四重人格後藤ひとり ぼっち・ざ・くあどろふぇにあ! 作:怠鳥
「え、え?え!?何!?」
万理が出てきて飛び込むようにお母さんに近寄ると、
「お母さん!?お母さん!」
「あの、大丈夫……」
「え……」
お母さんが玄関の中を指差すと、
「あ……あー……」
「あの……三人とも退院おめでとう……」
部屋着、変なサングラスを付けたお父さんがクラッカーを持って立っていた。
もう一度破裂音が鳴った。
万理は大きなため息をついて、
「……ふたり、入っていいよ」
「あい!」
無邪気な笑顔を浮かべながらふたりが玄関に入ってきて、
「あ、おとーさん!おしおとおさぼり!」
「ち、違うよ?大人には有給ってものがあって、お休みができるんだよ?」
「お父さん、ふたりには分かんないよそれは……」
最後にお母さんが入ってきて玄関の戸を閉じると、
「あなた……なんで急に有給なんて取ったの?」
「いやー、サプライズで退院祝いをしようと思って……」
「心臓に悪いでしょ?……泥棒か何か入ったかと思って……あぁ、もう……」
「あ、あぁー、ごめんごめん……」
お父さんは段を降りてお母さんを抱きしめた。
万理はちょっとした自己嫌悪から逃げるように、
『なゆた……代わって』
『え?……うん。言いたいことあるし』
「あの……お父さん……」
「お?なゆた、どうしたんだい?」
「お説教……」
「えぇ……」
お父さんを土間に正座させて、ふたり、お母さん、なゆたで囲んだ。
「あのね、お父さん……普通出かける時は鍵をかけるよね……それが帰ってきたら開いてたらただ事じゃないよ……?」
「はい……」
「それにお父さん、いつも合鍵持っていかないよね?帰りが遅くてもお母さんが待ってるからいらないし……」
「おっしゃるとおりです……」
「おっしゃーとーり!」
「で、でもだからって鍵閉めてても怖いんじゃないか……?」
「うん。怖いと思う……でもね、そもそもなんだけど……サプライズして貰って嬉しいのって私たちだけだよね……?お母さんは嬉しくもなんともないよね……?」
「そうね……無駄に怖い思いしたもの……」
「ぐっ!」
「お母さんとケンカしたいの……?夫婦のコミュニケーション不足だよ……?」
「もう正論で殴るのやめにしてくれないかな……?」
お父さんが俯いて落ち込んだところにお母さんが、
「……さ、それじゃあ入りましょうか。あなた、立って」
「う、うん。……本当にゴメン」
「……こういうのは私には言ってね」
お説教を終わらせて、家に上がる。
なゆたはまた引っ込んで、千里が表に出てきた。
「あ、お風呂入っていい?」
「いいわよ。でもお湯張るからちょっと待っててね?」
「ありがとー。病院だと髪ゆっくり洗えなかったから」
「あら、そういうものなの?」
「うん。いっぱい人がいるからみたい」
千里はふたりの手をそっと引いて、
「お姉ちゃんお風呂入るけど、それまでギターしよっか!」
「ギター!」
階段を登ろうとする千里にお母さんは、
「階段、1人で登れる?大丈夫?」
「大丈夫大丈夫!階段でリハビリしたもん!」
「いはびい!」
「行こっか!」
「ん!」
千里は階段の手すりに右手でしっかり掴まりながら、左手はふたりと繋いでゆっくり階段を登っていく。足取りは軽く、ふたりに微笑みかけながら。
2階に上がり、ふすまを開けるといつもどおりの光景。変わったところは特にない。
『……ひとり、この部屋には入ったのかな』
『私達の遺書……読んだかな……』
「ふたりちゃん、ふたりちゃん。ひとりお姉ちゃんはここに来た?」
「んー……たうん!」
「そっかー、覚えてて偉いねー!」
千里はふたりが可愛くて、事あるごとに頭を撫でる。それを嬉しく思ってはくれるようだけれど、一番お気に召すのはなゆたからのスキンシップだった。
「ちょっと準備するから待っててねー」
「ん!」
千里は座布団をふたりの前、それと部屋の奥側にもう一枚敷くと、アンプとシールドケーブルを取り出すために押し入れを開けた。
そして、そこにあったはずのノートがなかった。
「……」
視線を動かす。右側に、放り出すようにノートが落ちていた。
四つん這いになってアンプとシールドケーブルを押入れの外に出しつつ、ノートを手に取り、座って開いた。
流し読みで、何か書いていないかを確かめていく。
「……」
『何もないな』
『多分、読んだには読んだのかな……』
「だね」
結局遺書は遺書にならなくて、ただの伝言で終わっていたみたいだった。
「まあー?」
ふたりの急かす声に千里は振り返って、
「ごめんねー、もう準備できるからー」
ノートを押入れに置いて閉じ、立ち上がった。
そしてアンプを据えて、コンセントをつなぎ、ギターをラックから一本取り出した。
千里が使うのはテレキャスター。
ギターにシールドを繋いで、ヘッドに挟んであったチューナーの電源を入れる。
チューニングをしているとふたりが、
「ぶぉー、ぷぁー、ぷぇー!」
弦の音程が上がっていくのに声を合わせる。千里は微笑みながら、
「もうちょっとだよー……はい!」
明るくて歯切れのいいAコード。
「わー!」
「じゃあ何弾こっか?」
「んー、あーぱーまー!」
「アンパンマンかぁー、いいよいいよー!」
しょっちゅうねだられる曲なので、千里は曲を概ね把握していた。弾いてみるけれど、
「……んー」
「せんりちゃ、へたっぴなった?」
「うん……入院しててギターしてなかったからかなぁ」
コードチェンジで指が上手く動かない。少しこわばるような感覚。うまく弦を押さえられない。当然しっかりとした音が出なくて、ヘロヘロとした感じになってしまった。
「ごめんねー、またギター練習しなおすからー」
「んー、ゆっくいでいいよ」
「そうだねー、ゆっくりやろっかぁ」
テンポを落とす。
ふたりが歌うのに合わせてギターを鳴らす。
千里も歌う。
「ふたりちゃん、上手に歌えたねー」
「ん!せんりちゃ、ちょっとじょーず!」
「ありがとー!」
右の手のひらを出して、ふたりの左手と軽いハイタッチ。
それからもう少し別の曲を弾いて、ふたりに歌わせていると、
「お風呂湧いたわよー!」
「あ、お風呂入らなきゃ。ギターは休憩ね」
「ん!きゅーけ!」
「一緒に入ろっか?」
「んー……じゃあなゆちゃといっしょ」
『なゆちゃん、ふたりちゃんとお風呂入ってくれる?』
『いいよ……?』
千里からなゆたに入れ替わって、
「じゃあ、ちょっとお片付けするね……」
「ん!」
なゆたはギターからシールドケーブルを抜き、アンプの電源も落とし、ギターをラックに戻した。
そしてふたりの前に立って両手を伸べて、立ち上がらせる。
「じゃあお風呂行こうね……」
「ん!」
ゆっくり歩くなゆたを追い越す勢いでふたりがすり寄る。
『あーあ、ふたりちゃんはなゆちゃんが一番大好きなんだなぁー……むくわれないお姉ちゃんだぁ~』
『私なんか未だにおっかなびっくりだぞ……私もなんか距離感迷ってるのが悪いから自業自得だけど、まぁ傷つく……』
頭の中の2人の嘆きは聞き流して、なゆたは階段を一弾降りると慎重に後ろを向く。
「階段、そーっと降りるよー……」
「ん!……ん、ちょ」
なゆたが一段降りて、ふたりの両手をつかむ。ふたりが体をよじるように階段を降りるのを補助する。
そうして階段を降りきると、
「階段、降りれたねー……」
なゆたが片膝をついてしゃがみ、ふたりの頭を撫でる。
「んー!」
千里が撫でたときよりも気持ちよさそうに、嬉しそうに飛び跳ねる。なゆたは微笑みながら、まだ頭を撫で続ける。
『何が違うのかなーなゆちゃんと私』
『愛?』
『え゛』
『なんでお前性格悪い返しするんだよ』
『万理ちゃん万理ちゃんなゆちゃんが私をうわっつらだけのうすっぺらい女扱いするよぉ~』
『そこまで言われてないのになんで自分をそこまで悪く言えんの』
『だって……私お友達にちやほやされたりかまってもらえないと生きていけない弱い生き物だから……』
『メンヘラってやつかよ』
『千里ちゃん、自己分析?っていうの得意だよね……』
『ほめるふりしてトドメ刺すの止めろ』
なゆたはふたりをそっと抱き上げると、お風呂場に向かっていく。
「なゆちゃ、らいじょぅ?」
「うん、大丈夫……」
身の心配というより気遣いとしてふたりはなゆたに問いかけて、なゆたは微笑んで返した。
なゆたはふたりの髪と体を洗ってあげると、それから自分の髪を丁寧に洗った。
ふたりが湯船で溺れたりしないか、のぼせたりしないかを常に目を光らせながら、ふたりに合わせて歌ったりして退屈させないように。
ふたりを背中から抱きしめる形で湯船に入ると、じわりと溶けるように気分が良くなった。
「ふぁ……あー……」
「ふぁー!」
「ふたり、熱くない……?」
「ん!」
お湯を蹴るように足、そして身を伸ばすと体中にエネルギーが巡っていく気がした。足先から頭まで痺れのような快感が伝わって、目が覚めていく感覚。
「んぅ……」
タオルでまとめた髪がほどけそうになって、右手でタオルを押さえた。湯船から上がるために立ち上がると同時に髪をなだれるままにした。
髪が湯に浸からずに済み、タオルをもう一度巻き直して、また湯船に浸かった。
ふたりを抱え直し、
「あと20数えたら上がろうね……」
「ん!」
数えてから湯船を上がり、風呂を出た。
それからなゆたはふたりの体と髪を拭いて髪を乾かしてリビングに送り出し、自分の髪を乾かした。
リビングに戻るとお父さんが食事の用意をしていて、ふたりはソファーでテレビを見ていた。公共放送の教育番組が流れている。
「あれ、お母さんは……?」
「あ、なゆたか。お母さんはお魚を買いに行ったよ。ほら、3人ともお刺身が好きだろ?だからスーパーで盛り合わせをね」
なゆたも千里も万理も嬉しい気持ちになった。千里は山葵なしのマグロ、万理はたっぷり山葵を付けたブリ、なゆたは少し山葵を付けたサーモンが好きだった。そういう好みは最近どんどん増えてきた100円寿司で見つかってきた。
「あ、でもふたりは……」
「うん。ふたりには特別でネギトロかな」
当然の対応ではあったけれど、よかった、と思った。
お父さんは野菜を切る手を止めて、腕を組んで、
「ひとりはお魚をまともに食べるようになる前にいなくなっちゃったからなぁ……ハンバーグや唐揚げは好きなんだけど……」
「うん……」
「あの日も唐揚げで……ちょっと、じゃないか。だいぶ辛くなっちゃったなぁ……」
「あの日?」
「うん。なゆた達3人と入れ替わりでひとりが帰ってきた日。入院する前の日。みんなには悪いとも思ったんだけど、お祝いのごちそうのつもりで……」
「ううん、気にしないから……」
「ありがとう。……そうだ、お父さんから退院祝いのプレゼントしたいんだけど、何かほしいものあるかい?」
無理に話題を変えた、とは思ったけれど、なゆた達も変えたかったからそのまま乗った。とはいえ、
「うーん……」
「何か思いついたらでいいよ。……ああ、ギターのちょっと大変なメンテはお父さんがやってあげるし、お父さんでも手に負えなかったらお店に持っていくから、それ以外かな」
別に今すぐに思いつく必要はなかったけれど、なゆたは、
『何がいいかな……?』
『ギターはもう要らないしエフェクターだってお父さんから借りてるだろ。……何かないかな』
『あ!わかった!』
千里が思いつくと同時になゆたと入れ替わって、
「スマホ!……高いから、中学の入学祝いと合わせて!」
「千里、スマホは別にプレゼントじゃなくても買ってあげるつもりだったんだけどなぁ……」
「えっ、買ってくれるの?」
「うん。入院中、お母さんと連絡取るのちょっと大変だったみたいだし、スマホはもうあったほうがいいかなって。週末に買いに行こうか」
「お父さん大好きー!」
キッチンの中に駆け込んでお父さんに抱きつく。
「あーこらこら、包丁が落っこちたら危ないだろ?」
「あ、うっかりしてた。ごめんなさい!」
「うん。……それで、退院祝いを今我慢して中学の入学祝いと合わせてもいいなら……3人とも、自分のパソコンを持ってみるのもいいと思うんだ」
「パソコン?」
「そう。3人とも家族のパソコンは触ってるけど、自分のを持って色々いじってみたほうがいいんじゃないかな。大きくなってからよりも……今慣れておいたほうが将来戸惑わないと思うしね」
「将来……かぁ」
将来。それを考える権利が自分たちにあるんだろうか。
3人ともがそれを思った。
「ああ、そ、それにね?macならソフト買い足さなくても最初から打ち込みが出来るんだ」
「打ち込み?」
「うん。お父さんもmacだけどその辺詳しくなくて、ちょっと調べただけなんだけど……まぁ簡単に言えば、パソコンで音楽が作れる。なゆたは確かそういう曲も好きだろ?」
『なゆた、どうなんだ?』
『うん、ゲームってそういうの多いから……興味あるかな……』
「なゆちゃん、興味あるって」
「そうかぁ。うん、それじゃあ分かった。退院祝い、クリスマスプレゼント、誕生日プレゼント、中学の入学祝いを全部合わせてパソコン……っていうのはどうかなぁ」
それは、3人全員にとって素晴らしく魅力的だった。けれどもこうも思った。
「あのね、入院でお金結構かかったと思うから、やっぱりいいかなーって思うんだけど……」
「そんなことは気にしなくていいんだ。もっと甘えればいいんだから」
「いいのかなぁー……」
お父さんは千里を抱きしめて、
「みんな、僕らの可愛い娘なんだから、お父さんやお母さんに遠慮なんてしなくていいんだよ」
「……うん」
千里も、万理も、なゆたも大きな腕に心を任せた。
「それじゃ、お父さん。……パソコンは、クリスマスプレゼントの時がいいな」
「よしきた」
「せんりちゃ、ギター!」
番組を見終わったふたりがキッチンに歩いてくる。
「あ、ふたりと遊んでくるね」
「うん、ご飯出来たら呼びに行くからゆっくりしてていいよ」
「ありがとー!」
千里はお父さんから離れると、ふたりを勢いよく抱き上げて部屋に戻った。
部屋に入ると、
「何弾いてほしい?」
「んー……まりおえーちゃのギター!」
「え゛」
『なんで”え”なんだよ』
『私飽きられちゃったのかなぁー……』
『メンタル豆腐かよ』
『凹んだから引っ込むね……』
千里が陽だまりから闇の中に入って、膝を抱えて座り込んだ。万理が代わって光に入る。
「……ふたり、千里となゆたじゃなくて私がいいのか?」
「ん!」
「……うん」
照れくさくて、思わず左手で頬を掻く。
こんなに懐かれていた覚えはなくて、でも嬉しくて。
ギターラックのジャズマスターにチューナーを付け替えてから手に取って、座布団にあぐらをかいて座り、チューニングしていく。
ふたりはギターラックに這い寄って、なゆたのエレアコを指差した。
「……どうした?」
「まりおえーちゃ、こえ、ひーて!」
「それ、なゆたのだぞ?」
「ん!」
チューニングの手を止めて、逆に弦を少しまた緩める。
『……弾いていいか?』
『うん。あの……なんだっけ、パラダイス?みたいなバンド』
『多分オアシスだそれは』
『あ、それ……そのバンドの曲練習してたことあったよね……』
『ふたりの前で弾いてたわけじゃないけどなぁ』
『でも、弾いてあげて……』
『あー……分かったよ』
立ち上がってジャズマスターをラックに戻して代わりにエレアコを手に取る。チューナーも付け替えて。
チューニングを進める万理を、ふたりが爛々とした目で見つめる。
万理は、
「……最近弾いてなかったから、間違えたらごめんな」
「ん!」
万理は、心の中にも響かせないよう、言葉にならないようにしながらこう思った。
可愛い妹だな、と。
チューニングが終わって、少し途方に暮れた。
何を弾けばいいのか、弾いてほしいのか分からない。
「どんな曲……って聞いても分からないか……」
なので、
「なんでもいい?」
「ん!おうた、うたって!」
何曲か思い当たったから、ひとまず弾き始めた。
OasisのWanderwall。
少し変わったコードの押さえ方。不思議な雰囲気の曲。
オリジナルはカポを使うけれど、万理にはカポを使わず1オクターブ上げて歌うのがちょうど良かった。
ふたりが微笑みながら体を左右に揺らす。
うろ覚えのせいでコードを間違えると、揺れる動きがぴたりと止まる。少しわたわたとしながらコードを探して、正しいコードを鳴らすとまた体が揺れる。
1コーラス歌い終えると、ふたりは体を揺らすのをやめて、こてん、と寝こけてしまった。
「……はぁ」
寝られてしまったことについて、万理は少し満足していた。幸せそうな寝顔を見ていると、そう思わないわけにはいかない。この小さくて可愛い妹の子守唄になったのなら、姉冥利に尽きると思っていた。
静かに立ち上がると、エレアコをラックに戻す。そして、ふたりに寄り添うように寝転んだ。
「かわいいなぁ……ふたりは」
そう呟きながら、ふたりを通してお母さんの顔を見ていた。
川の字で寝ていた頃のこと。休みの日に早起きした時に見れる、お母さんの寝顔を思い出している。
「ふたりのほうがお母さんに似てるもんな……私は、目つきも悪いし……跳ねっ返り気味だし……」
自嘲の言葉を吐きながら、ふたりの頬を右手の人差し指でそっと触れる。
「んぃひひ……」
くすぐったさだろうか、眠りながらふたりが笑う。
『……万理ちゃんもちゃーんとおねーちゃんしてるじゃん』
万理は陽だまりの中から、影の中で膝を抱えたままの千里に、
「いつまで拗ねてんだお前」
「いいもんいいもん、1歳ちょっとの妹にもバカにされたり飽きられたり、お風呂もなゆちゃんがいいーって言われたり、ギターも万理ちゃんがいいって言われたり……気にしないもーん」
「めっちゃ根に持つじゃん」
指先が掴まれた感覚で、万理は陽だまりに引き戻される。
「んぃひひ……」
ふたりが小さな両手で指を掴んで、にっこりと夢うつつで笑っていた。
愛しいな、と思って、万理はふたりをそっと抱きしめて目を閉じた。
ふたりも幼い腕を万理の体に絡ませる。
§
気がつくと、体にブランケットが掛かっていた。
腕の中には変わらずふたりがいて、それに加えて、抱きしめられている感覚。
万理がそっと首を背中側へ回すと、お母さんが眠っていた。
「あ……」
万理の心臓が跳ねる。
1人で寝て起きるようになって見なくなったお母さんの寝顔。
ずっと好きでいるお母さんの顔。
見つめていたい顔。
キスしたい。
言葉は浮かばなくて、身動ぎしようとする意志がそう示していた。
けれど動けない。包み込むように腕を回されていて、そうしようものならきっと目覚めさせてしまう。
それに寝顔は穏やかじゃなかった。
疲れの深く滲んだ顔。
万理は、自分達がそうさせたことを深く悔やんだ。
結局、お父さんが呼びに来るまで身じろぎせず、お母さんが少しでも疲れを癒せるように待っていた。
お父さんが2階に上がってくると、一旦足音が遠ざかった。そして近づいてきて、そっとふすまを開けて、
「……美智代?」
「寝てるよ」
「あ、万理は起きてるのか……どうしようかな」
「このままずっと寝てたら余計寝れなくなるじゃん」
「それもそうか」
お父さんは部屋に入ってお母さんのそばにしゃがみ込んで、肩を揺らす。
「お母さん、晩御飯の準備出来たよ。ふたりも起きて」
「……んぁ……、あ、あら、すっかり寝ちゃってたわ……ごめんなさい」
お母さんはブランケットを退けながら、
「2人とも起きて……」
「私は起きてるよ。……ほら、ふたり」
万理は体を起こして座り直し、ふたりを抱き上げて揺すった。
腕の中でふたりが目を覚ます。
「んー……?」
「ほら、ふたり。お父さんがご飯作ってくれたから。下降りよう」
「んー……」
眠い目をこすったと思うと、すぐに花のような笑顔で腕から抜け出る。
「ごはん!ごはん!」
「あはは、今日はごちそう作ったからなー」
お父さんが足元に寄ってきたふたりを抱え上げる。
「じゃあ行こうか」
「んー!」
肩車にしてお父さんは階段を降りていった。
「……じゃあ、降りましょっか。万理ちゃん」
「うん」
お母さんと2人、万理はすっかり暗くなった部屋を出て、階段を降りていった。
食卓は華やかで、千里、万理、なゆたの好物が揃っていて、まさしくお祝いの夕食になった。
楽しく和やかな時間が過ぎていった。
お父さんは食器を片付け終えると、千里の隣に座った。
「……そうだ、もうすぐ病院の日だなぁ」
「そうねぇ、退院が間に合ってよかったわ」
「あ、もうそんな経ってたっけ。うん、それで?」
「まぁ、今回入院になった原因は不明なんだけど……ひとりが関係しているのは間違いないだろうから……」
「脳波とかも色々診てもらったんだけど……結局何もわからなかったみたいなの」
「うん……お父さんも先生から話を聞いたんだけど、脳波で見る限りは夢を見ている状態と深く眠った状態を繰り返していたみたいでね。何か夢で覚えていることとかはあるかい?」
「んー……」
千里達に夢の記憶はなかった。
申し訳無さそうに、
「ごめん、なんにも覚えてない」
「そうか。じゃあ仕方ないね」
それは後藤ひとりの記憶で、
後藤千里、後藤万理、後藤なゆたの記憶であってはならないから。