1.
どうやら私は『リコリコ』の世界に転生してしまったようだ、と。
それに気が付いたのは、何もかも手遅れになってからのことだった。
◇◆◇
私の今世での名前は、
名前からも分かるように私は、フィンランド人の父と日本人の母から生まれたミックスだった。
両親二人の仲は国籍の違いにかかわらず
……あるいはそれは、二人がいわゆる『駆け落ち』みたいな結婚をしたせいで、生活上の不安が残るせいかもしれないけど。
ともかく、転生してすぐの頃は、パラレルワールドだと思っていた。
前世とほとんど変わらない文明、国名や地名。けれど所々で異なる建造物や歴史。
とりあえず今の所は、物騒な世界に放り込まれたわけでもないらしいと悟った私は、二度目の人生を存分に満喫することにした。
いや別に、成熟した頭脳を乱用して幼少期のうちに無双してやろうなどというわけではない。
そもそも、立場が人を育てるとはよく言ったもので、立場が人を退行させることもあるらしいのだ。
両親からの愛情を憚ることなく享受して、まだ物心も付かないような幼子たちと戯れる日々は、まるで私を本当の子供に引き戻すかのようだった。
年をとっていくにつれ、いつの間にか捨ててしまった “子供の世界” に、私は舞い戻ることができた。
日々の充足に幸せを感じながら、私はすくすくと育っていった。
そんなある日。
私が、もうじき4歳になろうかという時期だ。
『お前たちの正体を暴いてやる。今から✕✕市で人が死ぬ。早く出て来い』
SNSでこんな主旨の発言をした人がいたらしい。
✕✕市とは、正にこの幼稚園がある市であった。
“お迎え” の時間になった幼稚園に、にわかに物々しい雰囲気が漂い始める。
幼稚園の先生方が小声で話しているのをこっそり漏れ聞いて(盗み聞きしたとも言う)、どう考えても妄言の類だが、それでも怖いな、なんて。
この時の私は、呑気に考えていた。
“お前たち” が誰を指しているのかとか、“出て来い” という文言の意味なんて、ちっとも疑問に思わなかった。
そして、私の人生の歯車は砕けてしまった。
私を不安にさせないようにだろうか、笑顔ながら普段より少し強張った顔をした母と、普段は迎えに来ない父が、幼稚園に姿を見せる。
私は笑顔で両親に駆け寄って抱きついた後、頬ずりをした。
母は私の頭を撫で、父がそれを見て笑う。
家族の、じんわりと胸に広がるような温かさがあった。
幼稚園の先生たちにお別れをして、車が止めてあるらしい車道へと三人並んで歩き始める。
この幼稚園は、出入り口から車道までに少し長めの小路があるのだ。
そして―――。
そして、車に辿り着いた時のことだった。
車の陰から、屈んでいたらしい何者かがぬっと顔を覗かせた。
何か妄執に取り憑かれたような、卑屈に歪んだ顔の男。
その手には、残照を反射して青白く光るナイフ。
ゆらり、と閃いたナイフが私へと振り下ろされて。
「―――あずさッ!!」
まず、母が私を庇った。
母の腹部が切り裂かれる。
ぶわりと宙に孤を描いて鮮血が舞った。
「ミヅキィイイ―――!!」
瞬間、母の名前を呼んで絶叫した父が、握っていた私の手を振り払って男へと掴み掛かる。
父の形相に男は怯んだようだった。
手に持ったナイフを振るうことも忘れ、二人はそのまま取っ組み合いになる。
「あずさ、逃げるんだ! 幼稚園まで戻れ! ―――早く!!」
「あ―――、」
私の頭は、この凶事に際して妙に理性的だった。
父と母を助けたい。しかし今の私では直接的な力にはなれない。どうしようもない程に私は非力だ。そして、守られる対象である私はむしろ邪魔ですらある。
なら、逃げなくちゃ。幼稚園まで戻って、大人に助けを求めなくちゃ。
「―――ッ、……ッ!」
分かっていたのに、足が震えて動かなかった。
どうして。どうして。どうして。
「あ、ああ―――」
助けを呼ぶどころか、私はとうとうへたり込んでしまう。
全身が小刻みに震えて、力が入らない。
父と男が組み合っているのを、グラグラと揺れる視界で眺めている。
だって、母は。
おかあさんは、どうしてたおれてうごかないんだろう。
そんな私は、見ている事しかできなくて。
だから。
ナイフを持っている方の手首を掴んで押さえていた父の手が、つるりと滑ったその瞬間も、私は目を見開いたまま、何もできずに地べたに座り込んでいた。
抵抗を失ったナイフは、勢いよく父の胸に吸い込まれて。
ぶすり。
「………?」
左胸に突き立ったそれを、父は呆然といった表情で見下ろす。
父は顔を上げて男を見、再度ナイフを見遣り、そして最後に私の方を向いた。
「あず、さ……ゴフッ」
男が父の言葉を遮るように、父の胸からナイフが引き抜く。
咳き込むように口の端から血を吐き出しながら、父が倒れた。
テラテラと血に塗れたナイフを揺らして、男が私に近付いてくる。
あっという間の出来事だった。
ほんの数十秒前まで幸せが満ちていたのに。
私から見える世界は、一瞬で地獄へと変わってしまった。
ざり。
一歩。
ざりっ。
二歩。
ざりっ!
三歩。
男はもう目の前にいた。
私の体は動かない。動けない。
車の脇で倒れ伏した母。
倒れ込みながら、今なおこちらに向かって手を伸ばす父。
二人の体から、コンクリートの地面に広がってゆく血溜まり。
耳の中を満たすのは、自分の鼓動の音と、百舌鳥の声。
不気味な輝きを放つナイフだけが視界にくっきりと映って、それから。
ナイフが、振り下ろされた。
「―――」
私は目を瞑ることもできず、ただ、全てを諦めた。
その直後。
「やめろォォオオオッ!!」
パアン、と銃声一発。
体をびくりと震わせた男が、既のところでナイフを止める。
見れば、青い服を着た警官が銃を男に向けて構えていた。
「あ………」
ああ、警察が来たのか。
もう安心だ。
父も母も、きっと助かる―――。
そこで、私の記憶は途切れている。
◇◆◇
父と母は、助からなかった。
病院に搬送された後、死亡が確認された、とのことだった。
私が意識を取り戻してから数日。
何もかも、どうしたら良いのか分からなかった。
胸の中で氾濫する気持ちの整理の付け方も、これからどうやって生きていけばいいのかも。
何もしたくなかったし、何も考えたくなかったし、何もかも忘れたかった。
しかしそういう時は大抵、状況がそれを許さないもので。
今回も例外ではなかった。
両親亡き今、気持ちの整理とか以前の、私の生死に関わる問題が私の前に浮上してきていた。
「………」
―――引き取られた先、祖父母からの育児放棄である。
私の両親は『駆け落ち』だった。
フィンランド人である父との結婚には猛烈に反対され、『結婚するなら縁を切る』とまで言われたそうである。
以前母から、そんな独り言を聞いた。
もちろん母としては私に伝わるなどとは思っていなかっただろうが、その言葉があればこそ、私の現状にも察しがつく。
父の血を色濃く反映したような彫りが深めの顔立ちや、日本ではあまり見ない碧眼も彼らの顰蹙を買っている原因と思われるのだ。
父も母も、親馬鹿の見本のように “将来は美人になる” と連呼していた(私自身、多少なりそう思っていた)この容姿が、仇となるとは。
髪は黒いし、私からしてみれば母の面影もたくさんある、と主張したいところではあるのだけど……やめておく方が賢明だろう。
とは、さておき。
このままではマズい。
引き取られてからもう三日ほど、何も食べていない。
食事をねだりにいこうものなら、恐ろしい形相で追い返される。
昨日の食事時、おずおずと居間に顔を覗かせてみたら、飛んできた茶碗が顔のすぐ横の襖で炸裂。
当然破片が勢いよく飛び散り、その一つが頬を掠めたため、私は急いで
とてもではないが、あと数日も我慢すればちょっとは落ち着くだろう、などと楽観的な見込みはできなさそうである。
私は、どうしたものかと頭を捻らせていた。
そして、その日はそのまま眠りに落ちた。
翌朝のことである。
目が覚めると、何やらモノの割れる音やら倒れる音やらで騒がしくなっていた。
いや、むしろその騒音で目が覚めたのだろう。
音とともに聞こえてくる喚き声というか、叫び声に耳を澄ませば、“あの男のせいで
そして、暴れ回っているのは祖母の方で、祖父はそれを必死に宥めているらしい。
「……」
心臓が竦み、冷えていくような心地がした。
私は身を縮め、部屋の中央で蹲る。
そうしていないと、体が震えて仕方なかった。
とにかく私の存在を気取られないようにと耐えているうちに、ふと、音が止んだ。
終わったのか―――。
そう考えた私の耳に届いたのは、『ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン!!』という渡り廊下を踏み鳴らす足音だった。
「――ひっ……」
バン! と襖を開け放った祖母の怒気に、喉の奥が引き攣る。
人を見る目ではない、憎しみに満ちた視線が私に向けられていた。
顔は歪み、手は強張り、全身が怒りに震えている。
そんな祖母が、口を開いた。
「―――お前、お前が……お前なんてぇええええ!!」
最後の方の声は掠れて、もはや人ではない何かの絶叫のようだった。
その叫びとともに祖母が私へと掴みかかってくる。
爪を立てたような両手を私の顔面へと伸ばし、私の頬が抉られる―――その寸前で、祖父が祖母を羽交い締めにして止めた。
走って追い付いて来たのだろうか、息も絶え絶えの祖父が、私に怒鳴る。
「―――出て行け! 二度とこの家に入ってくるな!」
私は逃げた。
靴も履かず、髪の乱れも直さず、中庭の塀をよじ登って外へ出た。
『逃げるな』、と祖母の声が聞こえた気がして、さらに走った。
たくさんの角を曲がって、路地を抜けて、とにかく人の気配のない方へとひたすらに走った。
辿り着いたのは、どこかの公園。
そこの茂みの裏に駆け込んだ私は、しゃがみ込んで息を殺した。
何も分からなくて、ただ恐怖のまま、見つかってはいけないと、それだけを考える。
恐ろしい声が、頭の中で反響していた。
『お前なんて』『お前がいなければ』『出て行け』。
前世で培われた理性だけが、その声に『私は悪くない』と叫び返していた。
◇◆◇
夜になった公園に、足音が一つ。
昼間もそうだったように、見つかるまいと思っていた。
見つからなかったところで、どうにも立ち行かないんだけど、今はまだ、見つかりたくなかったのだ。
子供として抱いた
ともあれ、この時間に公園を訪れたのはいかなる人物か。
それは気になった。
息を潜めつつ、茂みの隙間から目を凝らしてその人物を見定めようと試みる。
「………」
スーツ姿だ。
ぴっちりとしたスーツを着た女が、公園の中ほどで立ち止まって、あたりをキョロキョロと見回している。
女は辺り一帯に視線を配るので一瞬、茂み越しに目が合った気がしたが、女の方は何事もなかった様子。
気のせいだったのだろう。
こんな夜中に茂みの中に人がいるのを見つけて、何も反応しない人間なんているわけがない。
ひとまず落ち着いたように女は見回すのをやめると、ポケットから携帯を取り出した。
そのまま、通話越しの相手に何かを話し始める。
「……――、……、………」
私が何も聞き取れないでいるうちに、通話は終わったようだった。
女は携帯をポケットに仕舞い直して、もう一度周囲を見渡すと、公園の出口へと歩き始める。
何だったのだろうか。
そんな疑問を抱く間もなく、私は眠りに落ちた。
そして、また翌朝。
「―――おはよう、あずさちゃん。“あなたを引き取りに来ました” 」
朝起きたら、昨夜のスーツ女が目の前にしゃがみ込んでいて、そんなことを言った。
私は困惑した。