不図思い返すと、彼のような和讒窮まりない要求を、トレーナーは良く膺けて呉れたなあと思う。通塗の感覚であれば間不容髪に峻拒しても何等可笑しくない内容である。良くも悪くも選抜レースで迂拙の泡斎振りを見て覚悟していたのか、将又諦念に支配されていたのか定かでは無いが、孰れにせよ、迂拙の微意を最大限斟酌して呉れるトレーナーに値遇出来た事に就いては感謝せねばならない。取り敢えず、就褥中のライスさんを奉拝しておいた。
偖、祁祁たる課題を熟さねばならないが、何をするにしても先ずは正しい走行フォームを会得しない事には先には進めない。当然、芝とダートとで走り方が違う為、厥の両方を体に覚え込ませねばならない。が、二刀流の走り方の習熟させると言う事は前躅が尠少らしく、先輩トレーナーに訊いても芳しい成果を得られず、トレーニングメニューの作成に苦慮していると言う。加えて、二刀流なんぞ出来る筈が無かろうとの謗嗤も受けたらしい。迂拙の我儘の所為で要らぬ心労を掛けて仕舞ったと謝罪した所、「絶対に御前を育て上げる。挑戦をしようともしない臆病者には輸けん」と言われた。擽然たる機根が据わっている様で何よりである。
閑話休題、芝かダート、何方か一方に跛倚してはならず、かと言って芝とダートとを切り替える周期を短くすると、2つの技術が溷錯して筑羅な走りになってしまう。丁度良い按排にするのは却却に難しい。和讒を聞いて貰っている手前、何か力に成れないかと思うが、半可通の迂拙が容喙した所で事態が好転する筈も無い。今の迂拙が為すべき事は、課された鍛錬を熟し、結果に繫げる事である。
現在の迂拙の走りを評騭するに、持久走のフォームが雑糅して中途半端な状態らしく、競走に於いて全力を出し切れていないと言う。選抜レースでは余りあるスタミナで強引に捷ちを捥ぎ取る事が出来たが、伎倆、体力共に成長充足したる今後の熾烈窮まるレースを制するには、現状に慊るを良しとするを許さず、技術の切磋瑩磨を懶ってはならない。現に、ダートコースでフォームの改善を行っているが、芝のフォームが時偶雑糅してトレーナーから厲声が飛んでくる。意識し乍らでも出来ない事が無意識の裡に出来る道理は無い。伎倆が実用に堪えない儘ではメイクデビューは許可しないと明言されている為、早急に改善しなければ出走計画の滞淹は必至である。
斯うして、本職のトレーナーの教導を受けて、改めて迂拙の不佞が露呈したと感じる。曩に成竹を披瀝した際、よく狂簡だと哂笑されなかったものだと思う。進陟は跛を引くが如く遅緩である。然らば遣るべき事は、他人を凌ぐ量の鍛錬を欐佹する已。大禹は聖人なれども乃ち寸陰を惜しむ、矧んや凡俗に於いてをや。
鍛錬の内容の1つを挙げると、先ず正しいフォームを手取り足取り教えて貰い、厥のフォームを意識し乍ら走り、トレーナーから衇摘を受け、復び走る。此の一連の流れを祗管繙し、持久走のフォームを細小細小に除脱、矯正しつつ体に覚え込ませていく。迂遠たる方途ではあるが、不佞の身に捷逕は存在しないので、斯うするしか無いのである。田走るより畔走れ、畢竟、此の揆が一番確実なのだ。何より、今熟している内容は走りの基礎の部分であり、寸毫たりとも等閑視してはならない。だからこそ、トレーナーの衇摘に順に耳を欹け、戇直に取り組むのである。
傍から見れば精衛塡海の計画に心血を注ぐがぎな連中に見られているであろう。然し迂拙は、基礎の完成に向けて、遅緩なるも確かに漸進している手応えを感じている。走れば走る程、麤笨なフォームが洗練され精緻になり、より走り易く、より力を出し易くなっている感覚が確かに有る。独学孤陋の時代には感じ得なかった慊志に、迂拙は或る種の昂揚感を覚えていた。師を得ると斯様にも違う物かと感動していた。矢張り師友と言う存在は重要である。
霎時、禅家の鉗鎚が似き扱きを受け、一度小休止と言う事で水漿とタオルとを手渡された。淋漓たる汗を揩いつつ一息ついていると、徐らトレーナーが口を開いた。
「トレーニングを始めて数日経ったが、調子は如何だ、辛くは無いか?」
「全く問題無いですよ。寧ろ感動しています」
「感動?」
「少し宛ですけど、確実に走り易くなっていっているのを実感しています。矢張り本職の教導は違いますねぇ」
「……然う言って貰えると、トレーナー冥利に尽きるな」
「内容こそ地味ですけど、基礎が出来上がらなければ応用もへったくれも有りませんからねぇ。此処で真摯に取り組まなければ、後で泣きを見るのは自分ですから」
「然う言う考え方をして呉れると此方も助かる。基礎トレーニングは地味な内容の反復が多いから、直ぐに厭きて厭がるウマ娘も多いんだ」
「あー……、まあ、厥の気持ちも解りますけどねぇ……」
子供故に地味よりも派手を求めるのは人間もウマ娘も同じである。憬れているウマ娘と同じ戦法を身に着けたい、抔と言う思考に流れるのは或る種の必然と言っても良い。一方で、聢りとした基礎を身に着けさせたいトレーナー側は、然う言う派手な事柄を後回しにするので、二者の需給に齟齬が生じる。厥が原因で契約の破棄に至ってしまう場合も多いと聞く。此処で巧く手綱を執れるかがトレーナーとしての腕の見せ所の1つではあるが、余りのウマ娘の馭し難さに、先にトレーナーが音を上げる事も有る。結局、ウマ娘側の聞き分けの良さに依存するので、此れと言った有効な解決策は存在しない。
「皆がアジ位聞き分けが良ければ、もう少し楽になるんだがな……」
「闁めても取材には応じませんよ」
「……取材も順に受けて呉れれば猶良いんだがな……」
「厥は出来ない相談という物です」
個人的にはレース後のインタビューも総て謝却したい気分である。
「トレーニングの強度も問題無いか? アジの要求に応えようとすると、如何しても詰め込む形に成って仕舞うし、休憩も最小限に成って仕舞うが……」
「大丈夫です。矢張り沢山走ると満たされますね。此の儘で御願いします」
「……内容的には、シニア級のウマ娘ですら逃げ出し兼ねないレベルなんだがな」
「えっ、然うなんです?」
「平然と300、400km走るアジだから自覚出来てないだろうが、休憩を限界迄削って、昭和も喫驚の詰め込み指導になっているんだ。成る丈早くデビューさせて、沢山走らせる為には如何しても斯うせざるを得なかった」
「丁度良い気もしますけど」
「自分で言うのもアレだが、並のウマ娘なら直ぐ潰れるメニューだぞ。彼の黒沼トレーナーですら呆れていたからな」
「黒沼?」
「ミホノブルボンは知っているか?」
「三冠迄後一歩の所迄迫ったウマ娘ですよね」
「然うだ。彼女は元元、走れてマイル、中距離すら厳しいと言われた距離適性だったが、黒沼トレーナーの坂路を使ったスパルタトレーニングで強引に適性距離を伸ばし、結果を出した名ウマ娘だ。そんなミホノブルボンを育てた黒沼トレーナーは、トレーニングが滅茶苦茶キツイ事で有名だ」
「成程」
「当時不可能と言われたミホノブルボンの三冠の夢を、後一歩の所迄実現させた黒沼さんだから、俺の考えにも賛意を示して呉れた。だが、トレーニングメニューを見せたら、眉を顰めてな。「もう少し休憩を増やさないと、直ぐに潰れるぞ」と苦言を呈された」
「と、言う事は、ミホノブルボン先輩以上の内容であると」
「体が出来上がっていないジュニア級は疎か、シニア級ですら体を壊し兼ねない、アジの頑丈さを恃んだトレーニングメニューだ。絶対に他のウマ娘には流用出来ないヤバい代物だぞ。顔色一つ変えずケロッとしている時点で、明らかに可笑しいと言う事を取り敢えず自覚しておいて呉れ」
「じゃあキツそうな表情でも作りましょうか? 大根なので碌な演技は出来ませんが」
「いや、自然体で居て呉れ。アジが平然としている御蔭で、色色言われていたのが静かになったからな」
「復色色言われてたんですか」
「まあな。「担当を潰す気か」とか「正気の沙汰じゃない」とか色色な。だが、アジが調子を落とす所か潑溂とした表情で嬉嬉として走っているもんだから、何も口出し出来なくなったらしい」
「迂拙の与り知らぬ所で酷い洋燧喞筒が出来上がってるじゃあないですか」
「粗解決済みみたいなもんだから気にするな。教え子を体の良い道具の様に使うのは良心の呵責が咎めるが、斯うしていると向こうが勝手に納得するから手っ取り早いんだ」
「何とも強かですねぇ。まあ……迂拙を使って解決出来るんなら好きに使って下さい。厥の代わり、取材では全く使い物になりませんので」
「事ある毎に取材嫌いをアピールして来るな……」
「逆め刷り込んでおこうと。「そろそろ受けても大丈夫か?」みたいな気の迷いを起こされたくないので」
「筋金入りって斯う言う事を言うんだな……」
呆れと諦めとを綯い交ぜた視線を寄越してくる。何と言われようと枉げる気は寸毫たりとも無いので、繙し言い聞かせておく。噫嚱、厭だ厭だ。取材なんざ考えただけで身の毛が弥立つ。
「兎も角、煩い外野は極力俺が黙らせるから、アジは気にせずトレーニングに集中して呉れ。今は俺とアジを一緒にして「第一狂っている団」なんて秘かに呼ばれているが、トレーニング内容がアレなだけに俺も何も言えなくてな」
「此処は習志野じゃあなくて府中なんですけどねえ。ま、実害が出ていなければ放置で良いでしょう。一一構うだけ時間の無駄です」
狂気の沙汰程ゑいとも言う。そんな綽名を付けられているのなら、厥の綽名に恥じないトレーニングをして遣ろう。別に疚しい事をしている訳では無いのだから、狐鼠狐鼠せず堂堂としていれば良い。学園を卒業したら自衛隊に志願してみるか。
そんなこんなで、迂拙個人としては慊志を感じ乍らトレーニングをしていた訳であるが、どうも外野には虐待の似く見えていた様で、或る日、ドーベル達に問訊されてしまった。山と盛った中食を頰張っていたら、憂色を帯びた表情のドーベルが口を開いた。
「ねえ、アジ……」
「ん?」
「アンタ、大丈夫なの?」
「又豪く曖昧な訊き方だねぇ。周りから見て何か異常でもある?」
「いや、普段通りだけど、毎日毎日あんなトレーニング見せられたら心配にもなるわよ」
「少し……走り過ぎではアリマセンカ?」
「迂拙的には丁度良いけど」
「東条トレーナー、アンタのトレーニング見て顔癴ってたわよ。明らかにジュニア級に課す強度じゃないって」
「まあ、トレーナー曰くシニア級ですら逃げ出し兼ねないとは言ってたけどね」
「何でそんな強度のトレーニングに耐えられるんですか……」
「楽しいから」
「理由に成って無いわよ」
「一歩間違えたらドMと受け取られ兼ねない発言ですよ……」
「Oh! アジはmasochistデスカ!?」
「変なキャラ付けするな。苛められて喜ぶ様な嗜好は持ち合わせてない」
「傍から見たら、トレーナーから苛めみたいなトレーニングメニュー渡されて、嬉嬉として走るドMにしか見えないわよ」
「迂拙の要求を達成するには、彼位しないと不可ないって事よ」
「どんな要求したら、あんなトレーニングメニューに成るんですか」
「マツクニローテでも走る心算?」
「厥は蓋を開けてからの御楽しみ、と言う事で」
「見てるだけで恟恟するから止めて慾しいんだけど。ランニングと違って脚に掛かる負荷は桁違いでしょうに」
「じゃあ見なけりゃ良いんじゃない?」
「他人事みたいに言わないでよ。オーバートレーニングで脚壊して一緒にレース走れないなんて事に成ったら承知しないわよ」
「厥の辺りは聢り管理しているから大丈夫、多分」
「其処は言い切ってよ」
「一応毎日トレーナーが迂拙の足を揉んで状態を確認してるけどねぇ、此れ許りは断言し兼ねる」
「え゛っ」
当初の約束では「定期的に」と言う話であったが、迂拙が全く弱音を吐かず淡淡と異常な量のメニューを熟していく為か、毎日迂拙の脚を揉み拉いている。䛠譳かも知れないが、本当に隅隅迄揉むので、此の表現が剴切なものとなってしまう。恐らくマッサージも兼ねているのであろう、揉まれると非常に気持ち良いのである。毎回「あ゛あ゛ーっ」とオッサン臭い声が漏れてしまうので、実際脚に疲労が溜まっているものと思われる。そして、一晩熟寝を決めれば疲労は恢復し切る。トレーナーのマッサージと迂拙の体質との相乗効果で、疲労は全く残らない。殢ゐし切った体を引き摺り打ゆよたる足取りでトレーニングへと向かう、抔という事は一度たりとも無い。此の点に於いても迂拙と上澤上トレーナーの相性は良いのかも知れない。
然は然り乍らも、トレーナーは刀圭家ではないので、どれだけ切診しようと完璧に迂拙の体内を把握する事は叶わない。と言うか、耆婆扁鵲ですら無理な話である。何程神経を尖らせて管理していようが壊れる時は壊れる。畢竟、成る様にしかなら成らず、絶対に壊れない、壊さないと言う確約は不能彀である。
抔と説明しようとしたが、訊いてきた当人は顔を胆礬色に染め震顫している。過日の不同意猥褻未遂事件以来、ドーベルの男嫌いは覆輪掛かって酷くなっているので、迂拙が異性のトレーナーに体をベタベタ触らせていると言う事実に惴惴している様である。一方で、妄想が逞しい一面も併せ持っている為、或いは変な方向へ思考を飛ばしたか?
「何でドーベルが顔青くしてんの」
「そ、想像したら背中がゾワゾワして……」
「何を想像したのか知らんが、双方合意の上で遣っている事だからな。如何わしい部分なんざ微塵も無いぞ」
「合意って付くだけで、急に如何わしさが増した気が……」
「煩ぇ。ムッツリフクキタルに改名するか? 一緒に家庭裁判所に行くか?」
「行きませんよ! 悑い事言わないで下さい!」
「串戯だけど」
「串戯なら裁判所なんて単語出さないで下さい! アジさんが言うと串戯に聞こえないんですから!」
家庭裁判所に行った所で、正当な理由無しに改名は認められないのだが……其処迄は知らんか。
「て言うか、先刻からブライトさん随分と静かですけど、アジさんのトレーニング、可笑しいと思いませんか?」
「いえ~、アジ様にはアジ様のトレーニングが有りますから~、わたくしが何う斯う言う物ではありませんわ~」
「豪く達観した意見だな」
「厥に、ライス様に言われましたから。「アジちゃんの事に一一反応していたら限が無いから、然う言う物だと受け入れた方が早い」と~」
ブライトをスカウトしたトレーナーは、ライスさんを担当しているトレーナーであった。ライスさんに「ブライトさんって言う後輩が出来たんだ」と語げられた時は、少少驚いて瞠目した。迂拙が入学した時点で、ライスさんを担当しているトレーナーは他に担当しているウマ娘が居ない状態であったので、大方、担当を増やせと上から責付かれたのであろう。同じステイヤーであるから菁莪もし易そうである。然し後輩が出来た事を喜ぶ一方で、双眸に何処か暗い色を含んでいた。ブライトは扣え目とは言え女性らしい起伏が有る。対するライスさんは迂拙と同じ寸胴且つ矮軀、矮軀故の仇気無さは有るものの女性的魅力と言う観点では対蹠的、ライスさんが一籌を輸していると言わざるを得ない。「お兄様を取られない様に……」や「目移りしない様に釘刺さないと……」抔と嘟嚕嘴していた。他人の色恋沙汰に首を突っ込んだら碌な目に遭わないのは明明白白、迂拙は做不知を極め込む事にした。桑原桑原。
「アジと同室の先輩に言われたら納得するしか無いわね」
「迂拙の話許りするけど、皆は如何なん」
「未だ体が出来上がって無いから、アジみたいな強度の高いトレーニングはしてないわよ」
「一先ず、メイクデビューで捷てる体作りをしていますね」
「早くアジとレースしたいデース!」
「なら併走でもするか?」
「多分ウチのトレーナーが許可出さないと思うわよ。下手に併走させたらタイキが壊れ兼ねないって」
「迂拙は放射線か? 厥ともデーモンコアか?」
併走しただけで競走ウマ娘としての寿命を縮めるとなると、迂拙の体の放射能は何Bq有るのだろうか。併走に掛かる時間を考えたら、GBq/kg位のオーダーか?
偖、走りの鍛錬と同時に進行している事もある。便ちウイニングライブの習練である。ジュニア級は出走可能なレースが限られている為、ウイニングライブの曲目も限られる。故に、クラス単位での指導が行われる。此れがクラシック級以降に成ると選択肢が格段に増える為、覚える曲は個個の裁量に委ねられる。然は然り乍らも、順位に依って振付が変わる為、1曲に就き最低3パターンの振付を覚えねばならず、糅てて加えて歌唱に就いても細かく指導される為、全く楽だとは言えない。迂拙は摶ら走りの講究に許り時間を費やして来たので、ウイニングライブに就いては全くの素人。祗管基礎を叩き込まれる。だが、此れに関しては未だ大丈夫である。地味な内容の反復練習は迂拙の得意分野である。
だが、或る一点、喔咿嚅唲に就いては迂拙との相性が最悪なのである。身も蓋も無い言い方ではあるが、ウイニングライブは観戦者に対して阿諛追従する場である。諂笑し、愛嬌を振り撒く事で、自らを応援して呉れる者を増やし、又、応援に対する礼意を表する場であるので、此の場に於いて愛嬌を振り撒けないのは致命的である。
此の世界のウマ娘のレースは所謂公営競技では無いので、賭けに由る売り上げが無い。故にグッズの売り上げや入場料抔が売り上げ原価の多くの比率を占めている。アイドル業も兼摂している以上、集客力を持つウマ娘に成る為には、「愛嬌」と言う要素は非常に重要なのである。打切棒で有名なナリタブライアン先輩も、鉄仮面で有名なミホノブルボン先輩も、ウイニングライブの場では聢りと年齢相応の自然な笑顔を見せている。対する迂拙は頰やら眶やらが癴り喔咿嚅唲である事が丸分かりなのである。碌碌友人も作らず、独りで講究し続け交流を闢けて来た弊竇が表出した形である。祗管鵲鑑と睨め競し練習しているが、一向に澡熨される気配が無く、担当している教師も頭を抱えている。
「キョクアジサシさん、もう少し自然に笑えない?」
「現時点では此れが限界です」
「はぁ……。踊りの方は大分様に成って来ているから、後は自然な笑顔を出せれば完璧なのに……」
「薄穢い笑いなら出来ますけど」
「薄穢い……?」
目を細め口角を僅かに上げた笑みを見せる。完全に山吹色の御菓子を受け取った悪代官である。
「有繫に厥は……ライブで見せられる物じゃないわね……。って、何で厥の笑い方は自然に出来るんですか」
「性根が腐っているからでしょう」
然う言うと復び頭を抱えて仕舞った。迂拙の場合、表情の変化に乏しいと言うより、笑い方を知らないと言った方が的を射ている。テレビは基本見ず、適当に動画を漁っている時でも、笑う事は殆ど無い。我乍ら実にゑ味の無い存在だと思う。教師は職責を拋擲出来ないので、一先ず今迄通り鵲鑑を使い練習しておけと迂拙に吩咐けた。如何も上澤上トレーナーと対策を商議するらしい。
「と、言う訳でライス先生、上手な笑い方に就いて御教示願えないでしょうか」
「う、うーん、ライスは意識して笑顔を作った事が無いから、鳥渡分からないかな……」
「うごふっ……」
神は死んだ。蜘蛛の糸は切れた。先述の先輩2人に就いては交流が無い為、教えを乞うた所で門前払いされるのが目に見えている。なので、1番頼りになるであろうライス如来様に訊いた所、一文で切り捨てられた。
「然うですよね……普通笑顔一つでこんなに苦戦する筈が有りませんもんね……」
「如何する? ブルボンさんにも訊いてみる?」
「いえ、此れ以上ライスさんの手を煩わせる訳にはいかないので……向こうも、行き成り何処の牛の骨とも分からん奴にこんな事訊かれた所で答えられないでしょうし、遠慮しておきます」
「じゃあブライトさんは? アジちゃんと同じクラスだし、何時も欣欣しているから、参考になりそうじゃない?」
「既に訊きました。ですが、彼は生来の物なので、迂拙が真似出来る物では有りませんでした。「皆様を見てると、自然と頰が綻ぶんです~」とか言ってたんで、性根が腐り切っている迂拙には無理です。如何しようも有りません」
「だ、大丈夫だよ。初めてのライブは緊張して表情が硬い子も多いから……ね? 無理して急がなくても大丈夫だよ」
ライスさんの誮しさが身に染み入る。時には先輩に頼る事も必要であろうが、こんな序盤も序盤から頼り切って仕舞っては間違い無く甘え癖が付く。延いては慵懶を惹起し兼ねないので、厳しく律さねばならない。
頼みの綱は切れたので自力で何とかするしかないが、練習の成果は芳しくなく進退維谷まれり。先程ライスさんが言った通り、経験の少なさに藉口する事も出来るが、持って2、3回であろう。厥以上は間違い無く誤魔化しが利かなくなる。いっそ無表情を徹底して、代わりに踊りのキレで御目溢しを願うという手も考えられるが、世間の反応は未知数である。糅てて加えて、彼の衣裳を着られるかと言う宿問も未だ解決していない。レース以上に問題が山積しているウイニングライブ、果たして遣っていけるものかと暗澹たる気分に成る。「ウイニングライブなんて意味分からん文化作りやがって……」と名も知らぬ発案者を怨望せざるを得ない。
胸次に怫鬱を充盈させ乍ら練習を続けていると、或る時、担当の教師から「もう練習しなくて良い」と言われた。曰く、「無表情キャラで売っていく」とトレーナーに言われたらしい。此の時の教師の表情は正しく切歯扼腕と言うべき物であった。ウマ娘を、世に出しても恥ずかしくない状態に仕上げると言うライブ担当としての矜恃を、或る意味蹂践されたのだから、宜なるかな。
猶、上述の内容をライスさんに語げた所、教師、トレーナー双方に諦められた事を察したのであろう、名状し難い癴った苦笑を返された事を此処に附言する。
思わぬ形で懸案事項が1つ氷釈した訳であるが、笑顔以上の鉄餕饀、ライブ衣裳問題が残っている。或る時、衣裳合わせと言う事で踊りの練習が途中で打ち切られ、各人にライブ衣裳、所謂"STARTING FUTURE"と称呼される物が配布された。一見露出は扣え目に見えるが、胸元が開いているわ臍と脇腹が丸出しだわ、こんなもんを着なければならないのかと手に取った瞬間から渋面に成ったのが自分でも判った。宛然親の讐の如く礑と睨み据えるが、消えも失せもしない。周囲からはすせが聞こえるも全く手が動かず硬直していると、既に着替え終えたドーベルとブライトが迂拙の様子を見に来た。
「何地蔵みたく固まってんのよ」
「鳥渡ライター持ってない?」
「躊躇無く燃やそうとしないでよ。ほら、他の皆は着替え終わってんだから、後はアジだけよ」
「何で皆こんなん着て平然としていられるんだ……?」
「厥が普通なのよ。此処迄抵抗感を覚えるアジが普通じゃないのよ」
「アジ様の衣裳姿、早く見たいですわ~」
「制服ですら3分と保たなかったんだぞ。こんなん着たら即死する未来しか見えん」
「ああ、良いからさっさと着なさい。ブライト、押さえて」
「アジ様、失礼致しますわ~」
「あ、ちょ、止め」
ブライトに羽交い絞めにされ、眼前から衣裳を持ったドーベルがのる。俇躟として踠くもブライトが東西を許さない。抵抗も空しく芋ジャーを脱がされ、衣裳を着させられる。肌に触れる度に悍ましい不快感が体の芯を貫く。結局、着替え終わる頃には顔が胆礬色に染まり、手足の震顫は止まらず、呼吸は浅く速く、僅かに残喘を保つ篤癃人が似き状態に䧯った。ドーベルの「だ、大丈夫?」やブライトの「ア、アジ様?」と言う声が遠く聞こえる。そして、程無く迂拙は殺入した。
復び意識を取り戻した時、明らかに学園の保健室とは違う部屋の病牀に臥していた。窓牖より差し込む橙色が、曦轡の傾昃を告げている。制服の時以上に長時間人事不省に䧯っていた様である。コール釦を押して意識の覚醒を報せ、やって来た医師から説明を受ける。曰く、衣裳を着た後速やかに人事不省に䧯り、白目を剝き泡を噴き、加えて全身の痙攣が認められた為、速やかに救急搬送されたとの事。余りにも奇怪な発症の機序だったので、改めて事情の聴取をされた訳であるが、衣裳を着た後からの記憶が粗欠落しており新たな情報の提供は出来なかった。樸を伝えたのだが余計に謎が深まり、医師は眉を顰めて黙考して仕舞った。初めて聞く症状に当惑している様子である。取り敢えず今日は経過観察と言う事で一晩入院し、翌日検査をすると言う流れに成った。
斯くしてウイニングライブに関しては、一切の弁疏の余地無く落第の烙印を押された訳である。幸災楽禍は精神の栄養、笑柄にして存分にづうが良い。