畢竟、自ら動けない以上彼是考えても致し方ないという結論に達した。棚に上げたとも言うが、事実なのだから仕様が無い。
厥は厥として、別の当座の問題に直面していた。即ち、親に全ての世話をされるという事である。母親の乳房に吸い付くだけでも可成の羞恥を伴うが、厥以上に下の世話をされる事に対して非常な苦痛を伴う。尾籠な内容ではあるが、自らの意思を以て溲穢を遺矢しなければならないのだ。孺孩である以上当然の事ではあるが、とんでもない詬辱を味わわされている気分だ。毎度毎度理性と括約筋とが苛烈な鬩ぎ合いを繰り広げるが、必然、理性が撓北を喫する。偶に赤ん坊に戻りたい抔と串戯交じりに言う奴も居るが、実際に赤ん坊に戻るのであれば、理性や知性は棄擲する事を御勧めする。啻ならぬ羞恥に苛まれる事請け合いだ。
もう一つ問題がある。意思の疎通即ちコミュニケーションが上手く取れない事である。真逆誕まれてから一週間も経っていないのに噬指棄薪の関係になれる筈も無く、身振り手振りも儘ならぬ状況である以上、泣く位しか出来ないのであるが、此れも亦羞恥に苛まれるのである。全く泣かないとなると却って所怙を不安にさせるであろうから、日に数度泣くようにしている。が、厥の度に精神を鑿で刳られる様な感覚に陥る。加えて、此方の意図する所とは違う受け取られ方をする事も屢あるので、何とも牴牾しい。此の儘では精神が磷ぎ崩潰するのは時間の問題なので、何所かで開き直る必要がある。然し言易行難であるからこうして懊悩呻吟しているのである。電気のスイッチの如くパチッと切り替えられる程人間が出来ていないのだ。
そして、泣けば当然所怙が抱き抱え宥め賺して呉れる訳だが、中身が恁アレな存在であるとは微塵も思わず憮㤿する所怙の表情を見る度に何とも居た堪れない心情になる。
抔と所怙の与り知らぬ所で独り懊悩呻吟していた訳だが、遂に退院の日を迎えた。母親に抱えられ病院を出ると、凜冽たる空気が肌を劈く。病室は常に暖房が利いていたので冬誕まれであろうという事は揣摩していたが、窓にはブラインドが掛けられており外の景色は卒ぞ見る事は叶わなかった。初めて見る空には六辺香が浮漂し、靉靆たる鼠色の雲が日を蔽っている。
病院の出口には此方を竢っていた車が停まっていた。そして、父親の運転で家路に就く。途中、窓から窺えるのは徒広い平原。恐らくは水田乃至圃場であろうが、皚皚たる雪に蔽われており何方であるかは甄別出来ない。人屋の棋布たるを見るに、結構な僻陬の地である事も見て取れる。
「亦豪く積もったわね」
「ああ、此処数日で一気に増えた。昨日雪下ろししたよ」
「私は暫く手伝えないから、其処ん所宜しく」
「へぇへぇ、わーっとりやすよ」
「何よ、厥の気の抜けた返事は。此の子が真似したら如何するの」
「誕まれて未だ一週間だろ。真似するも何も出来ないだろうに」
「ウマ娘の成長は早いのよ。悪影響は出来る限り排除しなくちゃ」
「……先が思い遣られるなぁ」
今の会話から察するに、恐らく嬶天下なのであろう。心做しか、父親の背が煤けて見える。だが安心して慾しい。此方人等既に老成餓鬼を通り越して莫連者と呼ばれても反駁出来ない域に達しているのだ。寧ろ此方が悪影響を与えないよう気を使わねばならない。
そんな事を思案しつつも車は進む。時折圧雪を踏んでガタンと揺れたり、轍にタイヤを取られスリップしかけたりするが、此の積雪量であれば除雪が追い付いていないのも致し方ないだろう。これだけの揺れに見舞われれば、通塗の孺孩であれば愚図るなり泣くなりするだろう。然し迂拙は六趣輪廻を経た前世人間である。多少驚いて「おうっ」だの「おおっ」だのと声は出るが、平静を崩す迄には至らない。だが、母親の目には不自然に映ったようである。
「こんなに揺れてるのに愚図りすらしないなんて……」
「未だ赤ちゃんなのに随分胆が据わっているな」
「此の子、病院でも全然泣かなかったのよ。それこそ、お腹空いた時と、御襁褓替える時位だけだったわ。夜泣きとか色色覚悟していたんだけど」
「手間が掛からないなら良いんじゃないか?」
「掛からなさ過ぎると却って不安なのよ。お母さんからウマ娘の子育ては覚悟しときなさいって散散言われてたから、こんな肩透かしを食らうとは思わなかったわ」
提封産褥期の女性は精神的に不安定とされている。其処に追い討ちを掛けるような形になってしまったのは申し訳無いが、此方も一杯一杯だったのだ。既に迂拙の精神は使い込まれた靴底の如く磷いでいる。加えて演技力抔大根役者にすら嗤笑される程度だ。何とか勘弁して貰いたい所ではあるが、迂拙の所為で母親がノイローゼにでもなってしまったらそれこそ事である。新たな悩みの種に如何したものかと思考していると車のエンジンが切られた。如何やら家に着いたらしい。
「ほら、此処がアジちゃんのお家ですよ~」
母親が抱え直して家の外観を見せて呉れた。僻陬の地に建つ家と言えば、築数十年から百年近いものかと勝手に想像していたが、眼前に建っている家は築十年も経っていないであろう現代的なデザインのものであった。豪雪地帯らしく玄関は二階部分に設えられている。二枚の扉を開けて中へ這入ると、暖気に包まれ安心感を覚える。が、其処で礑と思い出した。然う言えば此の家庭は淫祠邪教に誑かされている蓋然性があるのだった。懊悩の種が多過ぎて意図的に思考の隅へ追い遣っていたのだが、家へ這入った途端に表出してきた。ベビーベッドへ寝かされる迄左瞻右視して怪し気な壺だの教典だの、病竈の験左が無いか備に確かめる。虧殺それらしき物は見当たらなかったが、未だ安心は出来ない。胡散臭い連中が出入りしているかもしれない。せっせと献金に勤しんでいるかもしれない。所有蓋然性が浮かんでは胸中に蟠踞し精神を蝕む。
然う斯うしていると、何やらどたどたと遽しい跫が聞こえて来た。
「母ちゃん帰って来たって!?」
「こーら、赤ちゃん喫驚しちゃうでしょ。静かにしなさい」
「だってウマ娘の赤ちゃんなんて初めて見るから、楽しみでさぁ!」
「ああ、ベッドに寝かしてあるから顔見ときなさい。悪戯するんじゃないわよ」
如何やら迂拙には兄が居るらしい。妹が出来る事に対する期待は解らなくも無いが、鳥渡声量を抑えて慾しい。どうも馬娘と言う種族は聴覚が優れているらしく、豪く噌しく感じる。抗議の意を込めて「うぁーっ」と声を上げたら、呼んでいると勘違いしたのかすっ飛んできた。ベッドの柵越しに覗いてきた顔は小学校低学年を思わせる幼さがあった。「へぇーっ、これがウマ娘の赤ちゃんかー」抔と興味津津に見てくる。試しに「あーっ」と声を出してみたり、もぞもぞ動いて見たりすると、その度に大袈裟に反応するから何とも面白い。暫く反応を見て遊んでいたら、何を思ったか矢場に耳を摑んできた。
「や゛ぁっ!」
「ぶっ!?」
名状し難き不快感が背筋を貫き、反射的に頰を撲ってしまった。母親が慌てて駆け寄ってくる。
「鳥渡あんた何したのよ。此の子から聞いた事の無い声が聞こえたけど」
「耳触ったら叩いてきたんだよ。痛って~」
「あんた阿呆でしょ。悪戯するなっつったのにそんな事して。耳と尻尾はデリケートな所なんだから撲られても文句言えないわよ。寧ろ蹴られなかっただけ有難いと思いなさい」
「だって総総で触ったら気持ち良さそうだったんだもん」
「少しは我慢てものを覚えなさい。ほら見なさい。これだけ耳を絞っているって事はそれだけ怒っているって証拠よ。あんた嫌われたわね」
「えーっ!? 耳触っただけなのに……」
「厥の耳を触るって事が大事だって言ってんの」
母親に抱えられ乍ら「う゛ーっ」と威嚇する様な声を出し、非難の意を込め礑と睨み据える。お前がやったのは鷲摑みだろうと撮当したい。熟熟喃語しか発せない此の口が恨めしい。暫く三白眼で睨め付けていたら跋が悪そうに顔を逸らした。そこへ父親がやってきた。何やら後ろに人影が二つある。
「如何した。何かあったのか?」
「俊和がアジの耳触って、頰っぺた撲られたって。全く誰に似たんだか」
「……そりゃやっちまったな」
「アンタ人の事言えないでしょ」
「何、ウマ娘の耳触ったって? あーあー爺さんの悪癖が孫に迄伝染っちゃってるよ」
「何だ、俺が悪いってのか?」
「アンタが悪いに決まってんでしょ。息子所か孫に迄要らん癖つけて」
「俺ぁ知らん。勝手に受け継いだ康晴が悪い」
「父さん、俺の所為にしないでくれ」
「然う言えばナギさん、先刻人の事言えないって言ってたけど、康晴も何かやったんかい?」
「病院でアジの耳潰す様に頭撫でたんですよ。そうしたら此の子怯えて固まっちゃって」
「親子三代揃って此の様かい」
「だってウマ娘のトレーナーはよく然う言う撫で方しているじゃないか」
「そりゃ双方の信頼ありきの撫で方だろうに。父親ってのは赤ん坊からしてみれば所詮は赤の他人なんだから」
子供の名前はトシカズ、父親の名前はヤスハルと言うらしい。そして父親を呼び捨てにして、窘めだか貶しだかしているのは恐らく祖母であろう人……元いウマ娘。顱頂に耳が生えていた。……本当に祖母か? 父親の年齢は知らないが、普通に考えれば華甲を過ぎているのであろうが、余りにも若若しい顔貌をしている。偸嫩にしては力が入り過ぎではないか?
「ほら、お義母さんもだっこして上げて下さい」
「あら有難う。ほーら、お祖母ちゃんですよ~」
本当に祖母だった。馬娘という種族に対する疑問は弥増す許りである。そしてあれだけ男衆を襤褸糞に言っただけあって、撫で方は非常に巧い。取り敢えず礼代わりに腕を顔へ向けて伸ばし反応しておく。
「あーうあ」
「如何? お祖母ちゃんが撫でた方が気持ちいいでしょ?」
「アジも喜んでるわね。でも良かったわ。アジがちゃんと赤ちゃんらしい反応して呉れて」
「あら、如何言う事?」
「病院じゃ全然泣かないし、此処に帰って来る時も、揺れる車に欠片も怯えなかったから、何処か可笑しいんじゃないかって思ってたんです」
「どうせ康晴がやらかした所為じゃないの?」
どうやら此の家は娘子軍の勢力が彊い様である。爺さんと父親は既に頭が上がらない状態、最後の頼みの綱であった孫事トシカズは先刻のやらかしで迂拙に撲られた事で順位付けがなされてしまった。狂瀾を既倒に廻らすのは最早無理であろう。御愁傷様である。
一方で、トシカズのやらかしの御蔭……とは素直に認めたくないが、一連の流れが結果的に母親を安心させる材料になったようである。非常に癪ではあるが。取り敢えず何とも言い難い視線を送る事で此の気持ちを誤魔化した。