荊州は南陽郡、魯陽。南陽郡において最も北側に位置するその場所は、現在南陽黄巾賊を束ねる首魁・張曼成と彼が率いている南陽黄巾賊が陣地を構え、さらにそこを堅固な城砦にしようと建築作業に没頭していた…。
「おのれ厳政め…もう少し時間を稼ぐ事も出来ないのか!!波才の奴が率いる潁川黄巾軍が敗れた事はまだしも、厳政が率いていた豫州黄巾賊は文字通りの全滅だと言うではないか!!」
だがそれを指揮する長身で煌びやかな甲冑を纏い、美麗な顔立ちをしているものの、粘着質さを感じさせる瞳を持っている男性…南陽黄巾賊の大将を務めている張曼成は、魯陽の陣地内の本陣で憤懣遣る瀬無いと言う感じで憤りを隠せなかった。
それと言うのも、黄巾賊に加わって豫州に割拠していた厳政が、官軍に対抗する為とはいえ夢物語の様な理想を目指している小娘でしかない張三姉妹に惚れ込んでいた波才率いる黄巾軍と連合をし、数で優っていたにも拘らず呆気なく敗れた事に腹が立っていたのだ…。
「…お頭、いつになく切れてるよな?あれ」
「違いねえ。まあ無理もねえよ、豫州にいた厳政の野郎が呆気なく負けちまったのが気に入らねえんだろうよ」
「おい、口を動かしてねえで手を動かせよ!ただでさえ官軍を迎え撃つ為にここを城砦にしようとしてるんだぞ?その前に奴らが来たら…」
そんな張曼成の様子を見ながら、彼の副将として同行している黄巾賊の将…韓仲と孫夏が、張曼成に聞こえないように声を抑えながら愚痴をこぼしており、そんな二人を見て同じ副将である趙弘が窘めながら黄巾賊の兵士や周囲の村や町から強引に徴収した男たちを働かせていたのだが…。
「神上使さま!一大事です!?南から『袁』の旗印を掲げた軍と、『孫』の旗印を掲げた軍勢が向かってきています!?数は三万ほどです!!」
……本陣に駆け込んできた兵卒のこの言葉に、張曼成は怒り狂いながら竹簡を地面に叩きつけていた。竹簡は途端にバラバラに千切れ飛んでいったのだが…中にいた三人の副将は一言も言葉を発する事もなかった。それ以上に怒り狂っている張曼成の勘気に触れないように黙っているのが吉と思ったからだ…。
「おのれぇ!!!まだ建築も進んでいないと言うのに来おって!!……っ、孫夏!!」
「へ、へい!!」
「白波賊の韓暹はどうした!?使者を向かわせてからそれなりに日数は立っているはず!!返事すら来ないとはどういう事だ!!」
怒りに目を爛々と輝かせながら睨みつけてくる張曼成に対し、孫夏は慌てて拱手をしながら頭を下げて言葉を発した。
「そ、それは…多分ですけど連中、河東郡から動けねえんじゃないですかい?ほら、朝廷に降ったって言う黒山賊の連中が官軍の指示に従って河東郡に向かったとか言われてますし…」
…孫夏はそう説明したのだが、これはあながち間違いではなかった。実はこの時、河東郡において勢力を持っていた韓暹率いる白波賊は…先に漢朝に降伏をした黒山賊。その頭目の座を継承した張燕が率いる軍団に散々に打ち負かされ、文字通り散り散りになって逃げ去っていたのである。
そして間の悪い事にこの時に張曼成の使者が向かった為、その使者も黒山賊と白波賊による乱戦に巻き込まれて命を落とした事で、この情報が届く事がなかったのだった…。
「どいつもこいつも…ええい、もういい!!かくなる上は調子に乗って向かってくる連中を返り討ちにしてくれるわ!!者ども、出陣の用意をしろ!!」
立て続けに自分達に不利と言える出来事が連発した事に、とうとう我慢の限界を迎えた張曼成は剣を手にすると副将の三人に指示を出し、本陣から飛び出していった。
「…なあ、勝てると思うか?」
「やるしかねえだろ…?何としてもここで勝ちを拾わねえと、俺達の末路も分かり切ってるしな」
「くそっ、こうなると黄卲の奴が羨ましいぜ。あいつ何儀の所に援兵として派遣されたからな…」
残された韓仲、孫夏、趙弘らは愚痴をこぼしながらもそれぞれの持ち場に赴く事になる…。
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そして魯陽の郊外において、張曼成率いる南陽黄巾賊七万と、孫堅・袁逢の合同軍三万は互いに向かい合っていた。
それぞれに敷いた陣形は…数で優っている黄巾賊側は
「ふん、数の少なさを突破力で補おうという事か?戯けが…幾ら突破力が強かろうと、左右から挟み込んで磨り潰してくれるわ!!行くぞ者共!官軍の痴れ者に目にもの見せてやれ!!」
相手の陣形を見た張曼成が、数の利はこちらにあるとせせら笑いながら銅鑼を鳴らして開戦を告げたのだが…すでに彼の命運が尽きていた事に、まだ気づいてはいなかった。
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一方の孫堅・袁逢軍では…鋒矢の陣形、その先鋒を雪蓮が請け負っていた。
「あらあら…鶴翼で挟み込んで数で押しつぶそうって所かしら?…嘗められた物ね、冥凛?」
「確かにな。幾ら数で優っていようと、大殿達に鍛えられてきた若き虎の爪牙を、数で押し潰せると思っているのが間違いだという事を教えてやろうではないか?雪蓮」
一見すれば数の少ないこちらが不利であり、突撃を仕掛けた途端に鶴翼が閉じて押し潰されるのが目に見えているかもしれない。だが…江東の虎である炎蓮らに厳しく鍛え抜かれた雪蓮を初め、炎蓮が見出し鍛え続けた若き虎…即ち将軍見習いの少女達からすれば、目の前に立ちはだかっている黄巾賊の大軍など障害でも何でもなかったのである。
「ええ。…皆のもの!我らの眼前には黄巾賊の獣共が生意気にも羽を広げてこちらを飲み込もうと待ち構えている!数でいえば確かにこちらが劣っているだろう…だが案ずる事は無い!我ら孫呉の兵は常にその牙と爪を研ぎ続け、来るべき戦いに備えて来た!そんな我らにかかれば、眼前の黄巾賊など敵になるか!?」
馬上の人となった雪蓮が、宗也から授与された得物である虎双焔棍ではなく、孫呉の継承者に受け継がれる宝剣『南海覇王』を引き抜き、高らかに掲げながら大音声で問いかけると…。
『否!否!否!!』
雪蓮の下に預けられている将軍見習いの少女達は、それぞれに自身の武具を掲げながら高らかに声を上げていたのである…それはすなわち、この程度の数など何者でもないと言う、無二の証左であった。
「よくぞ言った!ならば同胞達よ、共に行こう!大軍を率いている事に驕っている黄巾賊の痴れ者共に、虎の爪牙を突き立ててやろう!!…突撃ぃ!!」
雪蓮が南海覇王を敵に向けつつ、振り下ろしながら号令を発して馬を走らせると、彼女の下にいる将軍見習いの者達もまたそれぞれに得物を握りしめながら敵陣に向かって駆けだしていった。そして…まもなく両軍は激突した。
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しかし、いざ戦いが始まると…始まる前は余裕綽々と言う感じでいた張曼成の顔は、信じられないと言う風に歪み切っていた。
すでに鶴翼の翼は閉じられ、孫堅・袁逢の合同軍は左右から挟まれており、傍から見ればもはや相手側の壊滅は時間の問題である…張曼成はそう思っていた。思っていたのだが……。
「ば、馬鹿な…!??幾ら何でも崩れるのが早すぎる!?数ではこちらが圧倒的に有利だと言うのに…何なのだあの孫呉の軍勢は?!奴ら死が怖くないとでもいうのかあああああ!???」
目の前に広がる光景ー左右から挟み込んでいるにも拘らず、先鋒の孫堅軍の勢いが衰えるどころかますますたけり狂いながら前線を食い破ろうとしている―に張曼成は絶叫するより他なかったのである……。
そして三人の副将達に最後の時が訪れていた…。
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【右翼側1】
鶴翼の右翼に位置する一軍を率いていた韓仲…大桿刀を手に孫堅軍が担当をする先鋒に側面から攻撃を仕掛けたのだが、状況は有利になる所か悪化の一途を辿っていた。
「嘘、だろぉ…!??数では俺達の方が圧倒的に多いんだぞ!?何で……何で怯むどころかこっちに突っ込んできやがるんだ!?あいつら頭がいかれてんのか!?」
そう…韓仲が信じられないとばかりに悲鳴を上げたのも無理はない。何故ならこの時、黄巾賊による側面攻撃を受けようとしていた先鋒の孫堅軍から三百程の徒士の兵士達が、年若い2名の少女達に率いられて突っ込んできたのである。
この時韓仲が率いていた一軍は五千程…当然数の差は圧倒的であり、当初こそ驚きはしたもののそのまま踏みつぶし、中軍や後詰などを相手取ろうと思っていたのだが…彼らは強かった。
否…強すぎた!!数の不利など物の数でもないとばかりに、それぞれに矛や朴刀、戈などを手に黄巾賊を相手取って見せていた!!それどころか数の多い自分達の方が相手の気炎に圧され、少しずつ後ずさりし始めているではないか!?
「び、びびんじゃねえ!?数はこっちが多いんだ!怯んでないで突き進め『あーっ!敵将見っけ―!』って何だぁ!?」
そんな目の前に広がる光景に気圧されながらも、何とか戦況を好転させようと怯え始めた兵卒達を叱咤激励していた韓仲だったが、彼の前に緋色の軽鎧を纏い
「孫堅軍の将軍見習いが一人、陳子烈!貴方が敵将だよね!その頸貰い受けに参上したよ!!」
「こ、小娘が!!この韓仲様を倒せるもんなら倒してみやがれぇ!!」
名乗りを上げた少女…陳武に対して、当然韓仲は激怒し大桿刀を風車の様に振り回しながら馬を走らせて襲い掛かった!そうして馬上から大桿刀を振り下ろしたり薙ぎ払ったりと言った攻撃を仕掛け続けたのだが…陳武は徒士でありながら韓仲の攻撃を巧みに躱し続けていた!
やがて痺れを切らした韓仲が渾身の力を込めた振り下ろしを仕掛けたのだが、陳武はこれも躱した事で大桿刀の刃が地面に深々と突き刺さってしまう。そして陳武はその隙を見逃さなかった。
彼女はそのまま大桿刀の刃の峰の部分に足をかけると、それを踏み台代わりとばかりに馬上にいる韓仲めがけて飛び掛かり、手にしている鴛鴦鉞を握りしめた左手で突きを放ったのである。
韓仲はこの攻撃を首を動かす事で躱そうとしたのだが…二本の月牙と呼ばれる三日月状の刃を交差させた形状をしている鴛鴦鉞の攻撃を躱すには、それだけではあまりにも足りなかった。陳武の放った正拳突きを思わせる攻撃は、拳だけであるなら回避できたかもしれなったが、彼女の手に握られている鴛鴦鉞の両端に突き出ている刃は…韓仲の頸の側面を見事に掻き切っていた。
「ぐ…ぐげげげぇ!??」
状況に気づいた韓仲が慌てて首元を抑えるも、陳武の放った攻撃によって出来た首元の傷から大量の血が噴き出し…やがて口からも吐血した韓仲はそのまま落馬し、そしてこと切れたのである。
「…よっし!敵将韓仲、孫堅軍の将軍見習いが一人。陳子烈が討ち取ったぁ!!」
「か、韓仲様ぁ!?」
「この小娘、やりがったなぁ!?」
そして陳武が勝鬨を挙げたものの、当然副将を殺された事に激高した黄巾賊の兵卒の何人かが矛を手に襲い掛かろうとしたのだが…。
「がっ!?」
「ぐぎっ!?」
直後、兵卒の一人は側頭部を棍によって殴打された事で地面に叩きつけられ、もう一人もまた頭上から振り下ろされた棍によって頭蓋をかち割られて最期を遂げる事になる。
「あっ、菖蒲!」
「千束。大将頸を挙げた事を喜ぶのはいいですが、油断は禁物です。戦場では敵の頸を挙げた時が、最も危ない時である…千冬様の教えを忘れましたか?」
その光景を見た陳武は喜色を露にする。それは共に韓仲の軍を迎え撃つ事になった相棒の董襲であり、今陳武に襲い掛かろうとした兵卒達も、彼女が振るった三節棍によって叩き殺されたのだ。
「あははー、分かってるって。それじゃ…」
「ええ。残るは頭を失って右往左往している賊徒のみ…このまま撃破するとしましょう。…孫堅軍の将軍見習いが一人、董元代。推して参ります…!!」
「うん、わかった!行っくよー!!」
そうして陳武と董襲は、そのまま韓仲と言う指揮官を失って混乱の渦中に叩きこまれた右翼の一軍を蹴散らさんと駆けだした…!
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【右翼側2】
韓仲が自分達の軍が多勢であるにも拘らず、孫堅軍の先鋒から分かれた小勢の勢いに動揺していたのと同じ頃…。その隣の軍を率いていた趙弘も孫堅軍の先鋒から分かれて向かってきた小勢に苦戦を強いられていた。
「畜生が!?何だよあの小勢の奴ら!?俺達の方が数が多いってのに圧し潰せねえなんて冗談だろ!?」
矛を手にし、馬上の人になっている趙弘。愚痴を吐き捨てながら彼が向ける視線の先にいたのは…鶴翼を敷くために軍を分けたとはいえ五千もいる筈の自分達を、たった三百の小勢で互角以上…否、押し返そうと奮闘している孫堅軍の小隊。そして…。
「白鶴!勢いが弱まって来た!このまま押し返そう!」
「名案ですね。では攻め手は私が勤めます、援護は任せますよ凌霄!」
斬撃に重きを置いている造りをした戟を右へ左へと振るいながら戦っている、褐色の肌に水色の瞳と髪色のミドルヘアーを後ろで束ねた闊達そうな雰囲気を感じさせる少女と、足の甲の部分に沿う様にして刃が取り付けられた靴を履き、それを使っての蹴り技を駆使して戦っている褐色の肌をし、深緑色のボブカットに紫色の瞳を持つ、思慮深さを感じさせる少女が…自分の方へ向かって来ようと、立ちはだかっている部下達を蹴散らしてきていた!
「ひ、怯むなぁ!弓隊構えろ!!あの突っ込んでくる奴らを針鼠にしてやれ!?」
趙弘の号令と共に黄巾賊の射手達が突き進んでくる少女めがけて一斉に斉射を行ったのだが…徒士でありながら、先頭に立って向かってくる深緑色の髪の少女…その移動速度は黄巾賊の射手の放った矢の雨が襲い掛かるよりも早く、自分達の至近距離に接近していたのである!
「な、何だとおおお!?」
目の前の出来事に仰天する趙弘…だが、斬り込んできた少女からすれば隙を晒しているに等しかった。
「黄巾賊の賊将が一人と見受けます。孫堅軍が将軍見習いの一人、全子璜。その頸、頂戴いたします!!」
「く、くそがっ!?こんなところで死んでたまるかぁ!??」
斬り込んできた少女…全琮の名乗りを聞いた趙弘は死にたくないという一心で矛で突きを放ったのだが、彼女はそれを横に流れる様に躱した直後…まるで宙返りをするかのように跳躍し、馬上の人であった趙弘の身体を股下から縦に両断していた!!
「敵将、討ち取らせていただきました…!」
「ちょ、趙弘様!!」
「く、くそぉ!!趙弘様の仇ぃ!!『させないよ!!』ぐあっ!?」
縦に両断されると言う形でうめき声一つ立てる事なく落馬した趙弘…やがて全琮が勝鬨を挙げると、当然趙弘の配下である兵卒達も激高して襲い掛かろうとしていたのだが、その時には追い付いてきたもう一人の少女と、彼女達が連れていた孫呉の将兵達が斬り込んで来ており、その場は乱戦の様相となっていた。
「凌霄、援護助かりました。おかげで初陣にて敵将を討ち倒す事が出来ました…」
「あはは!いいっていいって!それじゃ…残りの軍勢も掃討して、左翼の方に加勢しに行こうか!」
「ええ…とはいっても、あの二人がいる以上左翼側の黄巾賊の方に同情しかねませんがね…」
全琮が何時になく同情の念を禁じ得ないと言う感じで呟くと、もう一人の少女…呂岱もまた苦笑しながらぼやいていた。
「……あー、まあ確かにね。まっ、長話はここまでにしよっか!さて…孫堅軍が将軍見習いの一人、呂定公!!臆さぬならば懸かって来い!!」
「ええ、その通りですね…では、参ります!!」
そう言いながら呂公もまた、宗也から送られた得物である『白虎顎』と言う銘の戟を向けながら名乗りを上げると、未だ戦いが繰り広げられている戦場に飛び込んでいき、全琮もまた苦笑しながら呂岱を援護する為に追従するのだった…。
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【左翼側】
そして一方の左翼側の一軍では…全琮の呟き通り、文字通りの修羅場となっていた。圧倒的に数の多い黄巾賊の軍勢を、小勢でしかないはずの孫堅軍の小隊が押しているのだが…それ以上にそれを率いている若武者の勢いが半端ではなかった!!
「ひゃっはああああ!!おらおらおらぁ!!死にたい奴から前にでな!!この宋謙様を止められるもんなら止めてみやがれぇ!!!」
「う、うわあああああ!??」
「に、逃げろぉ!??あいつの前に立ったら文字通り八つ裂きにされるぞ!??」
「馬鹿!!ここで退いて如何するってんだ!?あんな小娘如き俺様が『おらぁ!!』ぐぎゃっ??!」
全身を黄巾賊の兵士達の返り血を浴びて真っ赤になっているにも拘らず、気炎を上げながら得物である『飛旋連戟』を手に暴れ回る宋謙。
当たるを幸いとばかりに得物を振るい、時には十字にした状態で投擲などを行う事で死山血河を着々と築いていく彼女に、黄巾賊の兵士達は完全に戦意を挫かれ、逃げ惑う事しかできずにいた。
無論中には勇気のある者もおり、矛や戟、朴刀を手に立ちはだかるのだが…そう言った者達は一人残らず宋謙の手にかかって冥府に叩き落とされると言う有様となっていたのである。
「敵の大将出てこいや!!てめえの頸を取って初陣の手柄にしてやらぁ!!」
そう言って敵を蹴散らしながら、宋謙はこの左翼の一軍を率いているはずの孫夏を探していたのだが…当の本人は宋謙がいるこの軍勢内にはいなかった。
それと言うのも、宋謙の凄まじい単騎駆けを目の当たりにした孫夏は一軍の大将でありながらすっかり怯懦に塗れてしまい…文字通り敵前逃亡をしていたのである。
「冗談じゃねえ…!!こんなところで死んでたまるか!?お頭と一緒にくたばるなんてごめんだ!?」
捨て台詞を吐きながら馬を走らせる孫夏であったが…『天網恢恢疎にして漏らさず』と言う言葉にもある様に、悪逆を成した報いはこの男にも下ろうとしていた。
「おっ?敵将みたいっスね?逃げるであろう相手の退路を探っていた最中だったっスけど、これは運がいいっス!!」
「っ!?て、敵か!?…ってなんだよ、ただのチビか!?驚かせやがって…」
その時、孫夏の前に現れたのは自分よりも遥かに背丈の低い、手に錨を思わせる穂先をした長槍を手にしている頭に色鮮やかな鳥の羽で飾り立てた兜を被った、黒髪で三つ編みを結ったぼさぼさの髪型に、猫背気味である赤紫色の瞳を持つ少女だった。
当然敵が現れたと朴刀を手にした孫夏であったが…その見た目にすっかり毒気が抜かれた様にせせら笑い始めた。
「…………チビ、って言ったっスか?」
「はあ?そりゃそうだろ?俺よりも背丈も低いし、そんな背丈で振るえもしない長槍なんぞ持ち歩きやがって…大方初陣で格好つけようとかそんな感じかよ!」
そう吐き捨ててさらにゲラゲラと笑い始めた孫夏であったが…それが彼の運命を決定づけている事に、この時気づいていなかった。
「ほおほお…私をチビ呼ばわりするとは、おっさん命がいらない様っスね?いいっスよ…覚悟を決めろっス!!孫堅軍の将軍見習いが一人、賀公苗!!参るっス!!」
「ほざきやがれ!!初陣を迎えたばかりの小娘にやられると思うなよ!!俺様は南陽黄巾賊の副将、孫っ………」
しかし、孫夏が名乗りをあげようとするもそこから先の言葉は出なかった。何故ならば目の前にいた小柄な少女…賀斉が手にしている長槍を横薙ぎに振るった途端、穂先の部分が飛び出していき…そのまま孫夏の頸に直撃するのみならず、その頸を引き千切って見せたのだから。
「…ふぅー!スッキリしたっス!…って、こいつ誰か分からないっスね?いろいろ侮辱してきやがったもんだから思わずブチ切れてヤッちまったっすけど…おーい、お前誰なんすかー?」
賀斉がそう言いながら千切れ飛んだ孫夏の頸を掴み上げたのだが…その顔は半ばまで抉れており、これでは黄巾賊の捕虜に見せたとしても誰なのか見当もつかない事は容易に想像できた…。
「やばいっスね…誰の頸か分からないと論功行賞で表彰されないってのに…『おっ、紫陽花じゃねえか!』隼さんっスか!ちょうどいいっス。こいつ誰か分かるっスか?」
やがて孫夏を探し求めて来たのか、全身返り血塗れになっている宋謙が得物を手に現れた為、賀斉が討ち取った孫夏の頸を見せたのだが…。
「あん?…顔面の半分が抉れてひどい有様じゃねえか?流石の私もこりゃ分からねえぞ?」
「そうっスか…名乗っている途中で思わず壮也さんが作ってくれたこの『長槍黒狼』の錨を飛ばして頸を千切り飛ばしちゃったんスよ。確か…孫って名前らしいんスけど?」
「孫?それじゃあ…何だよ、お前が孫夏を討ち取ったのか!っかぁー、先を越されちまったぜ!」
賀斉がそう説明した事で、手柄を取られた事に悔しがる宋謙であったが、そんな宋謙を賀斉は励ました。
「おっ、マジっスか!まあ、これから先も戦は続くっス。次の機会という事で…っスよ!」
「…だな!おっ、見ろよ紫陽花。私らがいる軍の隣…凌霄と白鶴の奴らが向かってくぜ?」
「休んではいられないっスね…!」
「ああ!行くぜ紫陽花!まだまだ暴れ足りねえんだ!気張って行くぜ!!」
「隼さん、小隊の皆を待った方が…ってもうあんな所に。しょうがないっスね!」
そう言い放つと隼は返り血を浴びた頬を荒々しく手で拭うと、十字戟を手に凌霄と白鶴らが向かった左翼の別の備えに向かって駆けだし…紫陽花もそれに続く事となった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【中軍1】
雪蓮が率いていた先鋒から若武者達が率いる小隊が飛び出し、鶴翼で挟み撃ちにしようとした黄巾賊に向かった頃…蓮華が率いる孫堅軍と、美羽が率いる袁逢軍によって構成された中軍は、鶴翼の陣を敷いた黄巾賊の軍勢…その鶴翼の最も本陣から離れた備えからの攻撃を迎え撃っていた。
しかし数は多くても名のある大将が率いている訳ではない黄巾賊の軍勢に対し、迎え撃つ孫堅軍の軍勢には蓮華こと孫権を大将に、配下には彼女の腹心である甘寧と軍師である陸遜。そして椿こと淩統を初めとした若き虎達が控えており、数の不利をものともしない奮戦を見せていた…!
「思春、状況は?」
「はっ!戦況は我々の方に有利となっています。袁逢軍の方も同様の戦況とのことです」
馬上の人となっている蓮華に思春が戦況を説明すると、同じく馬上の人となっている穏が安心したような感じに言葉を発した。
「やはり名のある大将がいない軍ではこのぐらいでしょう~。既に崩れ始めているようですし~?」
「ええ、私からも見えるわ。先ほど冥凛からの伝令が来たのだけど、千束達の活躍で黄巾賊の副将である三名が討ち取られたそうよ?」
「それは見事ですね…前線で戦っている椿達がこの事を知ったら、奮起するのが目に見えるかのようです」
蓮華の言葉に思春が呟くと、蓮華も同意するかのように頷いたのである。
「…この戦も決着が近いわね。穏、折を見て私達も姉様達の援護に向かえる様に準備をして!」
「了解です~!」
蓮華が命を下すと、穏も拱手をしながら頷いて指揮を飛ばす。そして程なくして、孫堅軍側の中軍に攻め寄せていた黄巾賊の軍勢は方々に散り散りになって敗走し、蓮華率いる中軍は先鋒にいる雪蓮らの援護をする為に軍を進める事となる。
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【中軍2】
一方、袁逢軍の中軍もまた攻め寄せる黄巾賊の迎撃に努めていた。こちらは孫堅軍の様な血気溢れる若武者はいないものの、経験豊富な武将達による堅実な指揮により黄巾賊の勢いを完全に殺しつつ、相手側を疲弊させる戦法を以て戦いを有利に進めていた。
「孫呉の者達は流石じゃのぉ…あの勢い、見習わねばならぬの!」
「お嬢様!孫呉の者達の活躍を無理に真似せずともいいんですよぉ!お嬢様があんな指揮を執ったらかえって危ないと思いますよ!?」
そんな中で袁逢軍を率いる大将となっている美羽は、共に戦う事になった孫堅軍の燃え盛る炎を彷彿とさせる軍の勢いに一目置いており、自分も見習おうとするものの副官である七乃に諫められていた。
「確かにの…。じゃが七乃、これから先…妾は母上の後を継いで南陽袁家の長となるであろう。その為にはもっと勉強をしたり、武芸の鍛錬に励まねばならぬのじゃ。…壮也兄上にいつか再会した時、胸を張って会えるようにの」
「お嬢様…『姫様』き、紀霊将軍!」
美羽の呟きに七乃が声を掛けられずにいると、そこに本陣の警護を任されている紀霊が姿を見せて来た。彼は美羽の前で兜を脱いで傍に置き、畏まりながら拱手をしつつ、彼女に言葉を投げかけた。
「姫様の気持ち、この紀霊痛いほどに分かりまする。されど、人には向き不向きと言う物があります。無理に孫呉の勢いを真似るのではなく、自分にとって出来る軍の率い方を模索する事も必要かと」
「自分にとって出来る…軍の率い方とな?」
「左様…孫堅殿や孫策殿の様に大将自らが先陣を切って兵を鼓舞し、率いる。それもまた大将の在り方でありましょう。ですが大将の在り方とはそれのみにあらず…時には自分よりも軍を率いる事を得意とする者に任せる。それもまた大将の在り方でありますれば」
「…そうか、うむ。紀霊!そなたの金言、しかと心に刻もう!では、我らも蓮華姉様と共に雪蓮姉様達の援護に向かわねばの!紀霊、そなたも前線に向かい蕎蕤や楽就らの手助けをして来るのじゃ!」
「御意!」
美羽の命を受け、紀霊も兜を被ると三尖刀を手に馬に跨り、前線に赴いた。そうして前線に赴くと、すでに黄巾賊の勢いは見る影もないほどに疲弊しているのが目に見えていた…。
「しかし…世の中分からぬ者よな?」
「どうした
そんな時、大斧を手にしながら兵達の指揮を執っている、如何にも猛将と言う感じの顎髭を生やした男性が紀霊に語り掛けていた。この人物こそ袁逢に仕えている将軍の一人に列せられている蕎蕤その人だった。
「姫様の事よ。以前はあの張勲の言葉を唯々諾々と聞き入れて、勉強や調練にも顔を出す事もなく贅沢に耽り我儘放題…正直に言うと、俺はもう官位を捨てて下野してしまおうかと思っておったのだぞ?お前も不満を抱いていたではないか?」
蕎蕤がそう愚痴をこぼすと、紀霊も苦笑しながら頷いていた。…彼の言葉にも一理あったのだから。
何せ袁逢が洛陽に執金吾の任を行う為に旅立った後、宛を預けられた美羽だったのだが…この頃の彼女は七乃の言葉だけを聞いて勉強をおざなりにし、蜂蜜水を愉しむ事しか興味を示さないようになっていた。当然紀霊の様な武官が諫めようとしても七乃が立ちはだかって目通りすらできない有様…。
当然袁家に仕えていた臣下達には不平不満が渦巻く様になり、かくいう紀霊自身も袁家の行く末を案じて当主であった袁逢に事の次第を記した書状を送ったのだが、この事を聞き及んだ七乃も素早く保身の為に手紙を送るなどして時間稼ぎを行っていたのである。
だが…今となっては紀霊は美羽を主君として支える事に迷いがなかった。あの青年…徐来こと壮也との出会いが美羽を変えた。我儘放題で勉学に興味を示さず、蜂蜜粋を味わう事しか頭になかった彼女は…今は勉学や軍の調練、武芸の鍛錬に励むようになったのだから。
それは紀霊の目からすればまだまだ未熟もいい所であるが、少しずつ成長を始めた彼女の事を…紀霊は未来の主君としてみる様になっていたのである。
「…確かに、お前の言う事も最もだろう。嘗て、七乃の言う事だけを聞いていた姫様が当主になっていたとしたら…もしやすればお前と同じ様に隠棲する道を選んでいただろう。だが、今の姫様は自分の過去を顧み、自分を諭してくれた恩人に恥じない当主になろうと成長しだしている。ならば、少しずつでも歩み出した主君を支えずして…臣下を名乗る事など出来ようか?」
「…はっはっは!確かにそうだな。今の姫様はまだまだ未熟者でしかないが、だからこそ支え甲斐がある!そうは思わんか蕎蕤!」
紀霊が自身の想いを語ると、痛快そうに笑いながら苦労人を思わせる顔立ちをしている、大桿刀を手にした男性が馬を寄せて来た。この人物も南陽袁家に仕える武将の一人に列せられている楽就その人である。
「
「うむ…蕎蕤、楽就。姫様からの下知が下った。黄巾賊を撃破し、孫策殿が率いる先鋒を援護せよとのことだ」
紀霊がそう切り出すと、両者は共に破顔一笑しながら得物を握りしめた。
「やっとか!奴らの相手もそろそろ退屈になっていたものでな!」
「では、盛大に蹴散らすとしよう。…者共!長らく退屈な戦を続けさせたが、それも終いだ!疲弊した賊共など数が多くとも我ら南陽袁家の敵ではない!今こそ打って出て、奴らを完膚なきまでに討ち倒すのだ!!」
楽就が大桿刀を突き出しながらそう宣言すると、将兵らは高らかに武器を掲げながら喚声を上げ、そのまま黄巾賊の軍勢を押し始めたのである。そして蕎蕤と楽就もまた得物を手に馬を走らせ、先頭に向かっていき…それを見て紀霊もまた三尖刀を握りしめると、彼らに後れを取らぬとばかりに前線へと赴いたのである。
…黄巾賊の軍勢が壊滅し、袁逢軍の中軍が先鋒を務めている孫策の援護に向かったのはこの僅か半刻後の事である。
・・・・・・・・・・・・・・・・
【後詰】
そして孫堅軍と袁逢軍の合同軍…鋒矢の陣の後詰に当たる備えに、孫堅軍の大将である孫堅こと炎蓮が陣取っていたのだが…彼女は暇を持て余していた。
「畜生…退屈で腕が鈍っちまうぜ。おい真耶『駄・目・で・す!!』…少しは寛容になれよなぁ?」
「何言ってんですか!!どうせ『退屈だからちょっと敵陣を後方から奇襲してくる』とか言うんでしょ!?戦の趨勢はこちらに傾いてはいても、いつ何が起こるか分からないのが戦場なんですよ!!少しは我慢してください!!」
真耶がそう言い切ると、炎蓮はすっかり不貞腐れていたが…意外にも大人しく言う事を聞いていた。いや…どちらかと言うと、無理に飛び出そうとしたらそれこそ馬に噛り付いてでも止めようとするのが目に見えたから諦めた、という所だろう…。
「はっはっは!!堅殿、ここは諦めとくのが良策じゃぞ?」
「ええ…真耶の事だから本気で大殿の馬に噛り付いて制止するのが目に見える物ね…」
そんな炎蓮を祭と粋怜は苦笑しながら眺めていたが…やがて千冬が穏やかに言葉をかけていた。
「大殿、ここは雪蓮様ら若き者達に華を持たせては如何でしょうか?彼らにとっても経験を積む良き機会…それを奪ってしまうのは聊か無粋かと」
「………ちっ!しょうがねえなぁ…」
千冬の言葉を受け、とうとう炎蓮も折れて大人しく後詰を務める事となったのであった…。
・・・・・・・・・・・・・・
【黄巾賊本陣】
「か、韓仲様!孫呉の先鋒から別たれた小隊の将によって、討死ぃ!!」
「趙弘様も討死したとの知らせがっ!!」
「そ、孫夏様も討死したと…!??」
立て続けに届けられる黄巾賊側の副将の討死の報告…それを張曼成は目の前に繰り広げられている光景ー孫堅軍の先鋒が黄巾賊の本隊が固めている前線を食い破ろうとしている―を見ながら聞き流していた。否…聞いてはいるが、受け入れられずにいると言うのが正確な所だろう。
率いている数はこちらが多く、幾ら突破力があろうと左右から挟み込めば磨り潰す事が出来る…張曼成はそう思っていた。だが…彼は孫呉の軍勢の精強さを知らなかった。数の多さで押し潰せばそれで勝てる戦してこなかった張曼成は、数の不利に臆するどころかそれを噛み破らんとする孫呉の強さを…理解していなかったのである。
「馬鹿な…馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な…!!!こんな事、ありえぬ…あってはならぬ!!私は神上使、張曼成だぞ!?私が率いた軍は常に勝利を飾っていた!!それがこんな…こんな呆気なく敗れるなど…!!」
そう言いながら喚き散らしていた張曼成であったが…やがて急に沈黙をする。当然兵士達は動揺を隠し切れずにいたが、張曼成はそのまま黙したまま馬に跨っていた。
「し、神上使様…?どちらへ?」
「逃げるのだ」
「………はっ?」
「こんな戦にもう付き合ってはいられん。私は逃げる、お前たちはここに残って足止めをしろ」
そうあっさりと言い放つ張曼成。その目は爛々と光り輝いていた…余人が見たら正気を失っているのが分かってしまうほどに。そうして張曼成はそのまま馬を走らせると北の方に向かって駆け去って行ったのである。それを本陣にいた兵卒は呆気に取られて眺めていたが……。
「…に、逃げた。神上使様が逃げたぞおおおおおお!???」
声が枯れ果てても構わないと言うぐらいの叫び声を挙げ…その叫びは前線を噛み破り、本陣に向かって進軍していた雪蓮の耳にも届いていた。
「逃げたですって!?総大将が!?」
「率いていた兵を見捨てての逃亡か…よほど切羽詰まっていたと見える。いや…恐らく目の前の現実を受け入れられず、現実逃避をしたという所か」
その叫び声を聞いた雪蓮は信じられないと驚愕し、同行していた冥凛は冷静に分析をしていたが…雪蓮は当然怒りを露わにした。戦場において軍を束ねる大将たる者が、あろう事か率いていた将兵を見捨てて一人逃げ出すなど…それは武門の家柄である孫家に生まれた者としては、決して看過できない事柄だったからだ。
「許せないわね…そいつ!!冥凛!直ちに追撃に入るわ!!」
「…蓮華様や美羽達袁逢軍と合流するのを待った方がいいんじゃないのか?」
怒りを見せた雪蓮の言葉に、冥凛が諭しはするものの…彼女の答えは『否』だった。
「合流に時間をかけていたら逃げられちゃうじゃない!…自分だけ逃げだすような臆病者、生かして帰したくはないもの!!薊、雛菊!!私に続きなさい!冥凛は小隊を率いた千束達を収容してからついてきて!!」
「承知しました!!」
「はっはっは!この雛菊にお任せあれ!」
「…やれやれ、雪蓮もしょうがない事だ。壮也との出会いで少しは落ち着きを見せたかと思っていたが…いや、あれこそ雪蓮らしいと言うべきか。…将兵の収容を直ちに行う様に!」
雪蓮の言葉に馬上の人となっている二人…将軍見習いである薊は拱手をしながら頷き、雛菊の方は高笑いをし自信満々に胸を張りながら剣を掲げたのである。
そうして雪蓮率いる二百ほどの騎馬兵の一団はそのまま逃げだした張曼成の追撃を始め、残された冥凛は雪蓮の血の気の多さに苦笑しながらも将兵の収容に努める事になった…。
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一方単騎で本陣から逃げ出した張曼成は、そのまま豫州を経由しながら華北に向けて馬を走らせていた。
「(華北だ…!華北へ落ち延びる事が出来ればまだ再起の芽はある!あの小娘たちに頭を下げて慈悲を乞えば奴らの事だ、戦力となる将を斬り捨てるほど愚かでもない筈だ…!)」
張曼成はそう考えて馬を走らせていたのだが…彼の目にある物が映り込んだ。それは軍勢が行軍する事で起こる砂埃であり…それを見た張曼成が一旦馬を止めて目を凝らしていたのだが、やがてそれが明確に見え始めた時、彼は愕然としてしまった。
…その砂埃を起こしていた者達こそ、豫州から南陽黄巾賊の討伐に向かっていた討伐軍だったからだ。そして不幸にも、その軍の戦闘で馬を操っていた朱儁と皇甫嵩の目に、張曼成の姿が映ってしまった。
「おや…?楼杏殿、あの者は…」
「見た所敗残兵…かしら?けれど身に纏っている甲冑…それに黄巾…っ!?も、もしや…南陽黄巾賊の首魁張曼成!??」
「これはこれは…思わぬ邂逅と言うべきでしょうか?となると、南陽黄巾賊は袁逢軍と孫堅軍によって…」
この時朱儁と皇甫嵩の二人は最初、張曼成の事をただの敗残兵と思っており、やがてその身に纏っている甲冑や黄巾を見て彼だと察知したのだが…確認の為に一旦軍を止めてしまった事。これは張曼成にとってはある意味幸運だった。
彼は直ちに馬を操るとそのまま反転し、討伐軍を迂回する様に馬を走らせながら逃亡しようとした。だが……彼の逃亡はそこまでだった。何故ならば…。
「見つけたわよ張曼成!!大将たる者が率いる兵を見殺しにして逃げ出すなど、恥を知るがいい!!」
一人逃げ出した張曼成を捉えんと追撃してきていた雪蓮率いる一団に捕捉されてしまったのだから。
「お、おのれええええええ!!」
ここに至って尚、張曼成は生き足掻こうと腰に差していた剣を抜き払って突破しようとしたのだが…雪蓮の前を塞ぐ様に二人の若武者…薊と雛菊が馬を駆けよせていた。
「貴方の様な痴れ者如き、雪蓮様の手を煩わせるまでもなし!!孫堅軍が将軍見習いが一人、朱休穆!!」
「まあ安心したまえ!苦しむ暇も感じさせぬ様に止めを刺してやろう!孫堅軍が将軍見習いが一人、留正明!!」
「小娘共が!!そこを退けええええええええ!!!」
そう名乗りを上げると、二人はそれぞれに得物を抜き払い馬を走らせながら張曼成に向かっていく。これに張曼成も激高しながら剣を手に駆けだした…。
勝負は一瞬だった…張曼成が振るった剣の一撃は、薊が手にしている双剣によって弾かれ、間髪入れずに駆け寄せた雛菊の迅雷剣の斬撃によって斬り落とされる事により、張曼成は落馬し…その命を終わらせる事となった。
「ふっ…南陽黄巾賊が首魁張曼成!!孫堅軍が将軍見習いが一人、留正明が討ち取ったりぃ!!はっはっは!!これでまた多くの女性に浮名を流す事になってしまったようだぁ!!」
「……最後ぐらい格好つけなさいよ、あんた」
「やれやれ…ってあれは、官軍?」
張曼成の頸を掴み、高々と掲げて勝鬨を挙げる雛菊…かなり私心の入ったものとなっており、それを聞いた薊は呆れかえったように溜息をつきながら悪態をつき、雪蓮も苦笑しながら見守っていたが…やがて向こうから官軍と思われる軍勢が近づいているのを察知した。
そうしてその官軍の先頭にいる将軍…即ち討伐軍の大将である朱儁と皇甫嵩らが馬を走らせてこちらに向かってきた。
「いやぁ…実にお見事でした。まさか私達が加勢する前に南陽黄巾賊との戦いが終局に向かっていたとは、この私を以てしても読めませんでしたよ。おっと、自己紹介がまだでしたね…官軍の大将を務める朱公偉と申します」
「確かに…官軍の大将を務める皇甫義真よ。貴女は…」
「お初にお目にかかるわ。長沙太守孫文台が娘、孫伯符と申します。こちらは孫堅軍の将軍見習いとして研鑽を積んでいる、朱桓と留賛です」
雪蓮の紹介に二人は即座に拱手をしながら畏まった。
「成程…孫堅殿は何処に?」
「母なら間もなく合流するはずです。直に軍勢がこちらに…」
朱儁の問いかけに雪蓮が説明している内に、南から軍勢が向かってくる砂埃が見え始め…やがて孫堅と袁逢による合同軍と官軍は、豫州と荊州の国境付近において邂逅を果たす事となった。
その後……朱儁と皇甫嵩は今回の戦いにおいて活躍をした孫堅と袁逢の双方の活躍を称賛し、尚且つ張曼成率いる南陽黄巾賊の襲来を防衛して見せた袁術。そして合流後に会戦し、その中で南陽黄巾賊の首魁である張曼成を初め、副将の三名を討ち取って見せた孫堅軍の将軍見習いである陳武、全琮、賀斉…そして留賛の功績に報い、報奨金を授与する事となった。
かくして…南陽黄巾賊もまた魯陽郊外において多くが屍を晒す事となり、生き残っていた僅かばかりの捕虜もまた南陽を略奪した罪により情状酌量の余地無しとして斬首。ここに中原における黄巾党の勢力図は壊滅の憂き目に遭う事となり、黄巾党と漢朝の戦い…その展開は華北に移り行く事となる。
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黄巾党と漢朝による戦いが中原において繰り広げられ、その過程で様々な変化、そして動きが起ころうとしていた…続きは次回の講釈で。
オリジナル武将
『蕎蕤』(容姿、性格はアルスラーン戦記の『ガルシャースフ』を参考にしました!)
南陽袁家に仕えている武将の一人。剛直無比、頑固一徹と言う性格をしており、張勲こと七乃の言葉だけを聞いて勉学などをさぼっていた頃の袁術こと美羽に不満を抱いており、一時は禄を捨てて下野しようと考えていた。
だが、壮也との出会いを経て成長し始めた袁術を見てまだ希望があるのではないかと思い直し、同輩である紀霊の説得もあって南陽袁家を引き続き支える事となる。武器は大斧。
史実においては于禁に、演義では夏侯惇に討ち取られると言う最期を遂げた人物である。
『楽就』(容姿、性格はアルスラーン戦記の『サーム』を参考にしました!)
南陽袁家に仕える武人の一人であり、紀霊や蕎蕤とは同輩。蕎蕤と同じく張勲の言葉だけを聞いて勉学をおざなりにし、蜂蜜水に夢中になっていた袁術に不満を抱いていたが、蕎蕤とは違い少しずつでも説得を続けようと考えていた。
しかし壮也との出会いを経て考えを改め、少しずつ成長を重ねていく様になった彼女を見て、改めて忠誠を尽くす事を誓うとともに、旅立ってしまった壮也の事を残念に思っていた。武器は大桿刀。
袁術に仕えていた武将であったが、正史では敗色濃厚となっていた袁術に見捨てられる形となり、奮戦をするも戦死をすると言う最期を遂げてしまい、演義では寿春の防備を命じられるものの敗れ、戦後に引き回しの上斬首と言う最期を遂げた人物である。