかない」
「他の三人も、じきに来ると思うが」
「……いや、ヒヨリは遅れるらしい。今、連絡が入った」
「はは、何年経ってもアイツは変わらないな。先生も、元気なようで──」
「──そうか」
「いや、何でもない」
「しかし、やはり仕事は多いらしいな。体を壊さないように気を付けてくれ」
「私も? まぁ大丈夫だ、最近は随分と慣れてきて……」
「……おっと、雨か」
「どうする? 屋根がある方に行くか?」
「あぁ、その路地に入るか。それも良いだろう。ここなら、ミサキたちも気付くだろうしな」
「どうやら、すぐに止むらしい。でも、かなり薄暗くなってきたな」
「……先生、あの時のことを覚えているか?」
「私がまだ学生で、世の中の何も知らなかった頃だ。騙されて傷を負って、そこに先生が駆けつけてくれた。それも、こんな路地だったんだ」
「覚えてくれていたのか。全く、貴方は変わっていないな」
「あの時と比べれば、私も随分と成長できたと思っている。……契約書の読み方も、最初は貴方に教わったんだったな」
「……ふふ、そんなこともあった」
「あぁ。振り返れば、懐かしいような温かいような思い出たちだ」
「今の私たちがあるのは、先生のおかげだ」
「貴方が手を差し伸べてくれなければ、私たちはずっと前に終わっていた」
「最初は、あんな出会いだったというのに……。先生には、とても感謝しているよ」
「さて、最初に来たのはアツコだったか」
「行こうか、先生」
「最後に一つだけ。すまない、タイミングを逃してしまってな」
「おめでとう、先生。貴方の未来が幸せに満ちたものであるよう、私からも願わせてもらおう」
「おっと、ヒヨリから連絡だ」
「……先に、行っていてくれないか?」
「あぁ、先にアツコと話していてくれ」
「私も、すぐに向かうから」
「……後悔はないさ。それが許されるような身ではないことなど、とうの昔に理解している」
「先生。貴方が幸せならば……。あぁ、それは何よりだ」