ただいまにさようなら 作:Interdiu
書庫はカビ臭く、暗い。
降ってきた階段の外に広がる、荒い砂漠の熱気とは似ても似つかない空気が漂う。
マイスが入り口の扉を閉めようとすると、オンドルファはしばらく開けたままにしておくよう、手振りで促す。
「たまには換気をしておかなくてはね」
と、オンドルファは上窓を開けながら説明する。
「ここは私たちにとっての過去なので、あんまり足を運ぶことはありません。
それでも、自分や先人たち、研究者気質の有角族の大事な日々の成果ですので、その通り、大事にしないといけないのですよ」
ヒトの記憶というものについてより深く知るために、マイスは彼ら有角族の知識を当てにすることにしたのだった。
過去を取り戻すにせよ、捨て去るにせよ、決断の前には目の前にそびえるものが何ものであるのかを知らなければならない。
何もかもを曇りなく見通すことは人の身に余ることではあっても、出来るだけその域に近づこうとしておくのは大事なこと。
さまざまな季節ごとの作物との関わり合いのなかで、マイスはそういったふうな、“遊び”のある建設的な規範意識を身につけてきたのだった。
生きた植物はヒトの思い通りに踊ることはないけれど、それでも出来るだけより良く育てようという努力は、それなりに実を結ぶ。
それなりに。
掃除に小一時間ほどかかり、その後書庫のちょうど真ん中に据えられた縦長のテーブルを前にして、レクチャーが始まった。
テーブルの上には図入りの表が広げられ、組み木の魔術モデルが二つ三つ並び、その隣には何冊もの本がひとまとまりに重ねられて積みあがっている。
けれど、さしあたりオンドルファは、そういったものよりも言葉でマイスに伝えることを選んだ。
そびえる本棚に囲まれ、樫の木を使った焦げ茶色のテーブルの大きな木目のところに腰掛けて、ちょっと込み入った世間話でもするように。
記憶というあやふやなものについて識られている事がらを、出来る限り分かりやすく、堅実な論理展開で。
◆
オンドルファがエッセンスを語り終えるのに、半刻ほどかかった。
背もたれつきの椅子に触れている身体がもぞもぞする。
マイスは、識ることへの興奮とうっそりとした疲れとの裏表を感じていた。
独演会は一区切りついた。
その後、質疑応答に移った。
記憶はそれぞれ、繋がっているということですか、とマイスが尋ねる。
昨日の夜に食べたものだとか、そのとき目の前にした机の上の花瓶に活けられた花のことだとか、妻の表情だとか。
するとオンドルファは、いくらか大げさに見えるくらいにかぶりを振った。
「いいえ、いいえ。その繋がりそのものこそが記憶の姿見なのですよ」
テーブルに腰掛けたまま、オンドルファは強調して言った。
「あなたから見た私、オンドルファという男のことを考えてみてください。
触れられた私の指の暖かさ、触感、目の前で揺れた髪の色、服の染色やその匂い。
さまざまな、ありとあらゆる印象。
それらの繋がりこそが記憶の本質なのです。
私たちの内側には記憶という“モノ”があるわけではありません。
記憶という役割を果たしている、印象の連環があるばかりなのです」
「……分かるような、気もします」
マイスはあごに片手を当てながら、慎重なそぶりで言った。
「たとえば、僕が氷を意識する。
感じる冷たさ、見かけの透明感、走ったヒビ割れの白さだとか、突き刺さりそうな端々の鋭さ。
そういう、僕が感じ取った印象の繋なりのひとまとまりこそが、僕のなかでの氷という記憶である。
こういうことですか、オンドルファさん?」
「概ねその通りです、マイスさん」
と、彼は教鞭を振るしぐさをしてみせた。
「優秀ですね。
ちなみに、冷たい、だとか、白さだとか、そういう細かな印象もさらなる印象に切り分けることができるのですが、まぁ、それはひとまず置きましょう。
とにかく、記憶というものがそういったものだとすれば、とりわけ特定の記憶というものを、狙って完全に消してしまうことがとてもとても難しいことだというのは分かるでしょう?」
「そうですね、僕のなかから氷という記憶をすっかり消してしまうと、僕は冷たいだとか、白いだとか、そういう単純なことがらまでもが分からなくなってしまうわけだから」
言いつつ、マイスは首を捻ってみせる。
「……でも、おかしくはないですか?
実際に僕は、記憶を失っている。
それに、マージョリーさんに聞く限りでは、そこまで頻繁に見られるものではないにしても、記憶喪失という病気はちゃんと医学の本に病名として載っている」
「ここからは想像がいくらか働くのですが、あなたの記憶喪失と、医学書に載せられているような普通の記憶喪失は、本質的に異なったものなのではないかと思うのですよ」
「というと?」
「ノーマルな記憶喪失は、掻い摘んで言えば、頭を強く打つなどして、記憶という名の印象の繋がりを辿るためのきっかけを取り落としてしまった、というものです。
この場合、繋がりの糸を手繰り寄せるそもそもの始まりの部分を見失ったというだけで、印象の繋がり自体は何ら変わることなく存在したまま。
だから何かの拍子にそのきっかけを見つけ出せば、芋づる式に色々なことが元通り思い出せるようになる、というわけです。
しかし、聞く限りでは、あなたの経験した想起現象は、実際の記憶喪失の回復とはかなり毛色が違っているようだ」
そう言われると、と、マイスは考え込んだ。
思い当たるフシが、それなりにはあったのだ。
彼のなかでは、情景の切れ端が今もなおもろもろとしたままで浮かんでいる。
けれどそれはたったのそれだけ、独立した音や、景色や、感触や匂いや気持ちだけで……
自分が何処に居ただとか、どれくらい前のことだったのかとか、時刻、季節、そのときの天気、それどころか切り飛ばして茂みに落ち込ませたものがなんだったのかという繋がり深い具体的な事実ですら、いくら頭を捻っても見つけだすことができない。
思い出したくない、というわけではなく、ただ思い出せないのである。
切れ端じみた、たったのそれだけの記憶。
そしてまた、そうであるからこそ、身体の奥深くに食い込んだままの鉄きれのように、マイスの心を模した身体に、鈍い痛みを与え続けているのだ。