【会議は踊らない】
「採用ッ!!!!」
駿川たづながこの数ヶ月頭を悩ませていた件が、理事長のこの言葉でひとつケリがついた。
事の始まりは4か月前に遡る。
不祥事により前内閣が組織ごと撤退、再構築された新生内閣が打ち出した【無職救済】をスローガンとしたいくつもの政策。
これは日本の近年稀に見る失職率、自殺率を鑑みての政策である。
賛否両論ある中、前内閣の弱腰さとは打って変わって強行にこの政策を現政府は施行した。
その一環が
「全力で頑張る人を間近で見ながら過ごせば、己もやる気が出て社会復帰できるのではないか」
俗に「社会復帰環境構築」と呼ばれるトンデモ綺麗事である。
そこで白羽の矢がたったのがここ、トレセン学園。
本校は日本屈指の名門校だ。
学生が頑張る姿というのは犬でも猫でもいくばくかは感動するだろう、という安直な政府の意見がそのまままかり通った結果であった。
しかし失業して長い無職、もしくは就労経験のない無職を集めて何をさせるかはこちらに丸投げという始末。
たづなは思い出して眉間を揉んだ。
まさかトレーナーを任せるわけにもいかず。
しかし見学させるだけというのも政府の「社会復帰」という意向に反する。
数ヶ月練りにねって出た答えが、清掃員バイトの募集であった。
職歴に関係なく誰でも出来る仕事かつ、あくまで無職のプライドを傷つけず、あなた達無職が働くついでに社会復帰する練習であることはおくびにも出さず、ウチも人手不足なんですよと白々しい嘘の並べ立てられた募集要項を書くことはたづなの睡眠時間を大幅に削っていた。
元よりたづなは嘘をつくのが得意では無い。
清掃員募集の件、そしてその募集の手紙を理事長に提出し、今ようやくその認可が降りたというわけである。
理事長がこうして1度でたづなの案を通してくれたことが唯一の救いであった。
彼らが学園で清掃員として迎え入れられるまで、1ヶ月。
どうか全てが上手く行きますように、とたづなは胸に強く願って久方ぶりに定時退勤した。
【群雄割拠】
簡素な白っぽい部屋だった。
生徒たちの教室として使われた痕跡はなく、ホワイトボードにレース場の構造を描いたものを消した跡だけが残っていた。
部屋の右側の壁にはそれぞれ部活動の部員を募集するためのポスターが貼られているが、年度を見るに3年ほど前からその更新は滞っているらしい。
使わない部屋、というよりは外部講師を招いて講義をするための部屋なのかもしれなかった。
扉の先にはまだ2人しかいなかった。
慎平は、「どうせ遅刻だろうな」と自分のことは棚上げして思った。
先にいた2人は何故か会話もすることなく、しかし奇怪なことに2人は向かい合って座っていた。
コミュニケーションが苦手な人間特有の奇妙な空気がその場を支配していた。
慎平から見て左奥にいる男はスーツだった。表側の面のスーツはピッシリシワひとつないのに対し、おそらく彼自身は視認できないであろう背面の生地は強い皺がついていて、そのコントラストが異様な空気を放っている。
頭は前半分が禿げており、つけているマスクはなぜか鼻の下までズリ下がっている。
フシュー、フシュー、と呼吸の度に布製のマスクが彼の口の形に張り付いたり離れたりを繰り返していた。
男の襟足は奇妙に長く、肩にひらひらとカーテンのように被さっている。
漏れ出る吐息が度々彼の薄い前髪を揺らしていて、こちらを見る瞳はゆらゆらと定まっていないようにも見えた。
また彼は自前のスリッパを忘れたのか、裸足の上にトレセン学園の来客用スリッパを履いている。
慎平はこいつのことを頭の中で【ズリマスク】と呼ぶことにし、近くに座るのはやめようと思った。
もう1人の男は慎平から見て右手奥に座している。
薄いピンクのTシャツに「この俺がラスボス」と、彼なりのユーモアがプリントしてあり、そこから生える腕はガリガリに痩せていて、夥しい腕毛が手入れされていないままもじゃもじゃと露出していた。
何故かリュックサックを背負ったまま浅くパイプ椅子に座っており、くたびれたリュックに大量の「艦それ」と「FJO」の缶バッジが乱雑についている。
慎平の方を見てリュックが揺れた拍子に、それらは予想通り不快な金属音をガチャガチャと鳴らした。
そいつは、スマホを弄ったままこちらを一瞥した。
またイヤホンをしていないため彼の指の動きに合わせて女の子の萌え声がスマホから微妙な音量で響いており、何かの美少女が出てくるゲームをやっているであろうことがわかった。
肌は乾燥と雑に剃られた青髭、ニキビ跡で役満。
目も当てられないことになっている。
反対に何故か額は油でつるりと光っており、自分で整えたと思われる前髪が信じられないフォルムでギザギザと張り付いていた。
頭にピッタリとした黒い卵の殻を被っているみたいだった。
慎平はこいつの近くに座るのもやめた。あだ名は【ラスボス】にした。
慎平は奥に座している2人から1番遠い、1番手前の席の右側に座った。
椅子は全部で6つあるから、ラスボスと慎平の間にはひとつの椅子があった。
奇しくもここにいる3人全員が、俺以外まともな奴いないのかよ、と神経をすり減らした。
初めての共感であるが、誰も喋らない以上また例の沈黙が場を支配しようとしていた。
その沈黙を破ったのはノックだった。
ここにいる3人には無い「扉を開ける前にはノック」という常識を今扉の外にいる人間が持ち合わせていることは明らかであった。
3人は1瞬目線を泳がせ───彼らには「ノックにはどうぞと言う」という常識がないので───結局沈黙を全員が貫いた。
しばらく扉の外で逡巡する空気があったが、意を決したのか「失礼します」とよく通る男の声と共に扉が開いた。
慎平含む彼ら3人と男の間には隔たりがあった。
まず男の背丈は1尺7寸はあると見え、また脚も長く、第1に腰の位置が高い。
服装は至ってシンプルで、彼の優れたスタイルを際立たせていた。
少し痩せ細っていることはわかるが、顔の血色はそれほど悪くなく、またシャープな造形をした顔が一般的に言う「イケメン」であることは慎平とマスクには伝わっただろう。
ラスボスはゲームが佳境であると思われ、高速タップに夢中であったためイケメンを一瞥すらしなかった。
一昔前のボカロが先程より少し大きく響いている。リズムゲームをやっているのだろう。
青年はちょっと照れくさそうに
「どうもはじめまして……森川陽平と言います。皆さん良かったら仲良くしてください」
と簡潔な自己紹介をする。
そして部屋の中を少し見渡した。
どこに座るか、決めかねているのかもしれない。
慎平はあれだけ他の2人の隣になることを嫌がっていたにもかかわらず、なぜか強く「こいつの隣は嫌だ」とスリザリンに入れられそうになったハリーの如く、強く願った。
願い虚しく陽平は慎平とラスボスの間に座る。
小さな声で「よろしく」と慎平の方を向いて挨拶し、さすがに音楽を無視できなかったのか、それとも素直な関心からなのか
「あ、その曲俺も知ってます。ボカロ?ですよね?」とラスボスにも果敢に話しかけに行った。
慎平が自分なりに挨拶を返そうとまごついている間に陽平はラスボスの方を向いてしまった。
慎平はこれを”無視された”と受け取り強く苛立って、聞こえるようにわざと舌打ちをした。
ラスボスは「こいつは今俺に話しかけたのか」と思った顔をした。
間髪入れず生え放題の両眉を寄せ、
「……ゎ……す……(訳:はあ、普通に人が作業中に話しかけるとかもしかして常識ない?音ゲー中に話しかけるとか犯罪だが。譜面見たらわかるだろ常考……裏表ラバーズですけど)」
となにか早口でボソボソ言った。最後の溜息だけはリズムゲームのノーツを叩く音より大きく部屋に響いた。
喋っている途中ラスボスは1度も陽平の方は向かず、
ラスボスがボソボソ言う度に剥がれかけた横向きのスマホの保護フィルム画面にラスボスの唾が散布された。
陽平は当然聞き取れなかったのだろう、「……?」という顔をしながらもとりあえず笑顔で頷いていた。
第2会議室の扉が開くことがないまましばらくの時間が経過した。
慎平はこの間、先程のウマ娘のやわらかそうな肌や唇やふとももについて考えることに夢中であったため気まずさをあまり感じずに済んだ。
ラスボスとコミュニケーションをとることを早々に諦めた(紛れもない英断である)陽平は無地の鞄の中から手帳とペンポーチを取り出し、これから来るであろう説明に備えて真新しい手帳の1ページ目に今日の日付を書き留めている。
ズリマスクはずっと無言でフシュフシュしており、ズリマスクのマスクは部屋の加湿器のせいで中心がじっとり濡れていた。
選ばれし清掃員はこの4人のようである。
駿川たづなが現れたのは、その20分ほど後だった。
「皆さん、大変お待たせして申し訳ありませんでした……!早速ですが、こちらの資料をお配りしますね」
と『駿川たづな』と名乗った緑色の服を着た絶世の美女が話し出したことにより慎平の思考は粉々に砕ける。
彼女が資料をこちらに差し出す時、たづなの豊満な、はじけそうな胸元がこちらに近づいたことは彼を特別幸せにした。
ふとたづなの胸を追って隣に視線をすべらせると、ラスボスも同じようにたづなの身体のラインに夢中になっていた。
同じことをしていたにも関わらず、慎平はフン、と心の中でラスボスをすごくバカにした。
兎にも角にもここに選ばれし精鋭が全員揃ったことにより、改めてたづなによる「説明会」が幕を上げたのである。
┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄ ┄
【一連の事件に関する、名も無き少女の記録と悪癖①】
記録 20XX 5.23
●●●●学園 ●寮で発生した事件
ここまで書いて、とあるウマ娘は万年筆を置いた。
昔から癖だった。
自分の頭の中で整理できないことが起きると、こうして備忘録のように出来事を書き起すことで落ち着くような気がした。
青白いテーブルライトが少女の柔らかい肌にほろほろと反射する。
何度思い返しても、今日のことを私は永遠に忘れないだろう。
なぜ、どうして。
腹部から飛び散った鮮血も、
取り押さえられる男の狂乱した呻き声も、
割れるグラスの音も、跳ねる滴も。
何故か、私はこの光景を強く。
強く覚えておかねばならないような、
そんな無自覚の責任感を抱いた。
頁の隅に私が強く握りしめた跡が着いていて、その瞬間の自身の緊張がこびり付いているようだった。
備忘録とは関係なく、私は今日の出来事を、ここにつぶさに書き残したい。
「●●●●学園 ●寮で起きた殺人未遂についての詳細と、個人的な観点における疑義」
こんな非日常には、むつかしい言葉を使う方がそれっぽい。カサカサと万年筆を何度も走らせる。
少女はここで初めてガラス窓に目を向け、自分の頬が非日常への興奮で紅く染まっている事に気がついた。
私は確かに今日起きたことに、
脳のシナプスが焼き切れるほどの手酷い昂りを感じているらしかった。
【手足のついたものぞかし】
たづなの涙ぐましい努力で行われた説明もむなしく、説明会でたづなが話した大半のことは慎平の耳からたづなの双丘に吸い込まれていった。
その場にいた4人のうち、説明を真摯に聞いていたのは陽平だけであった。
”寮生活について”
というフリップをたづなが用意し、
「家が遠い方は、トレセン学園付属の寮にお住いしていただくこともできますよ」
まあ昔ウマ娘たちが使っていたところで、お世辞にも新しいとは言えないんですが、
と付け足した部分が突然耳に入ってきたからだ。
寮生活。
慎平の高校は寮生活だった。
脳が急に硬さを持って軋むような、それでいて沈むような。
ウンザリする酩酊感が久々に慎平を襲った。
慎平にはおよそ青春というものは存在しなかった。
家でただ、毎日同じ生活を繰り返す。
繰り返す。
繰り返す。
繰り返す。
繰り返す。
Twitterで仲間が会社の愚痴を言う度に、
アニメの1クールが終わる度に、
同窓会の報せが来る度に、
新聞で成人式を見る度に、風呂に入る度に、
コンビニに行く途中に同級生を見かける度に。
悪夢に汗だくになって目覚めて、日付を確認する度に。
歯を磨く度に。
2次元の女の子でマスをかく度に。
課金する度に。
朝起きる度に。
夜寝る度に。
部屋の天井を見る度に。
息が出来なくなる。
吐いて吐いて、息を吐ききってそれでも足りなくて。
えも言われぬ焦りを、恐怖を抱えながら。
画面の先に何かを求めるように、日々を恐怖から逃げるために必死になって消費する。
自分は人並みの幸せをなぜ送れないのか
これは怠惰の罰か
それとも病なのか
わからない わからない わかりたくない。
考えるのを辞めたい、と思っては、逃避の自覚に胸の奥がずしりと沼のように沈む感覚に襲われる。
お前らにはできることがなんで俺にできない?
出来ないのはお前らのせいなのか
お前らができるせいで俺が苦しい
普通の人間生活が出来るやつが全員消えたら、俺が幸せになれるのか。
俺は穀潰しの税金泥棒だ 普通の人間が、真面目に働いた金を、俺みたいなのが。
死んだ方がいいのはおまえらじゃない
俺だ 俺だ 俺だ 俺だ 俺だ 俺だ 俺だ 俺だ 俺だ 俺だ 俺だ 俺だ 俺だ 俺だ 俺だ俺だ俺だ俺だ俺だ俺だ俺だ俺だ俺だ俺だ俺だ─────
突然現実が降り掛かって来たような時には、動悸とのたうつような頭痛が治まらなくなる夜もあった。
頭の中で大怪獣が大暴れしてるみたいな痛みだった。
嘔吐して。
汗を拭って、また嘔吐して。
せめて画面の先の居場所を守ろうと、尊厳を傷つけられまいと、過度に攻撃的になって。
現状の責任転嫁のために、自分は悪くないと思いたくて、家族を悪役にして、ぞんざいに冷遇して。
それでも満たされない心の穴が、溝が────────
慎平の心を、
蝕んで、
腐らせて、
現 実 を
ただ 忘れたくて
──
───
──────は、と呼吸が戻ってきた。
こういう発作はいつも突然だから。
寮。
そうだ、寮。
慎平はあたりを見回した。
いつもの悪夢なんかじゃない。
これが現実だ。
俺は”お前ら”が苦労して働いて汗水垂らして血を流しでも手に入らない権利を手に入れた。
これが現実だ。
気色が悪いオタク共と寝食を共にするなんて冗談でも笑えないが、
(寮か)
慎平は反芻した。
ここは学園だ。
俺の奪われたもの。俺の時間。俺の居場所。俺の過去。
▉▉▉▉▉▉かもしれない
「フヒ」
と、慎平はまた気味が悪い声を漏らしながら、少し白髪の混じる頭をかきむしった。
【可憐な警戒】
ダイワスカーレットは今日のトレーニングを終え、中等部の寮にある自室に帰る準備をしていた。
大浴場で汗を流してすっきりしたからか、今は特に気分がいいようである。
軽やかなハミングを更衣室に響かせながら、豊かな身体を下着で包んでいく。
そこに現れたのは、
「あ、スカーレット…ちゃん…」
華奢すぎるほどちいさな身体をバスタオルで覆った、ライスシャワーであった。
風呂に入るため普段はくるくると跳ねる長髪をタオルでまとめており、はじめダイワスカーレットはこの華奢な美少女がライスシャワーとわかるまで時間がかかった。
「?…!ライスシャワー先輩!お疲れ様です」
「う、うん、おつかれさま」
「先輩もトレーニング終わりですか?」
「えっと、うん。そんなところ…かな。スカーレットちゃんも、もう今日はおやすみ?」
ライスシャワーは控えめな印象でこそあるが、柔らかな声と笑顔からは彼女の性格の良さが伝わってくる。
「ええ!アタシはこの後、部屋に帰って寝るつもりです。先輩は?」
ダイワスカーレットは中等部で栗東寮。
美浦寮のライスシャワーは高等部であるため、普段関わることは無い。奥ゆかしい彼女から話しかけてきたことも少々意外だった。
「そ、そっか…あのね、ちょっとだけ、五分くらい。」
「?」
「少し、ライスからの相談というか、お知らせ?したいことがあってね」
「アタシに…ライスシャワー先輩から?」
「あ、あ、そのまま聞いて?大したことじゃないの。ただね、今日学園の前でちょっと、なんて言うのかな……ヘンな男の人に会ったの」
「変……ですか。えーと、どんな風に?」
「今日、スカーレットちゃん達がグラウンドをお昼前に走ってたよね。それを……その、ずっと見てたっていうか……瞬きもしないで、じぃって。」
つまり、変態野郎か。
ダイワスカーレットは露骨に眉を顰める。
「……」
「それで、ライス……何とかしなきゃって思ってたら、勢い余ってその人にぶつかっちゃって……あ、ライスは全然!なんともないよ?」
ちょっとだけ、怖かったけど。
ライスは俯いた。
ウマ娘は人間を遥かに凌駕する能力を持つが、心はただの純真ないち少女である。あからさまな不審者への怯えは当然のことだった。
「ライスのお兄様にも報告してあるから、もう平気、とは思う……けど、一応ね?スカーレットちゃんにも、気をつけて欲しいなって」
なるほど、この心優しい先輩は、後輩が不審者の食い物にされないよう忠告しに話しかけてくれたらしい。その気遣いが嬉しかった。
「分かりました!アタシ、気をつけます!」
「!。う、うん!よかった」
ピコン、とライスシャワーのしっとり濡れた耳が動いて、柔らかな雫が跳ねた。普段の口調は極めて控えめなだけに、こういった弾むような仕草があまりにも可憐に映える少女である。
「はい!わざわざ教えてくださってありがとうございます」
「え、へへ……役に立てた、かな」
彼女は小さく頬を染めて、いじらしくバスローブを口許に添える。
「勿論です!ライス先輩、ありがとう!」
にっ、とダイワスカーレットは悪戯っぽく八重歯を覗かせて溌剌に笑う。
表情自体は気品のある美少女が少年のような表情をすると、何故か眩しいほど美しくて、ライスシャワーは目が離せなくなりそうだった。
ライス先輩、って呼んでくれたな。
今夜はよく眠れそう、と2人の少女たちは足取りも軽やかに寮に戻って行ったのであった。
【この門をくぐるものは 】
鼻をつくゴムが焦げたような刺激臭。
「……」
「……ヴっ」
獣のような低い声と共に、男は目覚めた。
自分が慎平という名前の男とわかるまでコンマ1秒。
ならここはどこだ。
そうか。
俺は、今日から、ここに。
トレセン学園の寮に住むことになったのだ。
では、この臭いは何か。
「〜♪」
薄気味の悪い鼻唄だった。
軋む身体に鞭打って、簡素なベッドルームを抜ける。
確か入口の近くにシンプルなガスコンロが1台あったはずである。
ギィィ……と寝室の扉を内側に開くと、そこには小柄なゴブリンのような男がご機嫌に鍋をグツグツ言わせていた。
ラスボスだ。
ああ、と悪夢のような記憶を手繰り寄せる。
昨日俺は部屋を決めるクジ引きで、こいつを引いてしまったのだった。
同室ガチャ沼すぎるだろうが、と吐き捨てたがラスボスはそれ以上の発狂ぶりで同室を嫌がっていた。
まあ当然ながら抵抗するだけ無駄、枝のような身体を無理やり部屋に押し込められて昨日はお互い極限まで布団を離して眠りについたはずである。
小刻みに踵で奇怪なステップを踏みながらヘッドホンをつけて鍋をおたまでかき混ぜている。
俺にはまだ気がついていないらしい。
どうしたものか。
「アー、アー、ゴホン」
咳払いしてみた。
「〜♪〜」
苛苛する。俺は、無視されていい存在なんかじゃない。なんの根拠もなくそう思った。
「おい」
「〜♪」
「オイ!!!」
ラスボスは俺の方を一瞥した。
ようやく気づいたか。
「!?」
しかし、俺は、驚くべきことに……
「〜♪」
無視された。
は。
どういう意味か。慎平はこんな状況にはなった事がなかった。無視。無視とは、強烈な一撃である。
俺の存在には、確実に気がついていながら無視。
喧嘩を売られているか、またはこいつには俺と話す意味が無いという意思表示か。
教室でのワンシーンが蘇る。
□
夕暮れ、忘れものをしたことに気がついて日が傾いた教室にドタバタと駆け込んだ時のこと。
慎平の席では3人くらいの男と4人の女が談笑しており、とても机の中を漁れる雰囲気ではなかった。
ああ、と1度絶望してから、意を決した。
口の端が震える。
息を吸って、
「あ〜!あ〜、オホン、そこさあ、実は俺の席なんだけど知ってたり?」
大きな声で言った。
無理やり口角を上げて、明るい笑顔を作る。
もしかしたら、
「わり、どくわ。てかお前意外と喋れるんやな、ちょっとこの後話してかね?」
とか。
「へー、増田ってウケるね。ウチらLINE交換してたっけ、あ、今する?」
とか。
輪に入れるかも。そんな希望を少しだけ抱いて。
女子4人の中には、慎平がその時少しだけ可愛いと思っていたすみれちゃんもいた。
「……」
「…………」
完全な沈黙。
もしかしたら聞こえてなかったのかもしれない。
「え、ちょ。そこ俺の席なんだが〜、お前ら今聞こえてなかった?草」
まだやり直せる。
口の中がカラカラだったが、声を張り上げた。
「おっと〜?もはや難聴?全員難聴有りうるなこれはww」
無視されたことにめげない、意外とノリの良い奴として、馴染めるチャンスかもしれなかった。
「……」
「…………」
完璧な沈黙。こちらには一瞥もない。
あ、と行き場の無くなった残りカスみたいな声が喉からポロリと出た。
「……でさ〜、そんときの山田が!俺どうしたらいい?そこの郵便局で聞いてくるわって言ったんよ」
「スマホ持ってんのにそれはねえわ!」
「ダハハハハハ!」
「キャハハハハハ!!」
会話は俺を一切の亡きものにして、そのまま、
このどうしようもない絶望だけを置き去りにして続いた。
翌朝。
俺の机の上に、昨日取りに帰ろうとしたライトノベルが全てご丁寧にカバーを取り去って詰まれていた。
『金髪女子高校生が俺を離してくれないんだがどうしたらいい?』
『隠居英雄がボロ剣一本で異世界統一〜やれやれ、また闘いかよ〜』
『美人エルフの異世界料理教室』
全て俺の愛読書だった。
何が起きているかよく分からなくて、周りを見渡すとスミレちゃんと目が合った。
くっきりした二重が笑みの形にアーチを作る。
紛れもない嘲りの形だった。
ひゅ、と喉がおかしな締まり方をした気がした。
我に返って、みっともなくドタバタ走って自分の席にダイブし、ライトノベルをカバンの中にすべてしまいこむ。
何かが切れた瞬間だった。
おれはその1ヶ月後、学校を辞めた。
□
「〜♪♪〜」
よって慎平は、無視された時にその感情をどこに向けていいか全く分からなかった。
心臓が痛い。
ラスボスに無視されて落ち込んだ訳ではなく、
無視されたという事実が内蔵を蝕んだ。
「……ああああああああぁぁぁ!!!!!!!!」
いつもこうだ。
慎平は自分で上手く伝えられない時、大声をだす。
そして、
ドン!ドン!ドン!
机の代わりに壁を殴りまくった。
これで無視されたらこいつの首を絞めて殺してやろう、そう思ったその時。
腕を掴まれた。
俺より10cmほど小柄なラスボスが、俺を心底呆れた瞳で(彼の目は細く落ちくぼんでいるため、想像に過ぎないが)
「キチガイか?おまいは」
そう俺に声をかけた。
「は?なん、何て」
「まさか朝起きて初めてかける声をご存知でないと申すか?」
ラスボスは独特のイントネーションで、しかし何故か冷静に話す。
「チッ、義務教育の敗北を目の当たりにしてかける言葉もない。尾張屋根」
「は、何、は」
こんな対応をされたのは初めてだった。母親は俺が暴れると直ぐに謝るし、父親はそれでも無視を敢行した。
「……はァ……何を豆鉄砲喰らいまくった顔してるんだか。ナンセンス!」
昨日のボソボソ喋るラスボスとは全く別人のように流暢である。
慎平は呆然としていた。
舐められているのか、諌められているのか、はたまた両方か。
「つける薬もない池沼のご様子。教えてしんぜよう。萌えアニメでも伝統芸!『おはよう、お兄ちゃん』」
チッチッチ、と指を振り子のようにしてラスボスは喋ったが、あまりにもその英国紳士風の仕草が小柄な和製ゴブリンのような見た目に似合わなさすぎて奇妙だった。
「……」
「木偶の坊なのかッ!?リピート、アフター、ミー!『おはよう、お兄ちゃん』」
突然声を張り上げられてみっともなく慎平は肩をビクつかせた。何故か慎平がビビるだけの迫力がラスボスにはあった。ラスボスの面目躍如である。
「あ、」
「お、……おはよう、お兄……いや、まずそっちの年齢も知らんし、お兄ちゃんかどうかは」
ついボソボソと付けくわれた。
「フン、話せるんだったら初めから話したまえってんですわ。ワイは36。そっちは」
「……29」
「じゃお兄ちゃんであっとるやろがい」
全体的に奇妙な見た目すぎて年齢を推測すらしていなかったが、三十路後半とは。
逆に慎平は落ち着いてきていた。
「……」
「言わんのかいな ま若人の失態は笑って許すのが年上と相場は決まってるでござる」
ラスボスはこのやりとりに満足したのか、また鼻唄を口ずさみながらコンロの前に戻った。
結局鼻をつくゴムの焦げた匂いの正体は微塵も分からなかったが、慎平はのそのそと寝室に帰る。
ドタン、と朝から疲弊して布団に倒れた。
おはよう、なんて口に出したのは何年ぶりだろうか。
かくして、慎平の労働の初日は幕を開けたのであった。
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