元日に震度5強の揺れに襲われましたが、幸い筆者並びに厥の周辺で被害は全く出ませんでした。故に、投稿が遅れた事の弁疏には成り得ず、2ヶ月も間隔が開いたのは、只筆者に才能が無いだけです。遅筆で申し訳無い。
無事にフクも契約を結ぶ事が出来、後は迂拙の芝2000を残す已と成った。迂拙は先程と変わらずシャトルの西瓜に後頭部を減り込ませ、両脚を中空に漂漾させ乍ら選抜レースを游矚している。鎬を削り合う真っ当なレースも有れば、焦躁から変に動いて龐錯するレースと様様である。迂拙の走るレースは午前と同様終盤であり、次次行われるレースを矚乍ら自らの出番を待つ。物は試しと、レースで誰が捷つか予想してみたりするがてんで当たらない。矢張りトレーナーの教導を受けていないウマ娘許りが故に、公式レースよりも不確定要素が多く、多様なイレギュラーが発生する。何れも此れも不安や焦躁から惹起された掛かりから齎されたものであろうが、既に言った通り選抜レースが開催されるのは今日に限った事では無いので殊死に成る必要は無い。が、此処で一つ別の視点での考えが浮かぶ。確かに選抜レースは複数日に亘り開催されるが、実力の有るウマ娘は1日目の選抜レースで粗方スカウトされてしまう為、2日目以降の選抜レースに出走するウマ娘は如何しても出涸らしの様な印象が纏繞し、トレーナーからの注目度も下がる。3日目以降ともなれば推して知るべし。成程恁考え方をすれば目を血走らせて1着を狙うのも頷ける。殊、レースが絡むと動もすれば輒ち思考が驕慠に流れ易いのがウマ娘と言う生き物であるが、如何やら迂拙のウマソウルも聢りと稼働している様である。自戒せねばなるまい。必要なのは矜大ではなく矜謹である。
抔と霎時眼を遊ばし思いを巡らせていると、コースの入り口辺りが悖然騒めき出した。何事かと視線を遣ろうとしたが、西瓜が動きを礙げる。
「シャトル、何が有った?」
「会長サンが来たみたいデスネ」
「ルドっさんが?」
中央トレセンの生徒会長は劇職の筈、果たして選抜レースを観る暇抔有るのだろうか。厥とも視察と言う名目に仮託して気分転換がてら外に出て来たのだろうか。終日生徒会室で書類と対峙していたら、幾ら皇帝陛下と雖も気が滅入りそうである。
「何か、きょろきょろ見回していますね」
「誰か御探しなのでしょうか~?」
「サーダレナンダロウネー」
「十中八九アンタでしょ。今日だけで3レースも走って場を荒らし捲ってる奴が居るって通報されたんじゃない?」
「迂拙はルールに則って走ってるだけだ。文句を言われる謂れは無い」
「普通1日で4レースも走ろうとする奴が居るだなんて思わないでしょ」
現に此処に居るのだが。
「タイキさまが聢り抱き抱えていますから、逃げられる心配は有りませんね~」
「若し迂拙の居場所訊かれたら、土に還ったっつっといて」
「嫌よ」
何とか捜査の手から逃れたいが、シャトルに依る拘束は緩みそうにない。と言うか、先刻の土に還る発言で層一層力が込められてしまった。痴も夥しい。必死にもぞもぞと踠くも詮無く、征にかかってしまった。そして、遂に迂拙の首に手が掛かる。
「済まない、キョクアジサシと言うウマ娘を捜しているのだが、知らないか?」
「此処に居ますよ」
「……何故人形の様に抱えられているんだ?」
「擦れっ枯らしと純粋が化学反応を起こした結果です」
「……良く解らないが、兎も角、見つかって良かった」
「只今、留守にしております。ピーと言う発信音の後に、メッセージをどうぞ」
「居留守にすらなってないぞ整備士。そんなに私と会うのが嫌か」
「シャトル……如何やら迂拙の命は此処迄の様だ。短い間だったが、達者でな……」
「ソンナ……会長サン、どうかアジを許してあげてクダサイ。アジは何も悪くアリマセン」
「いや何の話だ」
「アジ、タイキの純粋さに付け込んで何か有耶無耶にしようとしてない?」
「ちっ……」
思わず忒児が漏れる。迂拙の発走時間迄話を搔き擾してオサラバと行きたかったが然うは問屋が卸して呉れなかった。
「未だに苦手意識が払拭されないとなると、有繫の私でも鳥渡憖くぞ」
「皇帝陛下に直直に名指しで捜されるとか、絶対碌な用件じゃないでしょ。若い時の苦労は買うてでもせよ抔とは言いますけど、向こうから押し売りされる苦労なんざ御免蒙ります」
「まあ、君に関する通報が有ったのは事実だが……」
「矢っ張り迂拙の事を抹摋しに来たんじゃないですか。苦しむのは嫌なんで陵遅三日とかは勘弁して下さいよ。全身麻酔からの薬殺刑で御願いします」
「だから直ぐに話を物騒な方向に持って行くのは止めて呉れ。整備士の所為で陵遅刑なんて知らなくても良い言葉を知って仕舞って、暫く寝不足になったんだぞ」
「え、調べたんですか? でも陵遅刑のページって、画像はクリックしないと表示されない仕様になってましたよね?」
「画像は見ていないが、文章を読んだだけで身の毛が弥立つ思いだったぞ。そしてそんな残酷な事はしないと何度も言っているだろう。串戯にしても選択が酷過ぎるぞ」
「然様で。調べるのは個人の自由なんで、迂拙は責任取りませんよ」
「相変わらずだな……。私が来たのは、単に君の走りを見に来ただけだ。既に3レース走っているが、何も規則には違反していないから、咎める道理は無い。と言うか、脚は大丈夫なのか? 既に4400mも走っているんだろう?」
「問題無いです。寧ろ漸く暖まって来た所です」
「厥の頑健さは素直に羨ましいな……。私の脚ももう少し強ければ、もっと走れたのだが……」
無敗の三冠を筆頭に、何かと強いイメージが先行するルドっさんだが、故障や脚部不安に泣かされた事が何度もある。儻し彼女が海外遠征をしていたら……抔と惜しまれる事も少なくない。一方、ドーベルは三白眼を寄越して「何言ってんだ此奴」と目線だけで言って来た。
「所で、私には1つ気掛かりな事があってな」
「何です急に」
「聞道、トレーナーからのスカウトを鰾膠も無く袖にしているそうじゃないか。然も何度も」
「ええまあ、本命の芝2000を走ってからにして呉れと繙し言っているんですが、結構拗く言い寄って来るのも居るもんで」
「他のウマ娘から見ると、大分鼻に付く言動に感じられるが、其処から苛め抔に発展しないかと心配でな……」
「まあ、実際既に結構睨まれてますけどね。苛めてきたらじっくりと"オハナシ"しますよ」
「其処だよ。ウマ娘は本来繊細な存在だ。君の反撃で再起不能に䧯らないか、とな……」
「あ、其方ですか」
「整備士、君は小学生の時点で苛めっ子を自力で撃退していただろう。そして、今迄の言動を鑑みれば、君が苛めを受けて落ち込んだり憖く様なタマじゃ無い事は十二分に理解しているからな」
「信頼が厚くて涙がちょちょ切れそうですわ」
本来、と前置きしている辺り、迂拙は繊細では無いと譎しに言われているが、事実なので全く反駁出来ない。反駁する気も無いが。迂拙の普段の言動を知っていて繊細と評するのであれば、絶だ失当であると他ならぬ迂拙が真っ先に否定する。
現在の周囲の反応を鑑みるに、選抜レースが終わってから幾らかちょっかいを出されたり文句を言われそうな空気である。迂拙としてはご譟するも後言を叩くも自由にしろと言う立場である。此方に非が有るのであれば誠心誠意頭を下げるが、迂拙は選抜レースの規定に何等反しておらず、厥の中で1着を取り続けているだけである。齎された結果は単純な、そして儼然たる実力差から来るものである。ご譟や後言に精を出す暇が有るのなら鍛錬に精を出せ。現実から眼を背けるとは即ち自らの首を絞める事である。と言うのが迂拙の持論である。厥は厥として、苛め撃退に使う猟奇殺人事件の話を後で幾らか仕入れておくか。此方から手を出したり口を出したりして反撃すると、厥を足掛かりに更に攻撃を強められる蓋然性が有るので、猟奇的な内容の話を、此奴なら遣り兼ねないと言う雰囲気を醸し出し乍ら話すのが肝要である。然うすれば、大概は相手が自発的に距離を取る様になる。事件の犯人の年齢が迂拙と近ければ、層一層効果覿面であろう。
「……整備士、何やら黒い笑みを浮かべているが、何を企んでいるんだ?」
「いや何、どんな猟奇的な話を仕入れようかと思いましてねぇ」
「頼むから手加減して呉れよ」
「善処する蓋然性は無きにしも非ず、と言った所でしょうか」
相手が売って来た諠譁を猟奇的な話で受け流しているだけなので、過剰防衛も名誉毀損も取られないのだ、相手の仕掛け具合に合わせて存分に遣らせて貰う。
「はぁ……頼むから、学園の体面を穢す様な真似はしないで呉れよ」
「迂拙を入学させた時点で無理な話では? 時限爆弾と言うか不発弾と言うか、何時何を為出来すか分かりませんよ?」
「自覚をしているのなら自重も出来るだろう。君程精神が成熟しているのなら事の淑慝を弁ずる位、訳無い筈だ」
「厥に就いては無麪餺飥と言う奴ですね。思考回路が狠愎しているので」
「晦渋な単語を使って有耶無耶にしようとしてないか?」
「皇帝陛下様の風鑑なら洞見癥結するのも発矇な事なのでは?」
「……もう良い。君の最後の良心に期待しておくよ」
諦念の籠もった視線を向けられ、話は打ち切られた。
「閑話休題、君の実力ならトレーナーは選り取り見取りだろう。どんなトレーナーを所望するか、訊いても良いか?」
「何故に?」
「単なる興味本位だ」
「……何か裏が有りそうで悑いですねぇ」
華胄界の連中は左右仮面を被るのが巧い。縦使肚裏僂儸有ろうとも上っ面は平生と全く変わらないのだから実に質が悪い。巧妙に恩を売って征にかからせる気か。逆め好みを聞き出しておき、合致しそうなトレーナーにそれとなく吹き込み迂拙と引き合わせ、後後周旋の見返りを要求して来る蓋然性は十二分に有る。大方慇懃講への出席辺りか。矢張り縊死用の紐が必要な様である。
「然う眉を顰めないで呉れ。本当に他意は無いから」
「然う言って、適当なトレーナーを周旋して後から見返りを要求するんでしょう?」
「そんな公平性を欠く様な真似はしない。確かに君には期待しているが、だからと言って依怙贔屭する心算は無いよ。尤も、君なら手を貸さずとも最善を揀べるだろうから微塵も心配していない」
「本当ですかねぇ。慇懃講に出て呉れ何て言われたら有無を言わずに購買に走っていt……」
「No!! Don't Suicide!!」
「おごっ」
「……成程、彼女に抱えられていた理由は、普段の物騒な発言からか」
「え……ええまあ、シャトルは極度の寂しがり屋なので、然う言う発言に敏感と言うか……串戯を真に受けると言うか……」
「君の発言は串戯に聞こえない事が間間有るからな」
苛めの撃退に使う喋りが普段でも出ているのだろうか。思わぬ所に弊竇が生じている。此れにシャトルの醇樸さが加わった結果が、東西を許されない今の状況である。
「偖、改めて聞かせて貰おうかな」
「へぇへぇ、然うですねぇ、取り敢えず自主練で走る距離に関しては口煩くない方が有難いですね。制限されたら気が狂れる未来が見えます」
「1日400km走る君だからな……」
「此方に来てからも好き勝手走ってますけど、信号に引っ掛かり捲って距離走れないから苛苛してます」
「然うか……ウチのチームは徹底した管理主義だから合わないな」
「ルドっさんの所って言うと、リギルですか?」
「ああ。リギルは練習中は勿論、自主練に就いても結構煩いからね。まあ、総てはチームのウマ娘を思っての事だが、整備士の肌には合わなさそうだな」
「ガチガチに羈束されるのは御免蒙りますね」
「残念だな。折角君を併走で存分に扱けると思ったのだが」
「別に休日とかに都合付けて走るとかでも良いのでは? 一緒に国道4号走破RTAしましょうよ」
「私を殺す気か」
「そんな滅相も無い。鳥渡青森迄走るだけですよ?」
「東京から青森迄を鳥渡で片付けるな」
残念乍ら迂拙の提案は闢けられてしまった。国道4号走破は迂拙がしてみたい事の1つであるので、何時か時間を作ってやりたいものである。自らの脚で走破した時の達成感は何物にも代えられないのだ。
「まあ、併走なら同じチームでなくとも出来るから、トレーナー経由で連絡して呉れれば相手に成ろう」
「ルドっさんとの併走とか垂涎の的でしょうに。他の連中から余計睨まれそうですねぇ」
生ける伝説と成っているルドっさんとの併走練習を望む連中は非常に多い。そんな中、ぽっと出の碌に成績を残していない迂拙が併走しようものなら無用の闘很を招来し兼ねない。縦んば併走練習をし、迂拙が全く結果を出せなかったら、贔屭の引き倒しだの皇帝の神威も地に堕ちただの要らぬ謗毀、詆毀、譖毀を招殃し兼ねない。迂拙が詆毀されるだけなら別に構わないが、ルドっさんへの讒慝の覃及は避けねばならない。善意から慝いものが齎される事抔有ってはならない。或る程度実績を積んでから依頼するのが賢明であろう。
「まあ、御厚意だけ受け取っておきます。実績も無い内から甘えていたら罵詈讒謗の格好の的になりそうなので。女の妬み嫉みは拗く厄介ですから」
「……併走の提案1つで此処迄気を回せるのなら、普段の言動にも幾許か気を回して慾しいものだな」
「厥は厥、此れは此れです」
ぐだぐだ話している内に迂拙のレースの時間と相成った。西瓜をぺしぺし叩き漸く東西を許される。シャトルは何処か不満気な表情であったが、有繫にシャトルを背負い乍ら走る抔と言う芸当は無理なので我慢して貰う。醇樸が過ぎるのも考え物である。肩を回し凝った体を解す。
「偖、皇帝陛下の臠す台覧試合だ。無礼た走りしたら磔にされるな」
「わしい言い方は止めて呉れ。それに、磔なんて大時代な事は絶対にしないぞ、私は」
「一人でメロスとセリヌンティウスの二役は却却大変ですなぁ」
「面と向かって邪知暴虐の王だと諷る辺り、君は間違い無くメロス役だと思うぞ」
「でもメロスと違って、人間性は失格だと思います」
「大概恥を棄てている辺り、大庭葉蔵と何方が増しか……。……彼方は恥の多い生涯を送って来たと認識しているから、君の方が酷い迄あるな」
「御褒めに与り大変光栄で御座います」
「頼むから少しは赤面して呉れ。素振りだけでも良いから」
二、三、軽口を叩きゲートへ向かう。此方へ向けられる視線には猜嫉、羨望、敵愾抔、先程迄とは毛色の違う感情も乗っている。只でさえレースで1着を搔っ攫っている上に、誰もが憧憬するスターウマ娘と親暱な様子を見て、余計に神経を逆撫でされている奴も居るだろう。胸次に蟠踞する黒い感情を犇犇と感じる。そして、此れだけヘイトを集めて猶表情が丸で変わらないのだから猶の事気に食わない……と言う悪循環が出来上がっている。かと言って、努めて殊勝な表情を作る気は毫頭も無い。どうせ表情を作った所で状況は変わりやしない。眼前のレースだけを見据えて擺撥するが吉である。
偖、本日4レース目、本命の芝2000である。験す戦法は当然逃げ。追い込み、差し、先行と色色験したが、矢張り彼是考える必要が有る分走り難さは有った。外に膨らんでバ群を躱したり、進路を塞がれ稽誸を強いられたり、碌碌レースをしてこなかったが故の弱点がもろに出た形である。これから走る逃げも、適切なペース配分抔知らない。一応過去のレースを観て研究はしているものの、厥を自分に当て嵌めた場合如何なるかは分からない。今考えている策も、自分の体力を恃んでごり押すだけである。ほまな事夥しいが、迂拙の伎倆は幻惑逃げの様な器用な事が出来る水準に達していない。
ゲート入りの際も多くの視線を感じたが、一瞥も呉れて遣らない。呉れて遣る必要も無い。見るべきは眼前のコース已。最後のウマ娘がゲートに這入り、一拍の静寂を挟み鏗然とゲートが開く。此れ迄のレースを観て、迂拙がバ群を苦手としている、慣れていない事に感付いている奴は居るだろう。若しかしたら此のレースだけ結託し、キョクアジサシをバ群へ押し込み進路を壅閼し続ければ捷てるかも、抔とぢる奴が居るかもしれない。選抜レースを、キョクアジサシの独擅場にさせてなるものかと息巻く奴が居るかもしれない。スタートは別に苦手では無いが、前述の蓋然性を加味すれば、より早くスピードに乗らねばならない。縦んばハナを取られレースの主導権を把捉されたら、迂拙が逃げる事は叶わない。故に、脚の回転数を本日の最高水準迄引き上げる。参考にするは短距離レース、厥の終盤の叩き合いに於ける走り。低速ギアをレッドゾーン迄引っ張る様な急加速。此のレースでは絶対にハナを譲らない、厥の意思表示も込めたロケットスタートを決める。練達の士であれば恁強引な手段を取らずとも巧くハナを取れるのであろうが、才無き迂拙は強引な手段しか知らない。実に趬悍な走りではあるが、周囲の連中の戦意を圧し折るには却って都合が良かったのかも知れない。現に誰某の口から出た「噓っ!?」と言う驚駭の声が聞こえてきた。今迄の走りを鑑みるに、恁ロケットスタートが出来るかもしれないと想像を飛ばせた者は居なかったらしい。矢張り抽斗が多い方が予想の裏をかき易いものの、所詮は姑息手段に過ぎず、何れは瞞著の効果を失う。が、取り敢えずは此の場を凌げれば良い。半端な手段を如何斯うするのはトレーナーの仕事である。先ず迂拙は逃げで1着を取ると言う仕事を果たさねばならない。
数拍を置いて左右を瞥見し、誰も居らずハナを取った事を確認の上内側へ進路を向ける。然し脚の回転数は下げず、序盤で出来得る限り後続を引き剝がす。後方の跫音は漸減していき、軈て耳朶を叩くは己の風切り音已と成った。そして、漸速度を落とすも通塗ならざる速度でコーナーを曲がる。内埒擦れ擦れ、バ場は荒れているが怯まず敢然と驀進する。今迄は周囲の状況に合わせて速度を調節していたが、逃げは一切の煩わしさを遺却して好き勝手走れるから実に爽快である。今迄とは違う、えも言われぬ高揚感を覚え乍らコーナーの終端から飛び出す。弾指頃顧眄すると、他の連中は全員コーナーの中に居り、背後にのり劫かす跫音は只の1つも無い。距離的余裕は十二分に有るが脚は緩めず、厥の儘の速度を維持し続ける。最後の直線の途中、一度耳を後ろに向けたが、のる跫音は変わらず無く、波瀾も特に起きず、4レース目も迂拙が1着でゴールした。タイムは1.59.4で、2着に3.7秒差の大捷である。ラストスパートは掛けていないので最後幾分か差は縮まったであろうが、厥で此の結果なので迂拙としては慊焉たる心持ちである。少少厭味ったらしい捷ち方であっただろうが、スパートを掛けて完膚無き迄に叩き潰そうが、何方道猜忌の念を向けられる事に変わりはないであろう。ゴールの先で息を整えつつ霎し顧眄し後続の連中の表情を窺ったが、揃って胆礬色に黒い感情を綯い交ぜた表情を寄越していた。対して迂拙は無言の儘視線を切りコースを後にした。未練未酌が無いと譏刺されるかも知れないが、勝者に慰められた所で惨めになるだけである。敢えて冷腸を演じるのも情けの一つの形であろう。
既に選抜レースも終盤であるが、コースの外に出るとトレーナー連中に十重二十重に囲まれた。矢張り20バ身超過の大捷の衝撃は大きかったらしく、咸闁め揚して迂拙の気を惹こうとしてくる。やれ3冠も夢じゃないだの、やれ凱旋門も狙えるだの、過大評価が過ぎるのではと首を傾げたくなる闁辞も飛んでくる。説白道黒すれば釣れる様な安いウマ娘と見られているのだろうか。だとしたら絶だ心外である。
然し、通塗のウマ娘相手であれば上手い事釣れる踉䠙鉤に成り得たであろう闁辞も、今の迂拙には痴騃鈎にしか成り得ない。今慾しいのは迂拙の走りに対する批評と今後の展望である。今のレース内容は、己の頑強さを恃んで強引にリードを作り上げたと言う事位、トレーナーと言う職に就いている者であれば難無く甄別出来る筈である。罷り間違っても完璧抔と評せる物ではない。然りとて取り敢えず気を惹く事をぜ先する者は居るもので、「君の走りは完璧だ! 俺と一緒なら3冠も手に届く!」抔とば張する者も居る。1度たりともレースでの走りを教授された事の無い迂拙の走りが完璧であるのなら、トレーナーと言う存在は不要と言う事になる。自らの職責を否定する檮昧な奴に人生を預ける様な鈍瞎漢では無い心算である。今は今後の人生の成敗利鈍を左右する関頭である。下手に謙抑に振る舞って適当なトレーナーと契約しようものなら落魄は必至。此の時許りは矜縦な言動に目を瞑って慾しい。
「迂拙を釣る為の聊爾の闁辞は需めていません。今慾しいのは迂拙の走りに対する剴切な批評です。4レースも走ったんですから、態態洗垢索瘢せずとも粗は探せる筈でしょう。一度たりとも教導を受けた事の無い、碌碌レースなぞ走った事の無い素人丸出しの走りなんですから改善点なぞ枚挙に遑がないでしょう。是非とも御高批を賜りたく存じます」
此処は天下の中央トレセン学園。トレーナーの目も肥えているだろうし、殊、走りに関しては一隻眼を有っているだろう。
「真逆とは思いますが、走馬看花の愚を犯してはいませんよねぇ……? 此処は選抜レースの場、公式レースとは違い観戦に現を抜かす暇は無いとは思いますが」
トレーナー連中を睥睨し訊う。此方人等人生が掛かっているのである。妥協する気は毫頭も無い。数拍の間を置き、1人のトレーナーが進み出でて来た。
「何と言うか、君の様なウマ娘は畸しいな」
「然様ですか」
「ああ。普通此れだけ差を付けて捷つだけの力量が有って、此れだけ闁めちぎられたら多少は得意気になる筈だが、厥の気配が微塵も感じられない」
「迂拙は此処には走りに、そして捷ちに来ているんですから。闁め揚され、持て囃され、厥で満足出来るのならこんな所に居らずに地元の田舎で御山の大将遣ってますよ」
「成程、道理だな。では、早速1つ訊きたい事が有るんだが良いか?」
「何でしょう」
「既に4レースも走っている訳だが、疲労が溜まっていたり、脚に違和感が有ったりしないか?」
「全く以て元気厥のものですよ。今からグランドナショナルを走れと言われても余裕です」
「……他のウマ娘は息も絶え絶えだと言うのに、凄まじい体力だな。でも、内部に蓄積した疲労は自覚し難いから、余り無茶はしないで慾しいな」
「御忠告、痛み入ります」
「では、次の質問だ。何故4レースも走ったんだ? 距離も、バ場も、作戦も、総て違ったから、少少理解出来る範疇を逸脱していてな。此れ程多才なウマ娘は見た事が無いから、厥の意を聞きたい」
「まあ、先刻も言った通り、レースという物を碌に走った事が無いもんですから、自分の適正という物が判らないんですよ。なんでまぁ一通り……」
「験したと?」
「独学孤陋であるのは百も承知なので、現状どれだけ通用するか気になったってのも有りますね。基本独りで走って来たもので」
「厥だけの実力が有るのに、レースクラブとかには這入って無かったのか?」
「這入って無いですね。色色あって此方から三行半を叩き付けたので」
「厥は……聞いて良い話なのか?」
「別に大した話じゃないですよ。誕生日言ったらクラブの主宰者に嗤われたので、手前みてぇな痴子に用は無ぇと見限った、只厥だけの話です」
「未だにそんな度し難い阿呆が居るのか……。因みに誕生日は何時なんだ?」
「12月19日です」
「ウマ娘で真冬の誕まれか。厥も又、畸しいな」
「で、迂拙の地元は僻陬でして、レースクラブは厥の1つしか無かったので、ずっと1人で走り続ける事になったという次第です」
「何と言うか、災難だったな」
「迂拙は別段何とも感じてないんですけどね。厥の程度で心が圧し折れてたら今此処には居ませんよ」
「彊いな。厥の精神力は間違いなく武器になる」
「へぇ、然様で。で、肝腎の走りに就いては如何様に眼に映りましたか?」
「……正直に言っても大丈夫か?」
「寧ろ正直に御願いします。聢りとした評騭を頂きたいです」
「じゃあ遠慮無くいくぞ。力量は有るんだろう、現に4レース総てで1着を取れているんだから、走れるウマ娘である事は見て取れる。だが実力が有るとは未だ言えないな。コーナリングの荷重移動はそこそこ巧い様に見えたが、粗削りな部分が多い」
「然うでしょうねぇ。一応体格が似ているウマ娘の走りを研究して、実際に走ってみたりウマホで撮影して修正してみたりしましたけど、何処迄行っても生兵法の域を出ませんから」
「遣れる事は遣っているのか。まあ、何も遣らずに完璧なフォームを身に着けられるのは、本物の天才だけだからな」
「全く以て厥の通りです。凡才に出来る事と言えば、報われる保証の無い努力を積み重ねるだけですから」
「然う卑屈に成るな。然う言う未熟な部分を如何にかするのがトレーナーの仕事だ。君の走りは未だ粗削りだが、光る物は確かにある」
「然様ですか」
「次に作戦だが、今日験した4つの中で何れが一番走り易かったか?」
「逃げ……ですね。一度ハナを取れたら、後は好きに走れたので」
「まあ、然うだろうな。彼だけの大差捷ちが出来るんだからな。だが、厥でももう少し後ろを気にし乍ら走った方が良い。実際に逃げを主体に走っているウマ娘はもっと耳や顔を後ろに向けて状況を把握し乍ら逃げている。何れだけ差が付こうと後方確認は最低限し乍ら走るべきだ。偶にとんでもない末脚で差を詰めて来るウマ娘も居る。自分の中では居ないと思っている相手が知らぬ間に隣に居たりすると、途端に集中が切れて走りが乱れる事も有るからな」
「御尤もです」
「そして前のレースだが、先行で走っていたな。スタートは全く問題無かったな」
「有難う御座います」
「だが、途中囲まれた時は結構焦っていたんじゃないか?」
「厥の通りです。斜行を取られない様緩と外側に脱けようとしたんですが上手く行かなかったので、何とか前を走っている奴を掛からせて隙を作ろうかと彼是試行錯誤していました」
「多分自分では気付いていないだろうけど、心做しか表情が険しかったし、何より耳が忙しなく動いていたからな」
「ああ、然うでしたか。経験不足がもろに露呈した形になりましたね」
「だが、焦って猶策を練れる辺り、全く余裕が無くなっていたと言う訳では無いんだろう?」
「ええまあ、コーナーで脱け出せなかったら直線で躱す心算でいました」
「ゴール迄の距離は未だ余裕がある段階で動いていたからな。有繫に仕掛けるのが早過ぎると最初は思ったが、レース経験が無い事を加味すると一概に否定する事は出来ない。囲まれた時の対処法は経験に依る所が大きいからな。よく、彼だけガチガチに囲まれた状況から脱け出せた」
「上手い事前を走っているウマ娘を掛からせる事が出来たんで、コーナーの出口でラインを膨らます事が出来ました。まあ、偶偶出来たってだけなんで、次も同じ手が通用するとは思いません」
事実として、今日の迂拙の4連捷は運による部分が多い。特に先行で走ったダート1600に関しては、稽誸の結果思い付いた策に偶偶嵌まって呉れたから包囲網を脱出出来たのであって、策が通じず厥の儘バ群に埋もれて1着を逃すと言う結末も大いに有り得たのである。実力で捷てた、抔と勘違いを起こしてはならない。
「4連捷して厥の考え方を維持出来るのは大したものだ。普通だったら多少なりとも天狗に成るもんだが」
「此の界隈って天狗に成ったら終わりみたいな部分もあるじゃないですか」
「確かにな。1度捷って天狗に成って、厥の儘消えて行ったウマ娘はごまんと居る。自信を持つ事と天狗に成る事は全く違うものだが、混同しているウマ娘は多い」
「だからこそ、努めて自戒しています」
「立派な考え方だ。偖、他にも色色訊きたい事は有るが、総て聞いたらとんでもない時間になってしまうから、最後に1つだけ訊かせて呉れ」
「何でしょうか」
「何故、ダートの1200で追い込みを選んだんだ? 或る意味一番足に負担が掛かる選択だと思うのだが、後に3レースも扣えている状況で、自ら後のレースの捷ち筋を銷し兼ねない選択をした真意を聞きたい」
「ああ、厥に就いては完全に気分で適当に決めました」
「……何か考えが有っての事じゃ無かったのか? 幾らか会話してみた感想として、君は可成り思慮深い娘だと思ったんだが」
「そんな大層な存在じゃあないですよ。結構刹那的に生きているので、後後ツケを支払う羽目に成る事も初中後です」
「然うか……。有難う、色色話して呉れて。参考に成った」
「あら、スカウトする程のウマ娘では無かったと言う事ですか。残念」
「いや、出来るならスカウトしたい。だが、他のトレーナーの意見も聞いた方が良いだろう。俺一人の意見だけでは物足りないだろうからな」
「飽く迄個人的な感覚ですけど、貴方以上に侃侃諤諤出来るトレーナーは居ない様に思えるのですが」
「そんな事は無い。例えばリギルの東条トレーナーだったら、より有益な議論が出来るだろう」
「ああリギルですか。リギルに行く心算は無いので」
「中央トレセンのトップを行くチームだぞ? 君の実力なら間違い無く東条トレーナーの御眼鏡にも適うと思うが」
「聞道、自主練含めてガチガチに管理する主義だと言うので、好き勝手走りたい迂拙の肌には合わないだろうと考えています」
「好き勝手と言うと、何の程度走りたいんだ?」
「地元に居た頃は峠道を体力作りがてら往復240km、加えて走りの研究もしていたので、1日で300km以上は毎日走ってました。なので、距離の上限は無しで御願いしたいです」
「……よく今迄脚が壊れなかったな」
「無駄に頑丈なのが取り柄なので」
「然し……有繫に毎日厥だけ走るのは……」
「でも、此れ位走らないと磅礴鬱積として途端に何を為出来すか判らない時限爆弾と化すのが迂拙と言うウマ娘ですよ」
「難儀な性格をしているな……」
「昔病院で検査して貰った事も有りますけど、健康厥の物との御墨付きを頂いた事も有りますし、今の所は大丈夫ですよ。今の所は」
「だから悑いんだよ。ウマ娘の脚という物は本当に突然壊れるからな」
「でも病院の検査でも引っ掛からないとなると、もう如何しようも無いですよね」
「だからこそ、可成疲労を溜めない生活をして慾しいんだ」
「でも、走らないと脚の前に精神が打っ壊れますよ。自主練では好きなだけ走って良いと言う条件は譲れません」
「うーむ……厥を何とかするのもトレーナーの仕事、か……」
「……本当に良いんですか? 自分で言うのも何ですが、相当面倒臭いウマ娘ですよ?」
「此れでもチームのサブトレーナーの経験は有るから、然う言う事には慣れている心算だ」
「後悔しませんか?」
「彼だけの大逃げを見せられたんだ。粗削りとは言え、トレーナーであれば誰しもがじれる脚を持っているのだから、契約したくなるのは当然の摂理だ」
「……難儀な性格をしているんですねぇ」
「厥がトレーナーって言う人種だ。俺はもう肚を決めている。是非、一緒にトゥインクル・シリーズを走って呉れ」
「……では、迂拙の人生を預けますので、宜しく御願い致します」
然う言って肯諾の意を示すと、遒い握手をされた。理知的な話し振りであったが、根は熱血なのだろうか。何はともあれ、無事契約を結べた事は喜ぶべきだろう。彼1人としか話しておらず、契約は性急ではなかろうかと思われるかも知れないが、先程迂拙の走りに就いて意見を求めトレーナー連中を諦睨した際、彼以外に動こうとする気配を感ぜられなかったので、此れ以上時間を掛けても収穫は無いだろうと判断した。縦んば意見を聞いた所で築室道謀に終わる未来が見える。
「トレーナーの上澤上だ。未だ実績は然程無いが、宜しく頼む」
然う言えば名乗られていなかった。然し聞いた事が無い苗字である。「カミ」は恐らく「上」であろうが、「ゾウレ」は皆目見当も付かない。頭の中で彼是漢字を組み合わせてみるも、しっくり来る組み合わせが無い。勝手にうんうん唸っていたら、一先ず群衆から離れ契約書類に必要事項を記入する事に成った。そして、既に紙が挟まれているバインダーを寄越された。
「俺の情報は既に記入済みだから、自分に関する部分だけ書いて呉れ」
然う言われ用紙に目を通す。すると、トレーナー氏名の部分に「上澤上」と有った。成程斯う書くのか。
「此れで「カミゾウレ」って読むんですね」
「ああ、生まれて此の方1度たりとも一発で読んで貰えた例が無い」
「「沢上」って書いて「ソレ」とか「ソウレ」って読む地名は有りますから、何か関連が有るんでしょうかね。「祢宜ケ沢上」って慥か……岐阜の地名でしたっけ」
「地名では有るのか。知らなかった」
「なので迂拙としては腑に落ちる読み方ですね。「ゾウレ」は「ソウレ」が連濁した形でしょうし」
「こんな所で自分の苗字に就いて考察するとは思わなんだ」
「まあ、人名地名は基本的に知らなきゃ読めませんから。「神戸」みたいに知名度が高ければスッと読んで呉れるでしょうけど」
「なら、君がレースで沢山捷って、俺の知名度も上げて呉れ」
「責任重大ですねぇ……」
会話しつつ用紙に記入していく。分量は多くなく、ものの2、3分で終わった。
「では、脱漏が無いか確認を願います」
「ああ。……良し、大丈夫だ。後の手続きは此方で全部遣るから、今日は放課で良いぞ」
「有難う御座います。此れから宜しく御願いします」
「此方こそ。……然うだ、1つ確認したいんだが、君の事は何と呼べば良い? 何か希望はあるか?」
「何とでも。「アジ」でも「サシ」でも「アニサキス」でも。友人からは基本的に「アジ」と呼ばれていますが」
「じゃあ俺も右に倣えで「アジ」と呼ばせて貰うぞ」
「ええ、どうぞ。厥の辺りに関しては頓着無いので」
斯くして、無事契約を結ぶに至った。彼と契約したと言う選択の臧否は如何か、今後の人生行路は如何様に成るのか、総ては彼の手腕に託された。