四重人格後藤ひとり ぼっち・ざ・くあどろふぇにあ! 作:怠鳥
5時間目になっても体調は戻らなかったし、万理はすすり泣いてばかりだった。千里も普段どおりに振る舞おうとしたけれど、なぜか涙が時折流れてきた。誤魔化そうとして、落ち着くまでは居眠りをしているふりをしては担任に叱られ、おどけてもみた。
ひたすらに、心に風穴が空いたような寒さが離れない。
心で感じていた寒さはいつの間にか体にも伝わっていて、本当の寒気に変わっていた。千里は居眠りのふりをやめて、本当に眠ることにした。なゆたは当然それを止めなかったし、万理の調子を戻すのにもそれがいいと考えた。
気がついたときにはチャイムが鳴っていて、クラスメイトは立ち上がっていた。
慌てて千里は立ち上がり、礼をしてまた座った。
担任が教室を出ていき、帰りの会までの少しの時間ができる。
その隙に、千里は万理の様子を伺う。
『万理ちゃん?』
返事は返らない。代わりに、
『やっぱり無理そう……』
なゆたの声が返ってきた。千里は似合わないため息をついて、また机に伏せった。
帰りの会は最低限保った意識で乗り切って、放課後を迎えた。その途端に和が教室に踏み込んできて、千里に詰め寄った。
「……万理ちゃんは?」
「ごめんねぇ……なんだか、やっぱりダメみたい」
悪寒に震えて、右手で体を抱きながら答えると、和が抱きついてきた。
「あ、あのね?」
「万理ちゃん……」
止める言葉も知らぬ顔で、千里を、つまりは万理を暖めるように和が抱きしめてくる。
『あ……がんばって、出る……』
万理の声がして、千里は陽だまりの中からその姿を探す。足元に這い寄って来る万理が見えた。顔色はもう土気色で、これが現実の人間の体だったなら保健室行きだった。
千里は黙って陽だまりから外れて、万理がその中に入るのを待った。
万理が表に出ると、すぐに和が気付いて、
「万理ちゃん?」
「……うん」
気だるさでは済まない、潰されそうな体の重さで、万理は机に伏せった。
和は隣の空いた席から椅子を持ってきて、万理のすぐ隣に座った。
そして耳元で囁くように、
「……首で、具合悪くしたの?」
その問いかけに万理は、しばらく黙り込んだ。
唇も、舌も重くてうまく動かなかったからだった。
呼吸もあまり深くはできなくて、けれども意を決して深呼吸を2回、そうしてからたどたどしく話し始めた。
「くび、は、だい、じょうぶ……」
和は何も言わず、続きを待った。万理もそれが分かっていた。
「……すごく、よかっ、た……けど……」
和が喉を鳴らす。
「そんなに」
「うん……」
問いかけへの相槌で万理は息を使い切り、また呼吸を整える。和も背中を撫でて万理を落ち着かせようとする。
再び万理が口を開いて、
「よ、かったけど」
言葉が数秒止まって、
「ほん、とに、しにたく、なった」
「万理ちゃん……」
和が背中から覆い被さるように万理を抱きしめる。堪えた泣き声が教室に響く。もう、他に誰も残ってはいなかった。
「もういっかい、しめ、て……ころして……」
万理は和に顔をぎこちなく向けると、笑いかけてそう言った。
そこに、
『それはだめ……!』
なゆたの声が響く。そして、和の体をやんわりと振りほどきながら、苦しそうに体を起こした。
「……和ちゃん、万理ちゃんがごめんね……」
なゆたが表に出た。
和は困惑と失望の混ざったような表情をしていたけれど、首を横に振って、
「ううん」
「ありがとう……」
和は立ち上がって、椅子を元の位置に戻し、
「万理ちゃん。また明日、ね」
あくまで万理に呼びかけて、その場を後にした。
取り残されたなゆたは、俯いた。
「……万理ちゃん」
陽だまりの中から呼びかける。
「なゆちゃん、しばらく万理ちゃんダメだよ。……どうしよう」
「どうしよう……」
千里もなゆたも頭を抱えた。
万理が突然精神に異常をきたして、同じ体で生きている千里もなゆたもその煽りで不調に陥っている。
万理ほどではないにしろ、気が塞いで、体が重い。
万理が漏らしたように”死にたい”という気持ちはないけれども。
そのきっかけが、今日できた恋人とのスキンシップ。
それも過激もとい危険なもの。
誰にも言えない。万理は、特に。キスしたことも大事だけれど。
お母さんとお父さん、ふたりの顔をちゃんと見られるのかすら不安だった。
日常が崩れた。
千里もなゆたも、足元が不安で、心臓が空打つ。動悸がひどい。呼吸も忙しない。
「帰らないと……」
「うん……なゆちゃん、がんばれる?」
「がんばる……」
俯いた姿勢を戻そうとして、猫背になる。
そして、ランドセルに荷物をまとめようとする。
指の動きが悪くて教科書を落としたり、プリントをうまくつまめなかったり、破いて仕舞ったり、それだけでなゆたは泣き出しそうになった。
でも、病院の時に突然調子を崩したときのように、万理は助けてくれない。
涙を流してしゃくり上げながら荷物をまとめきった。
ランドセルの中で紙切れがよれて、きしむような音を立てて潰れた。
背負うと、体がなおさら重い。
よたよたと下駄箱を、玄関を、家を目指して歩き始める。
とぼとぼと、夕暮れに染まる廊下を歩く。
暗がりと化した玄関で自分の下駄箱を探す。
そのうち、どこに自分の靴が入っているかわからなくなって、めまいのせいで座り込む。
すのこの木の冷たさをお尻で、背中を預ける下駄箱の冷ややかさを背中で感じて、より一層心細くなる。
靴探しを再開しようと顔を上げると、一瞬視界に人影が映って、消えた。それに驚いて、恐怖して体が大きく跳ねる。
「……!?……あ……!?」
『だ、誰か、いた……幽霊……?』
「いない、いないけど……」
なゆたは当然その顔を知っていた。保健の先生のはずだった。
「あ、あ……」
なゆたも、その場から動けなくなった。視界に色々なものがちらつく。
それは幻覚ではなくて白昼夢。
目に見えるものが見たことのないものに一瞬、また一瞬だけすり替わる。
まだ現実がどちらか分かるけれど、気が変になりそうだった。
実のところ、もうおかしくなっていて、限界だった。
涙を流しながら三角座り、背を丸めて、
「ごめん……ごめん……千里ちゃん……代わって……」
『わかった……やってみるー……』
なゆたが陽だまりから這いずり出て、代わりに重い足取りで千里が入る。
三角座りを崩してあぐらをかき、深呼吸をした。
「こーいうときは、もうテキトーに、がんばらない……」
白昼夢が視界にちらつく度、驚いて体が跳ねる。それにも慣れてくると何も感じなくなる。千里はただひたすら、無意識の記憶から抜け落ちてしまった自分の靴の場所を探して、下駄箱を開けては閉めてを繰り返していた。
「あー……あったー……」
そうして見つけると、千里は内履きを脱いで靴と入れ替え、壁に寄りかかりながら靴を履く。屈み込むと動けなくなりそうだったから、踵の部分が潰れるのも構わず、つま先で床を叩くようにして足を収める。
「はぁ……」
ランドセルを背負い直し、玄関を出た。
外は風が少し強い。
鉄の手触りのような冷たさが膝を伝って、足に滲みる。足の裏が疼くように痛む。
千里は背を丸めながらも顔を上げて、
「……帰ろ」
のっそりとした足取りで、家路についた。
§
家に着く頃には、空の茜はずいぶん藍色で、寒くて。
ドアを開ける。
「ただいま……」
玄関で靴を脱ぐ気力も足りなくて、ランドセルを置いて段差に腰掛ける。すぐにふたりが飛び出してきて、
「おかえいー!……?」
名前を呼んでくれない。千里は自嘲として、そして無理やり笑みを浮かべて右肩越しに振り返り、
「千里お姉ちゃんだよー……」
「せんりちゃ、げんきない……?」
「うん……」
どうしたのー?」
お母さんの声と足音がする。そして千里を見て、
「どうしたの?玄関で……」
「おかーさ、せんりちゃ、げんきないって」
「そう……千里ちゃん、学校でなにかあったの?」
「あー……うー……うーん……ごめん、秘密……」
心配そうな視線から逃げるように、俯いて靴を脱ぐ。
まるで昔の歌みたい、と千里は思った。
キスをしたのは自分じゃないし、その本人は塞ぎ込んでいるけれど。
お母さんの顔を見ないようにしながら、ランドセルを持ってふらふら階段を登っていく。
「大丈夫なのー?」
「ちょっとお昼寝するねー……」
「せんりちゃ、ギター?」
「ごめん……また今度ねー……」
階段を登りきって、部屋に入る。ふすまを閉めて、倒れ込むように畳の上に横たわった。
そして、千里は陽だまりの中に落ちて、崩折れる。
「……帰れたぁー……」
万理は仕方ないと思ったけれど、なゆたからも返事がない。
「……なゆちゃん?」
陽だまりから這いずって、闇の中にいるはずのなゆたを探す。
すると、闇に浮かぶ金色が見えた。
線。線。線と線が絡まり合い、対称形をなし、いびつな形のまま均斉をとっている。
そこにいたのは虎だった。黒毛金縞の虎。
”ギターの悪魔”。
虎の着ぐるみは万理となゆた、そしてひとりの体を抱きとめながら座り込んでいた。
「……”悪魔”さん、どうしたの?」
「あっ……あの……私のせい……かもって、思ったから……」
いつもより声色が曇っていた。
千里自身が万理の影響を受けているのだから当然だったし、”ギターの悪魔”もやっぱりそうなんだろう、と納得していた。
「なんで”悪魔”さんのせいなの?」
「私も、自分じゃしばらく分かってなかったけど……死んじゃいたいって思ってたことがあって……」
「……ええーと、”悪魔”さんってユーレイだし、悪い悪魔だから、悪さしちゃったの?」
そこで”ギターの悪魔”はぴしりと固まり、1分くらいして、
「あああ、ええ、ええと、うん、私、悪魔だから……」
千里はじっと”ギターの悪魔”を睨む。着ぐるみはブルブルと震えて俯いていた。
「……ん、でも、”悪魔”さんがそうしたかったわけじゃない……っぽいかなー……」
「……え、あっ、ど、どうして?」
「私ねー……沢山友達いるんだ」
「ぐっ」
「なんでダメージ受けてるの……?」
「ごめんなさい……」
頭をこくこくと下げて謝る”ギターの悪魔”を訝しみながらも、千里は話を続ける。
「沢山いるからね。いい子とも、悪い子ともみんな友達」
”ギターの悪魔”は相変わらず悶えていたけれど無視して、
「そんな、私の好き勝手な”いい子”、”悪い子”っていうのも、ずーっとみんなを見てきて、勝手に決めてる」
千里はため息をつきながら、
「誰々と友達だから、もう絶交する、って言われたこともあるよ」
「……」
「私は、ただみんなと楽しくワイワイしたいけど、みんなの中には、誰かがその中にいるのが、つらい人もいるんだよね」
「あっ……うん」
「そういう時の誰々は、大体”悪い子”」
普段とはまるで違う、精神状態の不調を差し引いても、あまりに冷たすぎる声で話す。
「”悪い子”は、楽しく悪いことをする子で……そういう子とも友達だけど……私は悪いことはしないし、”悪い子”も私にやれ、やれ、って言ってこないんだ。……でも、それは”そういう”子は友達でもいいかなって、勝手に私が決めたからで……ひとにも悪いことをさせる子は、友達じゃない」
一息深呼吸すると、
「”悪魔”さんは、悪いことをして楽しくならない人でしょ?」
「あっ……はい……」
「じゃあ、いい子なんだね。ジンセーケイケンってやつ、出ちゃったかなー……つかれた……」
千里は這っていた姿勢のまま、眠りについた。
着ぐるみは向こうに見える陽だまり、そこに誰もいないことを気にしていた。
結局、少しだけ迷って、のっそりと立ち上がって千里を引きずって陽だまりの中に戻した。そしてその傍になゆた、万理を寝かせ、
「……あなたは起こせないから、いっしょにいようね」
ひとりを抱えて、また闇の中に溶けていき、見えなくなった。
§
「千里ちゃん、万理ちゃん、なゆたちゃん?」
お母さんの声。
ふすま一枚、階段を隔てて聞こえる声。
それに3人が目を覚ます。
千里が少し軽くなった体を起こして、暗い部屋をよろけながら出る。
続いてお母さんの声がする。
「お父さん帰ってきたからおゆはんにしましょ?」
「はーい……」
後ろ手にふすまを閉じて、階段を降りる。足を踏み外さないように。
リビングに入るとお父さんはもう着替え終わっていて、配膳で歩き回っていた。ふたりは国営放送の犬の番組を見ている。
「お父さん、おかえりー……」
「ただいま。……ちょっと元気ないみたいだけど、どうした?」
「うーん、秘密かなー……」
「そうかぁ……わかった」
千里はソファに座るふたりを猫を吊るように持ち上げると、食卓の椅子に座らせて、その隣に自分も座る。
「せんりちゃ、げんきになった?」
「ちょっとだけねー」
お父さんもお母さんも席に座っていただきますをして、それから少しぎこちない夕食。千里の嫌いなものは何もなくて、でも味がしなくて、味のない泥を噛んでいる感触。気持ち悪くなるわけでもなく、ただ違和感が胸を下っていく。自分の分は残さず、けれど大皿からあまりおかずを取らずに夕食を済ませた。
そして逃げるようにお風呂に入って、なゆたが何も言わないのを良いことにして雑に髪を洗って風呂を出た。そのせいか、髪を乾かしているときにやたらと引っ掛かりがあってブチブチと切れていった。
結局髪は生乾きでボサボサになったけれど、そのまま階段を登って部屋に戻り、布団を敷いて寝転がった。
ギターを弾く気分にもなれなかった。千里は、ふたりにかまってあげられなくて申し訳ないと、そう考えていた。電気を消してそのまま目を閉じる。
陽だまりの中に立つ。そのまま力なく座り込む。
万理はもちろん、なゆたも側で臥せっていた。
「……”悪魔”さんと、ひとりちゃん、いないな」
そばの2人に話しかけても意味がないことがなんとなく分かっていて、千里は今自分が1人だと実感した。そして、四重人格である異常さに、逆に気付いていく。
「……みんな、ほんとは1人なんだなぁ」
万理がおかしくなったのは、万理だけの問題で、それはつまり1人だけの問題。
もしかすると、この体は、『後藤ひとり』は、4人分の問題を抱え込んで動いている。
そんな他人事みたいなことを考えていると、ふすまが静かに開く音。
「……千里ちゃん、万理ちゃん、なゆたちゃん、起きてる?」
お母さんの声に引き戻されて部屋に意識が戻ってくる。
「……うん、起きてるよー」
お母さんは部屋に入ってきて、千里の寝転がる布団の横に座った。
「……あのね、万理ちゃんにお話があるんだけれど」
「あぁ……ごめん、万理ちゃん、今なんだかやられちゃってるみたいで。出てこれないの」
「どうして?」
「どうしてなんだろう……」
頭の悪い千里だったけれど、お母さんがどうしてふたりきりで話をしに来たのかはすぐに分かった。
「学校から電話来ちゃった?」
「……そうね、その、女の子とキスしたって」
「うん……万理ちゃんのお友達と。もう恋人かな?」
万理のことを、お母さんはどう思うんだろう。千里は少し不安に思っていた。
「うーん……万理ちゃんがそういう子なのは、分かってはいたの。例の子とも好き同士なんだろうなって。だから学校からお電話が来たことは、正直気にしてないわ」
「そっかぁ」
万理が、目を覚ました。
「あ……」
「……万理ちゃん?」
『あ、あれ?万理ちゃん起きた?』
「お、かあ、さん」
万理は、布団に包まって震えながら、お母さんの指を握って、
「ごめ、んな、さい」
「万理ちゃん、どうしたの?何も悪くないのよ……」
お母さんが布団の上から万理の背中をさする。
この謝罪は万理自身の心に嘘をついたことへの謝罪で、未だに混乱していた。無駄に絡まってほどけなくなっていた。
恐れと、諦めと、慕う心で濡れた瞳を、万理はお母さんに向ける。
「よしよし……本当は甘えたい子なのも、お母さん分かってるのよー……」
布団を少し剥いで、万理の体を引きずり出して抱きしめた。万理は何も言わず、ずっとすすり泣いていた。
そのまま、お母さんの匂いと体温に包まれて、眠りに落ちた。