ただいまにさようなら 作:Interdiu
早朝の湧き水のぴりっとした冷たさを両頬に感じるとき、マイスは、自分が今何ものであるかを改めて思い出す。
まるで、差し出された手桶の底からぬるま湯を掬いとらされるかのように。
水汲み場の脇に吊るした厚手のタオルで両手を拭い、寝癖のついたイエロー・ブロンドをざっくりと掻き上げ、振り向きざまに借り物の平畑を、ひとしきり見渡す。
緑の絨毯さながらの葉の群れの合間にうねるツタの太さは、土の中で育っている地下茎の大きさを、はっきりと知らせてくれている。
秋野菜の実付きは、それなりによさそうだった。
もう数日もすれば、出荷箱の中には種々雑多な地下茎がぎっしりと詰め込まれることだろう。
シアレンスの大樹の膝下では、いつだってそうなのだ。
近頃は洞窟や氷原に繰り出すことも少なくなった。
このところのマイス家の家計は、概ねこの畑からの恵みのみによって立てられていて、揺るぎない。
彼がこのシアレンスの街に根を下ろしてから、重ねた年月はもう、片手では足りなくなっていた。
日々はゆったりと、それなのに充ちたりたままで過ぎ去って、今ではその残滓が次なる日々の苗床となって、日々は続いていく。
得られるものがあり、失われるものもあるのに、そのいずれもがひどく自然で、気の置けない日々。
畑の西側半分に水やりを済ますと、二階で眠っている彼の妻がそろそろ起きだしてくる時刻だった。
夫婦仲は円満だ。
何の裏表もなく、何の気がかりもない。
初めてお互いのことを友人として好ましく思ったときそのままの意識が、二人のあいだには今もなお息づいていて陰りがない。
いささか危なげにも見える、そのくせ堅固な釣り合いはしっかりと保たれている。
少なくとも、表面上は。
表面上は。
それは、つまり、その内幕では暗いきざしが見え始めているということではある。
いくつもの山の向こう際から響いてくるような、灰色じみた不安の足音をマイスは感じ取ってはいた。
だけど、その頭痛の種にはみょうに浮世離れした曖昧なところがあって、それが不安であることを認めるのには、まだどこか少し決定的なところが足りなかったのだ。
水やりを終え、一息つく。
もういちど畑をぐるりと見渡して、今日一日これからのことをぼんやりと考えていると、春鳥の朝のさえずりが樹の上から聞こえた。
マイスは水汲み場のすぐ右のところから伸びている、上がりの階段のほうを見つめ、ふと微笑んだ。
おはよう、と聞こえ、朝ごはん、できた(わ)よ、と続く。
おはよう、と応え、ありがとう、こっちも終わったよ、と続ける。
それはもう百度目の幸福な時間。
そしてまた、今となっては限りの見えた、掛け替えないひととき。
マイスは何も言えなかったし、どうしようもなかった。
今の彼には、今まで通りをそのままそれなりにこなしていくことしか、やりようがなかった。
ずっとこんなふうなままで居続けられるのなら、それはどれほど幸せなことだろう。
彼は心の底からそう思っている、それがやがて音もなく崩れてしまうのかもしれないから、なおさら。