――自分の頭の出来がいいなどと、思ったことは一度たりともない。
「嘘……」
27歳OL。寿退社という形で会社を辞め、同僚と仲のいい上司たちに祝ってもらいながら、花束を抱えて家に戻った。私、結婚します。幸せになってきます、ありがとう――そんなことを言って、自分のマンションの一室に戻った。
それで。
『ごめん、薫』
そのたった一言を残して、彼は去っていった。そして、その後一切、連絡も取れなくなって。
私はそれでようやく、彼が私を騙していたということに、
結婚する気なんてなかったのだということに、気づいたのだった。
なんて、バカみたいな話だろうか。
「彼、カフェの……お店のオーナーなんかじゃなかったんだって。会社の社長なんて、嘘八百だった……」
店舗拡大もチェーン展開も全部嘘だったんだって。
よく考えれば、彼は確かに、カードを使わなきゃいけはいような大きな買い物は、何かと理由をつけて私に払わせた。家に買い揃えた家電だって、私が払った。決算期でお金を下ろせないから、薫が払ってくれないかって言う。どうせそのうち同じ家に住んで同じ財産を共有するんだから、って。その代わりに、というように食事代は決まって、彼が払ってくれた。……だから騙されるのだ。結婚する気があるんだって。私を大切に思ってくれるんだって、思い込んでしまったのだ。
「それ。立派な結婚詐欺でしょ」
――都内のカフェだった。
話を聞いてくれていた、学生時代の親友が無表情のまま首を傾ける。学生時代は肩のところで切っていた焦げ茶色の髪は今や背中までのばされており、涙黒子が匂い立つような色気を添えている。
服装はシックでシンプルだが、均整の取れた体型のせいか、シルエットが女らしくて艶っぽい。
彼女は母校で女医を――校医というべきだろうか――をしていると言う。母校を同じとする私からすれば聞くまでもないことだが、ひたすら激務なのだろう。学生時代はあまり目立たなかった隈が目の下に浮いている。
「そう、じゃないと、思いたいんだけど……だって、大金を要求されたことはないんだよ。ドラマでよく見るような、親の治療費に数百万、とか。マンション買わされたとかいうわけでも」
「まあ庇いたい気持ちはわかる……いやわからんけど、言いたいことはわかる。でも向こうは薫と結婚する気なかったんじゃないのか」
うん、と。
――吹っ切るためには多分、そこで頷くべきだったのだが、私は頷くことができなかった。
まさか私が詐欺に遭うわけがないなんてちっぽけなプライドが邪魔をしたのか、あるいはまだ彼のことが好きなのか。わからなくて思考がぐちゃぐちゃだ。
社会人になったばかりの頃知り合った彼は、ほんの少し年上なだけだというのに、カフェを経営するオーナーだった。小さな会社だけど社長で、営業成績はいいから店舗をそのうち拡大して、チェーン展開するのだと語っていた。だから結婚しようって、ずっと言い合ってきたんだ。幸せにするからって。
……まあ、彼は結局、ただの雇われ店員でしかなかったわけだが。
――自分が弱くて、大した人間じゃなくて、目的意識も夢も何もなく運だけでフワフワ生きてきて、つまらない人間だなんてこと、よく知っていた。でも、愚か、でさえあっただなんて知りたくなかった。……いや。認めたくなかった、という方が正しいのかもしれない。
「恋愛経験もほぼナシ、幼少期は箱入りで人間関係も狭い、高専時代の人間関係なんて推して知るべし」
「う……」
「根っからのお嬢様の薫が、世間を知らないのは無理はない。今まで問題なくやれてきたのがむしろ奇跡だと私は思うが」
「うう……」
「あ〜勘違いするなよ、別に責めてないし馬鹿にもしてないから。騙されても仕方ない環境でしか過ごしたことなかったんだ。周りはイカれたクズばっかで、真っ当な感性持つ、突然変異種みたいな薫が真っ当な『人を見る目』を養えるはずない」
「……」
親友の言葉は厳しいようで優しくて、縋ってしまいそうになる。
彼女はただ事実を言っているつもりなだけなのかもしれないが、私にとっては正しく『救い』の言葉だ。……ただ、受け取ってほっとする度に、自分の浅ましさに吐き気がする思いもあった。彼女は恐らく私の甘っちょろさも、心の弱さもよく理解しているから、その分だけ。
――環境を呪うのは簡単だ。封建時代もかくやという空気の古家に生まれ、19で高専卒業とともに家業を捨てて――あるいは逃げて、一年遅れで大学に行った。拙い面接スキルながらも奇跡的にそこそこの企業に就職して、『一般的な』社会人になっても、私の『箱入り』は確かにその通りだった。
人を見る目がなくて、人を信じすぎて、結果騙されて、今ここにいる。
「でも。仕事はやめるべきじゃなかったな」
うぐ、と言葉に詰まる。
そうだ。せっかく受かった、商社だった。手取りだって家業に比べれば劣るけど、OLとしてはかなりのもの。毎日の食事を作るにも、惣菜を買うにも、デパ地下で買い物をしてもなお余裕があった。
でも。
「だっ、て、結婚して、普通の専業主婦になりたくて、それで……」
「……あ~。ま、確かに薫の家ではいわゆる普通の専業主婦とか普通の家庭の幸せとか、そういうのは望めそうにないからな。
目先の希望を見つめる思考回路に、現実を見る目が鈍ったと」
「そう、なんだと思う。
あの、……あんまり、こっち見ないで……」
凝と親友が私の『目』を見るので、思わず下を向いた。
……今は薄茶のコンタクトレンズを入れた瞳は、自分で言うのはなんだが日本人離れした色をしている。
純日本人であるのに、この色はきっと、人には気味が悪く思えるものだろう。高専卒業を期に家を飛び出してから、私は誰にもこの目を見せていなかった――彼以外には。
(綺麗だねって、言ってくれた……)
付き合っていた時のことを思い出して、泣きそうになる。本当に嬉しかった。
好きだったのだ。
『何もない』私でも、彼といれば夢を見られるような気がして。
「これからどうするの? お金あるの、薫」
「全然、ない。今月の家賃で消える」
「ま、だろうな。今薫、割といいとこ住んでるだろうし」
「……」
「ハロワ行った?」
「派遣会社には登録した、けど」
「ハロワに行きな。それで、失業保険に入る」
――『戻って』きたくないんだろ、と言う。
それは今の私の核心を突く言葉で、ぐ、と唇を噛み締めた。……そうだ。『戻り』たくない。『戻って』はいけないのだ。
「わかっ、た。うん、ハローワーク、行く」
「食事は残った米と、もやしとキャベツとかで乗り切る。余計な金は使うなよ」
「もやし、キャベツ……」
「薫? わかってる?」
「わかってる、わかってるから。……だから、硝子」
「うん」
「あいつには、言わないで。お願い」
切実な願いだった。
硝子は目を細めると、ああ、と言った。
……罪悪感で胸が押し潰されそうだった。
幸せになるのが、きっと私の義務でもあった。
『逃がしてやる。僕が……他でもないこの僕が、お前に、逃げることを許してやる』
お前のことなんて好きでもなんでもないけど、それでも、お前は僕の片割れで、妹だから。
そう傲岸に言い放った、8年前の兄の言葉が、脳みその中で回った。