官軍への投降が認められ、再び兗州に帰還しようとしていた泰山賊の野営地。だが、帰還する準備に追われている彼らの所に、思わぬ人物が訪れていた…。
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「おやおやぁ?そこの坊主、お前さん曹操軍に加わっているっていう天の御遣いって奴じゃねえのかい?」
「は、はい…」
その人物…巷で天の御遣いと呼ばれる事が多くなっている一刀に対し、細身で背中に朴刀を背負った青年…泰山賊の副首領の一人である尹礼が見とがめていた。
「ここは知らぬ者無き泰山賊の野営地だぜ?そんなとこに何の用だよ?」
「え、えっと…」
人懐っこい笑顔を向けてきてはいるものの、その目には敵意がありありと浮かべながらこちらを見てくる尹礼に対し、流石の一刀も冷や汗をかいていた。
「おい尹礼、そんなとこで何してんだよ…って、そいつ天の御遣いじゃねえか?」
「わざわざお目付けって感じで来たのかよ?ったく、官軍の奴らは用心深いこったな…」
だが、そこにさらに槍を手にした青年と背中に狼牙棒を背負った、他の二人よりも老けた印象を感じさせる顔つきをした青年…泰山賊の副首領である昌稀と呉敦も絡んできたのである。
当然訝し気にこちらに視線を向けてくる三頭領に一刀はますます冷や汗をかくのだが…このままではいられないと気を引き締めながら言葉を発した。
「あ、あの…!泰山賊の頭領である孫観さんに会わせてほしいんです!」
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それは徐州黄巾賊との戦いが終わり、華琳達が次に起こるであろう青洲黄巾軍との戦いに向けて準備をしていた時の事である。
『青洲黄巾軍に繋ぎを取ってみたい、ね…相変わらず突拍子もない考えを出してくるわね貴方?』
『う、うん…』
一刀が閃いた発案…それは以前提起した『太平道の指導者である張角達を保護し、黄巾軍を自分達の戦力として迎え入れる』という策略の為に、彼らに最も距離や交友関係が深いと言える青洲黄巾軍に繋ぎを取りたいと言う物だった。
当然この提案をした時、華琳は彼の提案に呆れ半分というべき溜息をついたものの、その一方で彼の提案が以前よりも考えられている事に気づいた。
『…確かに青洲黄巾軍の頭目である管亥は、黄巾党の首魁である張角の掲げる『漢朝を討ち倒し、罪なき民草が貧困に苦しめられない國を作る』って言う理想に共感しているし、現に彼が率いる青洲黄巾軍は民草に対して一切の略奪をしておらず、寧ろ青洲刺史の横暴によって苦しめられていた民草から悪徳官吏を追い出しているわね。そうだったかしら桂花?』
華琳が腹心である桂花に問いかけると、彼女も拱手をしながらこれに応える。
『はい、その通りです華琳様!管亥は嘗ての青洲刺史に将軍として仕えていましたが、民を苦しめていた彼の行いに激怒。彼と彼に仕えていた佞臣が貯め込んでいた財貨や食糧を強奪して民草に分け与えた直後に自首し、これに対し刺史は当然処刑をしようとしたのですが、彼の朋友でもあった武安国という将軍が彼の死を偽って逃し、そうして太平道の門戸を叩いた事で青洲黄巾軍の頭目となったとか…』
『うん、そうなんだ。だからこそ…民を救う為に悪政に立ち向かったのなら、きっと張角を救う為に行動を模索している俺達の話を聞いてくれるかもしれないと思うんだ』
桂花が事前に獲得し精査した情報を述べると、一刀もまた自分の考えを口にする。これに華琳は暫し熟考していたが…やがて口を開いた。
『…話は分かったわ。確かに今の状況下なら一刀、貴方の突拍子もない…遠大というべき策謀も現実味を帯びているかもしれない。けれど、問題はどうやって管亥に対して繋ぎを取るのかしら?馬鹿正直にこちらから書状を持って行っても唯々諾々と受け入れる訳はない…それは分かっているわね?』
『ああ。それなんだけど、実は…』
……そうして一刀が出した提案。これには流石の華琳や桂花も開いた口がふさがらなかったのは言うまでもない。
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泰山賊の野営地にある本営。そこに泰山賊の頭目である孫観が得物である大剣の手入れを行っており、その前に尹礼らによって連れてこられた一刀も立っていた。
「…そなたが、近頃巷で噂に聞いている天の御遣いと呼ばれている若者か」
「は、はい!北郷一刀って言います!!」
大剣を布で丁寧に磨きながら静かに語り掛けてくる孫観…静かでありながらも強い意志が込められている彼女の言葉に、一刀は改めて名乗りを上げる。
そうして本営内は静寂に包まれたが…やがて孫観は痛快そうに笑みを浮かべて言葉を発した。
「そう緊張するな。取って食う積りなど毛頭ないからな…最も、どうやら尹礼らにこってり絞られたようだが」
「えっと、分かります…?」
「気を悪くしないでくれ。あいつらも悪意があった訳ではない、頭目である私の事を案じているが故の事だからな…」
彼女が苦笑しながらその視線を本営の入り口に向けると、どうやらのぞき見をしていたらしい尹礼らが慌てて走り去るのが感じ取れた…。
「さて…単身我が泰山賊の野営地に乗り込んできた、その勇気は買おう。だが、一体何を成す為にここに乗り込んできたのか…その訳を聞かせてもらおう」
「…っ!はい、わかりました。実は……」
…それから一刀はこれまでの事を孫観に説明し始めた。『漢朝を討ち倒し、罪なき民草が貧困に苦しめられない國を作る』為に立ち上がった張角達を、自分の恩人であり天下統一を胸に秘めている主君である華琳こと曹操の下で匿い、それによって黄巾軍を曹操軍の将兵として組み込もうという事。
その為に彼らと距離も近く、彼らの理想に心服しているであろう青洲黄巾軍の頭目である管亥らに繋ぎを取る為に、彼らとも面識があると思われる孫観達から書状を送る様にしてほしいという事を…。それを聞いた孫観は流石に己が耳を疑った。
「………正直、己が耳目を疑ってしまうな。一刀よ、そなたの主である曹操は官軍の将軍の一人であろう?にも拘らずこの乱の首謀者というべき張三姉妹を匿おうなど…それこそ後の禍に繋がりかねないと思うのだが、それは分かっているのか?」
孫観が自分の疑問を一刀に問いかけると、一刀もまた苦笑して頬を指で掻きながら答えた。
「その事は、華琳のみならず桂花達にも言われました。…確かに危険な賭けかもしれない、けれど今の漢王朝は腐敗が取り返しのつかない所まで行っている以上、いずれは壊れて乱世に発展しかねない。だからこそ、乱世を少しでも早く終わらせる為に、民草の苦しみを良しとしない張角達の理想に心服している黄巾軍の力を貸してほしい…俺はそう思っているんです!」
一刀の力強い返答に、孫観は暫し目を見開いて沈黙をしていたが…やがて満面の笑みを浮かべながら答えていた。
「…面白い!私を相手取ってそこまでの啖呵を切って見せるとは!!いいだろう…私は管亥とは個人的に友誼を結んでいる関係にある!!私からあいつに書簡を送ればあいつも一瞥せぬという事もないはずだ!」
「っ!あ、ありがとうございます孫観さん!!『それと…私の真名は飛蓮だ、覚えておけ』って、良いんですか?」
「構わぬ!私相手にここまでの啖呵を切って見せたお前の事を…私は個人的に好きになった!今日は気分がいい!!我が友にとっての恩人を救う天の助けが来ただけでなく、こうして真名を預けるに足る友が出来たのだからな!!はっはっは!!!」
こうして、一刀は泰山賊の頭目である孫観の協力を勝ち得る事に成功したのである。因みに…張角らが三姉妹であった事を初めて知った一刀の驚きようは、相当な物だったのは言うまでもない。
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それから程なくして…北海国は夷安に陣取っている管亥の下に、孫観からの書簡が届いた。それを拝見した管亥は暫く沈黙をしていたが、やがて嘗て豫州黄巾軍の副頭目であった卞喜を呼び寄せた。
「管亥様、お呼びでしょうか?」
「来たか卞喜…お前に聞きたい事がある」
「…?何でしょう?」
「……お前は、波才を討ち取ったと言われている天の御遣いと呼ばれている北郷一刀の事を、どう思っている」
管亥が放った言葉に、卞喜は一瞬顔を強張らせはしたが…やがて平静を取り戻したのか静かに声を発した。
「正直…思う所はあります。けれど、あの後聞いたのですが波才様の亡骸は丁重に弔われたとか。会ったらすぐに斬り懸かるつもりはありませんから」
「そうか…実はな、孫観から書簡が届いたのだ。読んでみたのだが…そこに天の御遣いの名が載っていてな。その男が言うには、張三姉妹らを秘かに匿いたいとあったのだ」
管亥が発した言葉に、卞喜は当然取り乱した。無理もない…何せ官軍に属している人間が、乱の首謀者というべき三姉妹を保護したいと言ってきたのだから。
「なっ!?ど、どう言うことです!??確か天の御遣いという男は官軍の将軍の一人である曹操に仕えていたと聞いているのですが…!?」
「俺も最初書簡に目を通した時は、当然疑った物さ。だが…飛蓮は嘘偽りをするような奴ではないし、書状によれば天の御遣いが仕えている曹操にも許可を取っているとのことだ」
そう言うと管亥は深い溜息をついた…。今の彼にしてみれば、天の御遣いと言われているこの人物の提案は……正に天より垂れ下がって来た蜘蛛の糸。もしくは荒れ狂う大河の中に落ちた者にとっての板切れにも等しかったのだから。
しかし、だからこそ慎重にならなければならない。もしこれが自分達を救おうという見せかけとしての策謀である可能性だって否定できないのである。卞喜を下がらせた管亥は……選択を迫られた。
「………(この提案に乗るべきか否か、難しい所だな。罠であれば三姉妹の方々をみすみす死地に追いやる殊に他ならない。しかしこの様な救いの手、払いのけたとしたら二度と差し伸べられぬだろう。この乱も終局に向かいつつある…三姉妹の方々を救出して青洲に匿ったとしても向かってくる官軍を迎え撃ち続けられるかと言われれば答えは否だ。どうする…………!)」
脳漿を絞り尽くさんばかりに懊悩し続ける管亥……。それは一昼夜、飲まず食わずで熟考し続けた末に彼は…決断した。この天の御遣いを、そしてその御遣いが降り立った曹孟徳という人物を信じるという決断を。
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一方、朱儁率いる官軍は魯陽から北へ進軍を開始。河北にて跋扈する黄巾賊の対処を行う為に向かった盧植率いる官軍に合流をせんとしていた。その最中に…。
「お初にお目にかかります!あたしは黒山賊の頭目を務める張飛燕!これより朱儁将軍の指揮下に入り、奮戦する所存でございます!!その手土産と言っては何ですが、身の潔白を示す為にこちらをお納めくださいませ!!」
官軍の野営地の本営に現れた、左肩の部分に重厚な肩当を取り付けた軽鎧を纏った栗色のポニーテールをし、緋色の瞳を持つスレンダーな体格をしている少女…先代の頭目であった張牛角の後を継いで黒山賊の頭目になった張燕がそう名乗りを上げると、連れてきた部下達が持ってきた物を朱儁らに見える様に献上をした。
ーそれは……黄巾賊に合力せんとしていた白波賊の頭目であった韓暹と、その副将であった李楽と胡才の首級だったのである。
彼らは南陽黄巾賊の頭目であった張曼成が戦況が悪化しているのを挽回しようと使者を送り、これを受けて合流しようとしていたのだが…運の悪い事にこの時官軍に合力する為に南進していた張燕率いる黒山賊と鉢合わせてしまい、行き掛けの駄賃代わりとばかりに攻め懸かられてしまったのである。
これに韓暹は何とか抵抗しようとしたのだが、并州を根城にして牙を研いでいた黒山賊に比べれば所詮小物でしかなかった白波賊は呆気ないというほどに完敗……逃げ出そうとしていた韓暹たちの前に張燕が立ちはだかり、彼女が手にしていた二丁斧によっていとも容易く頸を預ける事となったのであった…。
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「…成程、よくわかりました。貴方達黒山賊の誠意、確かに受け取りましたよ。既に何進将軍から黒山賊の者達が降伏した事も耳に入っています。改めて、宜しくお願いしますね?」
「はい!お任せいただければ幸いです!!」
元気一杯という感じで返事をした張燕は、そのまま踵を返して本営から出て行った。その後ろ姿を、同じく本営にいた炎蓮は面白そうに眺めていた。
「へえ……あれが黒山賊の頭目か。中々腕っぷしが立ちそうじゃねえか、なあ雪蓮?」
「そうね母様。けど腕前だけじゃなく、百万と豪語するほどの黒山賊を束ね纏めるそのカリスマも大したものじゃない?」
雪蓮がそう茶目っ気混じりに応えると、炎蓮もまた不敵な笑みを浮かべながら頷いた。その様子を苦笑しながら朱儁は改めて軍を動かす事を決断したのであった。
「ともあれ、これで阻む障害はなくなりました。風鈴殿も首を長くして待っている事でしょうし、改めて北進を再開しま『し、失礼いたします!!』っ?何事ですか!?」
ところが号令をしようとした矢先、本営の天幕が荒々しく開けられ兵士達が入って来た。見ると兵士の一人はあちこち土埃で汚れ、疲労困憊となっている兵士を連れて来ていたのである。
「貴方は…確か河北黄巾賊の討伐に向かった風鈴率いる官軍の兵士、でしたね?その姿は…」
「しゅ、朱儁、将軍…この様なお見苦しい姿を見せてしまった事、平にお許しの程を…。さ、されども…火急の一方を届けねばならぬと思い、こうして昼夜問わず駆け続けてきました…」
使者は息も絶え絶えになっていながらも、懐から書簡を取り出して朱儁に手渡した途端、そのまま意識を手放して倒れてしまった。すぐに朱儁は兵士に命じて看病をする様に命じ、使者は連れて行かれた。
だが…朱儁は感じ取っていた。これはただならぬ事が起こったという事に他ならないと…そうして書簡を開き、中に書かれた書面に目を通したのだが…その表情は愕然としたものになり果てていた。
「そんな………!??なぜ……なぜこのような事になったのです、風鈴……!!!」
とても信じられない…否、信じたくない。そう思ってしまうように呟いた朱儁の手から書簡が零れ落ち、それは地面に広がり中に書かれていた書面が誰の目にも見える様になってしまう。
ー河北黄巾賊の逆襲を受け官軍圧倒的苦戦に陥る。これを率いていた盧植将軍は戦いが始まる前に在りもしない罪で更迭されてしまった。
…書簡にはそのように記されていたのである。
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時は朱儁率いる官軍が豫州黄巾賊と潁川黄巾軍を相手取って戦っていた頃に遡る。この頃の河北は
その官軍に幽州刺史を務めている劉虞こと藤乃と彼女の副官として同道した白蓮こと公孫瓚。そして彼女の下で動く義勇軍を纏めている桃香こと劉備が義妹である張飛こと鈴々、副将である趙雲こと星を連れて参戦する事となったのである。
「久しぶりね桃香ちゃん。白蓮ちゃんも元気そうね…」
「お久しぶりです先生!」
「はい。
官軍の野営地、その本営で白の入った灰色の所々にカールの入った長い髪をし、眼鏡をかけた翡翠色の瞳をしているほんわりとした雰囲気の女性が桃香と白蓮を出迎えていた。この人物こそ腐敗が進みつつある漢朝に仕えている将軍の一人であり、二人にとっては学問の師でもあった
「あら…?白蓮ちゃん、何だか変わったみたいね?」
「えっ?そうですか…?」
ところが唐突に風鈴は白蓮を見て思わぬ事を呟いて来たので白蓮が疑問に思うと、風鈴は頷いていた。
「ええ…以前のあなたは自分自身の凡人でしかない才覚に劣等感を感じていて、それを何とかしようと無理をしてたもの。でも今のあなたは…何だか余裕が出来た。そんな気がするわ」
「ええ、そうかもしれません…いい出会いがあった、そう言うことですよ!」
白蓮は満面の笑みを浮かべながらそう答えると、風鈴もまた嬉しそうに微笑みを浮かべたのである…。
「そう…いい出会いがあったのね。それじゃあ…劉虞さん、今回は宜しくお願いね?」
風鈴が白蓮の後ろにいた藤乃にそう声をかけると、藤乃もまた拱手をしながら答えた。
「お任せください。漢朝の宗室、その一人として尽力する所存です」
「ええ。それでは皆さん、戦いの用意をお願いします!
「畏まりました!」
彼女が藤乃や白蓮、桃香達に戦いの用意をするように伝えると、同じく本営に来ていた濡れ羽色の長髪を後ろで束ね、紫色の瞳を持つ凛然さを感じさせる美貌の女将軍…漢朝に仕える将軍の一人である趨靖に命を発したのである。
しかし……そうしてそれぞれが戦の支度にとりかかる中で、桃香だけは顔を不安げに染めていたのを白蓮は見逃さなかった。
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そうして戦は始まったが、結果は官軍の勝利だった。朱儁や楼杏と同じく、今の漢朝において数少ない良将と言える風鈴の指揮は、所詮ならず者の集まりとしか言えない黄巾賊の猛攻など柳に風、という感じで軽くあしらえるものでしかなかった。
そして黄巾賊を率いていた程遠志と鄧茂の両名はというと……。
「ハイハイハイー!!!」
「ひでふっ!??」
「うりゃりゃりゃりゃー!!!」
「あべしっ!?」
……星の凄まじい刺突によって程遠志は蜂の巣の様に穴だらけになり、鄧茂は蛇矛の一撃で頭をかち割られるという、実に呆気ない最期を遂げる事となったのである。
だが……軍勢そのものは壊滅には至らなかった。それというのも黄巾賊の頭目である二人が討たれて間もなく、同じ戦場で指揮を執っていた、ずんぐりとした体格の男がすぐさま軍勢を糾合するとそのまま鮮やかというほどの撤退をして見せた為であり、戦いはまだまだ続きそうになっていた…。
・・・・・・・・・・・・・・・・
戦いが終わり…いまだ戦塵が巻き上がっている戦場跡を、桃香は馬で移動していた。気分転換をしたいと星や鈴々と別れて馬を走らせたのだ…。
あちらこちらに黄巾を巻いた兵士達の亡骸が積み重なっているのが彼女の目に、時折うめき声の様なものも彼女の耳朶に届いている…。
「………(いっぱい、死んじゃった……。助ける事、出来なかったのかな…?この人たちだって、元は私達と同じ百姓だったのかもしれないのに…無暗に殺さなくてもいい道だって、あったんじゃないのかな…?)」
まさに地獄絵図というべき有様に、桃香は慙愧の念に堪えなかった。元より桃香は心優しい性格だ…皆が笑って暮らせる世の中を作りたいと言う想いを持つ一方、その為に誰かを傷つけるというのを嫌う性分でもあった。
藤乃の下で働く中でそうした理想を叶える為には、時として戦う必要があるのだと教えられては来たものの…彼女にはどうしても受け入れられなかった。自分達に向かってきて、そうして命を落とした敵にだって帰る場所があり、帰りを待つ人たちだっていたはず。なのに……。
「やっぱり……こんなやり方、間違っているんじゃ…!?」
だが、桃香の悔恨の言葉はそこで途切れた。何故なら…。
ーひゅんっ、どすっ!!
「ビヒヒィ!???」
どこからか放たれた矢が彼女の馬の尻に突き立ち、そうして激痛に馬が暴れ回ったかと思うと、桃香をそのまま振り落としてしまったのである。
「きゃあっ!?」
「や、やったぞ!!官軍の武将だぁ!!」
「仲間の仇だ!楽には殺さねえぞ!!」
「こ、来ないで…!!」
そうして地面に叩きつけられてしまった桃香の下に近くの草むらから数人の黄巾賊の兵士が刀や矛を手に飛び出してきた。これに桃香は必死に起き上がって腰に下げている『靖王伝家』を抜いて構えはしたが…。
「おいおい見ろよ!!生まれたての子馬みてえにガタガタブルってやがるぜ!?」
「そんな腰が引けてちゃ剣なんて振るえねえぞぉ!!」
そう賊共がぎゃいぎゃい囃し立てて来たように…桃香は震えが止まらなかった。殺さなければ自分が殺される。けれど…彼らにも帰る場所があり、帰りを待つ人だっているんじゃないのか?それを殺す事が果たして正しいのか?そんな『迷い』が彼女に戦う意思を奪ってしまっていた…!!
「も、もうやめて…!貴方達だって帰る場所があって、帰りを待つ人がいるんでしょう!?ならもうこんな事は…」
だが……彼女の必死の説得も、賊からすれば『馬の耳に念仏』でしかなかった。
「何だよこいつ、如何にも育ちのいいお嬢ちゃんみたいな事を言ってきやがるぜ?!」
「馬鹿野郎が!俺達に変える場所も、帰りを待つ人もいねえんだよ!!国の連中のせいで皆ぶち壊されたんだからなぁ!!」
「もういいだろ?…とっとと。死にやがれ!!」
彼らは桃香の説得を雑音とばかりに切り捨てると、そのまま彼女を手に掛けんと猛然と飛び掛かってきた!!これに桃香は体の震えが止まらず、棒立ちとなって何の抵抗も出来ないままに殺されてしまった
ーーーーかと思った瞬間、賊の一人が一頭の白馬の体当たりで吹き飛ばされた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「なっ!?」
「だ、誰だっ!!」
「えっ…白蓮、ちゃん?」
そうして突然の事態に混乱する賊達と、呆然とした声を出す桃香の視線の先にあったのは…白馬に跨り、錐矛と長剣を両手に握りしめた白蓮の姿だった。
「うおおおおおおっ!!!」
「ぐあっ!?」
「ギャアッ!?」
彼女は即座に下馬すると、手にしている錐矛で賊の一人を貫くとそのまま投げ飛ばし、もう一人と長剣で切り捨てた。その攻撃のどちらにも一切の迷いがなく、相手を殺す覚悟の籠ったものだった…!
そうして襲い掛かってきた賊達はすべて倒され、白蓮は長剣に付いた血糊を剣を振るう事で落とすと、そのまま鞘に納めた。その途端、桃香はペタン…と膝から崩れ落ちてしまった。それを見て、白蓮は黙って彼女に近づくと桃香に手を差し出した。
これに桃香が微笑んで手を握りしめ、立ち上がったのだが…次の瞬間。
ーパチンっ!!
桃香は、白蓮に頬を平手打ちされていたのである。
「えっ…?白蓮ちゃん…何で?」
「…桃香、私は言ったよな?戦場に参加をするのなら、敵を殺さなきゃいけないんだって。…なのに、なんで何もしなかったんだ!?あんな棒立ちになったままで!!私が助けなかったら、お前は殺されていたんだぞ!?」
そう叱責してくる白蓮の目には、強い怒りが込められていた。それを見た桃香の瞳からは…やがて涙がこぼれ始めた。
「だ、だって………あの人達だって元は百姓で、帰る場所があって、帰りを待つ人たちがいたんだよね?なのに、賊になったからって殺すなんて…それは正しいって言えるの!?私は、誰も傷つけたくないし、殺したくもないよ…!!」
そう泣き叫びながら吐き出した言葉…それは、桃香の痛切な心中の吐露だった。だが、白蓮は首を横に振ると、厳しい言葉を投げかける。
「桃香……戦場に立った以上、その甘さは捨てなきゃ駄目だ。確かにこいつらは元々は農民とかだったのかもしれない。けれど、一度賊になって他の民草を害する様になった以上、殺さないと駄目なんだよ…!!」
「…ここで僅かでも逃がしたりしてみろ。こいつらの様な賊が反省して罪を償う…そんな訳が無いだろう!?別の場所で、またほかの民草に危害を加えるのが目に見えてるんだ!!もしそうなって桃香、そいつらがお前が藤乃の元で接してきた民草に危害を加えたとしても…お前はそいつらを許せるのか!?」
そこまで言い切った瞬間、桃香は膝から崩れ落ち…声を押し殺して泣き続けた。帰ってこないのを心配した鈴々や星が駆け付ける、その時まで…。
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黄巾賊が陣地を構える山間部。そこに立てられた砦の本営にある机の上に地図を広げて眺めている男がいた。ほっそりとした顔立ちのキツネを思わせる風貌の男であり、地図を注視して戦況の推移を見守っていた。
やがて本営の天幕が開かれたかと思うと、先ほど程遠志と鄧茂の二将と共に戦場に立ち、戦況が悪化したと見るや即座に黄巾賊を纏めて撤退した男が入って来た。
「いやー参った参った…!!おーい張純、帰ったぜー?」
「よう、無事だったか兄貴。…ンで、あの二人はどうした?」
「駄目だ、二人とも義勇軍ってのを率いていた劉備の部下にやられちまったよ…いやー、少しはもつかと思ったんだが、まさかあそこまで鮮やかにやられるとはなぁ…」
「まあしょうがねえわな…所詮黄巾賊の頭目なんてあんなもんだろ?けど…これで俺らが連中を取り纏める事が出来るな」
そう言ってキツネを思わせる風貌の男…元中山太守を務めていたが、黄巾賊に与して河北を暴れ回っている張純が不敵な笑みを浮かべて呟くと、その兄である張挙が苦笑いをして問いかけた。
「しっかし…これもお前の計算ずくってのがおっそろしいぜぇ。あの二人は捨て駒だったって事か?」
「当たり前だろ?所詮突っ込むしか能のねえ猪武者なんぞ、適当なとこで始末しといた方がいい。寧ろ質は悪かろうが、数だけは多い黄巾賊の連中を手足の様に扱えるようになりゃこの戦い、もう少しは戦えるようになるってもんよ」
そう言って張純が天幕の外を見れば、張挙の指示を受けて命拾いをした黄巾賊の将兵がこちら側の指示に従っているのが容易に伺えた…。
「んでもよぉ…これからどうすんだよ?数は揃えられても、向こうは義勇軍の奴らは強えし幽州刺史が連れてきた軍もいやがるし、何よりそれを率いてる官軍の大将…確か盧植ってんだろ?あの女も強いのなんのって…」
「んな事分かってるって…安心しな兄貴。いくら官軍が強かろうと、所詮頭が代わっちまえば対処がしやすくなるってもんなんだよ」
そう呟く張純の顔は、悪巧みを思いついた醜悪な物となっていたのである…。
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緒戦で黄巾賊を相手に勝利を飾った盧植率いる官軍。ところが、事態は思わぬ方向に転がり落ちていく事に…続きは次回の講釈で。