「こんなもんかな。」
いつも会う下水道ではない民家。染み付いた匂いは確かに彼と同じ気がした。部屋に乗り込んで驚かせたい欲求を抑えて目的を果たす。私の欲望は、あるがままのそれは自身の手で叶えなければならない。術式を行使していく。
母親である吉野凪の魂に触ってみてわかったこと。産まれたばかりの赤子。初めて発した言葉。映画を見に行く彼の笑顔。誕生日パーティのささやかな幸せ。日々すごした思い出の数々には子供の姿が確かにあった。女手一つで育て上げたその母は、彼の行く末を純粋に案じていたようだった。学校という狭い場所以外にも、他に泳ぐことができる場所はたくさんあると。私の知らない順平の一面を教えてくれたことには礼を言いたくなった。
「あとはどうぞー。」
弄った肉体から手を離すと、暫く待たせていた呪霊がそこにかけよった。
既に目当てのものは用意できた。指を見つけてもらうためには相応の騒ぎが必要だ。彼にも宿儺の器にも頑張って貰わなければならない。
小さく縮めた
「……ぇ?」
リビングに転がる母さんの体。上半身だけのそれには醜い呪いが齧り付いている。そこかしこに散らされた赤い飛沫と母さんの苦悶に歪む顔からは、惨い仕打ちを受けたことがはっきり伝わってしまった。一緒にご飯を食べて、いっぱい話して、虎杖君とも打ち解けられて、僕は殺さないって決めて…なのに…。何が…
呪いは僕の存在に気づいた。呆然と佇む姿は新たな獲物に見えたのだろう。食事の手を止め、次の狙いを定めていた。祓う…べきだ。呪力を練って、術式を──
「おっと。凄い呪いの気配だね。」「真人さん!」
真人さんの打撃が呪霊の頭部を貫いた。そのまま倒れた体は塵に変わっていく。呪霊である真人さんがなぜ?どうしてここに? 一体何が起こっているのか分からなくて、ただ焦燥のままに問うしかなかった。
「母さんが……!呪霊にっ。な、なんで、なんでっ、う゛、う゛ううぅぅ…」
声が出ない。血まみれの部屋が滲んで見えなくなっていく。しゃくりあげる喉が呼吸を難しくして、息が苦しくなった。混乱と嗚咽が僕の体を苛む。思考がまとまらない。過去のトラウマと母さんとの思い出がぐちゃぐちゃと浮かび消えていく。いつの間にかフローリングに蹲っていた。顔から流れ出る液体は床を濡らして、呻いて掠れる声は沈んでいく。これも、この心もまやかし…?もうなにもわからなくなってしまった。
「……っ」
這いつくばって小さくなった僕の頭にそっと触れる手のひら。見上げた僕の顔を、その人はたださするだけ。座って目線を合わせた彼女はなにも言わなかった。背中に腕を回し、優しく胸中に引き寄せられた。抱擁は振り払えば簡単に解けるほどか弱く、静かに布が擦れるだけ。魂を知覚する彼女はこの悲しみに価値を見出さないはずだ。それでも何も言わずに僕のそばにいてくれた。それだけでよかった。それだけで。
涙で服が濡れるのも、僕の縋り付く腕の力が強くなっても、彼女は気にせず、ただ待ってくれた。リビングに響く醜い嗚咽はどう感じたのか。僕の呼吸が少しずつ長く、穏やかになると真人さんは口を開いた。
「彼女を、君のお母さんを安らかにしてあげて。魂はもういない。だけどその体はこれ以上、苦しんでほしくないだろう?」
「う゛、ゔぅん……。」
魂の消失。真人さんがそれを認めてしまえば、嫌でもそれを理解してしまう。死んでしまった。殺されてしまった。呪霊によって苦しんだその最期は、せめて眠る姿だけでも安らかな表情であってほしい。真人さんはそう僕を慮ってくれた。背中をさする大きな手は体温を感じないが、その言葉だけでも暖かかった。
「それに……この気配についても調べないと。」「……けはい、ですか?」
真人さんが助けてくれた時の言葉だ。呪いの気配。人を殺す呪霊が家の中に入ってきて襲うなんてそう多く起こることなのか。僕の経験不足もあるが、真人さんが来てくれたことと、何か関係があるのかもしれない。ようやく整った呼吸と思考が疑問を生み出す。それを察した彼女は後頭部を撫でつける手を止め抱擁を緩め、僕と顔を合わせた。美しいオッドアイが僕の泣き腫らした顔を写している。
「……ちょっと落ち着いたみたいだね。」「…はい。」
随分寄りかかって体重をかけてしまったが、真人さんはなんともなさそうだった。柔らかい感触を思い出し、すぐに離れようとするのを見てどう思われただろうか。まずは母さんの体を運ばないと。床に倒れたままは嫌だろうから。
寝室のベッドにありったけの保冷剤と氷嚢を用意した。母さんの顔を穏やかに、眠っているように瞼を伏せた死化粧は真人さんがしてくれた。運ぶ時の腕にかかる重さは思ったよりも軽くて、それが無性に悲しくなった。布団をかけたその姿は、いつもの朝のままだった。
「これは呪いを呼び寄せる呪物なんだ。」
見つかったのは指の形をした呪物。明らかに異様なその屍蝋は呪霊を寄せ付け、民家の一室に呪霊が現れる原因となった。肩に回された腕、耳元にかかる彼女の髪、普段の僕なら気恥しさで離れるだろう。だけど今はその言葉しか頭に入ってこない。呪いを呼ぶ?それがなぜ、なんのために…!
「な、なんでっ、そんなものが家に……!!」
「人を呪うことで金を稼いでいる呪詛師は多い。コネと金さえあれば人なんて簡単に呪い殺せるんだよ…。心当たりはある?君や母親を恨んでいる人間、もしくは──金と暇を持て余した薄暗い人間に。」
「!!」
思い当たる人物は、僕の額に熱を押し付けたあの男。金を持て余した薄暗い人間。部室を占領してきたアイツらへ言い返し反抗する僕に、目をつけたアイツが…!
「……明日。学校でやっちゃおっか。」「え?」
頬ずりしそうなくらい近い距離で、彼女はにこやかに提案した。学校でアイツを、呪殺を仕組んだかもしれない相手と戦う。
「善は急げさ。見て見ぬふりしてたヤツらの前で虐めてやろうよ。幸い順平には力がある。呪いには 呪いで対抗するんだ。」
「もし違ったら──」
「違う?違うなんてことはないよ。手を出したのは向こうが先。お母さんの仇をとるために力を振るうのは間違ってない。」
真人さんが封印してくれた指を机に置き、ベッドに腰掛け話し合う。僕の決断は人を殺さないことだった。でも母さんは死んだ。殺されたんだ。醜悪な人間に、アイツに呪われた。だから僕は…
「怖いかい?」「そ、そんなこと……!」
母さんの言葉を思い出す。あの人の魂を穢したくなかった。でももうその魂はいない。僕がやらなきゃいけないんだ。心なんてまやかしだから、殺したい相手を殺す。傷つけられた相手にやり返すのは自然なことだ。
「迷っても、恐れてもそれは単なる反応に過ぎない。魂の願いは既に決まっているんだ。あとはそのまま、赴くままに力を振るえばいい。私も手伝ってあげるからね。」
「真人さんと一緒に…、一緒なら僕はやれます。」
返事に気を良くした彼女はベッドに背中から倒れ込んだ。手を広げて満面の笑みを浮かべている。わきわきと動かす手のひらはこちらに向けられた。
「最終調整だ。頭貸して?」「…はい。」
「…んーん♡」「…?」
いつも通り頭を差し出したが、首を傾けたその姿勢に不満があるらしい。ベッドに寝転がったまま伸ばされた手は、腰掛けて首を差し出す僕の頭に届くはずだった。
急に裾が引っ張られたことで、勢いよく彼女の胸元に引き寄せられる。抱きついた衝撃でベッドが音を立てた。
「一緒に寝よっか。」「…」
真人さんの懐は熱も匂いも感じなかった。呪霊の体。呪力で構成されたそれに飛び込んで安堵を覚えることは異常だろうか。女体を形だけ真似しているためか、柔らかな感触を返している。そのまま術式を行使する彼女の顔を窺い知ることはできないが、ただ朝まで眠りたかった。今だけ全て忘れて…──
泣き腫らした目を閉じてすやすやと寝息を立てている順平。眠ってしまったようだ。いつもは理由をつけて離れていくくせに、今回は抵抗しなかった。そんな所も可愛らしい。しかしさっきの姿はまさに、表情から魂の動きまで、とても素晴らしいものだった。
現実を受け入れられず、見開かれた目が徐々に沈んでいく様。蹲って小さくまとまった体。手で直に触って魂の動きを感じられたのも
高専に指を回収させるために用いたが、予想以上の収穫が得られた。宿儺の器とも容易く親交を深めたこの少年が今は誇らしく感じる。彼の可愛さに気づかれてしまったようだ。髪を優しく撫でてあげた。
母の死で荒み弱ったところで、私と共に復讐を遂げる。そうすれば彼の魂は救われるだろう。母さん、母さんと呼ぶ無邪気な姿は永遠に失われるが、アレの顔はもう覚えたし、適当に弄って見繕ってあげよう。彼もきっと喜んでくれるはずだ。
彼の魂に刻まれた醜い火傷の痕。暴力と悪意に怯える姿。
復讐心と術式操作の感覚を忘れないように、魂を少しくすぐってあげる。睡眠時の脳は忙しなく動いており、記憶の定着にも影響する。私の術式ならすぐに教えられる。彼のトラウマと怒り、憎悪を増幅させるために記憶と夢を混ぜ合わせる。術式を扱う脳の回路も分かりやすく仕上げてあげた。記憶を刺激されて、溢れ出した彼の涙を舐めとる。
朝まで続けよう。この子の魂が濁る感覚を楽しみながら。
ヤンデレタグとか必要でしょうか。
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