四重人格後藤ひとり ぼっち・ざ・くあどろふぇにあ! 作:怠鳥
少しの肌寒さでまぶたがゆっくり開く。
「んぅ」
寒気から逃れようと、体を丸めて布団を寄せる。
ふと感じた寂しさで、なぜか目のピントが合い始める。
「……おはよー」
目覚めたのは千里だった。
全員、体で感じるものは同じだから、当然万理もなゆたも眠い。
けれど、感じるものにどう思うかはそれぞれ違っていたから、
『……寝ようや』
『眠い……』
「外出たいー……」
朝の眠気を二度寝の誘惑と捉えるか、当然振り払うものとするかも違う。
けれども、
『起床時間になったら起こしに来るんじゃないのか……?その前の時間は起きてない時間なんだから外出たらダメだろ……』
『私もそう思うな……』
「つーまーんーなーいー……」
起きてはいけない、とまでは行かないものの、静かにしていなければいけないならば、とても暇ということだった。
お母さんには申し訳ないものの、千里にとって今月分の雑誌の内容は興味をあまり引かれなかった。普段は流行りを知るというより、好きなバンドがどうしているか、あるいは好みにハマりそうなバンドはいないか、ということを気にして読んでいたからだった。
その2点で、千里も万理も雑誌への興味を保つことは難しかった。加えて千里にはそれ以外に長時間の暇を潰すためのものがない。
「なゆちゃん……私にも出来るゲームないのー……」
『ポケモンは絶対だめ……今度データ飛ばしたら許さない……』
「やらないよって……みんなで出来るゲーム買ってよー……」
『だめに決まってるでしょ……だってマリオパーティみたいなのは……体が1つだからできないし、順番に動かすやつだと……桃鉄とドカポン、千里ちゃんあっという間に飽きるし万理ちゃんすぐキレるし……買ってもらうのが申し訳ないでしょ……』
『あれはお前がカスみたいなことしてきたからだよ……!』
「あー、もう今何時なんだろー……待ちきれないよー」
『……3DSの電源入れて。時計機能あるから……』
「うん……えーっと、電源ボタンは……ここっと」
なゆたに促されて、千里はゲーム機を立ち上げた。
ホームメニュー画面が立ち上がる。時計の表示を見ると、5時57分。
「あ、もうすぐだ……」
『結構ぐっすり寝てたのか……』
『お家だと夜更かし気味だったもんね……』
「じゃあ起きてないとダメだから起きよーねー」
千里はぎこちなく右手を動かしてベッドのリモコンを探す。
リクライニングを起こすと、ベッドの右端から足を下ろして、
「よーいーしょっ……」
なゆたが習った通りの立ち上がり方で落ち着いて立ち上がった。そのままトイレに行って用を足し、またベッドに戻って腰掛ける。
「お散歩したいなー……」
体が後ろに倒れないよう、右手で背もたれのようになったマットレスに掴まり、足をぷらぷらと浮かせる。
『走り回りたいの言い間違いか?』
『転んで怪我して入院延長……』
「やだなー、走っちゃだめなところは走らないって」
『お前が走っちゃダメなやつなんだよ』
部屋に静かに独り言が滲みて消える。
病室のドアがノックされ、人が入ってくる。昨晩のあの看護師だった。
「後藤さん、おはようございます。よく眠れましたか?」
「はい、眠れましたー」
「良かったです。眠れなくなったら言ってください。手助けが色々出来ますので。それと、起床時刻になりましたので出歩いていただいて構いません」
千里は食い気味に、
「あの、どこかお散歩行けたりしませんか?暇なんです!」
「そうですね……建物内でしたら。この病院、庭とかがあるわけではないので外に出るとそのまま無許可外出になってしまいます」
「えー……」
「……あと1時間するとおはスタ見れますね」
「見てないですー……」
看護師は挫ける様子もなく、むしろ目を爛々とさせて、
「では……朝のボーボボセラピー!!!」
「うわでた……」
ナース服の大きいポケットから漫画本を取り出した。
「1巻です。続きが気になるようでしたら日勤の……これから来る看護師に伝えてください。病院に置いてある貸出用のを持ってきてくれます」
「えーっと、病院の本なんですか……?」
「いいえ。私の私物で、全巻セット2つをふきょ……貸出用に病院に置いているんです。それはそうと院内学級にも全巻セットを寄付したので置いてありますが」
「えぇ……なんでそこまでするんです?」
千里は引きながら質問する。看護師は表情を緩ませて答えた。
「病院は楽しいところではありません。苦しい、痛い、不安ばかり書かれたノートみたいなところです。これはそこに楽しいことを書き足して上塗りするためのものです。そうですね……言い方は悪くなりますが……退院したらもう来て欲しくないです。けれど、また来たいと思うくらい、楽しく過ごして欲しいと思いますから」
そう言って、看護師は漫画本を千里にそっと手渡した。受け取った千里は、笑って頷いた。
「出歩く場合は、ちゃんと7時半までには病室に戻っていてくださいね。それでは失礼します」
看護師が出ていくと、
『あー……あー、好み』
『万里ちゃん惚れっぽすぎ……』
『仕方ないだろ、好みは好みなんだから……』
千里は万理の”好み”という言い回しの意味を測りかねていた。”好き”ではなくて”好み”。まるで本当は好きとまではいかないみたいな。
「万理ちゃん、どうして好き、じゃないの?」
『─────』
「いつもそうだよね、好み、好みで好き、好きじゃないんだもん」
『どうでもいいだろ』
千里はその態度に追及しようとして、やめた。体を同じくして、気心知れたどころかほぼ知り尽くしても、伝えてこないことは知りえない。そこを根掘り葉掘り聞くことはよくないということも、現実の対人経験でも知っていた。ただ、同じ後藤ひとりなのに隠し事があるのは不思議だと感じた。
千里は明け透けだし、なゆたも2人には包み隠すことをあまりしない。万里もはっきりものを言う性格だったけれど、こればかりは決して話すつもりはないようだった。
"好き"なのはお母さんだけだということ、実の母親に恋して愛していること。だから、お父さんに後ろめたさを感じていることも。
千里は問い詰めることをやめ、
「……せっかく借りたし、読もっか」
『そーしろ。……興味ゼロじゃないし』
『どんなのかな……』
そして、
ボーボボセラピーを体感した。
§
「あ、っは、はははははははは!はぁ、はぐっ、えぁはははははは!?なん、ぐぇはははははははひひひひいぃ」
§
それから。
重湯はいつの間にか三分粥、五分粥、七分粥、全粥に変わっていった。
味噌湯も味噌と出汁が段々濃くなって普通になっていった。
メニュー表のところてんの文字だけで吹き出した。
チョコレートも加速度的に減るようになった。
ミルミルは変わらず毎食1パックだった。
ただ問題は、
「あ、いたたたたっはあはははあはははははいったぁ……」
腹筋がよく攣るということ。
最初はナースコールで、
「あー、やっちゃいましたかー。あの人が受け持つとたまにそういう子出ますねー。なので寝てばかりも良くないんですけど、それ読むときはベッド倒したほうがいいですねー」
そう言って、日勤の看護師は腹筋のストレッチのやり方を3人に教えてくれた。ベッドをフラットにして、横寝の体勢で体を後ろに反らす。仰向けになって脇腹を伸ばすように腕を上げて腰を横に曲げる。そうすると幾分楽になった。
「でもまぁ、腹筋は少しだけ鍛えたほうがいいですねー」
しばらく寝たきりだったことを差し引いても、3人の体は腹筋が強いとは言えなかった。
診察の終わり際、担当医に相談してみると、
「……あまりキツいのだと、それはそれでまた腹筋がハジケてしまいますからね……彼女に頼んでみますから、食後で申し訳ないですがその時指導を受けてください。お大事に」
夜勤の看護師は、
「私も最初はボーボボを体が受け止められませんでした。ですから……まずは、膝を立ててください。そう、大体90度くらい曲がる感じで。その状態で首を上げておへそを見る感じです。ここから始めましょう」
それから入院中は毎日続けた。弱い筋肉痛がずっと続いた。
なるだけ歩くように、病院を歩き回った。階段を登ったほうがいい気がして、できるだけそうした。
看護師も主治医も褒めてくれた。
そうして、意識不明の原因はまるでわからないまま、経過が順調だったこともあって退院に至った。
結局更に一週間が経っていた。
病院には学校からのプリントやらが届いていたから、笑い疲れた合間に万理がこなして、なんとかすべてを消化することが出来ていた。
退院にあたって盛大な見送りなどはなく、最後に担当医からの”健康体”とのお墨付き、それに加えて意識がなくなった理由の不明についての詫びがあっただけだった。
ただ、退院にあたって。
夜勤の看護師は当日の朝、起床時間の見回りのとき、
「楽しかったですか?」
「はい、楽しかったです!」
結局、数十冊は借りて漫画を読んでいたから素直にそう言えた。
「良かったです。もう来ちゃだめですよ」
そのやり取りに深く満足した様子で、そっと抱きしめてくれた。
日勤の看護師は、にこやかだけれど淡々とした、つまり初めて言葉を交わしたときから変わりない態度で、
「はい、退院おめでとうございますー。お大事になさってくださいねー」
その時、3人は”どうお大事にすれば入院せずに済むのか分からない”と気がついて、少し乾いた笑いになってしまった。
迎えには、お母さんがふたりを連れて来ていた。平日な上に、もうすぐ仕事が立て込み始めるらしくて会社を休むことは出来ないそうだった。
総合受付で手続きを済ませて、外に出ると、
「千里ちゃん、万理ちゃん、なゆたちゃん、退院おめでとう!」
「おねーちゃ、たいーんおめれと!」
「お母さん、ふたりちゃんありがとー!ふたりちゃんだっこしたげよっかー?」
千里が手を広げて膝を曲げ、ふたりが飛び込んでくるのを待っていると、ふたりは首を横に振り、
「んーん、おえーちゃ、あみあやり、だっこいい」
「……んー?あみあやり、あみあやり……?」
千里がその5文字の言葉が何なのかを考え込んでいると、
「ああ、”病み上がり”ね。テレビか何かで見たんだと思うんだけど……まるで意味が分かってるみたいね」
「……ふたりちゃん、もしかしてもう私より頭いい!?」
『ふたりは特別賢いしお前は特別バカだ』
「ん!」
『千里ちゃんもうナメられてる……』
きゃっきゃと笑う妹に苦笑いしつつも、その目の前で膝をついて抱きしめた。
「んー、いい子いい子ー。ふたりちゃんはとっても賢いいい子だねー」
「せんりちゃ、あいやと!」
「あー可愛い可愛いー!」
「千里ちゃん、そろそろ行きましょ?ここ人が通るからね?」
「あ、ごめんごめん」
千里がふたりを離して立ち上がると、お母さんはタクシーを呼び止めた。
「さ、帰りましょ」
「ん!」
「はーい!」
運転手がトランクの錠を外して降りてくる。
「どうも、奥さん」
「あら、こんにちは。いつもありがとうございます」
「いえいえ、それでお嬢さん……入院してたんですね?」
「あ、いつものタクシーの」
「ああ、こないだもどうも。大丈夫だった?」
「へ?」
「ああ、この子あの時ちょっと夢うつつだったみたいで……」
「はぁ……でもまぁ、元気になったんなら良かったですねぇ。荷物、これだけ?」
「はい、それをお願いします」
運転手が入院の荷物をトランクへ入れる。
「よいっしょと。じゃあ今ドア開けますんで」
トランクを閉めて運転手は席に戻り、ドアを開ける。
「はい、どうぞー」
開いたドアからの声に招かれ、お母さんがふたりを抱き抱えて乗り込む。続いて千里が。
「じゃあご自宅ですね?」
「はい、よろしくお願いします」
「はいー」
タクシーが動き出す。
千里は窓から流れていく景色を横目でチラチラと眺めていた。見慣れない風景。正面を見ても見たこともない青標識。
「あのね」
「なぁに?」
「……ここ、どこだったの?」
「お家からは結構遠いわねぇ……」
「え、なんでそんな?」
千里は訝ってお母さんに問いかけたけれど、
「お家で話すわね……」
お母さんは少し困った顔をして、千里の頭を撫でた。
ぽんぽん、と撫でられて、千里は思わず片目を閉じた。
「んー……」
そのまま正面を見ていると、嫌でも目に入るものがある。
タクシーのメーター。
千里は見たこともない金額まで上がっていくのをヒヤヒヤして見ていた。
右手でお母さんの服を摘んで引くと、
「どうしたの?」
「あの……メーター、すごくない……?」
「ああ、大したことないから気にしなくていいのよ」
「そっかー……」
「いつもタクシーで駅前くらいしか行かないからびっくりしたのね」
「うん……」
千里は、お父さんに精一杯ありがとうを言おうと決意した。
だんだん見知った雰囲気の風景が見えてくると、なんとなく安心する。
「あー、帰ってきたー……」
「もう少しよ」
「もうこし!」
ふたりが両手を振り上げて声を上げた。千里が両手でハイタッチして、
「帰ったら何して遊ぼっかー?」
「んー?ギターして!」
「いいよいいよー!」
ふたりとじゃれていると、少し体が後ろに引っ張られた。車のスピードが落ち始めている。見慣れた風景。見慣れすぎた風景。左を見ると、
「あ、着いた」
「はい到着ー、です」
ドアが開く。
「千里ちゃんは降りててね」
「えっと、奥さん料金のほうが……」
お母さんに促されて1人先に降りる。
両腕を軽く広げて胸を開き、深呼吸。
住宅街の静けさが肺に染み込んで、薬の匂いと人が息を潜めている気配から解き放たれた気分になった。
あそこは楽しかった。けれど、看護師の気配りによって添えられたものだった。それがなければ、あそこは白っぽい箱だった。
「すぅー……はぁー!」
這うようにして降りてきたふたりが軽い足取りで寄ってきて、千里を真似て深呼吸。
「ふたりちゃん、遠くまでお出かけ頑張ったねー!」
千里はまた跪いて頭をわしわしと撫でる。くすぐったそうにふたりが笑う。
「はい、それじゃありがとうございまし、たー。お嬢ちゃん、お大事にねー!」
開いたままのドアから運転手の声が聞こえる。お母さんはもう降りてきていた。
「はい、ありがとうございましたー!」
大きな声でお礼を言って頭を下げる。
「はーい、じゃあまたよろしくお願いしますー」
ドアが閉まって、エンジンの音が大きくなる。タクシーが動き出し、その場を去っていった。
お母さんはタクシーが角を曲がって見えなくなるまで軽く頭を下げ続けていた。
「じゃあ、千里ちゃん、万理ちゃん、なゆたちゃん。おかえりなさい」
「おかえい!」
お母さんに肩を抱かれながら、千里は浮かれながら、万理は少し恥じらいながら、なゆたは気を抜きながら玄関に向かう。
そしてお母さんがドアに手をかけると、
「……あら?」
一瞬にして顔が曇った。
「どーしたの?」
「鍵、掛けたはずなんだけれど……」
「え?」
「ちょっと、後ろに下がっててね……」
そう言ってお母さんがふたりと千里を押し退けるように玄関から2,3歩下がらせた。そして、お母さんはドアを静かに開けて、
「……え?」
「お母さん?」
破裂音が鳴った。
お母さんはそのままドアに寄り掛かるように軽く崩折れた。