あちこちに死が横たわっている。そちこちに死体が横たわっている。
そして死は、この母娘にも食指を伸ばした。
「お母さん! お母さん!」
コーデリアが母親に呼びかける。倒れた母親に縋って、呼びかけ続けている。
その母親の唇が、『逃げて』と動いた。
声はない。母親はもはや声を発せない。
なぜなら母親は死にかけていた。
「やだ! やだぁ!」
悲鳴が、呻きが、絶叫が幾重にも折り重なる地獄の街角で、少女の涙の声がそこに唱和する。
コーデリアの涙が勢いを増した。
母親を愛していたから。そしてその母親がもう助からぬとわかっていたから。
そんな娘の頬を、母親の手が撫でた。
汚れた手で娘の頬を撫でながら、母親の唇は再び『逃げて』と動いた。
あるいは『生きて』と。
そして、それっきりもう二度と動かない。
なぜなら母親は死んでいた。
母親が動かなくなっても、娘はその場を離れようとしなかった。
呼吸と心臓が止まって十分と経たぬ内に、母親の骸には早くも蠅がたかりはじめていた。
横たわっていた死体たちが起き上がりはじめたのも、ちょうどその頃だった。
蘇り、ではない。
死者は依然として死んだまま、歩く死者として徘徊をはじめたのだ。
徘徊し、まだ死んでいない誰かを見つけるや仲間に引き入れんとして牙を剥いた。
その様子を遠目に眺めながら、コーデリアの小さな胸に恐怖がこみあげる。
死への恐怖ではなかった。襲われ殺されることへの恐怖では。
少女が恐れたのは、愛する母親があの歩く死体の一員に加わってしまうことだった。
だから、気がつけば祈っていた。
祈りを捧げる対象は、しかし神ではない。
「ハエよ……ハエたちよ……」
神にではなく、骸にたかる蠅と蛆にコーデリアは祈る。
「どうか母さんを送ってあげて。手遅れになる前に、まだ間に合う今のうちに、どうか母さんを食べ尽くして……」
それから再び、少女は泣く。
誰にも弔われない母に、葬送の涙を流す。
コーデリアは目を逸らさない。
少女は母親を正真正銘に愛していて、しかし母親の死体が解体されていく様から、片時も目を離さない。
そうすることにより
少女の願いを聞き届けたかのように、蠅たちは異様な速さで数を増した。
真っ黒に
母親の無惨な末路を娘には見せまいとする、そんな蠅たちの優しさを少女は感じた。
「……蠅さんたち、ありがとう……さぁ、早く、急いで……」
コーデリアは祈り、蠅たちは虫食む。
やがて、母の死体は骨だけを残してこの世から消え去った。
弔いは完遂された。少女の愛した母は動く死体とはならずに済んだのだった。
「……ありがとう……ありがとう……」
いまや凄まじい数に膨れ上がった蠅たちに、コーデリアは涙を流して感謝した。
一体のゾンビが彼女に目を付けたのは、そのときだった。
若い男の死者だった。
それが死因だったのだろう、半壊した顔面に
走力は死してなお健在だった。コーデリアが気付いた時には、すでに逃げ切れぬほどに距離を詰められていた。
そうして少女が死を覚悟した、そのとき。
――ブァン。
羽音がして、蠅たちが空中を揺らめいた。
そして。
――ブァァァァァン!
黒い嵐が疾走した。
蠅たちは異様な荒々しさでゾンビに殺到した。
火の剣幕、怒りの剣幕であった。
それは、あたかも巣を守らんとする蜂のような。
あるいは、娘を守ろうとする母親のような。
母親の死体と同じように、コーデリアを襲ったゾンビも骨だけを残して消えた。
役目を果たした蠅たちはコーデリアの元に戻り、じゃれつくように肌にまとわりついた。
その瞬間に、理解は少女を貫いた。
これは母なのだと。母の死体に群がり母の死体を糧に増殖した蠅たちは、紛れもなくあの母の生まれ変わりなのだと。
蠅になって、私のところに戻ってきてくれた。
少女は再び泣き崩れた。
しかし今度のそれは、悲しい涙ではなかった。
母に再会した嬉しさと、蠅となってまで自分を守護してくれる母の愛を噛みしめて、コーデリアは喜びの涙に打ち震えた。