傷だらけ少女が笑えるまで 作:曇らせのキャスター
死にたいと思った事があるだろうか。
誰しもが一度は死にたいと思う出来事があるのかもしれない。黒歴史があるから、間違ってしまったから、取り消したいやり直したいと思う事は然程不思議な話ではない。
だから願ってしまった。
願っても幸せになれるとは限らない。生きていられたのなら次は幸せになりたいと、心の中で押し殺していた願望が最後に溢れた。それを願ってはいけないと思い続けていた少女の思いが空へと消えていく。
生まれ変わったら何になりたい?
誰かが尋ねてきた気がした。
家族が欲しい、ちゃんと愛してくれる家族が欲しいと願った。
星は廻る。想いは繋がる。
廻る廻る輪廻の中で、カミサマは微笑んだ。
あり得ざる物語、あり得なかった存在。
家族という名の繋がりが疎ましく、籠の中でしか生きられなかった傷だらけの少女は目を覚ます。
瞳に星を宿した母親の腕の中で。
★★★★★
白石紗夜。
それが少女の前世の名前だ。
生まれ育ったのは宮崎の田舎、五歳の頃までは母方の祖母の家に引き取られていた。元々産んだ筈の母親が祖母に預けたらしい。育児に疲れたと言って適当に預けてはずっと会いに来ない。
無責任な親だとは思うが、母親はどうやら男に逃げられて、産まれてきた紗夜を疎ましく思っていたと祖母から聞かされた。大事だと思った形を失い自暴自棄になって紗夜を捨てるように預けていた。
祖母は悲しくないかい、と尋ねてきた。
悲しくはなかった。母親が居なくても不自由がある訳でもないし、ずっと育ててくれた祖母が大好きだったから。
母親が居なくても、優しい祖母がいる。
幼稚園から卒業して小学生になるまで紗夜は祖母の優しさに触れながら、優しい人になりたいと生き続けてきた。
そんな日々は突如──終わりを告げた。
祖母が亡くなった。
元々心臓の病気を患っていたらしく、その発作をいつも薬で止めていたが、限界が来てしまったのか祖母は息を引き取った。帰ってきてそれを知った紗夜は優しかった祖母の手を握り続けて泣き続けた。亡くなって、冷たくなった祖母は帰ってこないと知っていながら突如来てしまった別れを嘆いた。
その後、紗夜は母親に引き取られた。
紗夜を引き取る人間は一人しかいなかったから、児童施設に送られる事はなかった。そこが悪いという訳ではないが、母親が居るのであれば責任は持たなければいけない。子供を産むとはそういう事だ。
そして、この日から全てが変わってしまった。
「何笑ってんのよ」
パァン、と音が響く。
紗夜の頬が赤く染まり、ヒリヒリとした痛みに呆然としては見上げた母親の顔は憎悪そのものだった。どうして殴るのか、何がいけなかったのかを尋ねようとしても恐怖で声が出ない。
「っ…ぁ……」
「私の前で二度と笑うな」
そう言って母は部屋のドアを閉めた。
笑ってはいけない。幸せそうな紗夜を許せないようで、暖かかった心の平穏はこの日から徐々に凍り付いていく。叩かれた頬に触れて、泣き声を漏らさないようにソファーに毛布に包まって涙を流した。
日常は大きく変わった。
朝早く起きて洗濯と朝食の準備、置いてあった料理本を見ながら慣れない手つきで朝食を作り、母親の分を作り置きしてから学校に行く。学校では友達が多くて楽しかったけれど、母親の顔がチラついて笑顔にぎこちなさが出てしまう。
笑うな、その言葉が辛く友達にも悟られないように笑顔を作った。学校が終わればすぐに帰って洗濯物を取り込んで掃除と夕飯の支度。友達と遊びたい気持ちを我慢してバランスのいいご飯を作る。
不味かったら叩かれるし、学校で楽しんでる話をしても叩かれる。笑顔を消してただ感情を見せないように有ろうとしても、人形みたいで気持ち悪いと言われて叩かれた。
痛い事が嫌だった。誰だってそうだ。
叩かれる事が怖くて、親に渡すような学校のプリントも渡せない。手を煩わせるだけで怖いのだ。渡せるはずがない。重要なプリントだけを目に通して家のテーブルに置くが、紗夜が寝ている間にビリビリに破かれて捨てられた。
提出して、と先生に急かされるが無くしたと言って新しいプリントを貰っても同じ結果なのは目に見えている。プリントの内容だけ先生に聞いてどんな事の許可が必要なのかを知ってからは母親の名前を勝手に借りて提出していた。
二年生になると、クラスが変わる。
知らない子供との交流は最悪で、一年の頃は大丈夫だった学校の日常も変わっていった。クラスで一番嫌な男の子がイジメを始めたのだ。その標的は紗夜。喧嘩も強く体格も大きい彼に逆らえる人はおらず、クラスメイトは見て見ぬふり。
先生がいる間は大人しいのに、見えない所でたまに暴力も振るう。告げ口しても記憶にございませんとケラケラと笑う。イジメ防止の集会も開かれたが、それが直ることはなかった。
やがて、笑わなくなった。
笑うって、どうすればいいのか分からなくなった。
母親が、クラスメイトが、視線を向けられた時に嫌悪感がする程に信じたいと思えなくなっては傷付きたくない本能から心を閉ざした。笑えなくて、涙が溢れても助けてくれなくて、何も変えられない無力な自分を憎んだ。
母親が帰ってこない事を知ったある日の事、いつも夕飯を作っていた日課から一日だけ解放されて公園のベンチに座っていた。遊ぼうと思ったのに、楽しいと思えない。今まで砂場で遊んだり、ジャングルジムを登ったりするのが楽しかったのに、今は何も感じない。
キィ、キィ、キィとブランコを漕ぐ音が耳に響く。父親とその息子がブランコを漕いでいる。楽しそうだった。その在り方が、その光景がとても羨ましくて、自然と口から溢れた。
──いいなぁ、と。
それを自覚してしまえば、涙が溢れて止まらない。どうしてこうなってしまったのだろうか。どうして世界は自分はこんなに厳しいのか。それが辛くて涙が溢れた。とめどなく溢れる涙を止めようとしても止まらない。
その時だった。ベンチに影が覆う。
泣いている紗夜にハンカチが差し出された。眼鏡をかけた優しそうな大人の人が屈んで泣いている自分にハンカチを渡した。
「大丈夫かい?」
「…………」
「それ、使っていいから」
渡されたハンカチで涙を拭う。
少しだけフローラルな洗剤のいい匂いがした。
「よっと、何かあったのかい?」
ベンチの横に座る眼鏡をかけたお医者さんの問いに固まっては動けない。
「話したくないならいいよ。お母さんの所に送ろうか?」
「ダメッ!!!」
咄嗟に叫んでしまい、我に返ると顔が青ざめた。恐る恐る顔を上げると心配しているような顔で此方を見ていた。学校の先生のような顔に少しだけ戸惑った。良い人だと分かるのに、人を信用するのが怖くて言葉が上手く出ない。
「ご、めんなさい……」
「ああいや、謝らないでくれ。僕が悪いから」
「ハンカチ、洗って返します」
「いいよ安物だから。返さなくても」
「……あの、えっと」
頭の中がぐるぐると回ってどう答えればいいかわからない。ただ、ブランコの親子を見て何を言えばいいのかだけ自然と理解しては口に出していた。
「ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
「すみません……もう帰ります」
素直にお礼を言えばいい。その事さえ今はこんなにも悩んでしまう自分が気持ち悪かった。ハンカチを渡してくれて、泣いてる自分の隣に座って話を聞こうとしてくれる優しい人に素っ気ない態度を取って離れていく。
「何かあったら、次に会えた時に相談に乗るから」
その言葉に泣きそうになるのを堪えて、振り返って頭を下げた。本当は全てぶちまけたかった。でも状況が変わる訳でもない。それにいい人だから信用を預ける事が怖くて、話せなかった。
でも、本当に良い人そうだった。
今日だけは久しぶりに優しい夢を見れた。
今では思う。
あの日どうして助けを求めなかったのか。
今となっては後悔している。
三年生になったある日の事だった。
母は荒れ狂ったように家で暴れていた。出した料理も手で払ってガシャン、と皿が割れた。母の働いていたお店でクビになったらしく、この日は当たりが強かった。何も言わずに見つめる紗夜が疎ましく、躾という名ばかりの暴力、肩に熱湯を流され痛みに叫んだ。
母は微笑った。笑った。嗤った。
鬱憤が晴れたかのように部屋に篭っては酒を飲んでいた。泣き叫ぶ声を押し殺し、ズキズキと皮膚が焼かれたような痛みに奥歯を噛み締めた。
痛くて痛くて、風呂場で気を失った。
次の日になれば火傷のように跡が残り、ズルリと剥ける皮に目を向けたくなくなった。火傷の塗り薬を塗って包帯でそれを誤魔化して学校に向かった。
学校で虐める男子達のイジメにも余裕がなく、反応が薄いのか暴力を振るおうと肩を掴んだ瞬間、堪らず叫んだ。何事かと集まる先生達も目を疑う。包帯を巻いた肩から腕に至っては血が滲んでいた事に痛ましそうな目を向けていた。
先生達は虐待を疑った。
母は学校で猫を被り、虐待をしていないと言わんばかりの外面でそれを誤魔化した。保健室から優しく手を引く母の内心は穏やかではない事は掴んだ手の強さで察した。
もう嫌だ、と心が叫んだ。
痛くて痛くて、ここまで我慢しなくては行けない理由が分からなくなって、逃げても逃げても逃げられない恐怖が心を壊した。
帰り際に殴られた。
お前のせいだと殴られた。それが嫌で反抗的な目を向ければ更に強く殴られた。人が怖い。学校が怖い。母親が怖い。誰か助けてほしいと願う中で、紗夜は見た。
たまたま歩いていたハンカチをくれたあの時のお医者さんが反対の歩道を歩いていたのを見た。
助けて欲しかった。
苦しくて、痛くて、辛いこの日々が嫌だった。母の手を振り払って走った。助けてって言えなかった今だけは言える気がした。それに気付いたお医者さんは叫んだ。
「───────!」
気付いた時には浮遊感。
そして激痛、世界が廻るような視界、小さな体躯は微かに聞こえたブレーキ音と共に弾かれていた。反対の歩道に向かう為に車の確認もせずに走った自分の馬鹿さ加減に内心笑えてしまいそうだった。
身体は動かず、霞む視界はただ赤く、激痛で今にも眠ってしまいそうだった。叫ぶ眼鏡の医師の声が遠くなっていく。
「しっかりしろ!今救急車を……!」
「おい、しゃさん……」
助からない。もう目を閉じてしまう。
自分は此処で死ぬという事を悟った。大嫌いだった世界から去れる事に歓喜は無いけれど、今だけは少しだけ幸せだった。
「……私……いま、だけ……しあわせ…」
やっと、祖母のところに行ける事。
そして、嫌いな母の顔よりも、ほんの少しだけ良い人の顔を見ながら死ねる事。それだけの僅かな幸福だった。大した事を話した訳でもない。ハンカチを渡してくれただけのお医者さん。幸福と思える程でもない細やかな事かもしれない。
それでも僅かに笑った。笑えなくなった人形のような紗夜は最期の最期で笑顔を見せた。
「さいごが……おいしゃ、さん……でよか……った」
身体が冷たく、瞳は閉じていく。
顔に涙が落ちるような感触があった。優しくて、その涙がとても温かく感じた。痛みがなくなって水の中に飛び込んだかのような沈む感覚に身を委ね、堕ちていく。
それが前世の最後の記憶。
白石紗夜の人生は此処で終わった。
★★★★★★
★★★★★★
目が覚めたら誰かの腕に抱かれていた。
というか身体が縮んでいた事に目を疑った。どうやら何故か知らないけれど生まれ変わったらしい。記憶もありながら赤ん坊として自分がここにいる事を悟った。
この人の名前は星野アイ。
どうやらアイドルという職業らしく有名人。世間には内緒で三つ子を産んだらしい。まだ高校生くらいだというのによく頑張ったなと内心で驚いていた。子供を作るのは二十歳になってからじゃないと危険らしいのに。
私の名前は星野
凄い名前だ。一年の時に図書館で読んだ事があるけど、スピネルというのは紫の宝石で社交能力を高め、心理的負荷を静める石の意味があるらしい。私の瞳はこの母親の瞳と同じ色らしく、共に生まれた二人は金髪なのだが私は母親の紫がかった髪の産毛。
どうやら私は多分、母親似で産まれたようだ。
金髪の男の人が私達を抱えるアイさんに話していた。
バレたらみんな纏めて地獄行き。
クビになったら全部終わり。賭けのようにアイさんの魅力を信じて全賭けしているらしい。
クビになったら前世みたいになる。
それが嫌で身体が少し震えた。そしてもう一つだけ心に突き刺さった。バレたらみんな纏めて地獄行き。普通は子供なんて作ってはいけなかった中で、産まれてしまった事。
もしも自分が居なければ幸せになれたのだろうか。
それだけがずっと、心を揺さぶった。
★★★★★
赤ん坊が喋っていた。
夜中に声がするので目を開けてみれば、姉であるルビーがスマホを持って何かやっていた。それに気付いた兄のアクアがルビーに近づくと流暢に言葉を話して叫んだ。
「赤ん坊が喋ってる!キモー!?」
「お前もだろ」
正直言って恐怖でしかなかった。
赤ん坊ならまだしも、中身が誰かも分からない恐怖。人が怖くて、無垢な赤ん坊だったら耐えれたかもしれないが、もしもこの二人が学校の男子達みたいな存在だったらと思うと怖くて聞き耳を立てては身体が震えた。もうないはずの火傷の痛みすら感じてしまいそうだった。
「もしかしてスピネルも?」
「……いや寝てる」
狸寝入り、赤ん坊のフリをする事にした。
二人と関わりたくなかった。中身がどんな存在か分からないから信用を預けられない。家族だから信用出来るとかそんな思考に至る事も出来ない。
ただただ、怖くて自分を守る為に二人を騙すように心に壁を作った。
★★★★★★
「……なんで私がこんな仕事を」
暫く経つと、ベビーシッター代わりで働いてたミヤコが頭を抑えてストレスをぶちまけた。母親が居ない今ではずっと苦労を強いているのは彼女だ。赤ん坊の身体で、手伝いも出来なければただ迷惑しかかけられない自分が申し訳なく思っていた。
「一応私、社長夫人じゃないの?美少年と仕事できると思ってあいつと結婚したのに、与えられた仕事は16歳アイドルの子ども世話!?そんで父親不明の片親とか、闇過ぎんだろっ!!私はベビーシッターやりに嫁に来たんじゃねぇえ!!」
割と正当性がある。
心からの本音をぶちまけて辛そうにしている。自分のせいで辛い思いをしている。迷惑かけない生き方は今は出来ず、ただ申し訳なかった。若くて、綺麗で何でも出来そうな人をずっと縛り続けているような自分が浅ましく、スピネルはミヤコの近くに迫った。
「そうよ、このネタ売ったらお金持ちに……」
そっと、袖を掴んで立ち上がった。
まだ不安定だけれど、その場に立つ事くらいは出来た。立ち上がった事にミヤコは驚いていたが、スピネルは少し拙い言葉でミヤコの瞳を見て告げた。
「ごめんねミヤコさん」
「えっ、し、喋っ」
「いつも、迷惑かけて」
自分が迷惑かけているから苦しんでいる。
その事実が辛くて、赤ん坊のフリをするのをやめた。騙し続ける事が辛くて、苦しんでいるミヤコを見ているのが辛くて、ただただ俯いて言葉を続けた。
「ずっと大変だったのに、辛い思いばかりさせて」
辛い思いだけ与え続けて何も返せない。
「何にも出来なくて、ただ苦労だけかけて」
母親であるアイよりも、自分達を見て頑張ってくれていたミヤコを見て、信用出来ない人じゃないって分かっているのに。
「本当に、ごめん」
ずっと気苦労を強いていた事がただ辛かった。
「私が……」
俯いて、自分の存在を恨めしく思った。
自分の無力さを実感して、死にたいとさえ思った。
「産まれなければ、少しは辛く……」
その言葉にミヤコはスピネルを抱きしめた。
動揺も混乱も押し殺して優しくスピネルを抱きしめた。その行動に呆気に取られていた。
「そんな訳ない……産まれてこなければなんて」
「でも」
「確かに辛いって思う事はあるわ。けど、それでも裏から見たアイさんはキラキラしてて、いつか壱護がドームをサイリウム一色で埋め尽くすって夢を一緒に追いかける事は楽しいから」
誇大妄想でもなんでもない。
夢を追いかけているから、その夢が実現できると信じているから。
「今は辛くても、報われる時が来るって思えるように頑張れるから」
辛い事は否定しない。
けれど、生まれてこなければなんて言葉を言わせるほどではない。その言葉に重みがありすぎた。本当に消えてしまいそうなスピネルを抱き寄せて、少しだけ怒った口調でミヤコは告げた。
「いなければよかった、なんて言わないで」
ミヤコの瞳には涙が流れていた。
スピネルは少し俯きながらも、ミヤコの涙を優しく拭った。
その後、スピネルはミヤコに全てを話した。
自分が生まれ変わった事、学校でイジメを受けていた事、前世の母親から酷い虐待を受けていた事、九歳で死んでしまった事、そしてそのせいで笑えなくなってしまった事を全て話した。
ミヤコが聞いた時は青ざめていたし、熱湯かけられたと聞いた時はアクアもルビーを目を見開いていた。交通事故で亡くなった白石紗夜という名前を調べれば事件の概要があったらしく、ミヤコさんは信じてくれた。
「じゃあ、あの二人は?」
「……わからない。人が怖くて、二人にあまり関わろうとしなかったから。多分違うと思う」
本当は知っているが、本当の母親であるアイがどう捉えるかわからない為、ぼかして話した。二人からしたらその方がいいだろうという配慮と、赤ん坊のフリをして騙していた分の借りを返す形でミヤコに伝えていた。
「お母さんには……まだ伝えないでほしい」
「でも、どうして?」
「……怖いの」
もうない筈の火傷した箇所を掴んで震えた。
トラウマは完全に消えたわけではない。寝ていたら勝手に身体が起きるし、満足に眠れない時の方が多い。死んだ時のフラッシュバック以上に前世の記憶が今を蝕む。
「お母さんがそんな事する筈がないって分かってるけど、会えない時間が多いから、話したらどうなるのか分からなくて」
「……それは」
「ミヤコさんは信じられるけど、私がお母さんに対して信用を預けきれなくて」
会えない時間で精一杯頑張っているのは分かっている。けれど、会えないからこそ怖い時もある。職を失ったら、夢を諦めたら人はまた変わる。会えない事には我慢出来るし、夢を追いかけ続けてるアイの邪魔にも重荷にもなりたくない。そこまで迷惑は掛けたくないから。
「おかしいよね……頑張ってるお母さんにそんな事思っちゃうなんて」
それに、スピネルはアイに
紫がかった髪と瞳はアイの子と一目でバレる。その為、中身があったと伝えた方がこの後で楽になる。だからミヤコに伝えたという意図も少なからずある。
信じきれない。
今の母親はそんな事がする筈がないって、分かっているのに前世の記憶が邪魔をして涙を流す。それを見たミヤコは優しく背中を撫でてくれた。
「……仕方ないわよ。そんな事があったら、怖がるのも無理はないから」
虐待された記憶による母親のトラウマ。
仮に、アイがアイドルという職業を失ってしまったらアイがどんな接し方になってしまうのか。アイ自身、愛を求めていた故に子供を作った。もしもそれを感じられずにただアイに気苦労を押し付けてしまったらもしかしたら変わってしまうのかもしれない。
「私なら信用出来る?」
「うん。頑張ってくれてるの、ずっと見てて……だから辛くて、大変そうにしてたから」
「大変ではあるけれど大丈夫よ。優しいあなたに出会えたから」
スピネルはミヤコを信用していた。
アイよりも母親のようで、いつも自分をお世話してくれていたから。文句はあるのは普通の感情だ。手を上げないだけまだ信用出来ていた。
「アイさんには内緒にしておくのね」
「うん。今はこのままでいいの。お母さんの邪魔だけはしたくない」
変に不気味に思われるより、この状況を保った方がいい。
「ごめんなさい……いつか必ず私から言うから」
「謝らなくていいわよ。私こそごめんなさいね、辛い事言わせて」
笑わない、泣かない、ただ不気味な赤子でしかなかったスピネルの心からの本音を聞いて、ミヤコはただ目尻から垂れる涙を優しく拭った。辛い思いに苛まれて、優しさを恐れて、ずっと自分が苦しんでいたのだ。
九歳、そんな短い前世が痛ましくてミヤコも泣きそうになっていた。
★★★★★★
「本当に留守番でいいの?」
「ベビーカー三台も行けないし。私は速攻でバレるよ」
「で、ですよね……」
スピネルが一番アイに似ている。
紫がかった髪と瞳は一目でアイの子だと直ぐにわかってしまう程に容姿が似ている。アイと違うのは目が軽く死んでいて常に無表情である所だが、それでも多くの人が集まるライブ会場にスピネルを連れていくのはリスクが高過ぎた。
「お母さんが帰ってくる前にミヤコさん達が帰ればいいだけ。私は気にしてないから」
「いや気にしますよ。身体はまだ赤子なんですから」
「じゃあ仲良くみんなでお留守番する?ルビーは絶対に嫌がるよ」
「それが現実的なんですけど……」
ルビーはその言葉を聞いて泣きそうになっていた。
我儘な姉であるが、二人の様子から前世でもアイのファンだったらしく、ライブに行けないと思った瞬間、嫌そうな表情が顔に出ていた。どうやら留守番は嫌なようだ。
「お母さんの応援に行かせてあげて」
「……本当にいいの?」
「うん。ミルクもオムツの代えも用意してくれたし、平気」
何かあれば電話くらいは出来る。
固定電話を近くに置いてくれたので、心配ないとスピネルは告げた。
「いってらっしゃいミヤコさん。アクアもルビーも楽しんできて」
「………終わったら直ぐに帰るから」
そう言って三人は出かけていった。
スピネルは一人の方が気楽だったりする。人間関係の問題で、どうしても頼れる人がおらず自分でなんとかしようと行動する事が多かった。人がいなければ何もする必要がない。ただ気を抜いていられるこの時間がスピネルにとっての心落ち着ける時間であった。
「ああ……なんか眠いなぁ」
ゆっくりと瞼を閉じる。
緊張感が解けて微睡んでいく。気を張って眠れないスピネルにとって、唯一気が抜ける時間にソファーに寝転がる。
眠気に誘われ、スピネルは夢の世界へと堕ちていった。
★★★★★
星野アクアは雨宮吾郎の生まれ変わりだ。
前世で、泣いていた子供にハンカチを渡した記憶がある。さりなちゃんが入院していた頃の事、たまたま通りかかった公園に見えた泣いていた子供。そして、僕の目の前で車に轢かれて死んでしまった子供。
あの子は虐待を受けていた。
交通事故が起きる前から、ずっと日常的に暴力を受けていた。ずっとそれが辛くて泣いていた。病院であの子の遺体を見た時、絶句した。肩には酷い火傷の痕、そして身体中アザだらけ。
母親は否定していたけれど、虐待容疑で逮捕された。
それに学校でも日常的に虐めを受けていたらしく、きっと誰にも頼れなくて、誰かを頼る事が怖くなって、助けを求められなかったのかもしれない。親は子供の味方をしてあげる筈、でもそんなの幻想と吐いて捨てる人間はきっといる。
あの時、僕の所に走ってきたのもきっと助けてほしかったからなのか。
泣きながら笑って、最後が僕でよかったなんて告げて亡くなったあの子。僕は頼れる人間でもなければ、助けられた覚えなんてないのに、僕でよかったって思えるほどに味方が居なかったのかもしれない。
白石紗夜。
あの子の生まれ変わりがスピネルだと聞いた時は絶句した。母親を信じられないという本音も理解できた。ルビーはその事実を懐疑的に見ていたが、僕は知っていた。
あの子の辛さは分かってあげれないけれど、誰にも頼れずに一人で泣いて、苦しんでいたあの子を知っている。
きっと僕やルビーが転生者である事を知って、赤ん坊のフリをしていたのは怖かったからだろう。ルビーよりも年齢が低く、中身がどんな人間なのか分からない。対人恐怖症といえばいいのか、きっと僕らも怖いのだろう。
今は家族になった。あの子は妹だ。
だから本当は怖がらないでほしいって思うが、仕方がなかった。
ゆっくりでいい。ゆっくりでいいから。
願わくばどうか、この子が幸せになれるようにとただ思う。
生まれ変わった理由の一つにそれが加わった。
★★★★★
星野ルビーは天童寺さりなの生まれ変わりだ。
正直に話そう。私はスピネルが苦手だった。アイドルであるママを知らなければ、赤ん坊である事も隠していたし、スピネルの前世の話も何処か嘘くさい。
私もお母さんといい思い出はない。
最期を看取ってくれたのはせんせで都心で働いてたお母さんは来てくれなかったのだから。
でも、母親なら子供を愛するのが普通な筈。だからそんな漫画のような虐待はあり得ないって思ってた。だから夜中に調べてみた。そんな事件があったならネットニュースにある筈だとママのスマホを借りて調べてみたら、虐待の疑いでその母親は逮捕されていた。
話は本当だったけれど、ママを信じれないのが普通に苛立つ。分かっているくせに、ママはそんな事を絶対にしないって分かってるのに信用してないのが一番苛立つ。
ママが頑張っているから私達が生きられるのに。何様なんだろう、って思っていた。
でも、そんな認識はある日を境に崩れ去った。
スピネルが魘されていた時の寝言が耳に届いた。
うるさいな、と思いながらもスピネルの方を見ると様子がおかしかった。
呼吸が荒くて、凄い汗を流してた。
肩を抑えて、苦しんでる様子でただただ「ごめんなさい」とずっと言い続けて泣いていたのを覚えている。アクアが軽く抱き寄せて、ゆっくりと背中を撫でていたけどずっと泣き続けていた。
その時、思った。
この子はきっと私よりも幼くて、私よりも辛い日々を過ごしていたのかもって。日常的に辛いというなら闘病生活で私は負けてないと思っていたけど、人から与えられた暴力、愛情のない母親からの虐待、もしも私だったのなら私は耐えれたのだろうか。
ずっと苦しんで、ある筈のない火傷の場所を押さえて泣いているその子が見てられなくて、私も背中を摩った。
人が信用出来ない気持ち、それはよくわかる。
この子はそれが特に強くて、信用出来なければ味方を作れないし、自分が居なければなんて思って、きっと心が幼くて自虐的。環境のせいもあるけれど、信用を預けるのが怖いって思ってる。
いつか、私に信用を預けてもらえるようにこの子を支えてあげたい。
私はこの子のお姉ちゃんだから。
★★★★★
スピネルは笑わない。
いつも留守番している。スピネルの容姿は私の子供と即バレるから、髪型をわざと変えたりしていたし、外に出る時は必ずフード付きのパーカーと帽子を着用する。幼稚園の時はベレー帽を深く被って、部屋の隅っこで絵本をよく読んでいたらしい。
全く笑わない。笑ってくれない。
無表情で絵本を読んで友達を作ろうともしない。園児の先生が声をかけても大丈夫と口にしては遊びにも行かないってアクア達は言ってた。
幼稚園がない日の撮影にアクアやルビーを連れていく事はあっても、スピネルは決まって留守番している。その方が気楽だから気にしないで、とミヤコさんもその言葉に少しだけ甘えている。
ミヤコさんは言いたくなさそうだったけれど、このまま擦れていくのを見ていられずに教えてくれた。
スピネルには前世の記憶がある事。
人間関係、家族関係で酷い思いをしていた事。熱湯をかけられたなんて、私以上の地獄を生きて九歳で亡くなってしまったらしい。
自分が爆弾だと分かっていて、それを自覚しているからずっと爆弾である自分は出ない方がいいと思って、いつも一人になる。
その認識は正しい。
私の隠し子はバレたら終わり。だからこそ、それは正しい行為だ。
とても利口な子供である。
そして何一つ文句も言わない。我儘も言わない。そして自分の気持ちを何一つ口にしない。
まるで人形のようだった。
自分の為に人生を生きていない歪な子供。
ずっと、心から笑う様子を見た事がない。
母親としての私は少しだけ不安だった。
自分が、子供を愛せているだろうか。
スピネルを見て、ただそれだけが心に突き刺さる。
★★★★★
社長達が帰って、アクアとルビーが疲れて眠っていて後片付けをしていた。ミヤコさん達も少しだけ酔っていたから後片付けは自分でやると言ったけど、おつまみやお酒やらで結構片付けが少し大変だった。そんな中、スピネルがスーパーの袋におつまみの袋のゴミを捨てていく。
「スピネル、寝てもいいんだよ?」
「いい。お母さん明日大事なんでしょ。二人でやったら早く終わるし」
そう言って、お皿をキッチンの洗い場まで運んでいく。
本当に気遣いの出来る子なのに、作り笑いすら浮かべずにただ淡々と運んでいくその様子を見て、アイは意を決した。
「ねぇ、スピネル」
スピネルの本音をアイは尋ねた。
「私がお母さんでよかった?」
足が止まった。
ゆっくりと振り返ると少しだけ悲しそうな表情でスピネルを見つめるアイ。その視線を逸らせずにお皿を置いてはその場に立ち止まった。少しだけ俯いて、目が軽く泳いでいた。
「ごめんね。ずっとスピネルに負担ばかりかけて、そばにいてあげられる時間も少なくて」
「そんな事ないよ……」
そんな訳がない。
ここまで生きていられたのはアイのおかげだ。時間が無くたって、そばにいてあげられなくても文句なんてない。我儘も言わない。それが当たり前の事だったから。
「スピネルは、私が怖い?」
「っ」
その言葉に僅かに動揺した。
怖くない、と言えば嘘になる。けれどそれは個人的な話だった。
「お母さんの問題じゃないよ。悪いのは私だから」
「……スピネルが虐待を受けた女の子の記憶を持ってるから?」
「っ、なんで知って……!?」
「ミヤコさんに相談したの。スピネルが笑わない理由。でもミヤコさん、本当は話したくなさそうだったから私が無理に聞いたの」
その言葉に少しだけミヤコに対しての憤りを感じたが、仕方のない話だった。アクアやルビーと違って、スピネルはアイに甘えない。その在り方から家族としてのすれ違いが生まれていた事はスピネル自身も分かっていた。ミヤコはそれを危惧して、言いたくはなかった秘密をアイに話した。俯いたまま、スピネルはアイから視線を外して話し始めた。
「……怖いんじゃない。お母さんが頑張ってるのは知ってるし、ただトラウマを引き摺ってる私が悪いの」
此処は穏やかな場所だった。
前世では殴られていることが当たり前だった。優しい祖母を失って、優しさのない母に殴られ続けて、だからこそ不安になってしまっていた。
痛みに慣れていたから、痛みがない世界に不安を感じる。でも、痛い事が好きなわけではないし、そんな日々は二度と送りたくない。けれど、痛くならない為に動いていたからこそ、痛みがない今では原動力に欠けていた。どこへ迎えばいいのか、どうしたらいいかわからなくて不安だった。
白石紗夜は死んだ。
死んで生まれ変わって、一人であるのは慣れている。人が怖くて、恐ろしくて、平気で傷付ける事を恐れているから、一人でありたかった。頼れなくてもいい、自分の身を守れる環境があればそれでよかった。
「我慢してるのだって、この日々を壊したくないからだし。私はそれだけでいいの。この日常が嫌いじゃないから」
それだけあればよかった。
望んではいけないとスピネルは思い続ける。
「私はそれだけで──」
アイは優しくスピネルを抱き寄せた。
抱き寄せられたスピネルは目を見開いて困惑した。
「ごめんね」
アイは抱きしめたまま謝罪を口にした。
「ずっと言えなくて、スピネルに抱え込ませて」
ずっと、こんな顔をさせるまで言えなかった自分が恨めしいと思うほどに、こんな小さな背中に込められた想いに気付いてあげられなかった事がアイにとっては辛かった。
「私ね、スピネルが大好き。可愛くて優しくて私の自慢の娘なの」
「えっ……?」
ずっと辛い思いをさせていた。
似ているから、アクアやルビーと同じように生きさせてあげられなかった。留守番する事が気楽だって言っていた。けど、それは真逆に見えた。本当はスピネルだって二人のように生きたかったみたいに見えた。
「もしも、生まれてきた事に罪悪感があるなら……私からお願い」
前世があるからとか関係がない。
手を引いてあげたいから、この子と一緒にいたいと星野アイが思っているから、スピネルを見て告げた。
「スピネル、私の家族になってくれませんか?」
スピネルは目を見開いた。
アイが告げたその言葉に服をギュッと掴んで震え始めた。掴んだ箇所を強く握ってはポロポロと涙が溢れ始めた。
「いい…の……?」
ずっと、欲しかった言葉。
ずっと心の底に押し込んで蓋をした感情が涙となって溢れた。自分の願いはきっと叶わないと、そう思い続けていた。自分が異端で、自分が人を信じきれなくて、恐怖に震えていた自分をアイは優しく抱きしめて、背中を撫でていた。
「うん」
「ずっと、お母さんに…笑えた事もないのに……」
「いいの。これから笑えるようになれたらいいんだから」
「私が…家族になっても……いいのかなっ……!」
ずっと、欲しかったもの。
家族が欲しかった。血の繋がりだけの歪な在り方で生まれただけの家族ではなく、きっと誰よりも信じられて笑っていられるだけの居場所が欲しかったから。
こんな歪な自分を受け入れてくれる事に涙が溢れながら口にした。本物の家族として受け入れてくれるのか。
「スピネルだからいいの。貴女が誰であっても、私の娘に変わりはないんだから」
「……っ…ぁ、うあ…あああっ……!!」
笑えなかった人形、感情を押し殺した子供は泣き叫んだ。ずっと凍り付いていた心を溶かしたのは母の愛、きっとそれを心のどこかで憧れて、望んでいたから。心の底に溜め込んでいた感情を全て吐き出すように泣き続けていた。
「スピネル…愛してる」
四年の時を経て、スピネルとアイは家族になる事が出来た。
★★★★★★
次の朝、泣き疲れていつの間にか眠っていたスピネルが目を覚ました。寝ていたのはアイの部屋で、目を覚ましてはリビングに向かうとフライパンを持っていたアイがいた。
「おはよう、お母さん」
「ありゃ、スピネルもう起きたの?」
「なんか目が覚めちゃって……お母さんは?」
「少し緊張しちゃってて、スピネルは目玉焼き食べる?」
「いる」
朝食を作ってくれてる。
あくびをしながら、アクアも起き始めている。ほんの少しだけ、スピネルの様子が変わった。もう気を張らなくていい。家族になれたのだから、まだトラウマはあれど怖くない。
ずっと望んでいたものが手に入って、身体が軽い気がした。
「ドームの開始っていつなの?」
「十三時頃で、向かうのは九時半くらいかな」
話していると、インターホンの音が響いた。
意外と早い時間帯、少しだけ首を傾げていた。今は七時、こんな早くに迎えに来るとは思わなかった。
「あれ、佐藤社長かな?」
「斉藤社長ね。お母さんはルビーを起こしてきて、私が出るよ」
「いいの?」
「うん。ミヤコさんにも少しだけ伝えたい事あるから」
「わかった。じゃあお願いねスピネル」
ミヤコに伝えたい事は色々とあった。
漸く家族になれた事、そしてミヤコも母親のような存在だったという事、今なら伝えられる気がした。
「はーい。今開けますよー」
ガチャリ、と鍵に手をかけてドアを開いた。
そこに居たのは見知らぬ人で白い花束を持っていた。見下ろしていた視線は僅かに動揺し、こちらを見据えていた。
「お前、アイの子供か」
「えっ?」
「なら、お前でもいいや」
白い花束が視界を埋め尽くした。
不安、恐怖、そして激痛。
ザクッ、と耳に届いた音と急激に熱くなる。激痛が走り、立てなくなる小さな身体。赤く染まる手、自分が刺されている事に漸く気付いていた。
「……っ、あ……」
「ふはっ……痛いかよ」
血が滲み出て刺された所がどんどん赤く染まっていく。抜かれた刃物が赤く滲んではそれが自分の血であると気付いては激痛で視界が赤く染まる。
「俺はもっと痛かった!苦しかった!」
「えっ………?」
ドアを開けて何事かと確認するアイ。
その光景に目を疑った。白い花束、お腹を抑えて苦しんでいるスピネル、そして赤く染まった刃物とフードを被った男。
「スピ…ネル……?」
「お、母さん…!来ちゃダメ……!」
「あ、ああああああああああああスピネル!!?」
「お前の何百倍も苦しかった!アイドルの癖に、子供作ってファンを弄んで、内心笑ってたんだろ!この嘘つきがっ!!!」
スピネルを抱きしめて悲痛の叫びを上げるアイに刃物の男は刺したナイフを振りかぶる。アイの叫び声にアクアが止めようとドアを開いたその時だった。
「やめて……!」
声が響いた。
血を吐きながら、倒れずに腹部を押さえていたスピネルの声が場を静寂へと導いた。
「お母さん、から……何もうばわないでよ……」
「スピネル!喋らないで!!」
「なんで、うばおうとするの……?」
苦しそうな顔をしながら向けた視線と、尋ねたその言葉に男は耐えきれずに後退する。その瞳は星を宿して、涙が溢れていた。それはアイに似ていて、そして星は黒く憎悪を抱いていた。
「やっと、かぞくになれたって……おもえたのに」
その言葉がとても重くて、足が止まった。
男はあるはずのなかった罪悪感が芽生えた。今、自分が何をやっているのかを理解して手に持つナイフが震えていた。
「リョースケくん、だよね」
「っ、な、んで……」
「星の砂、くれたの君だったから覚えてるよ……ずっとファンだったの嬉しかったから。君みたいな人がいるから、ファンを愛せるって思ってたの」
アイはスピネルを抱えたまま男について告げた。
「けど、私の大切な子を傷付けるなんて思わなかった」
黒く染まった星で男を睨みつけた。
殺してやる、と訴えるような鋭い視線が男に突き刺さった。
「もう私は貴方を愛せない」
「あ、ああああああああああああああっ!!!」
そういうと男は走り去って逃げていった。
激昂して襲いかかってくる可能性もあったが、いざとなったら自分が刺されてもスピネル達を守ろうと考えていたが、賭けには勝った。
「な、にがあったの……ママ!アクア、開けて!!」
「来るなルビー、頼むから……!」
ドア越しで叫ぶルビーにアクアは告げた。
力が抜けたようにドアにもたれかかってスピネルを抱きしめているアイがドアを抑えていた。こんな所を見せたらきっと、ルビーもアイのようになってしまいそうだったから。
「今救急車呼んだから!アイはスピネルの出血箇所を抑えて!」
「スピネル!お願い、目を閉じないで……!」
「クソッ、出血箇所が大動脈付近かよ……!」
スピネルの身体を圧迫して血を止めるアクア。
圧迫され、顔を歪めて苦しんでるが、包帯とバスタオルで傷口を塞いで血を抑えていく。子供の力でもアイが居れば何とか処置が出来る。
「アクア……?」
「死なせねえよ!また同じ思いしてたまるか!僕が生まれた意味がこれなら死なせたら間抜けすぎんだろっ……!!」
「また……?」
「産ませるって約束も、この子を助けられなかった事も、ずっと後悔してんだから……!!」
その時、アイはアクアが誰なのかを悟った。
アクアの言う通りに処置を施してはゆっくりと身体を寝かせた。
「アクア…あのとき、の……おいしゃ…さん…みたい」
「喋るな!絶対に助けるから!!」
「おかあさん……だいじょ、うぶ?」
「私は大丈夫!けど、スピネルが……!」
「いいの……おかあさんじゃなく…て、よかった……」
その事実に胸を撫で下ろした。
けれど、アイは首を振ってそれを否定した。
「よくない、全然良くない!」
「アイ……」
「私が頼まなければ、こんな事に……!!」
混乱して、失ってしまう恐怖に叫んだ。
もしもあの時、スピネルに頼まなければこんな事にはならなかった。もしもあの時、自分が出ていたなら。
「私が代わりになれたら……!!」
その言葉を塞ぐかのようにそっと、頰にスピネルの手を添えられた。小さくて温かい手がアイの頰を撫でた。泣かないで、と告げているようでスピネルは少しだけ悲しい顔をしていた。
「そんな、こと、いわないで……」
「っ、けど!!」
「わたしが…さされたの、バカみたいじゃん」
代わりになれたら。
その言葉はきっと、立場が逆だったとしても同じ事を言っていた。もう自分の命より大切だと思えるものを守れたのだから。泣かないでほしかった。充分過ぎるくらいに貰えたから、それを失ったら今度こそ死にたいって思ってしまっていたから。
「いいの……おかあさんがいきてて…くれたらそれで」
小さな手がアイの涙を拭った。
そっと、優しく震えた手で頰に触れた。手についた赤が頰についてしまい、下ろそうとした手をアイは優しく握る。涙が溢れて止まらない。愛している子供を失うのがこんなにも怖いなんて思わなかった。
「おかあさん……アクア…ルビー…」
最後の最後で、スピネルの瞳の星が白く染まった。
「愛してくれて……ありがとう」
スピネルは笑った。
もう、笑えないかもしれないから。
本当はもっと一緒にいたかった。
でも、もう会えないかもしれないから。前世では家族に恵まれなかった。だけど、今は違う。愛してくれる母親が居て、支えてくれた兄と姉がいた。ずっと望んでいた事が叶ったから。此処に生まれてきてよかったって思える。
だからきっと……
「私……しあわせだった」
スピネルは目を閉じた。
眠くて、もう瞼を開けていられなかった。泣き叫ぶ声も、抱きしめられた温かさも徐々に遠ざかっていく。
泣き叫ぶアイに目を見開いて動揺しながらもスピネルの処置をするアクア、ドアの向こうで泣いているルビー。嘘を吐く事で、いつか払われるかもしれなかった代償は最悪の形で精算される事になった。
★★★★★
その後、スピネルは辛うじて一命を取り留めた。
アクアが出血に対しての対処法を完璧にしたおかげで絶命だけは免れた。だが、出血が酷すぎて脳にダメージが及んでいる可能性が高いと医師は告げた。いつ目覚めるかもわからない、起きたとしても障害が残る可能性は低くはないとのことだった。
ストーカーの男は自殺した。
アイもドーム公演の延期を発表。中止にすればそれこそ苺プロダクションの損害が大きい為、アイの精神が安定してからの公演となった。
アクアもルビーも笑顔が少なくなった。
あの日に起きた事は相当心に響いている。毎週スピネルのお見舞いに行っては手を握ってずっと意識が戻るのを待っているが、スピネルは目覚めない。アクアは五反田監督の下で子役の勉強、ルビーもアイからアイドルについての勉強をしている。二人ともスピネルが目を覚ますのを待っているが、現実は非情だった。もう何年も目覚めない。
特に一番酷かったのはアイだった。
前世の記憶がある事を知って漸く家族としてスピネルを愛せると思った矢先に起きた傷害事件。ドーム公演が終わった後、アイは半年の活動休止。本当は無期限の中止にしてスピネルに掛かり切りで見たいと思っていたが、入院費もそうだが働かなければスピネルの治療費を払えない。トラウマもあり、ドラマの役は少しだけ減った。それでも家族の為にアイドルやタレントと働き続けた。
休みの日はいつも病院に行ってスピネルの手を握る、手を握りながらアクアやルビーの事、自分の心情を伝える。聞こえているかは定かではないのに。
ミヤコも相当酷かった。
一番最初に信頼されて、スピネルの内情を知っていたからこそ漸く打ち明けて家族になったと思った次の日にこの有様だ。神様はこの子が嫌いなのかと泣きそうになった。ミヤコもきっと娘のように見ていたからお見舞いによく行く。ずっと額を優しく撫でていた。
スピネルは眠り続ける。
時間が経つにつれて痩せ細り、髪が長く伸びては無情にも時が過ぎていく。アイ達が握る手を握り返す事なくただベッドの上で物言わぬ骸に成り果てた少女は目覚める事はなかった。
それから十年の時が過ぎた。
彼女はまだ、目を覚まさない。
十年後の救いは?
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ある
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ない