四重人格後藤ひとり ぼっち・ざ・くあどろふぇにあ! 作:怠鳥
泣くことも出来ずに、空を見上げ続けていた。
春の空もきれいだ。
白い雲が船団のように青い空をゆく。
夜には星々が煌めく。
私はいつまでここにいればいいんだろう。
大理石で出来た私の住処には屋根さえなくて、けれど雨さえも私を濡らすことはできない。
§
雨の日の昼に、人影が近づいてきた。
誰なのかはすぐに分かった。
……ふたり。
黒い傘をさしたふたりは、私のお墓の前に立つと、一度手を合わせて頭を下げた。
よしてほしかった。私みたいな出来の悪い姉にそんな態度。
それが墓参りだからだとしても。
顔を上げたふたりを見る。
……目元に、深い隈ができていた。
ちゃんと寝なさい、って言いたかった。
「……お姉ちゃん、私、バンド組む」
そうなんだ、と思う前に、
「お姉ちゃんの道を、追いかけるの」
顔が笑っていても何かを睨んでいた。
目が据わっていた。
「私も、ギターヒーローになりたい」
……やめてよ。
「ほら、髪も伸ばし始めたから……」
私の知ってるふたりの髪は、肩上までの長さだった。
いつもその長さに整えていたから。
でも、今はそれより長くて肩にかかっている。
「もっと伸ばすんだ、お姉ちゃんみたいに……」
まさか、ふたりがなろうとしているのは、
「お姉ちゃんになりたい」
お願いだから、やめてほしい。
賢くて可愛い妹が、のろまでぐずの私になるなんて。
「……お姉ちゃんくらいギターが弾ければよかったけど」
私のお墓に向かって、左手の指を見せた。
指先が水ぶくれや血豆だらけで、
「右手も……」
傘を持ち替えて右手も見せてくる。
小指まわりの皮膚がかさぶただらけ。
「お姉ちゃんみたいに才能ないから、一日十二時間練習してるの」
昔の私の2倍。私でも毎日寝不足だったのに、そのままじゃ死んじゃう。
「時間が足りなかったからね、高校やめちゃった」
せっかくいい高校に入ったのに。
……でも、学校をやめたなら、確かにその時間はひねり出せるかもしれないけれど、でも。
「最初は、6時間」
そう、6時間。2時間かけて高校に通った私がそれくらいだった。
「でもね、それじゃお姉ちゃんにいつまで経っても追いつけないから……どんどん増やして」
私なんか追いかけないで。
「もう友達なんていらないって思って、8時間」
もうやめて。
「学校なんかどうでもいいって思った、10時間」
お願いだから。
「まだ伸ばせると思って、12時間」
ふたりには、ふたりの人生があって、だから私がそれを壊して、まただ、また、他人の人生を……。
「早く追いつくね」
来ないで。来ちゃ駄目。
「私も、あんな風に死にたい」
そう語ったふたりの目は、爛々と輝いていた。
やめて。
お父さんとお母さんを置いていっちゃ駄目でしょ。
私はそんなつもりで弾いたんじゃない。
人生を教えるためじゃない。
あれはただの……最期のレッスンだったのに。
分かってよ。
私の気持ちを分かってよ。
本当に、死人には口がない。
「それじゃ、お姉ちゃん。私、がんばるね」
これが地獄なのかと。
私じゃなくて、私の周りの人達が生き地獄にいるのを見ることが、私の地獄なのかと。
そんな馬鹿な話があるものか。
そんな救われない話があるものか。
『死ぬんじゃないぞって、言ったのに』
空気を震わせない声が聞こえた。
『私も長生きするって約束、破っちゃったけどね』
……廣井さんが、なんでここに。
『自殺しちゃった。今は幽霊』
…………自殺?
『ひとりちゃんが死んだのが、あんまりショックでさ……それで、気持ちが完全に”死にたい”に傾いてね。踏ん張ったけど駄目で……首、吊っちゃったんだ』
どうして……。
『本当はね、誰かに支えてもらいたかった。でもみんなボロッボロでさ。先輩も、妹ちゃんも、リョウちゃんも、喜多ちゃんも……みんな精一杯。支え合ってて……そこにもう一人入れるのはキツそうかなって。それに……そもそも私は誰かを支える力なんかないわけで、その輪の中に無理に入り込むのは……甘えだと思ったんだよね』
だからって、死んだら。
店長さんが、みんなが、もっと傷つきます。
『そこは……その。実家に帰るって言ってあったし、あとは……遺書書いて実家に送ったんだよね。志摩とイライザへの言伝……っていうか。もしも実家に連絡取ってきたら内容伝えて欲しくて。"先輩達や大槻ちゃん達には何年か内緒にしておいて欲しい”って、そういうのを』
そんなテキパキ死ぬ準備が出来る人が、なんで本当に死んじゃうんですか。
『ひとりちゃんにも分かるはずだよ。人間、死ぬと決めたら大体なんでも出来る。死ぬ気でやれば、とは違う。例えとしての死ぬ気でも、”つもり”でもなく。完全に”決めた”ら。ひとりちゃんもそうだよ』
それは。それは……。
『実はね?ライブ行ってたんだよ。フツーにチケット取れちゃったからさ』
気づきませんでした……。
『仕方ないよ。最後列にいたから。ひとりちゃんが死んじゃった、って後で聞いた時ね、"あの演奏は死ぬと決めたから出来ちゃったのか”って確信したんだ。当たってるでしょ?』
間違い、ありません。
『うん。……事故なんだよね。だから不慮の死といえばそうだけどね。でも、死ぬって自分で分かって、本当に死んじゃったんだね……』
はい……。
『馬鹿。……私も、馬鹿だ……』
雨音が沈黙の空白に溜まっていく。
『ひとりちゃん……初めて会ったあの日……私が金沢八景に流れ着いていなきゃ……ひとりちゃんがあの時ギターを担いでいなきゃ……こんな、こんなことにはならなかったのかな……』
私には……分かりません……。
『うん……でも、君はきっと自然と上がってきただろうから。そんなこと、関係無かったのかもしれない』
それは、どうしてですか?
『私の勘は当たるんだよ』
そうですか……。
『じゃあね、ひとりちゃん。私は行くよ』
どこにですか?
『わかんない。でも、ひとりちゃんはまだ行けないみたいだね。……ごめん、置いていくよ』
いいです。……置いてかれる気持ちが少し分かりました。
『そっか。それじゃ……』
廣井さんの姿を目に焼き付ける。
その姿はセーラー服で。
髪を三つ編みのおさげにしていて。
地味で暗い、けれど普通の女の子だった。
『さよなら』
そんな少女の廣井さんは、寂しそうな顔で笑みの一つも浮かべず消えていった。
”私が死なせた”って、リョウさんも、店長さんも、喜多ちゃんも、虹夏ちゃんも思っているけれど。
私も、その気持ちが分かってしまうなんて。
廣井さんが自殺に追い込まれたのは、私のせいだ。
責める言い方なんかされなかったけれど。
間違いなく、私が死なせた。
§
3人の女の子の夢を見る。
タンスを開くと服がいっぱい詰まっている。
千里の好きなポップな服。万理の好きなボーイッシュな服。なゆたの好きなガーリーな服。
その中から、迷わずにボーイッシュな服が選び取られる。手早く、でも雑に着ると姿見の前に立って、
「これでいいか」
肩にかかるくらいに伸びた髪を、ヘアゴム一本で雑に結んで、うなじあたりでポニーテールにする。丁寧じゃないせいで、鏡で見ても髪の毛がはねていたり飛び出ていたり、あまり見栄えしない。
『あー……万理ちゃんまーたテキトーに髪やっちゃってる』
『傷んじゃうと思うからもうちょっと丁寧にして……』
「……丁寧にやるの、面倒。なゆたがやればいいじゃん」
『うん』
そう言うと、後藤万理はため息と共に俯く。
周りが暗くなって、和室から何もない闇になる。
でもスポットライトのように、陽だまりのように光の当たる場所がある。そこから一歩外れて万理は闇に溶けていた。
「……なゆた?早く」
「あのね……万理ちゃん、ヘアブラシとか洗面所にあるからそっちで交代……」
「だからなゆたがこのまま交代して下降りればいいでしょ」
「この服着て歩きたくない……」
「あ?なんかこの服に文句あんのか?」
「ぁっ……あの、服が万理ちゃんで中身私だと分かりにくいから……」
「まぁそうだけど……」
陽だまりのそばにもう一人近寄ってくる。
後藤千里だった。闇の中に少し浮かび上がるように現れた。
「別に混乱しないと思うけどなー。ほら、皆からも言われるけど、万理ちゃんとなゆちゃん、全然違う人みたいって言われるし。そうでしょ?」
「まぁ、うん。でも分かってないヤツ来ると気まずいんだよな……」
後藤なゆたは、まだ闇の中に溶けたままで、
「私も万理ちゃんのお友達来ても困る……ゲームの攻略本しか読まないし……」
「私は漫画しか読まないし、活字はー……目がチカチカするんよね」
「……なゆたも千里もそんなんだから私がいつも読書感想文書いてんだろーが!」
「うわ万理ちゃん怒った」
「それでなゆたが”源氏物語ってどんなお話?”とか言うから読んだけど、お前途中からキャーキャー言ってめっちゃうるさかったし……何で興味あったんだよ」
「源氏の鎧が出てくると思って……」
「平家物語にもそんなもんはない」
「しかもなゆちゃん、すんごい興奮してたし」
「やっぱりスケベじゃん」
万理はため息を一つ吐いて、なゆたをじろりと睨みつける。
「……うるせーから聞き流してたんだけど、何言ってたのこいつ?」
「わー!わー!わー!」
「あのねー、”この人ひ、人の奥さんを……!”とか”ぎ、義理のお母さんと!?”とか……あと”平安時代って進んでる……”とか?」
「色々言いたいことあるけど平安時代は1000年遅れてるんだぞ」
「しかも万理ちゃん、読書感想文書き損になったのほんと面白かったー。”源氏物語はまだあなたの歳では早いです”って」
「そのまま三者面談になったのも全部なゆたのせいだからな。私は仕方無く読んで書いただけだし」
陽だまりを囲みながら益体もない話をして戯れていると、
『千里ちゃーん?万理ちゃーん?なゆちゃーん?早く起きて朝ごはん食べてねー?』
声が上から降ってくる。お母さんの声。
私の名前は呼ばれない。
「なゆたのせいで寝坊扱いされた」
「ひどい、万理ちゃんが雑に髪いじるから……」
「まぁまぁ茶々入れた私が一番悪いから私が行くね」
「あ、千里お前人の服で……」
千里の意識が和室の一人部屋に戻ってくる。
「髪は、一旦ほどいてと。降りよ」
私の名前。呼ばれなかった。
「……ひとりちゃん、ふたりに会えるね」
『……ちゃんと起きてないから、会うとは違うだろ』
『でも、見せてあげられるよ……』
「うん」
ふたり。後藤ふたり。後藤ひとりの、賢い妹。
§
一階のリビングから漂う、バターと小麦の匂い。
「おはよ、お母さん、お父さん」
キッチンのガスコンロで料理をするお父さん、小さな子を抱いてあやすお母さん、そしてその小さな子が、
「ふたりちゃんもおはよー、ほらー千里お姉ちゃんだよー、よちよちー」
「せんりちゃん、おあよ」
お母さんに抱かれた妹─────ふたりの小さな手に触れて、千里はにこやかに朝の挨拶。
「千里ちゃん、おはよう。でも服は……万理ちゃんから借りたの?髪はこれから?」
お母さんが千里に微笑む。
「ううん。今日はほんとは万理ちゃんの日。髪をやるの万理ちゃんが面倒くさがったりなゆちゃんが万理ちゃんの服で歩くの嫌がったりでちょっと。まぁなんだかんだで私が代わりに出てきてるの」
「あら……あんまりケンカしちゃだめよ?」
「大丈夫大丈夫、仲良しだもん。それにご飯食べたらなゆちゃんが髪やるし」
千里がそう言うと、お母さんは少し斜めを見て考えて、
「あのね、万理ちゃんにまた髪やるの教えてあげたいから、それでもいいかしら?」
「んー……」
『誰か代わりになってよ、私のふりして』
『えっ……嫌』
『はぁ……』
「うん、ありがと。なんか万理ちゃん面倒くさがってるけど引っ張り出すから」
お父さんが料理を運んできながら、
「昔はどうなることかと思ったけれど、今は娘がたくさんいるみたいで楽しいなぁ」
「お父さん、最近ずっとそればっか言ってるー」
「みんな、最初名前がなかったから頑張って付けたの思い出すなぁ……」
「でも、受け入れてみれば楽しかったわね……あとは……」
お母さんがそこまで言って、口ごもる。
それを引き継ぐように、
「千里……ひとりは、どうしてる?」
「たまに起きてくるけど、ほとんど意識ないね。でも、起きてる間は私達をぼーっと見てるのかも」
「そうか……」
「今はすこーし起きてて、やっとふたりに会わせられたから。ちょっと嬉しいなー」
「そっか……千里、万理、なゆた、ふたり。みんな僕らのかけがえの無い娘たちで……でも、ひとりもそうだから。だから、ここにひとりもいたならって、今以上の幸せが欲しいって考えちゃうんだ。……ごめん、少し難しい話だったかな?」
「ううん、いいよ。それに……多分、大体わかるよ?大丈夫」
千里は少し考えて、
「うん。本当はひとりちゃんがここにいるはずなんだもんねー……」
ふたりの頭に手を伸ばして、髪を撫でながら言う。
「あぁ、お父さんがごめんね千里ちゃん……」
「気にしてないよ?全然。それよりご飯食べていい?お腹ペコペコ」
「あはは……それじゃあ、いただきます!」
3人の女の子は、普通に生きている。
後藤ひとりという体の中で。
それは少し変わっているけれど。
本当に、正しいことだと思う。
後藤ひとりのいない世界は、こんなにも正しい。
だから、私のことを呼ばないで。
放っておいて。このままにしておいて。
千里の食事の手が止まる。少し斜め上を見ている。
「千里、どうしたんだい?卵の殻入っちゃってたかな……?」
「ああ、違うの。ひとりちゃん、また塞ぎ込んじゃったなー……」
「……そうか」
「気にしない気にしない、またそのうちちょっと起きてくると思うから!」
「そうね……」
§
ああ、素晴らしき日々。
そこに後藤ひとりが存在しなくて、本当に良かった。
後藤ひとりにとって無上の幸せとは。
後藤ひとりがいないこと。
§
ご飯を食べ終えて、顔を洗う。洗い終わって顔を上げて鏡を見ると、後藤千里とは違う。目つきの鋭い顔が現れていた。
後藤万理。
後ろで待っていたお母さんに、
「お母さん、髪やって」
「はいはい」
髪をヘアブラシが通り抜けて、解かされていく。
万理はそれがくすぐったくて、目を細める。
「こんな綺麗にしてるんだから、雑に扱っちゃだめよ?」
「……私はどうでもいいんだけど。なゆたが勝手にやってるから」
「なゆたちゃんがせっかく頑張ってるんだから、大事にしなさい」
「分かったから。そんな丁寧にしなくても……」
「じゃあここからは万理ちゃんがやってみて?」
ヘアブラシを手渡されて、覚束ない手付きで髪を解そうとする。けれど、
「あ、引っ掛かる……なんで」
「力入れちゃだめよ、切れちゃう」
「そう言われても……」
「いくらものぐさだからって、根っこの方から無理に梳かしちゃだめよ?」
「む」
「一気に解そうなんて思っても無理なんだから。まずは毛先」
言われるように梳かしていくと、髪が解けて指通りがよくなっていく。
「……ひとりちゃんは、万理ちゃん達から見て、何歳くらいなのかしら」
「お母さんもちょっと唐突すぎ……」
「ごめんね、でも気になっちゃったの」
「私達は……ひとりの姿は見たことないよ。いるのは分かってるけど」
「万理ちゃん達は、お互いがどういう格好なのか分かるのね?」
「うん……まぁ。実際は私達11歳だし、ひとりから……分裂したのは4歳のときだったんだけど……あくまで頭の中でこう見えてるってだけで……千里は高校生くらいに見えるし、私自身となゆたは中学生くらいに見えてる」
「あら、随分大人ね……」
「私自身、別に自分が中学生くらいだって思ってるわけじゃないけど」
「でも、あなた達みんな、他の家の子達よりも大人びてるものねぇ」
「それは……そういうものなんじゃないかな?多重人格って、本人より大人の人格が出来ることが結構あるらしいし」
万理は、少しだけ言葉を詰まらせていた。
「そうね、先生も言ってたもの……でも、ひとりちゃんも、どこか大人そのものみたいなところがあったなって……そう思っちゃう」
「そうかもね……」
少し沈黙が流れて、それをごまかすように、
「はい、髪これくらいでいい?」
「万理ちゃんはどう思う?」
「まぁ……なゆたよりは雑だけどさ」
「うん、それなら十分ね。これから一人でもちゃんとやるのよ?」
「はいはい……」
そう言うと万理は梳かし終わった髪をまとめて、ヘアゴムの中に通し、下付きのポニーテールに整えた。
「どう?」
「きれいに出来てるわよ、ほら」
そう言うと、お母さんはもう一つ鏡を出して後頭部を映す。
「ん。ありがと」
髪型の出来を確認して頷き、
「ピアス開けたいんだけど、まだこの歳じゃなぁ……」
「不りょ……こほん、いつになったら開けたいの?」
「高校入ったら絶っ対開けるから、それまでになんか耳隠せる髪型探す」
「本当に万理ちゃんはやんちゃさんねぇ……」
「あと、早く大きくなって古着屋で服買えるようになりたい」
「あらあら……将来が楽しみだわ~」
『私は中学入ったら渋谷行きたい~』
「……千里は渋谷行きたいって。私横浜で探すけど」
「なゆたちゃんは?」
『私は新品がいい……』
「新品がいいとか贅沢言ってる」
「もっと大きなタンスいるかしらね」
「そういうのは自分達で稼いで買いたいかな……」
「まだあなた達はそういうことを考えなくてもいいのよ。それにタンスの一つや二つ買ったところでうちはどうにかなったりしないわ」
「新聞配達とか出来ないかな」
「お母さんのお話聞いて……?」
「だって、お小遣いはギターの弦とかメンテ代で飛ぶし」
お母さんは万理を抱きしめて、
「わっ、お母さん何してんの」
「ううん、意地っ張りでヤンチャで不良の可愛い万理ちゃん、本当は気遣い屋さんで親孝行のいい子だって、お父さんもお母さんも分かってるのよ……」
「あー!もうそういうのいいから!学校行く!」
万理は顔をひくつかせながら洗面所を出た。
「お父さんおはよう!学校行くから!」
「あ、万理。そんなドタバタしてどうした?」
「なんでもないっての!」
そう言うと、万理は自分の部屋に戻ってランドセルを引っ掴んで担ぐ。そして、そのまま玄関に直行して3つ並んだ小さな靴の真ん中、黒いスニーカーを突っかけて、
「行ってきます!」
「あー、待った待った万理、ほら」
「何?」
「ほら、ふたり。万理お姉ちゃんにいってらっしゃいって」
「まりおねえちゃ、いっちぇらっちゃ」
「はいはい、行ってきます!じゃ!」
ドアを開けると、飛び出した。
早足で、夏の青空の下を歩いて行く。
そして思う。
『ひとり』
万理は考える。
『お父さんもお母さんもお前に会いたがってる。それにそもそも、私達がいる場所は、本当はお前のものなんだから』
万理は呼びかける。
『いつ戻ってきたって……私達はいついなくなったっていいんだ。その覚悟は最初から出来てるんだから』
万理はつぶやく。
「どんな後藤ひとりだって……お父さんとお母さんは、受け入れてくれる。ふたりにはちょっと寂しくさせるけど、お前がいれば……本当はそれで十分だし」
私に構わないで。
私の幸せを壊さないで。
私の夢を終わらせないで。
「……ひきこもり」