涼燠の来経は駸駸乎として人を待たず、生を享けてから五个年を閲した。何だ彼だ色色な事があったが、逐一書き連ねては冗長極まりなくなるので、搔い摘んで識す事とする。
先ずは胸中に常に蟠踞し酷いの種となっていた、一家纏めて淫祠邪教に侵食されている蓋然性。之に就いては全くの杞憂であった。ウマ娘の成長が早いというのは本当であり、1歳に垂とする頃には、首が据わる所か一人で歩ける迄になっていた。これで漸く羞恥の等活地獄から脱け出せると安堵したのも束の間、「歩けるようになったから、次はトイレの練習しなきゃね」と楲窬を眼前に置かれた。此の瞬間、自分でも判る位頰が癴った。助かったと思ったら再び地獄へ突き落されたのだ。蜘蛛の糸を垂らして罪人を救おうとする慈悲深い御釈迦様であっても、こんな阿呆を見たら捧腹大笑するだろう。之以降の迂拙の葛藤は総て省略させて頂く。あんな記憶、疾っとと忘れるのが賢明だ。
閑話休題、家の中を彷徨けるのであれば、遣る事は一つ、酷いの種の内容の細覈である。此の家にも辞書の一冊や二冊はあるだろうと虱潰しに探したら、案の定爺さんの部屋の書架に在った。爺さんに辞書を指差して「彼を読みたい」と言ったら、豪く微笑まし気な目付きで取り出してくれた。大方読めもしない辞書を読みたいと言う孫が何とも可愛らしいとでも思っているのだろうが、真実を知っている身からしてみれば実に滑稽に見えた。
兎にも角にも辞書の瀏覧である。そして、其処に記載されていた内容は驚愕の連続であった。先ず馬という漢字の八、九画目が闕画し馬となっていた。恐らくは二足歩行であるから、漢字の点も二つのみとなったのであろう。然し然うなると鬣の部分を表す五画目迄は何を意味するのかと不図思ったが、ウマ娘は長髪の者が多いので厥の部分が該当するのではと取り敢えず納得しておいた。余り深入りすると陸な事にならないだろうと本能的に感じたのである。
そして馬に準ずる動物も総てウマ娘となっている事が明らかとなった。驢馬だの騾馬だの縞馬だのと、知っている名称は多多収載されていたが、挿絵が悉くウマ娘の厥なのである。馬科の動物は総てウマ娘に置き換わっていたのだ。そして先述の単語は総てウマ娘の種類として記載されていた。此の中で特け走りに特化したウマ娘の種類があり、厥の種類の三つの系統の始祖に当たるウマ娘が神格化され、俗に三女神と呼ばれていたのである。此の事実を目の当たりにした瞬間、胸中に閊えていた痼りが取れてすっきりとしたと同時に、纔かに首の皮一枚が繫がり助かった様な感覚を得た。資本主義社会の中で新たに興った宗教抔、リテラシーの無い莫迦や生活に困窘している連中抔を狙って阿堵物を騙取する詐欺集団でしかないのだから、宜なるかな。「信者」と書いて「儲ける」と読むとは蓋し至言である。
斯くして最大の酷いの種は渙然氷釈したのである。更に後で判明した事だが、此の三女神とやらは仏教や神道と同程度には人口に膾炙する存在であった。実際に三女神を奉祀している神社もあり、初詣に連れていかれた際も此の系統の神社であった。然し六趣輪廻を経た迂拙と雖も、別に信心深い訳ではないので、「散散ぱら悩ませやがって」と心の中で恨み言を吐いておいた。八つ当たりである事は重重承知しているが、こうでもしなければやってられないのである。
次に「ウマ娘」という呼称に就いてである。「娘」という漢字には「母」という意味もあるので、或る程度の年齢幅で「ウマ娘」という呼称を使うのは問題無いであろうが、揺籃から墓場迄「娘」呼ばわりする事に就いては予てから強い違和を感じていた。有繫に此の由来迄は辞書には載っていなかったので、三歳頃に婆さんや母に「何故、年齢に関わらず「娘」と言うのか」と訊いた。すると、大分暈した説明ではあったが話して呉れた。まぁ、要約すれば暴説を唱道する自分に酔っている盆暗共が騒いだ結果であった。何処の世界にも救い様の無い阿呆は居るなんだなぁと辟易した次第である。序でに、何故「馬娘」と漢字表記せずに「ウマ娘」と片仮名交じりの表記をするのかと訊いたが、此方に就いては判らなかった。大方、責任を負いたくない連中が色色忖度した結果であろう。
続いて、ウマ娘と言う種族に就いて。後ろに「娘」と付けられるだけあって、人間で言う女性しか存在しない種族であった。然も交配は完全に人間の男に依存しているという、生物学的に見ればとんでもない欠陥も持ち併せていた。斯様な種族が今日迄絶滅せずに生き残れたのは、厥の標致たる顔貌が大いに関わっている事は直ぐに解った。近所にもウマ娘はそこそこ居るし、テレビ放送でもウマ娘は初中後出てくるが、厥の咸くが縹緻良しで姸蚩の別が無い。いっそ清清しい位美人しか居ないのだ。これならば人間の男など餌を付けずとも入れ食いであろう。因みに迂拙の顔貌は、顔立ちこそ整ってはいるが、気懈気な三白眼が総てを打ち毀している。我乍ら実に可愛気の無い子供だと思う。
性質に就いては先ず、基本的に大人しく臆病である点が挙げられる。普段から夫を尻に敷いている婆さんと母とを見ている迂拙からしてみれば、大人しいとは一体如何言う意味だったかと霎時考え込む事になったが、家の外で会うウマ娘は提封此の性質に当て嵌まる挙措が幾つも見られたので、我が家のウマ娘は突然変異的に悍しい性質を持っているのだろう。
一方で輸贏、特け競走が絡むと途端に理性の箍が外れ本能的になる。中には豹変と言っても差し支えない位性格が逆転するウマ娘も居る。此の現象に就いては、何時ぞや見たドキュメンタリー番組では「ウマソウル」なる物に憑拠して説明がなされていたが、個人的には「ウマソウル」なる珍妙な混種語が市民権を得ている事に愕いた。此の辺りの、此の世界に於ける常識的な感覚は未だ得られていないので、何とか摺り寄せていくしかない。
偖、五度目の誕辰を数日前に祝って貰った訳である。中身が既に莫連なので誕辰如きでは何の感慨も湧かない。所怙や祖父母は喜んでいた……と思うが、表情の変化に乏しい迂拙相手では祝い甲斐も無いだろう。情けない話ではあるが、頑是無い子供を演じる事に就いては疾うの昔に諦めている。嘗て楲窬を目の前に置かれた瞬間に、儘教と一切の気遣いを拋擲した。「迂拙」と言う一人称も日常会話で使っている。当然所怙や祖父母は「迂拙」抔と言う一人称を知っている筈も無く、誮し気に「私」って言うんだと教えてきた。然し迂拙は微塵も改める気は無かったので、辞書を引っ張り出してきて当該項目を指差し、歴とした存在する一人称だと反駁した。すると忽ち、うちの子は麒麟児だ寧馨児だ抔と囃し立てた。普通であれば違和感の一つや二つを覚えても良さそうであるが、辞典を何度も眺めていた甲斐もあってか、特段訝しむ様子も無く、単純に喜んでいるようだった。目に入れても痛くない娘乃至孫相手では、嘸や分厚い色眼鏡越しに見ているであろう事が窺えた一齣であった。
斯様にして、「迂拙」抔と言う一人称を使う、何処か口調の堅い可愛気の無い子供が出来上がった訳である。こんな中身がインチキである迂拙を受け入れて呉れた事に感謝しつつ、もう変に演技を意識する必要性が無くなった事に安堵したと同時に、漠然とした申し訳無さも湧き上がってきたので、せめて聞き分けの良い子だけは演じておこうと、所怙の言う事は基本的に順に従うようにしている。結果、何かにつけて迂拙と聞き分けの良さを較べられる兄が、初中後拗ねるようになってしまった。まあ、必要な犠牲である。
此処で、迂拙の誕辰は12月19日だという事を言っておこう。ウマ娘の誕辰の偏倚に就いては又の機会に話すとして、冬誕まれのウマ娘というのは非常に尠疇な事例であるらしく、地元に於いて冬誕まれは迂拙だけだった。そして、誕辰から数日を経ている現今は、臘月も下澣に這入り逾年の瀬という時である。時折、体の芯を貫く様な殷殷硠硠たる䨻靐が轟く。窓の外を見ると、縹か遠くの空に黮䨴たる一塊の雲が在った。幾十度閃く霹靂神が、間も無く吹雪を齎さんとしている事を告げる。最初こそウマ娘の鋭敏な聴覚故に喫驚して四支僵勁していたが、厥に慣れた今は暢気に観賞する余裕もある。雲中を縦横無尽に走る䃸磹には一種の美しさや壮大さを感じるので雷は好きな部類に入る。霹靂神になれば猶良し。然し婆さんと母はどうも違うらしい。此処で先述したウマ娘の性質である「臆病」というものが顔を出す。二人揃って雷が大の苦手なのである。普段の嬶天下は鳴りを潜め、耳と尻尾とを萎れさせて非常に大人しくなる。二人で身を寄せ合い怖駭顫動している事も良くあり、餔時に雷が鳴ろうものなら夕食の支度も儘ならず、爺さんと父とが代打を買って出る位だ。そして、今方に餔時の雷が逼っているのである。今回も二人仲良く寄り添ってカタカタ顫えている。
「あーあー、今回も此の様か」
「アジが誕まれたら幾らか聢りするかもって思ってたけど、こりゃ駄目そうだなぁ」
「仕様が無いでしょ。幾ら年食ったって恐いものは恐いんだよ」
「アジちゃん、雷恐いでしょ? ほら、此方おいで」
「雷って良いよねぇ。幾ら見てても飽きが来ない」
「……アジちゃぁん……」
そして雷が来る度に、男衆が揃って反旗を翻し、我が家の娘子軍を煽り散らすのが恒例となっている。嬶天下に因る磅礴鬱積を晴らさんと、此処ぞと許りに弱点を突っつき回す。
「ほら、アジを見てみろ。どんだけ雷が鳴ろうが耳も尻尾も平常運行だ。婆さんよりも肝が据わっているぞ」
「……何で此の子は雷が恐かないんだろうねぇ……」
「そんな所迄母さんに似たら俺等の負担が増えるだろ。いやー、母さんに似なくて良かった良かった」
「康晴、あんた後で覚えときな」
爺さんと父とが揃って、迂拙を引き合いに出し婆さんを揶揄う。70歳近くも年下の孫の方が平然としているのが余程面白いのか、此の手の揶揄いは毎度の如く発生する。
「アジちゃん、本当は恐いんでしょ。強がってないで、ママの所においで」
「いや、ウマ娘なんだから、強がってても内心が耳と尻尾にもろに出るだろう。出てないって事は本当に恐くないんだよ」
「……あ、復光った。綺麗だねぇ」
「ひっ……」
母は何とか迂拙を自軍に引き込もうとしているが、敢え無く失敗。そして復び光る空に小さな悲鳴を上げている。母は此の家に帰いで来たので婆さんと血縁関係は無い筈だが、如何してこうも彿っている部分が多いのだろうか。実に不思議である。
「へへっ、母ちゃん復アジに輸けてやんの」
「……俊和、あんたお年玉要らないみたいね。良かった、出費が減って」
「ぎゃあぁっ!? 御免なさい御免なさい、小遣いは減らさないで!?」
そして藪を突いて蛇を出した兄はお年玉を人質に取られ無様に輸けていた。
「俊兄、いざとなったら迂拙が貸してあげるから」
「アジ、お前……」
「利息はトイチの複利計算ね」
「外道にも程があるだろ!」
「腎臓って何で2つあるか知ってる? いざとなったら片方を売って金にする為だよ。大丈夫、片方取っても死にはしないから。死には」
「5歳児が何おっそろしい事言ってんだ!?」
「……トイチだの複利計算だの、何処でそんな言葉覚えてくるんだか」
「大体辞書に載ってる。後、明らかに教育に悪いであろう昼ドラとか」
「アジ、お前本当に5歳か?」
「自分が作った子供の年齢も把握してないの?」
「厥の科白が既に5歳のものじゃないんだよ」
中身がインチキなので、明らかに年齢に似わない会話の内容ではあるが、此の家では平常運転である。
「兎も角、復婆さんと母さんとが使い物にならなくなったから、夕食作り、手伝うよ」
「いやー、アジは本当頼りになるな。何処かの誰かと違って」
「婆さんもアジを見習え。5歳なのにこんだけ聢りしているんだぞ」
「爺さんも父さんも、煽るのは程程にね。後で家の中で雷が落ちても、迂拙は做不知を決め込むから」
「サフチって如何いう意味だ?」
「知らないふりをする事。漢和辞典に載ってた。「サ」は人偏に故って書く」
「良くそんな言葉憶えられるなぁ……って、アジは此方の味方じゃないのか!?」
「天気悪い時に田圃の様子を見に行くのは阿呆のする事でしょ? 普通、雷の発生源になんて近寄らないよ。其処迄闇穴じゃない」
「薄情だなぁ……」
「其処はリスクマネジメントが聢りしていると言って」
「厥も辞書に載っていたのか?」
「テレビ」
迂拙は別に煽っていないから、味方に付く義理も無いのだ。触らぬ神に祟り無し。何が悲しくて妖孼にのかにゃならんのだ。
「アジちゃぁん……鳥渡だけ、鳥渡だけ抱っこさせて。そしたらママ、頑張れるから」
「……手を顫わせ乍らの厥の科白、何か薬物中毒者みたいで嫌なんだけど」
「御願ぁい……」
「……迂拙はベンゾジアゼピンじゃないんだけどなぁ……」
然う言い乍らも母の膝の上に収まる。すると間不容髪に抱き締めてくる。
「噫嚱……矢っ張り此の子を抱っこするのが一番落ち着く……」
「鳥渡ナギさん狡いわよ。アタシにも貸して頂戴」
「生憎、迂拙は分身の術は会得していないので、今暫く御待ち下さい」
「アジちゃんは婆ちゃんの事嫌いなの……?」
豪く発想が飛躍している辺り、本当に余裕が無いのだろう。
「何でも良いから早くアジを解放してやってくれ。これじゃぁ夕飯が作れん」
「先に作り始めてて。後から合流するから」
然う言って爺さんと父とを台所へ行る。ウマ娘の燃費は非常に悪く、毎食大量に用意しなければならない。故に、男二人でもウマ娘三人分の食事の用意は割かしキツイのだ。結局、母と婆さん、夫夫に5分宛撫でくり回されてから台所へ行った。離れる時に大分引き留められたが、「飢えても知らないよ?」と言ったら順に放して呉れた。雷は恐いが、厥は厥として食事はちゃんと摂りたいらしい。ウマ娘と言う種族は、何方かと言うと理性よりも本能が強いのである。
猶、雷雲が過ぎ去った後、家の中で雷が落ちたのは、当然の帰結である。南無。