教室を出て比較的近くの壁に
「やあ、待たせたね。声を掛けても反応が無かったけど、大丈夫か?」
「……ああ、大丈夫です。証入*4を得られないか考えていただけです」
「ショウニュウ?」
「博引旁証*5の証に、
「ああ成程、然う書くのか。知らない言葉だ。良く知っているな」
「まぁ、辞書は
「辞書は読むものなのか?」
「読めますよ。其処等辺の
「
「溜まったツケ払ってこいとだけ残して、遊びに行きました」
「……そうか。じゃぁ鳥渡ついて来て呉れ。此方だ」
然う言われたので、大人しく
「此処なら誰にも邪魔されずに話せる。さあ、這入って呉れ」
「いや、鳥渡待って下さい。此処って普通部外者を入れちゃ
「大丈夫、厥の辺りの権限は私が持っている」
幾ら会長職とはいえ、学校側から見れば一生徒に過ぎない身分の筈だが、そんな権限を与えて良いのか?
入室を促されたので逡巡する訳にもいかず、中へ這入る。格調高い机やらソファーやらが整斉*12と置かれており、壁には中央トレセン学園が校訓として標榜している、「Eclipse first, the rest nowhere.」と書かれた扁額が据えられている。
余りにも場違いな空気感に
「然う緊張しないで良い。別に取って食おうって訳じゃないんだ。何が飲みたい?」
「あ、水道水で結構です」
「遠慮しなくて良いんだぞ」
「いや、
「……そうか」
結構忘れられがちだが、中央トレセン学園は御嬢様学校の一面も持ち併せている。生徒会室に此れだけ金が掛かっているのを見るに、来客用の
迂拙の前に水の入った
「こほん……色色と話したい事はあるが、厥の前に1つ説明して慾しい。君の服装に就いてだ」
「服装……ああ、此の作業着ですか」
「そうだ。君だって年頃のウマ娘だ。普通ならもっと可愛らしい私服を着ていて然るべき年齢だ。だと言うのに、上下共に黒一色の作業着、帽子ですら作業員が着ける様な、前だけ
「……随分と御
「……本当か?」
「ええ、本当に。ウチが農家やっているのは当然、シンボリルドルフさんでなら御存知だと思いますが……」
「ああ勿論。後、私の事はルドルフで構わない」
「では遠慮無くルドルフさんと……。で、学校から帰ってくると、農作業の手伝いを
「うん、良く手伝いをして呉れる、良く出来た子だと親御さんも言っていたからな」
「んな事迄話してんのか……。まあ厥は兎も角、農作業の手伝いをする時って、毎回着替える必要が有る訳ですよ」
「まあ、汚れるだろうしな」
「で、毎回毎回着替えていると段段斯う思ってくるんですよ。「着替えが面倒臭い」と」
「……若しや厥が理由か?」
「然うです。此の作業着を
「ジツイ……普段着の事かな。然し、作業着を普段着にするなんて、親御さんは何も言わなかったのか?」
「実はですね、迂拙、女物の服を着ると蕁麻疹が出る体質でして」
「そんな体質、寡聞にして知らないが」
「そうですねぇ。迂拙も他に聞いた事ありません。で、普段買い物に行った時抔に、
「御洒落に興味は無いのか?」
「微塵も無いんですよねぇこれが。で、そんな御洒落に微塵も興味が無い娘が、或る日突然「鳥渡慾しい服があるんだけど……」って親に言ったら、どうなると思います?」
「……段段読めて来たぞ……」
「多分厥の読み通りですよ。「やっと娘が御洒落に興味を持ってくれた!」って、ニッコニコし乍ら「これで買っておいで」って金渡してくれましたよ。行き先がワーク○ンだとも知らずに」
「……何と言うか君は、強かと言うか、頭が回ると言うか……」
「良いんですよルドルフさん、遠慮せずに阿婆擦れって言って頂いて。十二分に自覚していますから」
「いや、有繫に阿婆擦れと迄は思ってないよ……」
「然うして、満面の笑みで買ってきた作業着を見せびらかす娘を見た時、親って如何言う表情をすると思います? いやぁ、
「うん。解った。虐待でない事は十分解った。だからもう止めて呉れ。親御さんが
寧ろ子供側が所怙を虐待しているとも様な取れる状況を聞いて、ルドルフさんは俯いて
「……ん? と言う事は、学校にも厥の格好で行ってるのか?」
「勿論。因みに学校での
「厥は、所謂苛め、と言う奴じゃないのか?」
「本人が苛めと思ってないなら苛めじゃないんですよ。御心配無く、本格的に苛めてこようとした連中は全員黙らせましたので」
「……厥の事に就いてはもう聞かない事にするよ……」
迂拙からすれば、悪餓鬼連中を黙らすなど
「はぁ……。本題に入る前なのに大分疲れた。とはいえ、済まなかった。行き成り不躾な事を訊いて」
「別に気にしてませんよ。普通、こんな格好をしている小学生なんて居ませんから、気になるのは道理だと思います」
「其処は聢り理解しているんだな」
「まぁ、理解した上で、此の格好してますから」
「理解している分、余計に
「いやぁ、
「褒めてないぞ」
此の一件の後、暫くの間は、所怙と祖父母とが頑張って普通の服を着せようとしたが、全く作業着を手放さない迂拙を見て、程無くして諦めたようである。
「序でにもう1つ訊きたいんだが、
「そうですよ。広辞苑に収載されている、歴とした存在する言葉です。「迂直之計」*21の「迂」に、「巧偽拙誠」*22の「拙」と書きます」
「……先程から四字熟語を使って説明して呉れているが」
「だってルドルフさん、インタビューとかで初中後四字熟語使っているじゃないですか。だから、好きなのかなと思って」
「ああ、気を使って呉れていたのか。有難う」
時偶、単語が理解出来ず困惑しているレポーターを見るが、迂拙はメディア連中が嫌いなので、いいぞもっとやれとシャーデンフロイデを感じている。
ルドルフさんが一口水を
「偖、大分話が逸れてしまったが、本題に這入ろう」
「ああ、未だ厥がありましたねぇ……。こんな狭斜子
「厥は、君が普通のウマ娘とは一線を画す存在だからだ。普通、小学生のウマ娘は自分の走りを研究したりはしない」
「いや、全国探せば居るんじゃないんですか。もっと速く走りたいって、彼是試している子」
「然も、厥の研究内容が、彼のセクレタリアトだけが使い熟せた等速ストライドだと言うんだから、俄然、興味が湧いた訳だよ」
「ああ……成程」
「そして、厥の内容を自由研究として纏めて、県から表彰されたそうじゃないか。更に、実際に成果が上がっていると風の便りで聞いたんだ。そんな前途有望なウマ娘が、贔屭にしている農家の娘だと知ったら、何としてでも会いたくなってしまってね。だから、少少強引な手段となってしまったが、斯うして話をする場を作ったんだ」
「……これだから権力者って奴ぁ……」
身から出た銹が四酸化三鉄になっている。自由研究の内容を考えるのが面倒になって、厥の儘流用した事が完全に裏目に出ている。もう少し自重すべきだったと
「だから是非聞かせて慾しい。何故、等速ストライドを研究しようと思ったんだ?」
「……別にお話しするのは構いませんが……理由はとんでもなく仕様も無いですよ? 失望しても知りませんよ?」
「さあ、是非聞かせて呉れ」
「何此の透き通った綺麗な眼」
憧れのヒーローに会った少年の様な、一切翳りの無い眼で此方を見てくる。止めて呉れ、そんな綺麗な眼を向けないで呉れ。そんな眼を向けられたら、薄穢い迂拙は浄化されて消滅してしまう。
「偖、何処から話したもんか……。そうですねぇ、先ず、迂拙は幼稚園に通っていた頃から走るのが大好きでして、隙あらば外に出て走っていました」
「ウマ娘なら、走る事が好きなのは別に変ではないだろう」
「いやぁ、本当、狂った様に走っていたんですよ。1、2週間で靴一足が駄目になる位には」
「それはまた、随分と凄いな……」
「で、直ぐに靴を駄目にするのが忍びなくて、何とか寿命を延ばせないかと、彼是試していたんです」
「鳥渡待って呉れ、幼稚園児の頃から走りの研究をしていたのか?」
「まあ、当時は研究と言うよりも単なる試行錯誤でしたけど」
「いや、幼稚園児はそんな事考えずに好き勝手に走るもんだろう」
「当時からそんな感じの子供だったんですよ。で、小学校に上がって、学年を重ねるに従って行動出来る範囲が広がったので、峠道を走る様になりまして」
「小学生で峠道は、結構、いや大分キツイのではないか?」
「実際キツかったですよ。会津若松迄走破出来るようになる迄、それなりに時間は掛かりましたし」
「え、君の実家から会津若松迄は直線距離でも可成あるだろう。そんな距離を小学校低学年の時に走り切ったのか?」
「ええまあ、途中で折り返す地点を徐徐に伸ばしていって、最終的に到達出来たって感じですね」
「凄まじいスタミナだな……」
「で、毎回同じ道を走っていると斯う思う訳ですよ。「カーブの度に加減速するの腹立つなぁ」と」
「いや、厥の理窟は可笑しい」
「と言う訳で、何とか体を傾けたり歩幅を変えたりして、減速せずにカーブを突っ切れないかと思ったので、等速ストライドに手を出したんですよ」
「……本当に、そんな理由でかい?」
「ええ、本当に、厥だけです。此れが出来れば、もっと一杯走れるだろうなぁ、もっと気持ちよく走れるだろうなぁ、と思った。厥だけです。畢竟、迂拙の走りに対する
「何と言うか、本当に自分の為だけに研究していたんだな」
「そりゃ然うですよ。
「まあ、普通に考えれば、小学生の研究なんてそんなものだろうな。済まない。自分で勝手に変に評価をしていたようだ」
「御理解頂けて何よりです」
「だが、色眼鏡を取っ払って見ても、等速ストライドと言うとんでもなく難しい技術を会得する迄、直向きに努力し続ける厥の胆力は、矢張り評価に値すると私は思う」
「いやぁ、買い被り過ぎでは?」
「謙遜しなくて良い。私の見立てなら、君は此処、中央でも十分遣っていけると思うぞ。天賦の才を持った、恵まれたウマ娘は何人と見てきたが、等速ストライドを使っているウマ娘は一人として見た事が無い。若しかしたら君は、私を超える様な
ルドルフさんは、豪く迂拙を高く買っているようである。一小市民に対して過大評価が過ぎると思う。
「然う言えば君、進路は考えているのか?」
「進路ですか? まぁ、取り敢えず何処か地方のトレセンにでも這入れれば良いかなぁと、
「其処は妥協せずに大きく出ても良いと思うぞ。私個人としては、是非とも中央に来て慾しい。是非とも君の走りを見てみたいんだ」
「……でも、中央って、学費が
「学費に就いてなら、奨学金制度があるから厥を使えば良いんじゃないか?」
「いやぁ、此の歳で借金は余り作りたくないんですよね。
「大丈夫、君なら確実に捷ち上がれる」
「大丈夫ですか? 目ん玉節穴になってませんか? それに件の等速ストライドも、未だ完璧とは言えないので……」
「なら、猶の事中央に来た方が良い。中央のトレーナーと一緒に研鑽すれば、より高みに登れるぞ」
何故だか知らないが、急に中央への入学を
「じゃぁまぁ、親と相談して決めます。受験料だって只じゃないんで」
「うむ、良い返事を期待しているぞ」
「前向きな善処を検討しておきます」
「然う言う玉虫色の返事は求めてない」
実際、親の同意なしに受験なんぞ出来ないから、どうしても斯う言う返答になってしまう。でも彼の親の事だ、恐らく大喜びで受験して来いと言うだろう。容易く想像出来る。
「おっと、大分話し込んでしまったな。親御さんとの合流は大丈夫か?」
「適当な時間になったら電話で呼び出しますよ。電話に出なけりゃ、迷子を装って盛大に呼び出してやります」
「……うん、大丈夫そうだな」
どうやら迂拙の
「あ、そうだ、最後にもう1つだけ訊きたい事があるんだか良いか?」
「どうぞ御自由に。時間なんざ有り余ってるんで」
「パーティーに何度も誘ったが、全部欠席したのは何故だい?」
……一番突っ込まれたくない所を最後に訊いてきた。
「……本音を言っても大丈夫ですか? 東京湾に沈めたりしませんか?」
「する訳無いだろう。私は総てのウマ娘の幸福を願っているんだ。ウマ娘を不幸に陥れる様な真似は、天地神明に
「総てのウマ娘の幸福……? ルドルフさん、若しかして貴方、共産主義とか社会主義とか、然う言う思想の赤い人だったんですか!?」
「違う違う違う違う! 如何して然う君は直ぐに打っ飛んだ発想をするんだ!?」
「だって、世界平和だの全人類の幸福だのなんて、思想の赤い奴か、とち狂った新興宗教の教祖の口位からしか聞いた事ありませんよ!」
「有繫に偏見が過ぎるだろう! 私は純粋に然う願っているだけだ。公安の監視対象になる様な連中と十把一絡げにされるのは心外だぞ」
「……本当ですね? 信じますよ?」
「大丈夫だ。強引な勧誘もしていない、壺を売りつけたりもしない、サリンもソマンもタブンも製造していない。偖、先の質問の回答を聞かせて貰おうか」
「……先程、迂拙は女物の服を着ると蕁麻疹が出ると言ったのは覚えてますか」
「ああ、確かに言ってたな。未だ半信半疑だが」
「で、御誘い頂いた様なパーティーって、絶対ドレスコードが有りますよね」
「ああ有るな。余りにも相応しくない格好だった場合は、此方が用意した服に着替えて貰う事もある」
「ですよねぇ。だから嫌なんですよ。絶対歳相応の可愛らしい服とか着せられるじゃないですか。スカートもドレスもワンピースも着たかないんですよ」
「ああそんな理由か。だが、中性的な服でも別に問題は無いぞ。実際、然う言う服を着ている子も居たからな」
「ああまぁ、然う言う服もありますよねぇ。でも迂拙としては、作業着以外は着たくないんです。で、理由はもう1つありまして」
「他にもあるのか。大分本音っぽかったが」
「今のも本音ですし、次に言うのも本音です。ぶっちゃけてしまえば、
「成程……君程精神的に成熟していれば、然う思うのも無理は無いか……。確かに、ああいうパーティーとかは、慣れが必要な場面もあるからな」
「行ったら絶対気疲れするじゃないですか。それに、只でさえ口が悪くて性格が
「うん、君と会話をした今なら解る。確かに荒れそうだ」
「理解して頂けて何よりです」
よし、これでもう誘われる事は無いな。
「よし、次に誘う時は、私が同席する事を約束しよう。それなら問題あるまい」
「次誘って来たら首吊りますよ」
「……そんなに嫌か」
「ええそりゃぁもう」
慇懃講なんて行くだけ疲れるだけの行事なんざ御免蒙る。此れに関しては、金を積まれても首を縦に振る気は無い。
「と言うか、迂拙に会いたいが為に誘っていたんでしょう? なら、目的を達成した以上、もう誘う理由は無いじゃないですか」
「……然うだな。然うした方が良さそうだ」
漸く諦めて呉れたようである。余り
「よし、そろそろ私も戻らないとどやされるな。キョクアジサシ、今日は付き合って呉れて有難う」
「……此方こそどうも」
「どうした? 随分と表情が死んでいるが」
「
「む、キショウレンゲイは聞いた事が無いな。如何言う意味だ?」
「……偶には、自分で調べてみるのも一興だと思いますよ」
「ふむ、そうだな。偶には勉強し直してみるか」
最後にそう交わし、御別れとなった。次に会うのは果たして何時になるのか。