四重人格後藤ひとり ぼっち・ざ・くあどろふぇにあ!   作:怠鳥

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本編-11「Take Me To The Hospital」

 知らない天井、つまり知らない空間。

 周りを見回す。少し広い部屋。ベッドに寝ていることが分かった。ただ、ホテルというわけでもなさそうだった。

 そして何より、

 

「もしかしなくても……病院か……」

 

 左手に刺さった管。液体のパウチを吊るしたスタンド。間違いなかった。

 

「なんでだ……?」

 

 何が起きたのか、と考えるが、万理はすぐに”分からない”と気がつく。

 

「ひとりが意外と踏ん張ってた……んだったら、病院騒ぎにはならないし……」

『……何があったんだろ」

『でもこういうときのための……アレ、なんて言ったっけ』

「ナースコール……だろっ、っと……どこだ……」

 

 点滴が邪魔で動きにくい。けれど、

 

「ん?……あー、そうか、これか」

 

 壁から太い線が伸びていて、その先端にはボタンがついていた。

 

「ポチッとな……」

『こういうボタンは長押しが基本……』

「いやまぁ押し損ねとかないようにそうしたつもりなんだけどな?」

 

 少し待つと、ドアが開く音がした。

 

「後藤さん、目を覚まされましたかー?」

 

 女性の看護師が入ってきて、すぐにベッドの脇に立った。

 

「あー、げほっ……」

「大丈夫ですかー?」

「みず……」

「あ、はい。今持ってきますからねー」

 

 看護師は病室内の洗面所から水の入ったコップを持ってきて、万理に手渡す。

 少しずつ、万理は口の中と喉を潤していく。

 

「はぁ……」

「飲めましたかー?」

「はい……えっと、それで、その。私に何があったんですか?」

「あー、”そういう子”でしたねー」

 

 ”そういう子”。それに少し引っ掛かるところがあり、思わず眉を顰めてしまう。

 

「あ、多重人格のことですー。なので記憶がないこともあるというふうに聞いてましてー」

「ああ、そうですけど……」

「じゃあ説明しますねー。まず、後藤さんのもう一つの人格が出てきて、その時に眠ったそうですー」

「あー、主人格の方ですね、それ……」

「あ、逆にあなたがもう一つの人格なんですね?」

「私とあと2人、3人と主人格が入れ替わると記憶が切れるんです」

「はぁ、そうなんですねー。あ、話戻しますねー」

 

 好奇心を向けない看護師に、万理は好感を持った。それに万理の基準で顔がそこそこ良かった。あの同級生と、万理の一番好きな人には及ばないけれども。

 

「それで、主人格の人が寝ちゃってから丸一日起きなかったそうでして、起こしても起きなかったんですね」

「はぁ……なるほど」

「それで後藤さんのお宅に別の医院の先生が往診に行って下さったんですが、やっぱり起きなかったので……その先生の紹介って形で、当院で後藤さんをお預かりすることになったんですねー」

「あー、分かりました……それで、何日寝てました?というか、何曜日ですか?一週間以上はないと思ってますけど……」

「今日は水曜日ですねー。あ、生理も終わってますよ。私も聞いてますけど、相当痛かったらしいですねー」

「いや……一番痛い時は主人格が出てたんで分からないですね……痛かったは痛かったんですけど」

「そうですかー。でも健康に暮らしてれば結構軽くなると思いますからー」

「気をつけます……」

「それじゃ、これからお家に連絡入れますねー?あと診察の予定も入れますー」

「分かりました……で、退院はいつになりそうなんですか?」

「診察の予定と結果によりますねー。あ、なにかご家族に持ってきてもらいたいものとかありますー?」

「あー……じゃあ、何かメモとかもらえません?」

「当然持ってきますよー。それじゃ、すぐ戻りますからお待ちくださーい」

 

 看護師は足早に病室を去り、また静かになる。

 

「……すぐに退院、じゃないんだな」

『ねー。でも……何日も寝てたって信じられないなぁ』

『……ひとりちゃんは、こんなのよりもっとひどい目にあってるんだよ』

「私達が遭わせてるって面も、まぁなくはないか……」

『そこはぁ……もてずもたれず、だっけ?」

「持ちつ持たれつだアホ」

『うん。ひとりちゃんがひとりちゃん自身のために私達を作ったはずだけど……でも、そのせいでいつのまにか小学6年生になっちゃって、すごく怖かったと思うから……」

「私達が作られてからずっと意識なかったわけだからな……」

『だから、”悪魔”さんが出てきたんだと思うの。ひとりちゃんを守るために』

 独り言と頭に浮かぶ声の両方が止む。

「カウンセラーの先生と相談だな」

 

 すぐに看護師はメモ、ペン、下敷きを持って戻ってきた。

 ベッドの電動リクライニングで起こされると、背中と腰が少し軋んで、足が攣りそうになった。

 

「あっ……いつつ」

「あー……数日とはいえ寝たきり状態でしたからねー。後で立って歩く練習しましょうかー」

「はい……」

 

 すぐにベッドテーブルが手元に寄せられて、そこに筆記用具が置かれた。

 

「じゃあ待ちますねー」

 

 万理は左手にペンを持つと、少し考え込む。

 

「んー……」

『迷ってるなら私の先に書いてよぉ、rockin' onとジャパンどっちも読みたいからそれかなぁ』

『3DS……ここ無線LANないかな……対戦しないと……対戦しないと……』

「……友だちに借りた本、と」

『ロキノンは!?ロキノン!』

『厳選……対戦……厳選……対戦……』

「これでいいので、お願いします」

「はいー。じゃあお家に連絡取ってきますねー」

 

 メモを受け取ると、看護師はすぐに病室を出ていった。

 

『ろーきーのーんー!』

『ポーケーモーンー!』

『うるっさいよお前ら!』

「そういや生理痛、結局全部ひとりに押し付けたわけなんだよな……」

 

 万理は自由な右手を額に当て、溜息をついた。

 

「あいつの苦しみを知りたい」

 

 目を閉じて、陽だまりの中に立つ。

 そこから一歩踏み外し、薄闇の中の千里が抱きかかえる少女を見る。

 

「……なんで、辛い気持ちを私達にくれないんだ?」

 

 頭を力加減のない左手で撫で付ける。ひとりはそれにも何の反応も示さない。

 

「やっと姿を見れたのにな」

 

 なゆたが近付いてきて、

 

「万理ちゃん、ちょっと乱暴……」

「……ふたりの扱いもよくわからないんだよ、実際」

「想像力だよ……これくらいか弱い子が、どれくらいの力で圧されると痛いのかなって、考えるの」

 

 なゆたは万理の左腕を右手でつかみ、左手を添えて、

 

「このくらいの力加減だよ……」

「はいはい……」

「なゆちゃんのなでなで、ふたりちゃんのお気に入りだもんねー……一番私が遊んであげてるのに」

「千里ちゃんも万理ちゃんも雑だから……」

 

 千里は赤ん坊をあやすように体を揺らす。

 

「よーしよしー、でもぴくりともしないのは凹むー」

 

 やっぱり、ひとりは昏昏と眠ったままだった。

 

「もうそっとしといてやろう……」

「うん……」

「えー、せっかくこうしてはっきり見えてるんだから構いたいじゃん」

「リアクションしないからお前自分で無限に凹み続けるぞ」

「あーいわかりましたー……」

 

 ひとりを下ろし、陽だまりの外で戯れていると、

 

『後藤さーん、お母様がいらっしゃいましたよー』

「あ、私出るからな」

「うん、よろしく……」

「ほっぺつついたろー」

「お前無理に起こそうとするんじゃないぞ……」

 

 万理が光の当たるところに戻る。

 

「あの、娘の様子は……」

「とても元気そうですよー。ただ、”交代して出てくるほう”だそうですけどー」

「そうですか……」

 

 病室のドアが開いて入ってきたのは2人。看護師と、

 

「あ、お母さん……」

「万理ちゃん……なのね?」

「うん。……ごめん」

 

 お母さんが近付いてきて、万理を抱きしめた。

 万理はそれに右腕だけで抱きしめ返す。

 

「万理ちゃんも……みんなも、ひとりちゃんも悪くないのよ……謝らないで……」

「分かった……」

「ええ……じゃあ、お友達に借りた本よね?ランドセルに入ってた……」

 

 お母さんは布のブックカバーを掛けられた文庫本を万理に差し出す。

 

「うん。これ。ありがとう」

 

 万理が受け取りテーブルにそれを置くと、

 

「あと、千里ちゃんとなゆたちゃんに……はい」

 

 rockin' on とロッキング・オン・ジャパンと3DSもテーブルに置かれた。

 

「お母さん大好きー!」

 

 千里が突然現れ、両腕でお母さんを抱きしめる。当然点滴台が引っ張られ、ベッドのフレームに当たって大きな音が鳴った。点滴のチューブも長さが足りずに張り詰めている。

 

「あーあー、後藤さんちょっと待ってください危ない危ないー」

「あ!ああー、そういえばなんかついてた……ごめんなさい」

 

 千里はすぐに左腕を元の位置に戻すと、看護師とお母さんにはにかんで見せた。

 

「もう……千里ちゃんはそそっかしいんだから……」

「えへへ、ごめんなさい」

「へー、”そういう感じ”なんですねー。私もお名前覚えた方がいいですかねー」

「あ、いいですいいです、”後藤”の方がややこしくないから」

「そうですかー、じゃあそうしますねー。それと左腕見ますよー」

 

 看護師はそう言ってベッドを挟んで反対側に回り込み、千里の左腕を確認した。

 

「あー、一応大丈夫そうですねー」

「この子が慌てん坊で申し訳ありません……」

「あーいえいえ、元気が一番ですよー。でもケガしたら大変ですからねー」

 

 看護師が笑いかけ、それに千里も無邪気な笑みを返す。

 けれど、

 

「……あ、お母さん……充電器は持ってきてる?」

「あら、なゆたちゃん。……充電器?」

「うん、3DSの充電器、ある……?」

「あぁ……うっかりしてたわね……ごめんなさい。明日また来るから、その時でいい?」

「ううん、こっちこそごめん……万理ちゃんが自分の分しか書かなかったから……逆に何も言ってないのに持ってきてくれて本当に嬉しい……」

「そう……良かったわ。あ、何かお菓子買ってこようか?」

「え……?」

「病院の中にコンビニもあるのよ」

「そうなんだ……」

「でもそこまで品揃え良くないですよー」

 

 なゆたは少し考え込んだ。お母さんを困らせたくはなかった。無理なものを頼んで”ごめんね”と言わせたくはなかったから。そうなると、看護師の言う品揃えの良くないコンビニにでも売っていそうなものだけに限られる。

「じゃあ、なんでもいいからチョコレート……」

「なんでもいいの?」

「うん……」

「分かったわ。じゃあ、ちょっと行ってくるわね」

「ありがとう……」

 

 お母さんが病室を出た。そして看護師は、

 

「じゃあー、ちょっと立って歩く練習しましょうかー。おトイレ自分で行きたいですよねー」

「はい……」

 なゆたが少し身を捩ると、かさり、という音が聞こえた。

「?……ああ」

 

 その音と、自分がひたすら眠り続けていたということを結びつけ、

 

「今、私オムツ履いてるんだ……」

「そうですねー。ちゃんと歩けるようになるまではオムツですー」

「じゃあ、早くちゃんと歩けるようにがんばります……」

 

 特に今のところ不快感はなかった。

 

「あの、看護師さんが私のオムツを換えてくれてるんですか?」

「はいー、介護士さんと一緒にやってますねー。あ、後藤さんは女の子ですから、もちろん女の人ですよー」

「あ、はい……そういうお仕事があるんですね……」

「興味ありますー?」

「はい……とても」

 

 なゆたは普段から漠然と”人のためになることをしたい”と思っていた。とは言え、千里と万理も別のことを考えていたし、何より自分はいずれ消えるかもしれなかった。結局最優先は”ひとりちゃんはどうしたいか”だった。

 

「けど……なりたくても、私の体じゃありませんから……」

「……そうですかー」

 

 看護師は少し口を噤んだものの、結局そう返した。

 なゆたはそれをありがたく思った。

 千里も、万理も、自分のいつかの消滅をほとんど受け入れている。けれどなゆただけは、諦めつつも恐れていた。なのに同情されても困るとも感じていた。その身勝手さも自覚していた。

 

 だから態度を変えない、無責任に慰めないこの人は強いと思った。

 寄り添うことだけが、手を握ることだけが優しさなのではないのだと学んだ。

 がむしゃらに手を伸ばす方が楽に決まってる。安易だから。けれど、

 

『この人は、私の気持ちなんて分からないよね……』

 

 言葉だけなら突き放すようだけれど、逆だった。

 尊敬だった。いつだって”人の気持ちをわかりたい”と思っていたなゆたにとっては、”結局人の気持ちなんて分からない”という当たり前を改めて教えられた、ささやかだけれど意義深い体験だったから。

 諦めているのに、憧れはなおさら深まった。

 看護や介護をやれなくても、この経験はなくしたくなかった。

 だからこそ、

 

「……はい、仕方ないです」

 

 なゆたは笑った。少し悲しいけれども、仕方ないから。

 でもそれでお話を終わらせたくはないから、

 

「話変わるんですけど……ここってWi-fi飛んでます……?」

「あー、ここはそういうの導入してないですねー。患者さんが持ち込むしかないですねー」

「そうですか……」

「すみませんー。でも今ってゲームもネットつなぐのが当たり前なんですねー」

「対戦したかったです……」

「へぇー、私の世代だとみんなケーブルつないでましたねー。ジェネレーションギャップってやつですかー」

 

 看護師はベッドの左側に回り、点滴スタンドをそっと動かす。

 

「努力値も個体値も分かってない適当なフルアタ構成しかぶつけてこないキッズじゃなくて、昼間から対戦してる廃人の人と対戦して、積み技から一撃当てる舐めプしたかったです……」

「意外と性格悪いですねー。はい、足下ろして座れますかー?」

「ん……しょ……」

 

 寝返りを打つように体を横にし、足をベッドの外に出す。そして背もたれのようになったマットレスに肩を預け、座った。両手をマットレスについて支えにしている。

 

「はい、座れましたねー。じゃあ、両腕を前に出してくださいー」

 

 言われたとおりに両腕を出すと、その間に看護師が入って脇から背中に腕を回した。

 

「もうちょっとお尻動かしてしっかり床に足つけましょうかー」

「はい……」

 

 体を捻りながらベッドの縁へ。両足が確かに床を踏んだことを確認すると看護師は、

 

「じゃあ持ち上げますよー、1、2、3ー」

「は、はい……」

 

 数に合わせて立ち上がる。体のふらつきは看護師の支えで押し留められた。しかし、

 

「あ、わわわ、足、力、入ってないです……」

「私が支えてるので安心してくださいー。ゆっくり慣らしていきましょうねー」

 

 看護師の言葉に従って、少しずつ足に感覚を巡らせていく。

 一方で、

 

「あ……う……」

「めまいですかー?」

「あの、頭がくらくらして……頭の中が揺れてるみたいで……」

「めまいですねー。大丈夫ですよー、ちゃんと支えてますからねー。深呼吸できますかー?」

「はいぃ……」

 

 なゆたは大きく息を吸って、少し咳き込んだ。

 

「一回座りますかー?」

「は、い……けほっ」

 

 看護師がゆっくりとなゆたをベッドに座らせる。

 

「はぁ……はぁ……」

「痰が絡んだ感じはしませんかー?」

「はぁ……ちょっと……あるかも……」

 

 看護師は手早くティッシュを十数枚抜き取ると、

 

「じゃあ後藤さんー、息をゆっくり吸ってー、勢いよく吐きましょうかー。はい、吸ってー」

「すぅ……」

 

 なゆたは息を深く吸い込み、指示を待つ。

 

「はい勢いよくリズムよく吐いて、はっ、はっ」

「はっ、はっ……」

「はいー上手ですー。それで、胸のつかえが上に上がってきた感じしますかー?」

「ちょっとだけ……」

 

 なゆたは胸に手を当てる。

 気付かなかった胸の違和感が、痰の移動でやっとわかった。

 

「いいですねー。じゃあ、2、3回咳をしてそのまま吐き出せるかやってみましょうかー。あんまり咳き込むと体に悪いですからねー」

「はい……けほっ、けほっ、あぇ……」

 

 言われた通りになゆたは2回咳をした。

 すると、口の中にどろっとしたものがせり上がってきた。

 

「あ、痰出ましたかー。はいティッシュの中に出してくださいー」

 

 看護師がティッシュをスッと口元に当てる。

 

「あ、おえっ……」

 

 なゆたが吐き出すと、看護師は痰をまじまじと観察し始めた。

 なゆたはそれが恥ずかしいのと、どういう意味があるのか疑問に思って、

 

「あ、あの……」

 

 看護師は視線をティッシュからなゆたの方へやると微笑み、

 

「あー、どういう痰が出たかを見るのも大事なことなんですよー。後藤さんのは問題なさそうですねー。息苦しさはどうですかー?」

 

 胸に手を当てて、なゆたは深呼吸をする。

 

「ら、楽になりました……すうっと息が胸まで通る感じで……」

「それが普段の後藤さんの呼吸ですねー。しばらく意識がなかったので、体が段々慣れちゃってたのかもしれませんー」

 

 看護師はティッシュを丸めてベッド脇のゴミ箱に捨て、

 

「じゃあ、もう一度立つ練習しましょうかー。さっきと同じ感じでいきますよー」

「は、はい……」

 

 持ち上がられるように起立して直立。

 慣れたらサポートを抜く。

 立つことに慣れてきたら、再び支えを入れられながらその場で足踏み。

 

「じゃあ歩きましょうかー。とりあえず自分でトイレまで行ってみましょうねー」

「はい……」

 

 看護師に両腕をしっかりと掴まれながら、掴まり立ちのような要領で歩く。点滴スタンドは看護師が脇に挟んで転がしてくれた。

 

「はい、1、2、1、2、いいですねー」

「1、2、1、2……」

 

 トイレにはすぐ着いた。

 

「後藤さん、今おトイレは大丈夫ですかー?」

「あ……多分、大丈夫です……」

「そうですかー。じゃあこのまま一人でベッドとトイレを往復できるかやってみましょう。それが出来たら、お母様が下着も持ってきてらっしゃるはずなので、オムツは外してそれに着替えていただくことになりますねー」

「が、頑張ります……!」

「はいー。じゃあ、一回ベッドに戻りますよー」

「はい……!」

 

 そのままベッドに介助ありで戻り、また座った。

 

「OKですねー。じゃあ、私のサポート無しで立ちましょうー。コツは、足を内側に引くことと、おじぎするように立つことですねー。楽になると思いますよー」

 

 言われたとおりになゆたは膝から先を手前側に引き、上半身を前に倒しながらお尻を浮かせる。体が前に出て、膝が曲がって体重を支える。重みが足の裏、指の付け根に掛かっていく。

 

「はい、ゆっくり腰を上げていきましょうー」

「はい……」

 

 曲がった膝をまっすぐに。立ち上がる。

 

「す、すごく楽に立てました……」

「そうでしょうねー。そもそも人間って立ち上がる時にこういう動きをするものなのでー。自然な動きをするのが一番なんですー。背筋伸びたまんまで立つのは自然ではないんですねー。学校なら何か式とか、あと社会人だとお行儀悪いって言われちゃうんですけどねー」

「え、えっと……なんというか行儀が悪いっていうより……おばあちゃんみたいな立ち方みたいで……」

「はい、そうですよー。お年寄りの方とか、体に障害があったりだとか、それか後藤さんよりもっと長く寝たきりだった人向けに研究されてましたからー」

「そうなんですね……」

 

 なゆたは勉強が好きじゃなかった。だからそういうことは万理に任せきりだったし、それで”たまにはお前がやれ”と言われるくらいだった。千里もそう言われているけれど。

 なのに、今教えられていることは絶対に忘れたくないと思っていた。もっと色々なことを知りたいと思った。

 

 苦しい人が楽に生きられる手段を。再び歩き出す人の支えになる術を。小さな子供を圧し潰さずに手懐けるコツを。そして、人を安らかに旅立たせる方法を。誰かの助けになりたいから。

 

 この看護師は色々なことを教えてくれて、納得させてくれる。

 なゆたはもっと色々聞きたいと思ったけれど、自分から質問することはやめた。

 この人は色々な人を助けている。そのためには必要以上に引き止められないと思ったからだった。

 

『千里ちゃん、万理ちゃん……』

 

 頭の中に声を響かせる。

 

『ごめんなさい、私、夢ができちゃった……』

 

 千里は静かに、

 

『つらいね』

 

 そう語りかけた。

 

『うん……』

 

 万理は何も言わなかった。

 なゆたは泣きそうになりながら、

 

『私の体がほしいな……』

 

 陽だまりに立ち、闇の中で眠る小さな女の子を恨めしげに見て、けれど力なく笑った。

 みんなの願いの、多分ひとつだけしか叶わないだろうから。

 

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