四重人格後藤ひとり ぼっち・ざ・くあどろふぇにあ! 作:怠鳥
序章-1
ギターをかき鳴らして歌う廣井さんに、私はどんな視線を向けていたんだろう。
咎めるような目だったのかもしれない。
羨ましそうにしていたのかもしれない。
そんな私の目をどう思っていたかは聞けなかったけれど、廣井さんは、
「聞いてくれてありがとう、ひとりちゃん」
と言ってくれた。
結局、廣井さんも現実に勝てなかった。
分かってる。
世の中で普通の人が一番多い理由。
普通じゃない人は早く死ぬ。
そうだ。生きていくのなら、普通が一番いいんだ。
私はどうすればいい?
お酒を飲んだ。
昔の廣井さんよりたくさん飲んだ。
●
ある日の夜、廣井さんに飲みに誘われた。それも私だけに声が掛かっていて、なぜなんだろう、って少し不思議に思っていた。
それで店の前で待ち合わせて、一緒にお店に入って、飲み物を注文して……そこでようやく“変”だと確信してしまった。
私がビールを頼んだのに、廣井さんは麦茶だった。
「あっ、あの廣井、さん……今日お酒飲まないんですか……?」
「うん。ていうか、もう一生」
「えっ……」
手慰みに割り箸を撫でていた手が止まって、震えた。
廣井さんはそんな私を見て、申し訳無さそうな笑顔で、でも俯いて。
「肝臓、ダメにしちゃったんだよ」
早晩そうなるんじゃないか、と思い続けてもう10年が経っていた。
それでも生きていたんだから、この人は大丈夫な人なんだろう、なんて思い込んでいた。
そうであってほしかった。だから慌てすぎて思わず、
「えああ、あのあ、よ、余命は……」
「気が早いって。まあギリギリだったとかで、無理しなきゃそれなり生きられるみたい」
「あ、あの、すみません……」
「あとアル中も治療で……知ってる?アルコール依存症って一生治らないんだって。ひとりちゃんも気をつけた方がいいよ~」
「き、気をつけますけど、今日わ、私だけお酒飲んですみません……」
「気にしないで、ほらかんぱーい。麦茶で失礼~」
私の持つジョッキと廣井さんの持つグラスのぶつかり合う音。
……非対称に響くガラスの音。
廣井さんがグビグビと麦茶を呷ってぷはーと息を吐くと、宙を眺めながら、
「これからしばらくはシラフでステージに立つんだなぁ」
「し、しばらく……ってまたお酒飲むんですか……?」
廣井さんは私に気がついたみたいに目を瞬かせて、そして笑って言った。
「違う違う、バンドやめるの」
「……え?」
「お酒なしじゃSICK HACKの廣井きくりじゃないな、って思って。メンバーにも相談したんだけど、それなら解散しようか、ってなったんだ」
頭の中が疑問符で埋まる。色とりどりのカオス。
悲しみの青。安堵の緑。真っ白な現実逃避。失望の灰色。裏切られた黒。
それに染み込む、続く言葉。
「結構悩んだんだ」
自分がどんな顔をしているかわからない。
廣井さんは麦茶を見ているから多分わかっていない。
「でも生きてれば、またライブはできる」
言葉が続く。
「やれるって保証はないよ。でもそんな希望がどこかに残る。夢物語が」
私は黙っている。
顎がこわばって、口が動かない。
「そんな望みを持たせるのも罪作りな気はしたんだけど、2人ともそれがいいって」
「……」
「それに、一人ならアコギを弾いて歌えばいいやって。椅子か地面に座って……ロッカーというか、シンガーソングライターだね。…お茶失礼」
「まぁ、それでいいかって、思ったんだよね。ごめん、話しすぎたかな」
「い、いえ……全然……私のほうが話せないだけですから……」
「ひとりちゃんは変わらないなあ」
私は元々泣き上戸だったから、涙はお酒のせいにできた。けれど、その日は泣くためにお酒を飲んだ。お酒のせいなんかじゃなかったけれど、そういうことにしないと、やりきれなかったから。
笑い上戸な廣井さんとは大違いで、別に廣井さんになりたいとは思ってもいなかったけれども、ただ、廣井さんのようにはなれないんだ、とがっかりする自分がいた。
廣井さんが路上で、アコギを弾いて歌うようになって。
それを見てもやっぱり、私はこういう風にはなれないと思った。
お酒を飲んだ。
廣井さんの分まで飲んだ。
毎日、毎夜、飲んだ。
§
そのうち、飲まずにいるのがつらくなった。
ライブ前には酒を抜かなくちゃいけなかった。
お酒は孤独を麻痺させてくれる。
けれどアルコールが抜けていく、抜けている間は孤独が寒さになって体を震えさせた。
バンドの音合わせが終わって解散して、家に帰った。
すると、喜多ちゃんが後ろにいた。家に押し入られた。
見られた。
空き缶の山、山、山。
片付けながら、喜多ちゃんは泣いていて、私はどうすればいいか分からず泣きながら立ち尽くしていた。
手の震えは止まらなくなっていた。
空き缶をごみ袋に詰め終わると、喜多ちゃんは私に詰め寄って、けれど怒鳴りつけることなく、多分そうしたかったのに、優しい声で、
「お酒、もうやめましょう……?」
そう言われて初めて、廣井さんが心配していた依存症になっていたことに気がついた。
喜多ちゃんは私の手を握って、
「このままじゃ、死んじゃう……」
「あっ……うん」
それはないだろう、という返しをしてしまった。
でも、しくじったという気持ちさえもぼやけ続けている意識の中に溶けていく。
私の手の平は黄ばんでいて気持ち悪かっただろうな、と考えていた。
§
お酒をやめるために、病院に行くことになった。喜多ちゃんに手を引かれて。
問診を受けて、血を採られて、お腹に油みたいなものを塗られて超音波検査。
わかったのは、私はすっかり依存症で、肝臓もあっという間にやられていたということ。
余命とかは伝えられなかった。
すぐに入院が決まって、同時に事務所からも活動休止がアナウンスされた。あっという間だった。ただ、アルコール依存症の治療のため、だとか詳細は載っていなかった。あまりにスムーズすぎたから、多分みんなからの事務所への根回しが済んでいたんだろう。
そういえば、私はわかりやすい女だった。
私がおかしくなったことに気付いていたのは、喜多ちゃんだけじゃなかった。ただ、代表として私の家までついてきたのが喜多ちゃんだった、それだけで。
点滴の雫を眺めながら、味気ない病院食を食べながら、カウンセラーの先生の話を聞きながら、私は何も言わずに泣き続けていた。
私のカウンセリングは、難航した。というのも、私はいつまで経っても人見知りの陰キャの口下手で、酒に溺れた理由を説明することが出来なかった。一言で済めばよかったのに、私には、私が酒に沈んだ理由がわからなかった。ただ駆り立てられるように飲んだ。廣井さんがきっかけではあったけれど。
歳をとって、ちやほやされるだけじゃ生きていけないし、ちやほやされるためには必死にならなくちゃいけないことは分かっていた。でも、もう飽きた、なんて言ってやめるつもりもなかった。そのはずなのに私はなんでお酒を飲んでいたんだろう。よくわからなかった。
カウンセラーの先生に、廣井さんのことを話した。そして、廣井さんが普通に生きているのが間違っていると思っていたり、羨ましく感じていたりすることも。
先生は、「もしかしたら」を頭において、
「死んでしまいたい、と思ったことは?」
「あっはい」
私はなぜかすんなりとそれを認めた。
そこから私はなにかを言ったけれど、自分でも思い出せない。
具合が悪かったのか、悪夢の方の夢見心地だったのか、それともキレていたのかも分からないけれど、気がついたら先生に手を握られていた。
相変わらず私の手のひらは黄ばんでいた。カウンセリング室の机が濡れていた。
私の涙だった。
お医者さんから、双極性障害─────いわゆる躁うつ病の診断が出た。
色々説明を受けた。
それで、なんとなく自分の行動に説明がついたとき、
「あはははははぅええへっへへへへへええぇへへへへ」
笑ってしまった。面白かった。占いみたいで。
そして、私の中の承認欲求モンスターが久しぶりに顔を出した。
「これを克服したら、かっこいいですかね……?」
「え、えぇ。もちろんそう思います」
お医者さんもそうだと言っていた。
§
ようやく私の治療はスタートラインに到達した。
それからはカウンセリングを受けたり、私の昔話をしていたら知能検査とかを受けることになって、更に別の病気の診断が出た。
でも逆にテンションが上がった。乗り越える壁が高くなった。つまりなんだってよかった。
越えたときの私たぶんかっこいい。
肝臓の数値が落ち着いてきたから退院することになった。
薬で飲酒欲求とメンタルの波を抑えつつ、通院で治療していくことになった。
体の具合は良くなり始めていた。本当にゆっくりすぎるペースで。
けれど、黄ばんだ手のひらは元には戻らなかった。
退院する日は、みんなと家族が迎えてくれて、やたらと映えそうな薬膳のお店でお祝いになった。
喜多ちゃんも、リョウさんも、虹夏ちゃんも笑ってくれた。
心配掛けてごめんなさい、って頭を下げて謝ったけれど、みんな”これからもがんばろう”って言ってくれた。
それは結束バンドのことでもあるし、私の治療のことでもあった。
なんてことないことみたいに、私の生活についてのサポートを話し合っていて呆気にとられてしまった。
その日の夕方。
久しぶりに家に、一人暮らしをしているから正確にはマンションの部屋に戻ってきた。
まず、お酒をまとめた。あんまり飲んでこなかったウイスキーとかウオッカとか強いお酒の瓶。私が大量に飲んできたのはストロング系の酎ハイだったから、あまり手が伸びていなかった。ちなみに酎ハイは残ってなかった。
誰かにあげようかと思ったけれど、開封済みだった。だから捨てることにした。
シンクにとくとくと酒が滴る。
鼻を突くアルコールの臭い。動悸がする。目に染みていないのに涙が出る。
犬みたいな呼吸。
「ぁ、う……ぁ」
全て捨て終わると、虚脱感と達成感がやってきた。そのままシンクの前で座り込んで、空の酒瓶に囲まれる。
私は自分の意志で、お酒とお別れができた。やったんだ。
そう思ったのに体は重すぎて、這ってたどり着いた布団の中でがたがた震えて眠った。
§
普段の買い物はほとんど通販にした。
食料や生活用品を色々買った。
外に買い物に行くとお酒が目に入ってやられてしまいそうだったし、あと純粋に体調が悪かったから。
毎日薬を飲んでいても、部屋の中を歩くのが精一杯の日もある。
それでも歩き回ろうとした。部屋の中だけは。
それとカーテンはちゃんと開けていた。
ギターの練習も再開した。しばらく触っていなかったから、指がうまく動かない。
その日は体の調子が良かったから、楽器屋に弦を買いに行った。
こんなに元気な日は久しぶりだったから、ただ弦を買うだけなのに御茶ノ水まで電車に乗っていった。
楽器屋に着いて弦選びで悩んでいると、古馴染みのお姉さんから、「大丈夫ですか?」と耳打ちされた。
私はできるだけ胸を張って、けどやっぱり猫背で「は、早く戻れるよう頑張ります」と言った。
「ひとりちゃん……?」
廣井さんが、いた。
一番会いたくなかった。顔向けできなかった。なんて言えばいいのか分からなかった。
この言葉以外は。
「ごめんなさい」
嘘みたいに流暢に口から出た、これ以外。
「わ、私も……体、壊し、ちゃいました……」
目一杯頭を下げて、申し訳無さで泣いた。
詳細は公開していなかったし、私も細かいことは言わなかったけれど、廣井さんは全てを察したみたいで、
「顔、上げて」
「あっはい……」
泣きそうな顔で笑って、頭を下げながら私の手を包んで、
「ごめんねぇ……悪い先輩でごめんねぇ……」
「私のほうが……ごめんなさい……こんな悪い後輩で……」
「こないだまで入院してて……ギターの練習、再開したところなんです……ゆ、指、結構なまっちゃいました」
「そっか……」
音楽の話だったけど、そんな世間話が出来るくらいには、私も成長していた。
「ゲージ、しばらく下げたほうがいいかも。無理しないで」
「え、えっ……」
「力がうまく入らないんじゃないかなって思ったんだよね。それで無理して辛くなっちゃあ意味ないじゃん」
「そ、そうかも……」
「あんまりがんばりすぎない方がいいよ。私だって、SICK HACKの終わり頃は細い弦でやってたし、今もギターは超細いので鳴らしてるから」
「は、はい……」
「入院してたんだよね。それじゃ、安っぽくて申し訳ないけど……弦おごるよ。何セット買う?」
「あ、えぇ、うぁ」
「しばらく力加減分かんないだろうし、3セットと……1弦と2弦をバラで3組くらい行っとこうか」
「えぇ、えええ……」
「それと、お茶しに行こうよ。こんなところじゃなんだしね」
退院祝いとして、今までより細い弦を買ってもらってしまった。それに加えてお茶まで。飲みに誘われることはあっても、お茶しようなんてのは初めてだった。それも廣井さんから。どうにもシュールすぎて、笑いながら私は泣いた。
突然泣き出した私を廣井さんはすごく心配していた。でも、
「こ、これも、病気……なんです」
と、それだけ説明すれば全部分かってくれてしまった。
その上に、
「お茶しようって言っちゃったけど、無理してない?大丈夫?」
更に気を使わせてしまった。それには、
「お話、したいです」
と返した。
雰囲気のいいカフェ、しかも半個室の席があるところに連れて行ってもらった。
そして飲み物を注文して待っている間、沈黙が流れた。
私は、自分がこのざまになってしまったことの他にも謝ることがあると思って、また頭を下げて、
「私、廣井さんに、なんて謝ればいいのか、わからないことが他にも……」
「ど、どしたのいきなり」
「じ、自己満足、なんだって分かってるんです……でも、そのことを話さなきゃ、いや、話したくて」
「わ、分かった分かった。別になにかされた覚えないんだけどな~」
私自身、整理がついていなかった。しかも、私が今こうなっている理由を廣井さんに押し付けるような……。
だから、今言ったことを取り消したいとも思った。でももう取り消せなかった。“やっぱりなんでもないです”じゃ済まされない。なんでこれを飲み込んでいられなかったんだろう。それを後悔しながら、
「私、廣井さんを……妬んだんです」
「へ?そりゃまぁ……なんで?」
「SICK HACKを終わらせて、お酒もやめて、普通に生きている廣井さんが、ね、妬ましかったんです」
言ってしまった。
「昔、言ってましたよね……つまらない人生を送るのかってことに絶望してたって……なのに、今の廣井さんは、それを受け入れることができてて」
頬が痒い。
「わ、私には……できないって」
「……それは、どうして?」
「人並みにできることが、ギター以外にもあれば、私にも普通の人生があったのにって」
カウンセラーの先生に言った言葉は、多分これだった。
「真っ当に生きるためのほとんどのものがないのに」
悔しさで眼の前がまぶしい。
「どうしたら私は普通に生きられるんですか」
顎が痒い。
はっとなって、
「あ」
また泣いていた。目から頬、顎を伝って、テーブルに雫が落ちた。
今度は何を言ったか覚えていた。
呪いの言葉だった。
「ご、ごめんなさい……」
廣井さんだって、辛いはずなのに、こんな当たり散らすみたいな恨み言を言ってしまった。
「ごめんなさい、私がおかしいんです、バンドもうまく行ってて、ちやほやされてて、何も不満なんてないんです、おかしくなってただけなんです」
謝って、まくし立てて、誤魔化してしまいたかった。
「でも、つらいんだね」
「……た、たぶん病気のせい、です」
「そうだね」
言葉が途切れる。気まずい。
廣井さんの言葉を待つ。
話が始まる前に、飲み物が来てしまった。
私はコーラで、廣井さんはミルクティーだった。
廣井さんがカップを持ち上げて、
「ほら、退院祝いで」
「へ……?」
「乾杯」
私も慌ててグラスを持ち上げて、軽くカップに触れさせた。
互いに一口分口を潤した。
「ひとりちゃんはさ、日常が好きなんだね」
「あっ、え」
「届かないからって、つば吐きかけちゃうくらいに……」
なぜか、10年前の風景が蘇る。新宿FOLTの楽屋。
私も廣井さんも陰キャだという話をしたあの日。
「そっか……私とは本当は真逆だったのか……」
廣井さんは俯きながら、苦笑した。
「ひとりちゃんと私は、根っこの根っこが全然違ったんだね……」
「あっ、えっ、その、どういう」
「今、ひとりちゃんはその答えを言ったんだよ」
普通に生きられない私、普通に生きる廣井さん。
ああ。
ああ……。
「ひとりちゃんのこと、結構分かってるつもりだったけど、思い上がりだったのかなぁ……」
辛そうに、悔やむように頭を抱えながら笑う廣井さんに、何を言えばいいのか、全く思いつかなかった。
私の言葉は、それだけ決定的で、私達の関係を致命的に壊してしまった。
理解者の先輩を、失った。
「悪い先輩で、どうしようもない先輩で、本当にごめんね……」
私は、酔っぱらいで、優しくて、酔っていなくても優しい先輩を失った。私が突き放してしまった。
でも、寂しくて。
「……また、路上ライブ見に行っていいですか?」
「え……うん。もちろん、いつでも見に来てよ。それでさ、だから……死ぬんじゃないぞ」
廣井さんは、私の手を強く握りしめてそう言った。
私の手のひらとよく似た色が、左手の手の甲に広がっていた。
私たちはまだ、切れていない。似て非なるけど、似ていないわけじゃない。
「あっ手の色……」
「あぁ、これね……」
「私の手のひらも……」
「治んないらしいね……」
諦めた笑い。
「……廣井さんも、長生きしてください」
「今生の別れみたい」
§
本当に、そうなってしまった。