虫の羽をもいだことがある。
あの日は手持ち無沙汰だった。だから普段なら無視をするようなものに戯れに手を出した。
「思ったより、疲れんな」
無下限術式の蒼を習得したばかりだった。ギリギリまで出力を絞った空間のねじれが、季節外れの蝶をすり潰す。ぐちゃぐちゃに潰れて落ちた羽を拾うために、裸足で庭へ踏み出した。
「坊ちゃん、待ってくださ、」
「何」
「い、いえ。その……手のは……」
「文句あんの」
若い使用人は怯えた様子で、けれど意を決した様子で悟を縁側まで連れ戻した。無闇に生き物を殺してはいけませんなんて、手垢のついた正論を繰り返す。
悟が殺したのは術式で操作された蝶だった。御三家に侵入を試みる馬鹿の掃除をしてやっただけだ。あの使用人はそんなこともわかっていない。虫の死骸を見せてやりながら、悟は一歩近づいた。
「お前、俺が人間と虫の見分けがつかないとでも思ってんの?」
「ひっ」
近づいた分だけ相手は下がる。ビビってんじゃねーよ。結局のところ、こいつは虫を潰す光景に、自分が殺される姿を見たのだ。それができるだけの力と才覚が五条悟には備わっている。黙って助けられていればいいのに、こいつらはいつも余計なことばかり考える。
取り繕った正論が嫌いだった。弱者に配慮して生きろと、名指しされている気がしたから。
五条悟は命の価値を誰より理解していた。理解していたつもりだった。
◆
「遅い!」
「なんだ、先帰っててもよかったのに」
「一人スマブラとか嫌だわ」
「だったら手伝いな」
「こんなにかかると思ってなかったんだよ」
高専に入学してから半年が経った。悟の世界はずっと広がった。同級生たちは強かった。遠慮なんて必要ない。伸び伸び過ごす自由を知った。
今日は傑との任務だった。目当ての呪霊はほんの二十分足らずで祓い終わった。本体に辿り着くまでに十五分、戦闘に三分、事後報告に二分。未完成な生得領域を展開していた割には、かなり弱い部類だった。
――先に帰っててくれ。
傑がそう言い出したのが二時間前。こいつは、補助監督と協力して被害者の遺体を回収していた。
「あのさ、コレ任務行く度にやる気? 正気?」
「本気だ、と言えればいいんだけどね。物理的に難しい。だからこそ、今日みたいに時間がある日は、できるだけ家に帰す手伝いをしてやりたいんだ」
死体の一部ならば悟も見た。腐敗具合からして確実に死後二日は経っている。高専に情報が上がったのが昨日の夜。任務を受けた時点で死んでいたのだから、傑の落ち度ではない。なのにこいつは何もかも背負おうとする。呪術師の仕事現場に、死体が転がっていないケースの方が珍しいというのに。
「……助けられなかった。せめて弔ってやるべきだ」
「うげえっ、知り合いでもないくせに。何いい子ちゃんぶってんだ。無駄なことしてねーでさっさと」
「悟」
「んだよ」
「今のは言い過ぎだ。別に強制する気はないけどね。これは意味のあることだ。いいかい悟、呪術師は弱者を護るためにいる。そしてそれは呪霊に直接襲われている人だけを指すわけじゃない。彼らの帰りを待つ人だって、私たちが守らなければならないものの一つだ」
「じゃあ天涯孤独の独身はどうでもいいのかよ」
「屁理屈をこねるな。そういう話じゃない」
ああいえばこう言う。いつもの言い争いはあっという間に乱闘騒ぎに発展しかけ、そのまま腹の虫の音で中断された。もうすっかり日が暮れていた。補助監督の送迎の車に乗り込む。
「どうせなら硝子に土産でも買って帰らないか。ここの名産、甘いのもあるらしいよ」
傑の言葉に、悟はすっかり機嫌を直したのだった。
◆
天内理子が死んだ。
悟たちは失敗した。
ここへ来るまでに、急ぎはしなかった。急いだってもう意味なんかないとわかっていたから。
喝采が鳴り響く。不気味なくらい幸せそうな顔で部屋は満たされていた。
天内理子が床に落ちていた。
彼女の下へまっすぐ向かう。部外者が侵入しているというのに、人の形をした奴らが反応することはなかった。
「天内、俺――」
続く言葉を音にするのは戸惑われた。鉄とアンモニア混じりの異臭が鼻をついた。彼女の上半身と下半身は力無く逆方向に投げ出されていて、瞳に光は宿らず、まぶたは半開きだ。頭部から内臓が飛び出していて、髪の毛と絡まり乾いている。ほんの数時間前までくるくると入れ替わっていた表情は、二度と動くことはない。
(今の俺なら、こいつらを殺せる。多分心も痛まない)
殺したいでも憎いでもなく、事実として認識した。何が正しいのか、どうしてやりたいのかもわからなかった。
けれど、その前にしなければならないことがある。
虫の羽音のような喝采の中で、悟は親友の言葉を思い出す。
――助けられなかった。せめて弔ってやるべきだ。
クソみたいな正論だ。それが正しいことだと、ずっと前からわかっていた。
悟は静かに手を合わせた。目は瞑らなかった。