陋見箚記   作:車輛運搬具減価償却累計額

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二十一 劈初頭

 先輩方に扱かれ居諸*1(つい)やす事幾週間、遯月(とんげつ)*2下澣(げかん)*3に入り齷齪熱(あくさくねつ)*4弥増(いやま)*5頃、(いよいよ)明後日、迂拙のメイクデビューと言う日付に成った。迂拙の現役生活の劈初頭(へきしょとう)*6であるので、捷利を収め(はずみ)を付けたい所である。タマモさんに「メイクデビューは捷てますかねぇ?」と訊いた所、「アジ、()の質問は他人が聞いたら厭味にしか聞こえへんから余りしない方がええで」と窘められて仕舞った。イナリさんも「アジの実力が有りゃぁメイクデビューなんざ目ぇ瞑って走っても捷てらぁ」と御墨付きを呉れたので問題は無かろう。

 余談ではあるが、最初はイナリさんだけ先輩付けで呼んでいたが、「あたしにだけ他人行儀なのは頂けねぇなぁ」と獰猛な笑みを頂いたので、今はさん付けで呼んでいる。

 所変わって美浦寮は自室、臥榻(がとう)*7に腰掛けてライスさんと対面している。心做しか耳と尻尾との動きが多い。

 

「つ、遂に明後日、アジちゃんのメイクデビューだね」

「ええ。捷って機を付けられるよう頑張って来ます」

「ライスは現地に行けないけど、学園で応援してるから、頑張ってね!」

「……っ、有難う御座います」

「何で泣くの!?」

 

 有難い御言葉を頂戴し、感涙を一条流す。ライス神の擁護(おうご)*8が有れば百人力である。()ける気がしない。ライス神の御言葉を咀嚼し翫味していると、何か遣って仕舞ったかとライスさんがわたわたしている。可愛い。此れは是が非でも捷利し、賞金で神棚を拵え奉祀(ほうし)*9せねばなるまい。

 

「と、所で、メイクデビューは何処で走るの?」

「新潟ですね。芝2000です」

「新潟? 矢っ張り最初は地元が良いって感じ?」

「地元……って言って良いんでしょうかねぇ」

 

 新潟県は東西に伸びる広袤(こうぼう)*10を持っているが、中越地方は南にも迫り出しており、中越から下越の方向を見ると南北にも長い。実家のある入広瀬から新潟レース場迄は、直線距離であれば約66kmであるが、高速道路を走ると倍近い距離を走る事に成る。関越自動車道の湯沢ICから北陸自動車道の新潟西ICを経由し、新潟バイパス、新新バイパスと通ってレース場IC*11迄は、約150km強もの距離がある。迂拙の実家の最寄は魚沼ICであるが、距離の差は40km程度である。新潟中央JCTから日本海東北自動車道へ接続し、豊栄新潟東港ICで降りる経路もあるが、若干新潟市街方面へ戻る必要が有る。が、此れだけ走れば誤差の範疇であろう。

 何が言いたいのかと言えば、同じ県内であるが、此れだけ距離が離れている場所を"地元"と言う括りで表現して良いものだろうかと首を傾げざるを得ない。トレセン学園から直線距離で66kmも離れれば、南は神奈川を通り越して相模湾に到達し、北に行けば埼玉県を通り越し群馬県の館林辺りに到る。故に、新潟レース場を"地元"と呼ぶのは聊か憚られる。

 

「正直、メイクデビューは此処が良い、みたいな希望は無かったのでトレーナーに投げました。厥の結果、新潟芝2000を寄越されました」

「ま、まあ初めてのレースだしね。レース場との相性とかも余り分かんないだろうし……」

「右回りも左回りも、勾配の緩急も関係無しに走る御前に相性もへったくれも無いだろうと、面と向かって言われた事は有ります」

「ス、ストレートに言うんだね……アジちゃんのトレーナーさん……」

「迂拙に配慮するだけ無駄だと言う事が解ったんでしょう。実際気にしませんし。で、そんなトレーナーに丸投げした結果が先述の通りです」

「ライスのメイクデビューも新潟だったけど、1000だったからなぁ。何かアドバイス出来るかな……」

「厥の御気持ちだけで充分で御座います」

「御願いだから拝まないで……」

 

 ライスさんも迂拙の為人(ひととなり)を把握してきたのか、赧顔(たんがん)*12して周章(あわ)てる事が無くなって仕舞った。()の可愛らしい姿を拝めないのは何と無く淋しいが、何時迄も御代わりを求めては、何れ竹篦返しを喰らい兼ねないので、此処等で知足*13せねばなるまい。

 斯くして、ライスさんの激励と半眼を背に、新潟へと赴いた次第である。前日に現場入りし、レース場附近で一泊、翌日に本番と言う流れだと言われたので、ウォーミングアップがてら新潟迄走って行きたいと言ったら間不容髪に却下された。「ウォーミングアップで300kmも走る阿呆が何処の世界に居る」と一刀両断であった。不請不請(ふしょうぶしょう)と言う態度で領諾*14したら、狂癲(きょうてん)*15して物も言えんと匙を投げられた。

 走れないのであれば公共交通機関かと()うたら、トレーナーの自家用車で行くらしい。曰く、デビュー前でもウマ娘がトレーナーらしき人物と一緒に居ると記者連中に目を付けられる蓋然性が有るとの事。特にジュニア級のデビューが陸続*16する此の時期は、未来のG1バに目を付けておきたいが為に、(とりわ)け絡まれ易いとの事。ネタに飢えている阿呆の相手はしたくないので、(すなお)に領諾する。狭い所を嫌うウマ娘は、厥の性質から車での長距離移動を忌避する傾向にある。普段からトレーナーを振り回しているので、斯う言う小さな点でも良いので、御し易い部分を示してバランスを取っておこう。

 偖、関越自動車道での珍道中は省略させて頂き、所変わって新潟レース場である。学園で机上にて一応彼是説明は受けたが、実際に現場を()れば、より理解出来るだろうと言う訳で下見をしている。迂拙が走るのは"新潟芝2000m左外回り"である。スタートから1ハロン程なだらかな上り勾配、後、暫し坦夷(たんい)*17な区間を挟み、700m手前から1000mに掛けて1.5m程の勾配を駆け上がり、700m近く下り勾配が続き、残りは坦夷。

 

「3コーナー、4コーナー、そして最後の直線に掛けて下り勾配が続く。自然とスピードが上がるコースで、不知不識の裡に外に流されるウマ娘も居るから、速度の管理には気を付けろ……と言いたいんだがな……」

「高低差たったの2m? 有って無い様なもんでしょう」

「峠道をホームコースにしていたアジからしてみれば、自然と然う言う感想に成るだろうな……」

 

 六十里越を初中後(しょっちゅう)走っていた身からしてみれば、何に気を付けるべきなのかが解らない。

 

「普通のレース場では有り得ない急勾配や急カーブ許り走っていたアジは感覚が痲痹(まひ)しているとも言える。逆説的に言えば、其処が付け入る隙だと捉える事も出来たんだがな。あんな豪華な面子に扱かれて、厥の隙も潰れて仕舞った」

「何が言いたいんです?」

「御前みたいな未デビューのウマ娘が居て堪るか」

「貴方の担当でしょうに」

「原因に他人事みたいな口調で言われると凄い腹立つ」

「如何しろと」

「やっとトレーナーらしい事が出来ると思っていた俺のワクワクを返せ」

 

 デビュー前日の担当ウマ娘に八つ当たりするトレーナーが居るとは、世界は広いものである。

 そんな寸劇を1つ2つ挟み乍ら下見を終え、日付を跨ぎメイクデビュー当日。淡雲*18あいだい*19と広がり、直射日光が無く走り易い天気である。雨模様*20は無く、芝の状態は"良"であり、メイクデビューとしては好箇*21の条件と言える。第5レースに発走する迂拙は、(わりあ)てられた扣え室にて、備え付けのテレビからレースの状況を何と無しに眺めていた。パドックでのウマ娘の様子は、絶対に捷つと敦圉(いきま)いている者、軫憂(しんゆう)*22を帯びた表情の者、澹然(たんぜん)*23と現状を受け容れている者と百人百様。レースの内容も、緊張からか出遅れ、掛かって仕舞い、後半で一杯になってしまう者、冷静に状況を俯瞰し堅実に走る者抔と、此れ又百人百様である。

 そんな風に(ぼんやり)と画面を眺めていた時、不図、1つの事項が擡げて来た。パドックの様子を見ると、各人何かしらのアピールを観客席に向けてしていたのである。愛嬌を振り撒く者、己の緊張を四支僵勁(ししきょうけい)*24を以て曝す者、(おど)りを以て余裕を見せる者。興行であるレースでは、衎賓(かんひん)*25も重要な要素の1つであるが、迂拙の最も苦手とする分野の1つでもある。はて偖、如何したものかと思案していると、珍しい表情をした迂拙に気付いたトレーナーが言葉を投げ掛けて来る。

 

「珍しく神妙な表情をして如何したんだ? 一丁前に緊張でもしているのか?」

「いや、パドックで何か1つ芸でも披露した方が良いものかと考えていまして」

噫嚱(ああ)、成程。別に何かしろと強制されている物では無いから、何もしたく無けりゃ10秒15秒棒立ちしてステージから降りても構わんぞ」

「へぇ。では、然うさせて貰います。後、(みな)揃って表着(うわぎ)を脱ぎ棄てていますけど、(あれ)は?」

「彼は……一種の慣習みたいなもんだ。ああすれば格好良く見えるとか、只右に(なら)えで真似しているだけとか、特に意味は無い」

「成程」

 

 強制されていないのであれば好きにさせて貰おうと心に()める。そんな折、扉が叩かれた。扣え室は関係者以外立ち入り禁止の区域に在る為、来客は(ほぼ)無いと考えて良い。ならばレース場の職員かと候補を挙げている裡にトレーナーが扉を開ける。すると、見覚えのある鹿毛のウマ娘が立っていた。

 

「やあ整備士、調子は如何だ?」

「……何でルドっさんが此処に居るんです?」

「何、目を掛けていたウマ娘が遂にデビューすると言うんだから、居ても立っても居られなくてな」

「生徒会長って劇職*26の筈では」

「生徒会には私以外にも居るからな。私の決裁が必要な仕事は総て終わらせて来たから心配するな」

「此処って関係者以外立ち入り禁止の筈では」

「キョクアジサシの関係者だと言って這入らせて貰った。まあ、私が直接言えば扣え室位、何処でも這入れる」

「こんな下らん事で職権濫用しないで下さい」

 

 好奇心旺盛な皇帝様の枉顧(おうこ)*27である。通常であれば諸手を挙げて喜ぶべき状況なのであろうが、性格の狠愎(こんひょく)*28している迂拙には、如何にも裏が有る様な気がしてならない。

 

「発破を掛けると言う体で圧でも掛けに来たんですか? (よし)んば()けでもしたら、梟首(きょうしゅ)*29を以て戮辱(りくじょく)*30するぞと」

「隙あらば何かに(かず)けて桀紂(けっちゅう)*31(たぐい)に入れようとするのは止して呉れ」

 

 抔と遣り取りをしていると、扉の陰から別の声が聞こえて来た。

 

「……おい、何時迄入り口で突っ立ってんだ。()っとと中に這入れ」

「噫嚱、済まない」

 

 何とルドっさんだけかと思いきや、シリウスさんを挈儔(けっちゅう)*32していた。真逆(まさか)シンボリ家のウマ娘が連璧賁臨(れんぺきひりん)*33するとは夢にも思わず瞠目結舌(どうもくけつぜつ)*34していると、シリウスさんがにやつき乍ら弄って来た。

 

「何間抜け面晒してんだ? 阿婆擦れを自称しているんなら、気の利いた返事の1つや2つして呉れねぇと面白くねぇなぁ」

「シリウス、有繫(さすが)のアジ(とて)メイクデビューで緊張しているんだよ」

「此奴はレース如きで緊張する様なタマじゃねぇだろ」

「……2人揃って、迂拙の様な狭斜子(きょうしゃし)*35に何用ですか」

「何、元元は私だけ来ようとしたんだが、シリウスが一緒に連れて行けとせがんで来てな」

「おい、話を歪曲するな。私は只、彼奴等に絡まれて調子を落としてないか気に成っただけだ」

「整備士、シリウスは斯う言っているが、単に心配しているだけだ。監督不行き届きで面倒事に巻き込んで仕舞ったと自責していたからな」

「皇帝サマよぉ、話を盛って楽しいか? ああ?」

「私は何も誇張していないよ。儼然(げんぜん)たる事実を述べているだけだ」

「御(やさ)しいんですねぇ……」

「ケッ……。勝手に言ってろ」

 

 然う言って外方(そっぽ)を向いて仕舞った。気になるのは事実であるが、厥を正面から認めるのは矜恃が許さないと言った所であろう。大人びた言動をしているが、年比(としごろ)の娘である事に変わりは無いのである。

 

「して、本当の用事は何です?」

「いや、本当に君の様子を見に来ただけだ。厥の調子なら問題無いだろう」

「腑抜けた走りしたら承知しねぇぞ」

「成程、腑抜けた走りをしたら殛刑(きょっけい)に処すと」

「いや其処迄はしねぇよ」

「であれば権力と金とを動かして、真綿で首を締めるが如く、六親眷属(ろくしんけんぞく)*36諸共表舞台から銷すと」

「だから、んな事一言も言ってねぇだろ」

「私は違うが、シリウスは遣り兼ねんからな。ゆめゆめ気を抜くなよ」

「何と」

「……おいルドルフ」

「じゃあ、私達は観客席から見ているから。良い結果を期待しているよ」

 

 然う残して、2人は退出して行った。態態新潟迄来るとは相当である。今一度気合を入れ直さねばならない。縦んば輸けでもすれば、陵遅刑は確定である。

 

「所でトレーナー。完全に(はぶ)られていましたけど、今、どんな気分ですか」

「訊くな無血虫(むけつちゅう)*37

 

 レース直前のウマ娘に掛ける物とは到底思えない返答が来た。

 一頻りトレーナーからきょうしょう*38された後、「おら、御前の出番だ、疾っとと行ってこい」と扣え室から叩き出され、現在はパドックの裏手に居る。メイクデビューは8人立て、迂拙は5枠5番に配された。1番から順にパドック……と言う名の舞台に出て行き、表着を脱ぎ棄て己の肢体を披露、簡単な紹介が為される。此の時、調子は如何だの体の仕上がりは如何だのと論われるが、一体何処を見て言っているのだろうか。部位がアレだと、欧米辺りの七面倒臭い人権団体がいちゃもんを付けて来そうである。

 抔と益体も無い事を考えていたら迂拙の番が回って来た。小走りで舞台へと出て行き、表着に手を掛け脱ぎ棄て……ずに静かに脱ぐ。そして厥の場で正座し、綺麗に折り畳んで脇へ置き立ち上がる。代わり映えのしないメイクデビューのパドックに、一撮みの謔浪(ぎゃくろう)*39(さしはさ)むのも一興であろう。

 

『……えー、余り前例の無い登場をしました、5枠5番キョクアジサシです』

『無表情なのも相俟って、何を考えているのか解りませんね』

『SNSを全く遣っていない為、一般の方からすると情報が非常に少ないウマ娘です。更に、漏れ聞こえてくる噂が……厥の……何と言うか、信憑性に欠ける内容の物が多い所為か、本日は4番人気です』

『然し体はきっちり仕上げて来ています。若しかしたら良い走りをしてくれるかもしれませんよ』

 

 本人が目の前に居るのに許劭月旦(きょしょうげったん)*40を垂れ流すのは如何なものか。特に「何を考えているか分からない」なぞ、掉訐(ちょうけつ)*41とも受け取れる内容である。此れからレースを走る度に(くりかえ)(なぞ)る流れとは言え、余りに酷い場合は違乱*42した方が良かろう。別に(きずつ)きはしないが、言われっ放しは何と無く癪に障る。

 霎時(しょうじ)*43視線を中霄(ちゅうしょう)*44に漂わせた後、舞台を降りパドックと外とを隔てる繚垣(りょうえん)*45へと歩を進める。枠番の若いウマ娘等が先に、己がじし*46体を温めレースへ向けて準備をしている。厥の最中、様様な感情が視線に乗せられ迂拙に寄越される。敵愾、絶望、疑訝(ぎが)*47、色色有るが好意的な物は1つとして無い。発走前であるが既に戦いは始まっている。心理戦に因って恅愺(ろうそう)*48たる状態に成れば相手の思う壺である。柳に風と受け流し擺撥(はいはつ)*49を態度で示し、相手の神経を逆撫でして怒りを誘発出来れば上出来である。

 残りの出走バのパドックも終了し、地下バ道を通って(いよいよ)本バ場入場と言う所。総てが初めての体験であり聊か昂奮しているのが自分でも解る。そして、遂に開敞(かいしょう)*50せるコースへと微軀*51を置いた。練習では味わえない本番特有の緊斂(きんれん)*52たる空気と、対照的な耳を撫ぜる澹瀲(たんれん)*53が如き颼飅(しゅうりゅう)*54は、自然と抖擻(とうそう)*55()び起こす稀有な物に感ぜられた。

 未知の感覚を咀嚼したい所では有るが、次第は一一待っては呉れない。今は返しの時間。実際の勾配やコーナーの半径を確認し、感覚を憶える。厥の遭際*56、不図、ゴール板の前に陣取る連中が目に留まった。間違い無く、迂拙の家族である。母さんの白毛は矢張り可成目立つ物で、弾指頃(だんしきょう)*57の裡に認識出来た。

 

「こんな所で4人、雁首揃えて何してんの?」

「そりゃぁ娘の晴れ舞台だもの、一番の特等席で見なきゃ」

「遂にアジも中央でデビューか。何だか感慨深いなぁ」

「目にするのは無様に輸ける姿かもしれないけど」

「何言ってんだい、1000mで12バ身差付けられるアジが2000mで輸ける訳無いでしょ」

「適正距離って知ってる?」

「何? アジって短距離が得意なの?」

「知らん」

「自分の事だろうに、トレーナーは何て言ってたんだ?」

「「距離もバ場も関係無く良いタイム出せるとかエイリアンか?」って言われた事は有る」

「実際バケモンじゃん」

「俊兄、歯ぁ食い縛れ。粉砕骨折で(ゆる)してやる」

「待て待て待て、公衆の面前で殴ろうとするのは止めろ」

「仲良いわねぇ」

「何処が!?」

「厥よりもアジ、如何してメイクデビューの日を前日迄言わなかったんだ? 御蔭で準備が大変だったぞ」

「単純に忘れてた」

(しっか)りして頂戴。娘のメイクデビュー見られなかったなんて事に成ったら御近所に笑われるわ」

「中継で見りゃ良いでしょ。後、んな下らん事で笑って来る近所なんざ付き合う価値無いでしょ」

「現地で見なきゃ意味無いでしょう。此れからはちゃんと1週間前には教えてね」

「何、毎回見に来る気なの?」

「そりゃ当然でしょうに」

 

 何を言ってるんだと許りに(あき)れを見せる母さん。旅費だってバ鹿にならないだろうに、真逆(まさか)新潟だの府中だの、近場のレース場で許り走るとでも思ってるのだろうか。

 適当な所で話を切り上げ、ゲートへと向かう。係員に誘導されゲート内へ収められる。中途、隣のウマ娘が迂拙を一瞥し、「選りに選って此奴と一緒になるなんて……」と搗鬼(とうき)*58を漏らしていた。既にレースを拋擲(ほうてき)している様な心情を吐露されて、腹立(ふくりゅう)の念が湧いて来るのはウマ娘の本能と言う物であろうか。

 此方は流眄(りゅうべん)*59で返し、噓呵(きょか)*60一つを挟み意識と視線とを変える。雑念を百雑砕(ひゃくざっすい)*61し方寸*62恬謐(てんひつ)*63に保つ。(よし)んば要らない事に思考を割いて出遅れでもすれば、シンボリの眷顧(けんこ)*64を受け自得*65していた狭斜子との謗嗤(ぼうし)*66を浴びる事に成る。今必要な情報は、ゲート入りの進陟(のみ)。ウマ娘がゲート内へ進入し、係員が閉扉する、厥の音を数え、発走のタイミングを計る。

 そして最後の閉扉の音を聞き……一拍の静寂(しじま)の後、鏗然(こうぜん)*67たる開扉の音と共にレースが始まった。満腔の力を両脚へ注ぎゲートから飛び出す。今回取る作戦は逃げ。色色と小難しい事を考えるのは後のレースに回し、初戦位は景気良く走っても良かろうと言うのが理由である。佻易(ちょうい)*68と思われるかも知れないが、トレーナーからの領諾は得ている。きょきん*69を洩らされたが。

 飛び出した勢い厥の儘に加速し、他の連中を一気に引き剝がす。スタートから第3コーナー入口に掛けてはなだらかな上り勾配であるが、峠道にて饒培(じょうばい)*70された感覚が歩幅を勝手に最適化する。600m程直進し続け、内埒側と左後方とに誰も居ない事を確認の上、進路を内埒へと傾ける。他の跫音が遠離(とおざか)っている事は解っていたが、距離的余裕は充分に有った方が心理的にも余裕が生まれる。客気(かっき)*71(まにま)に走り、レースの中途に顧みて軫念(しんねん)*72が湧き上がる位なら、多少閟毖(ひひ)*73が過ぎる位が全体としては丁度良いと迂拙は考える。

 1000m通過のタイムは59.4秒。後方より届く跫音は稍稍(しょうしょう)*74と小さくなり、バ身差は結構付いていると思われる。此れより第4コーナーに掛けて1m程下るが、歩幅を狭め上体を傾け遠心力に抗う。此の程度の勾配でハロンタイムがぶれる様では等速ストライドとは言えない。然は然り乍らも、迂拙は初めて公式戦を走っている黄口児*75、少少勾配に対して意識を割き過ぎたか、ハロンタイムが遅くなった様に感ぜられた。矢張り本番の空気感と言う物は、場数を踏んで慣れるしかない。

 そして第4コーナーを通過し、最後の直線へと移行する。同時に(やや)増速し、第3コーナーの下り勾配でのタイムのブレの帳尻を合わせる。同時に弾指頃の顧眄(こべん)*76、既に2位との差は可成りの物と成っていた。然りとて脚の回転は微塵も緩めず、最後迄速度を維持し続ける。手心を加えるはレース界隈では御法度である。

 後続の跫音は終ぞ音量を増さず、迂拙が先頭でゴール板を通過した。速度を徐徐に緩め、一つ噓呵して一食頃(いちじききょう)*77息を整える。(しこう)して掲示板の前へと移動すると、(みな)一様に流汗滂沱(りゅうかんぼうだ)*78を拭う余裕も無く残息奄奄と言う感じであった。

 (ふたた)びの待機を挟み、掲示板に結果が表示された。タイムは1分58秒4、2着との差は大差の表示。レースの内容に対する評騭(ひょうしつ)*79は一旦脇に措き、取り敢えず審議の青が点灯せず「確定」の表示が出た事に帖息(ちょうそく)*80を得る。すると突然後方から驩声(かんせい)が上がり、虩虩(げきげき)*81として目を(しばたた)かせ乍ら客席へと向き直る。嘄噭(きょうきょう)*82驚譟(きょうそう)*83との坩堝(るつぼ)と化したレース場を目の当たりにし、観客の意に(かな)った*84レースを行えたと復び帖息を得る。惜しむらくは、意に称うウイニングライブを提供出来る保証が無く、失望させ兼ねないのが申し訳無い。

 後ろめたさを隠す意も込めて、帽子を脱ぎ右へ向き一礼、左へ向き一礼、最後に正面へ向き一礼し、中霄へ帽子を()げて頭でキャッチ、帽子の両側を手で押さえ顱頂(ろちょう)*85の切れ込みから両耳をぴょこりと出す。復び驩声を頂いたので、如何やら意に称った様である。思い付きで遣った一芸であるが、少しでも衎賓(かんひん)出来た様で何よりである。

 偖、遣る事も遣ったし()っとと引っ込もうと地下バ道へ足を向けると、出口付近にて既にトレーナーが待機していた。はて、上澤上トレーナーとは地下バ道迄来て担当を出迎える程の熱血漢であったかと思ったが、如何も様子が違う。頻りに或る一点を指差して、其方へ行けと身振り手振りで迂拙の進行方向を正そうとしている。従って視線を向けると、其処に在ったのはウィナーズサークル。厥を目に入れた瞬間、迂拙の譏嫌は急降下した。インタビューと言う物を悪斁(おえき)*86している迂拙からしてみれば、地獄の釜の蓋の上に立つ様なものである。何とか迴避(かいひ)したいが、トレーナーは迂拙を(はた)*87睨み据え、行かなければ絶対に許さんぞと目で語っている。有繫(さすが)に此れを無視する訳にもいかず、重い足を引き摺りサークルへと立った。果たして何を聞かれるのかと表情には出さず内心げんなりしていたが、予想に反して彼是訊かれる事は無く、簡単な紹介と写真撮影だけで終わった。冷静に考えれば、1日に何度も行われるメイクデビュー、厥の勝者に対し一一長時間を割く訳が無い。不知不識の裡に自意識過剰に成っていた様である。譇詉(しゃだ)*88の念が方寸に充盈する。噫嚱(ああ)赧顔(たんがん)して無かろうか。

 自らの表情の乏しさに感謝しつつウィナーズサークルを後にし、トレーナーの待つ地下バ道へと向かう。

 

「矢っ張り見張っといて良かったよ。インタビュー嫌いのアジの事だから、疾っとと引っ込もうとするだろうからな」

「良く御解りで」

「でも、大した事無かったろ?」

「ええまぁ、特にインタビューはされなかったですね。担当の人間は昂奮気味でしたけど」

「そりゃそうだろ。本音を言えば根掘り葉掘り訊きたかった筈だろうな。メイクデビューであんなタイム出されりゃ」

「何故です?」

「御前、去年の皐月賞のタイム知ってるか?」

「いや、知りませんけど」

「2分0秒7だ。違うレース場とはいえ、同じ距離のG1レースより2秒以上早いんだ」

「へえ、然様で」

「然も御前、ラストスパート掛けないで厥の儘ゴールしたろ」

「ええまぁ、後続との差を鑑みればスパートは必要無いと判断したので」

「そんな打っ飛んだウマ娘が行き成り現れたら誰だって昂奮するわ」

「へえ、然様で」

「能天気な返辞するな。多分()の担当の奴、相当悔しかっただろうな。本当はインタビューし捲りたかったろうに、アジだけ特別扱いしたら不公平になるから、涙を吞んで他の連中と同様の扱いにしたんだろう」

「勘弁して慾しいですねぇ」

「恐らく取材依頼の電話、腐る程掛かって来るぞ」

「1件の例外も無く、総て(ことわ)って下さい」

「わーってるよ、ったく。厥より、此の後ウイニングライブだぞ。疾っとと着替えて来い」

「鳥渡動悸がしてきたので此の儘帰って良いですか?」

ほざけ」

 

 苦手な衎賓行為故に全く気乗りしないが、此の世界に於いては勝者の責務である。レースに捷ったにも拘わらず、此処迄背中が煤けているウマ娘は然う然う居ないだろう。シャワー室で汚れを洗い流し、扣え室にて着替える。すせとくそく*89(のみ)が反響するが、此処でトレーナーが這入って来ると言うラブコメの様な展開は起こらない。常識を弁えている一般的な者であれば、異性が着替えているであろう事が判明している部屋に無遠慮に這入ろうとはしない。着替え終えて椅子に腰掛け、何と無く視線を中空に拋げていると、叩扉(こうひ)の音と共に「終わったか?」とくぐもった声が聞こえて来た。「噫嚱、どうぞ」と気の抜けた返辞をすると、惘れ顔のトレーナーが這入って来た。

 

「此れからウイニングライブだってのに、覇気の欠片も無ぇな……」

「此れからウイニングライブだから、ですよ」

「メイクデビューのウイニングライブのセンターなんて、皆が憬れるもんだと思っていたが、どの世界にも例外ってのは居るもんだな……」

「此の権利って、幾ら位で売れますかね」

「厥の科白、外では絶対に口にするなよ。殺されるから」

「別に目立ちたいが為に走ってる訳じゃぁ無いんですよ此方人等(こちとら)

「なら先刻(さっき)の帽子使ったパフォーマンスは何なんだ。あんなん目立ちたがりの典型みたいなもんだろ」

「然う言う風に捉えられますか……迂拙としては謝意を示しただけの心算なんですがねぇ」

 

 目立つ心算は無いと口では言うが、一方で目立ちたがりの様な行動を取る。自家撞著(じかどうちゃく)*90を突っ込みたくなる気持ちも解るが、迂拙の中では別箇の物と捉えているので、何卒御海容頂きたい。

 

「然しまぁ、見慣れた衣裳だと思っていたが、アジの仕様を見ると違和感が凄まじいな……」

「此れが迂拙の普通ですので、慣れて下さい」

 

 トレーナーに依る迂拙のライブ衣裳の論評が始まろうとした時、復び叩扉の音がした。返辞をすると、シンボリの御二人が姿を見せた。

 

「あら、二人揃って如何しました? 早速迂拙の走りに評騭しに来ましたか?」

「厥をしたい気持ちもあるが、先ずはメイクデビューでの捷利、御目出度うと言っておこう」

「へえ、どうも」

「出遅れる事も無いし、ゴール迄涼しい顔して走ってたから安心したわ」

「だから言っただろうシリウス、彼女の精神は鳥渡やそっとじゃ揺るがないと」

「みたいだな……心配して損したわ」

「おや、矢張り心配していたのかい?」

「あっ、いや、違……」

「御気遣い、痛み入ります」

 

 然う言うと、シリウスさんは視線をついと逸らして仕舞った。首許をかりかりと搔いて照れ隠しをしている様は、見ていて微笑ましい。

 

「他を寄せ付けないおうこう*91たる走り、将来が非常に楽しみだ」

「オウコウ?」

「強いと言う意味の単語だ。何時も整備士にはしてやられているからな。頑張って語彙を強化している最中だ」

「然様で」

「……悔しくないのか? 整備士の得意分野だろう」

「いやぁ、確かに勉強すれば知っている世界は拡がりますけど、厥以上に知らない世界の広さを認識するので、勉強すればする程、得意と言うのは憚られますね。知らない単語なんて腐る程有りますし」

「成程……然う言う物か……」

「多少齧った程度の知識しか持ち合わせていない奴程(いき)る傾向にあるのは然う言う事です。本気で心血を注いで勉強した人間は世界の広さを識っているので、却って自慢しなくなります」

「ぐっ……」

「おっ、有繫の皇帝サマも白旗か? (ぐう)の音も出ないか?」

 

 忘れられ勝ちだが、ルドっさんも大概負けず嫌いである。此れを機に軮軋(おうあつ)*92たる漢字・日本語の世界に浸かって慾しい。迂拙の此の趣味、同志が非常に(すく)ないので、増えて呉れると有難い。

 

「……閑話休題(それはさておき)、今着ている衣裳の件だが……」

「露骨に話題逸らしたな」

「煩い」

 

 有繫に厭味ったらし過ぎる言い方だったと自省する。迂拙も未だ途上の身であり、偉そうな口を利ける身分では無い。

 

「言い方が悪かったですね。偉そうにほざいて仕舞って申し訳有りません」

「いや、私も調子に乗っていた。済まない」

「急に二人してしおらしくなるな」

 

 余りの温度差にシリウスさんがキャラを忘れて突っ込んで来る。

 

「して、衣裳の件だが、本当に厥の恰好で踴るのか?」

「然うですよ」

 

 衣裳自体は特に改造抔は施していない。ルドっさんが問題視しているのは衣裳の下に着用しているインナーであろう。上は前膊(ぜんはく)*93の半分迄を覆い、首許はチョーカーの部分迄伸び、鎖骨部分の露出は無し、腹回りの露出もゼロ。下も、ソックスで隠れているが下腿の半分迄伸びている為大腿部の露出も無し。加えて色は黒。インナーの着用に因って衣裳の良い部分を総て殺していると言っても過言ではない。更に黒い帽子でオーバーキルである。

 

「露出の少なさは、まぁ……概ね予想の範疇だが、色は如何にか成らなかったのか?」

「無理でしたね。肌色の様な目立ち難い色も(ため)しましたけど、曲の中盤辺りで嘔気(おうき)*94を催したので」

「首許も(しっか)りと隠れているが」

「体操着では問題無いんですけど、此の衣裳の場合だと駄目でしたね」

「……上澤上トレーナー」

「済みません、色色試行錯誤して影響を最小限に抑えようと頑張ったのですが、少しでも露出が増えたりインナーの色が薄くなったりすると、途端に顔を蒼褪めさせるので、此れが限界でした」

熟熟(つくづく)解せない体質だな……」

「蕎麦アレルギーの人間に蕎麦喰わせようとしている様なもんですよ」

「服の材質が肌に合わないと言うのなら未だ解るが……」

「音楽癲癇*95なんて症例も有りますし、厥と似た様なもんかと」

 

 未知の症状に藉口(しゃこう)*96して逃げ出している訳では無いので、多少は御目溢しを頂きたい。

 

「歌と踴りとは、見せられる水準に達しているのか?」

「其方は大丈夫です。歌と踴り"は"……」

「何やら含みの有る言い方ですね」

「アジの場合、表情が如何しても改善出来ず、最後迄真顔です」

「表情も重要な要素なのだが……ダンスレッスンの先生は何も言わなかったのか?」

「余りにも改善の兆しが見えないので、匙を投げられました」

「整備士……」

「いや、努力はしたんですが、皆さんが(もと)めている年齢や外見相応の自然な笑みと言う物が如何しても出来なくてですね」

()のシリウスですら、笑顔は普通に出来るんだぞ」

「おい、如何言う意味だルドルフ」

「斯う言う笑い方なら普通に出来るんですけどねぇ」

 

 然う言って悪代官的な笑みを見せると、ルドっさんは渋面を作り、シリウスさんは捧腹大笑(ほうふくたいしょう)*97していた。

 

「あっはっはっはっ!! 確かに厥の笑い方はウイニングライブじゃぁ見せられねぇなぁ! いや、寧ろ見せた方がおもしろいかもな!」

「シリウス、笑い事じゃないんだ。此れは忌忌(ゆゆ)しき問題だぞ」

「普通の笑顔を作ろうとすると、如何しても(ひきつ)るんですよねぇ……」

「別に良いじゃねぇか。メイクデビューで打っ飛んだタイム出すんだから、ウイニングライブでもイカれた要素を持っていた方が一貫性が有るだろ」

「然しなぁ……」

「んなこまごと*98に拘泥する必要有るか? 厥もコイツのキャラって事にしときゃ良いだろ」

で片付けるな。他のウマ娘達はちゃんと練習して出来る様に成っているんだぞ」

「練習すりゃ全員出来る様に成るなんて単純な話じゃ無ぇだろ。厥の理論が罷り通るなら、練習したウマ娘は全員G1レースで捷てるぞ」

「其処迄の極論か?」

「何でも出来る皇帝サマには解らない感覚だろうな」

「むぅ……」

 

 碌碌練習もせずに出来ませんなら撮当*99されても文句は言えないが、迂拙は出来る事は遣った心算である。ルドっさんとしては、自分が引き立てたウマ娘に批点*100が有る儘衆目に晒すのは、我慢ならない部分が有るようである。此の一連の流れは、教育虐待と本始*101を一にする様に思える。

 

「上澤上トレーナー、貴方は如何お考えですか」

「俺としては、練習は続けつつも、無表情キャラで売り出す事を視野に入れています」

「……然うですか」

 

 しりゅうぎたな*102迂拙特有の苦労は、如何やら理解し難い様である。

 偖、迂拙の準備状況に対する侃侃諤諤を経て、現在はウイニングライブの直前、厥の舞台袖である。中央のレース場には本格的なライブ会場が設置されており、衎賓の為の設備にも金が掛かっている。所謂"競馬場"には存在しない設備である。そして、陰より会場内を覘詗(てんけい)*103する限り、メイクデビューのウイニングライブにしては客の入りが盛況の様である。2着、3着のウマ娘は恅愺たる様子で居る。

 

「何でこんなに御客さん這入ってるのよ」

「十中八九コイツの所為でしょ。噫嚱ヤバい、失敗する未来しか見えない」

「レースで襤褸輸(ぼろま)けした挙句、行き成りこんな数の人の前で踴れとか、メンタル打っ(こわ)れる」

「なら逆に考えろ。此の状況を乗り越えれば、此の先のレースで緊張する事なんざ無くなると」

「此の地獄作り出した下手人が真面目振ってんじゃないわよ。掲示板見て精神木っ端微塵に成っている所に山盛りの塩塗りたくって来て、何とかしてよ」

 

 迂拙に違乱している此の2着のウマ娘は、掲示板の表示を見て竚立(ちょりつ)*104し乍ら、(まばた)き一つせず泫然(げんぜん)*105と頰を濡らしつつ「アハハハハ」とケタケタ笑っていた。壊れた人形が(ごと)嗢㘌(おつげき)*106(さま)に、周囲の空気は冬の陸別の如く凍て付いていた。

 

「て言うか、何厥の巫山戯た恰好。ウイニングライブでそんな可愛くないインナー着てる奴見た事無いんだけど」

「女物の服を一切受け付けない体質なんだ。厥とも脱がしてみるか? 然うすれば迂拙は速やかに人事不省に(おちい)って救護室送りに成るから、センターで踴れるぞ」

「地獄を作り出しておいて逃げるなんて(ゆる)さないわよ。センターは自分の力で取るわ」

「厥の気概が残ってんなら未だ大丈夫だな」

「偉そうな口利かないでよ。ホラ、アンタも思う所の一つや二つ有んでしょ。大人しくしちゃって、悧巧(りこう)振ってる心算?」

「ご、御免、振付思い出すので一杯一杯で」

「おい、八つ当たりするんなら迂拙だけにしろ。飛び火させるな」

 

 情緒の擾擾焉(じょうじょうえん)*107として遣る方無いのだろうが、誰彼構わず当たり散らすのは看過出来ない。

 

「丁度目の前に殴り易いサンドバッグが有るんだから、殴りたけりゃ迂拙を殴れ」

「いや、手ぇ出したら全部私が悪くなるじゃん」

「顔は直ぐにバレるから止めとけ。ボディを狙えボディを。(あざ)はインナーで隠れる」

「アンタは闇堕ちした丹〇段平か? 最低にも程があるでしょ」

「肋の1、2本折っときゃ真面に歌えなくなるから、公衆の面前で恥を搔かせる事が出来るぞ。憂さ晴らしにゃ持って来いだ」

「いや絶対に遣らないわよ」

「大丈夫、迂拙が口を割らなきゃバレないから」

「直ぐ其処見てみ? 思いっ切り目撃者居るから」

「後で迂拙が袖の下渡しとくから心配するな」

「何で被害者側が口封じの策を講じるのよ。普通逆でしょ」

「さぁ、思いっ切り遣れ。オススメは鳩尾を下から上に向かって突き上げるんだ」

「ねえ助けて。此奴、話通じない」

「悧巧振ってて済みません」

「御免、ホント御免、謝るから見捨てないで。御願いだから私を独りにしないで」

 

 結局、サンドバッグごっこは行われなかった。本人が許可を出していたのに、何でやろなぁ(すっとぼけ)。

 哂謔(しんぎゃく)*108を挟んだ御蔭か、彼女の遣る方無い思いは霧散したらしい。而して出番の時間と成り観客の前に踴り出ると、目慣れぬ迂拙の恰好に錯愕の声が其処彼処から洩れる。然し説明している時間は無いので、観客の疑雲*109()れぬ儘ライブが始まった。進行する曲とは対蹠的(たいせきてき)*110に微塵も動かない迂拙の表情に、観客の疑氷*111は厚さを増しているであろう事は何と無く読み取れる。両脇で踴る2人も、時偶(ときたま)迂拙を睇視(ていし)*112しては苦笑を洩らす。

 一方迂拙は、僅かでも罅漏(かろう)*113補苴(ほしょ)*114すべく、動作のキレに意識を注いでいた。迂拙がライブに参加する限り闕焉(けつえん)*115(そし)りを免れないので、別の部分で点数を稼ごうと言う算段である。結果、表情を微塵も変えずキレの有る踴りを披露する奴がセンターを務める、何ともちぐはぐなライブが出来上がった。

 斯くして、画竜点睛を欠いてはいるが、襤褸滓(ぼろかす)に貶せるかと言えば又違う、実に評価に困るウイニングライブが催行され、観客は困惑に包まれた。一応、終了時に拍手はもらえたものの、困惑の色は猶強く残っていた。

 

「ハァ……何とか踴り切れた……」

先刻(さっき)の変な遣り取りの御蔭で鳥渡緊張が解れたのかも……腹立つけど」

「殴りたけりゃ何時でもどうぞ」

「だから遣らないって。被虐趣味は他所で楽しんで」

「にしても、本当に全く表情変わんなかったね。顔面神経死んでんの?」

「死んではいないけど、致命的な不具合が生じていて、自然な笑顔が作れない」

「……アンタも苦労してんのね」

「それなりには」

 

 最後に憐愍(れんびん)を含んだ視線を頂いた所で、解散と相成った。レースとライブと、綜合的に見れば、及第点を頂けるのではなかろうか。

 復び汗を洗い流し帰り支度を整えた所で、母さんから呼び出しの連絡が来ている事に気付いた。トレーナーを引き連れ駐車場へと向かうと、何やら不譏嫌な母さんと婆さんとが待ち構えていた。

 

「こんな所で待ち構えて、何用?」

「……先ずはアジ、初捷利御目出度う」

「噫嚱、うん、有難う」

「で、レースが終わった後、帽子脱いで何か遣ってたわよね」

「うん、思い付きだけど、反応はまあまあ良かったよね」

「アジ、アンタの髪、豪く短く見えたんだけど……如何言う事かしら?」

「……よぉ見てんねぇ」

 

 (やお)ら帽子を脱ぎ、髪を刈り飛ばした顱頂を顕にすると、母さんと婆さんと揃って瞿然(くぜん)*116と表情を変えた。

 

「アジ、アンタって子は……」

「御母さん言ったわよね、厥以上短くしないでって」

「……矢っ張り鬱陶しくてさぁ、我慢ならんかった」

 

 寮生活に成れば親の目は無くなる。だからと言って何でも遣りたい放題かと言えば、教師の目抔も有るので違う。然し、髪を坊主刈りにする位なら咎められる事は無い。迂拙の頭を見たライスさんの頰は(ひきつ)っていたが、其処で終わりである。更に、坊主刈りは金が掛からない。此れが矢鱈と凝った髪型で、美容院に結構な金を落とさねばならない物であれば実現出来なかったであろう。翻って1000円カットで充分な此の髪型であれば、小遣いを多少遣り繰りすれば金は捻出出来る。故に、メイクデビューを前に思い切って刈り飛ばしたのである。

 

「娘がメイクデビューで捷って喜んでた所に、あんな形で水掛けられた此方の身にも成って頂戴」

「髪型位自由にさせてよ。別に偸閑(あからさま)に"不良"って風体に成る訳じゃぁあるまいし」

「ぐっ、ああ言えば斯う言う……」

「それに、ネットで検索すりゃぁ女が坊主刈りにしている写真なんて腐る程出て来るよ。バズカットなんて洒落た言い方も有るみたいだし」

「そりゃ似合う女だって居るだろうけど、アジにはして慾しくないんだよ」

「何でよ」

「服は洒落の洒の字も無し、飾りっ気は皆無、そんなアジに唯一残された女の要素なんだよ。髪迄女っ気を棄てたら何が残るんだい」

「走りが残りゃ厥で良いよ。爺さんにも誕まれて来る性別間違ったって言われたんだし、いっそ突き抜けた方が気が楽だもん。中途半端に残した所で何にもならんし」

「爺さん……アンタ後で一緒に来な」

「いや、全部俺の所為ってか!?」

「御義父さん、私からも御話が有ります」

「ナギさん迄!?」

「後、こんな所で(いいあらそ)ってる所を記者連中に素っ破抜かれでもしたら、どんな枉曲(おうきょく)*117を加えられた内容の記事書かれるか分かったもんじゃないよ」

 

 愆釁(けんきん)*118だの虐待だの、幾らでも捻じ曲げられる。加えて、トレーナー迄同席しているのだから、深刻な内容を捏造(でつぞう)しても違和感が無い。疾っとと切り上げるが吉である。

 

「斯うなったら……トレーナーさんからも何とか言って遣って呉れませんか?」

「いや、私からは何とも……。校則に違反している訳でも有りませんし」

「でも、アジのブランディングが為難(しにく)くなったりしませんか?」

「厥も含めて売り出していくのが私の仕事ですので」

「くっ……」

「加えて、キョクアジサシさんは下手に抑圧すると走りに影響が出る可能性が有るので、可成(なるべく)自由にさせて遣りたいと考えています」

 

 有繫トレーナー、迂拙の為人(ひととなり)を良く理解している。実際、タイムには出ていないものの磅礴鬱積(ほうはくうっせき)*119としていたのは事実である。

 

「母さん、婆さん、好い加減スパッと諦めた方が楽だよ。埋められる外堀なんて(はな)から無いし。それとも、いっそ尼僧みたいに全部剃り落とせば諦めが付く?」

 

 止めの一言を放つと、2人揃って膝から(くずお)れた。

 

「ううっ……可愛い愛娘には可愛く在って慾しい、此の親心、御悧巧なアジなら解って呉れると思ってたのに……」

「生憎、御悧巧の範疇からは疾うの昔に逸脱しているから」

 

 厥こそ、誕まれた瞬間から矯飾*120に塗れているのが迂拙と言う存在である。申し訳無いが、ストレスの無い生活の為にも、此処は情識*121に成らせて頂く。

 トレーナーと言う一縷之望(いちるののぞみ)が断ち切られ、迂拙が止めを刺し、漸く諦めた様である。上述の様な遣り取りは、学園に入る前にも幾度と無く(くりかえ)された物である。母さんと婆さんからしてみれば、迂拙の髪は最後の砦であったのだろう。故の(しつこ)さであったのだろうが、(けり)を付けられて何よりである。猶、爺さんは母さんと婆さんとに引き摺られ何処(いずこ)へと姿を消した。南無。

 一捫著(ひともんちゃく)……と言う名の御約束を終えて、帰路へと就く。後ろへと流れていく景色を(ぼんやり)と眺めていると、不意にトレーナーが言葉を投げ掛けて来た。

 

「今更だが、(あれ)で良かったのか?」

「何がです?」

「アジの親御さん、随分と意気銷沈していたが」

「良いんですよ別に。()の遣り取りだって、数えるのも億劫な程(くりかえ)して来たので。寧ろトレーナーが蜘蛛の糸を切って呉れたので、漸く鳧を付けられて良かったです。有難う御座いました」

「親御さんに(うら)まれんかな」

「大丈夫ですよ。普段迂拙から全く連絡しないので、髪型に仮託して何でも良いから話したかっただけでしょう。どれだけ説得の材料を用意した所で迂拙が枉げないのは好い加減理解しているでしょうし」

「余り親御さんを泣かせるなよ」

「迂拙にだって譲歩為兼(しか)ねる事の1つや2つ、有るんですよ」

「……御前も変な所で頑固だよなぁ……」

 

 誰に対しても言われるが儘の傀儡(かいらい)である心算は毛頭無い。作業着、耳飾り無し、坊主刈り、此の3点に就いては我を通させて頂く。親が子の自由意思を認めず、羈束(きそく)*122し続けた結果、子が親を惨殺した事件も実際に発生しているのだ。時偶、反抗の意を示して傀儡ではない事を理解させねばならない。子は親の道具でも、身代わりでもないのだ。適切な距離感と言う物を失えば、厥の先に待って居るのは破滅である。

 

「厥にしても、帰りは(すなお)に車に乗るんだな」

「ん?」

「此方に来る時は走って行くとか()かしていたのにな」

「え、走って帰って良いんですか?」

「いや、駄目d」

「じゃあ黒埼パーキング*123に寄って下さい。其処から走って帰りますんで」

「寄らん。絶対に寄らんぞ」

「其処を、其処を何とか」

「レース直後のウマ娘何百kmも走らせたとか、バレたらどんだけ対応面倒臭くなると思ってんだ」

「仕様が無いですねぇ、じゃあ越後川口*124からで手を打ちましょう」

「何も手ぇ打って無ぇんだよ200km以上有んじゃねぇか」

「じゃ、じゃぁ湯沢、湯沢*125からで良いんで……」

「危険物積載車輛か御前は。意地でも三国峠走ろうとすんじゃねぇ」

「さ、最近、全然峠走って無いから禁断症状が……」

「シャブキメた藤原〇海みてぇな事言ってんじゃねぇ。大人しく府中迄ドナドナされろ」

「そんな御無体な……」

 

 噫嚱、無情。

*1
日月を言う。光陰。

*2
陰暦六月の異称。

*3
月の末の10日間。下旬。

*4
六月頃のむしむしする暑熱を言う。

*5
いよいよ多くなる。一段とつのる。

*6
はじめ。はじまり。劈頭。

*7
寝台。寝床。

*8
衆生の祈願に応じて仏・菩薩がこれを守る事。「ようご」と読めば別の意。

*9
神仏・祖先などをおまつり申す事。

*10
幅と長さ。ひろがり。面積。

*11
現実では「競馬場IC」。

*12
恥じて顔を赤らめる事。

*13
足る事を知る事。自分の持ち分に満足し安んじて、欲張らない事。

*14
聞き入れる事。承諾。

*15
呆れ返る事。

*16
ひっきりなしに続く様。

*17
土地などの平らな事。

*18
薄い雲。うすぐも。

*19
雲が棚引いて日を覆う事。

*20
雨の降りそうな空の様子。

*21
丁度よい事。適当。うってつけ。

*22
思い悩む事。心配。

*23
あっさりとした様。さっぱりとした様。

*24
手足が強張って動かぬ事。

*25
客を楽しませる。

*26
はげしく、忙しい職務。

*27
貴人が来訪することの尊敬語。

*28
心が酷くねじけている。

*29
さらし首。獄門。

*30
はずかしめる。

*31
暴君の事。

*32
仲間を導き連れる。同類を伴う。

*33
二人の客が同時に来るのを言う。

*34
驚いて呆然とする事。

*35
むさ苦しい所に住んで世間知らずの人。

*36
一切の血族と姻族。全ての親族と縁者。

*37
冷酷な人を罵って言う語。

*38
罵る。

*39
ふざけたわむれる事。

*40
人物を品定めして批評を加える事。

*41
そしる。悪口を言う。

*42
苦情を述べる事。

*43
暫くの間。暫時。

*44
なかぞら。中天。

*45
めぐらした牆。囲いめぐらしてあるかきね。

*46
めいめい。それぞれ。各自。

*47
疑う。不審に思う。不思議がる。

*48
心が乱れて落ち着かぬ事。

*49
放っておいて相手にしない。

*50
開けて遮るものの無い事。

*51
いやしいからだ。つまらぬ身。又、自分の身体の謙称。自分を遜って言う語。

*52
引き締まる事。

*53
静かなさざなみ。

*54
風の音。

*55
ぞくぞくと身震いする。

*56
その事柄に接する場合。おり。時。

*57
極めて短い時間。

*58
呟く。独語する。

*59
流し目に見る事。

*60
気息を吐く。

*61
粉微塵に砕く事。

*62
心。心中。胸中。

*63
静かで安らか。

*64
特別に目をかける事。贔屓。

*65
己惚れる事。

*66
そしって嘲り笑う。

*67
金属・石など堅いものが当たって甲高い音の出る様。

*68
軽薄な様。

*69
溜息をつく。

*70
十分に培う。

*71
ものにはやる勇気。血気。

*72
憂え思う事。心配する事。

*73
充分に注意する。

*74
次第に。段々。

*75
年若く経験の浅い者。青二才。

*76
周りを見る事。

*77
鳥渡の間。暫時。

*78
汗が体中からだらだらと滴り落ちる様。

*79
批評する事。

*80
安心して落ち着く。安堵。

*81
恐懼驚顧の様。

*82
酷く興奮する。昂る。

*83
驚き騒ぐ事。

*84
意に称う……心にかなう。気に入る事。

*85
頭のてっぺん。

*86
忌み嫌う。

*87
険しくにらむ様。

*88
恥極まる。

*89
衣の音。

*90
同じ人の言動や文章が前と後で矛盾している事。

*91
多力の様。強い様。強い。

*92
広大で限り無い様。

*93
腕の肘から手首までの部分。前腕。

*94
吐き気。

*95
特定の曲や、特定のジャンルの音楽を聴くと、癲癇の発作が起きるもの。

*96
事にかこつけて言い訳をする事。

*97
腹を抱えて大笑いをする事。捧腹絶倒。

*98
こまごました事。取るに足りない事柄。くだらない事。

*99
人の行為を咎め、非難する事。

*100
非難すべき点。きず。欠点。

*101
もと。はじめ。元々の始まり。本源。

*102
心が汚い。

*103
様子を探る。詗は窺う。探る。

*104
たたずむ。じっとひと所に立つ。

*105
涙をこぼして泣く様。さめざめと泣く様。

*106
笑の止まない事。

*107
乱れる様。

*108
冗談を言う。又、揶揄う。

*109
疑いのかかっている様を雲に譬えて言う語。

*110
正反対である様。

*111
心に蟠っている疑い。

*112
ちらりと横目で見る事。

*113
すきま。欠漏。

*114
欠点を取り繕う事。補う事。

*115
欠けて完全でない様。

*116
驚いて顔色を変える様。目を見開いて驚く様。

*117
事実を捻じ曲げる事。

*118
仲違い。仲の悪い事。

*119
抑えつけられた不満で、心の中が一杯になっている事。

*120
いつわりかざる事。

*121
強情。頑固。

*122
束縛して自由を得させない事。

*123
練馬迄291.8km

*124
練馬迄220.9km

*125
練馬迄167km

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