ただいまにさようなら 作:Interdiu
何も変わらない。
本当に何も変わらない。
マイスはそんなふうに口の中で呟きながら、体の隅々までを検めて、やがて目を伏せ、頭を振った。
自分自身につく半端な嘘は、とてもとても居心地が悪かったけれど、でも、それでもつき続けておかないと、いつの間にか軒下から母屋までを取られてしまうことになるような気がしていた。
悪あがき、ではあった。
だけど、悪あがきにも役立つときには意味がある。
足掻いている、という実感触こそが、今のマイスにとっては必要なものだったから。
たったのそれだけすら許されないままに、今この時の自分とまっすぐに向かい合うことを強いられていたなら、彼はめっきり疲れはててしゃがみ込んでしまって、しばらくの間立ち上がることができずにいたかもしれない。
マイスのために設えられた有角族のテントから出ると、降り注ぐ午後の日差しが彼のこめかみをずきずき言わせた。
ポータルにまで出向く間に、オンドルファとすれ違った。
どうでしたか、と問われ、マイスは手短に巧くいったことを伝えた。
そうですか、それはよかった、とオンドルファは述べ、それでも何か問題が起こったときには、些細なことでも甘く見たりはせず、自分を頼るようにと念を押した。
このところのそれなりに深い付き合いから、その言葉が紛れも無く善意から出ているということは分かりすぎるほど分かっていたが、マイスはいくぶん煩わしさを感じ、やむを得ず表情を創って、ええ、ありがとうございます、と言った。
◆
ただいま、といって大樹の扉を潜ると、妻は努めて普段どおりに、何事もなかったかのように振舞ってくれた。
マイスにはそのことが嬉しかった。
今までの日常が、少なくとも見かけの上では、今まで通りつつがなく続いているかのように感じられる空気。
それが造られたものではあるにしても、今の彼には折れた足骨のための松葉杖の役割を果たすことができる。
この場所は、この町は、自分に優しい。
テーブルにつき、いつもどおり夕食の準備をしている妻の後ろ姿を眺めながら、マイスはそんなことを考える。
そうして、彼は人知れず涙ぐむのだった。
マイスは自分が今、幸福であることを感じていた。
それは乾けた幸福ではあったけれど、それでもそれが幸福であることには、変わりない。
昨日から今日にかけて、そしてこれからしばらくの間、念のため畑仕事は休みにしてある。
農夫と研究者の二足のわらじもまた今日限りだった。
当分は身体を休め、肉体と精神とを馴染ませるための慣熟期間を取ることができる。
もちろんオンドルファの言うとおり、施術のリバウンドなどには気を付けなくてはならないが、それでも、憂うべき事態のほとんどは過ぎ去って、目の前には安穏たる日常だけがただゆったりと横たわっていた。
マイスは長い間悩んできたし、今もなお後悔の気持ちは胸のうちにある。
けれど、今となってはもう、そんなものは大したことにもならなかった。
何故ならその後悔は、すでに取り返しのつかないものだから。
踏み越えたのだという事実は、厳然としてある。
後顧の憂いが確かなものとなることで、後顧の憂いは絶たれた。
そうして故郷は失われたのだ。
ただここには、マイスの終の居場所があるばかりだった。
実感が、じわじわと染み出すように沸き起こっていた。
マイスは立ち上がった。
「僕はもう、何処へもいかない」
妻を背中から抱きとめると、こんなふうなことを言った。
「何処へもいかないよ。この場所だけが、僕の住処なんだから」
マイスは少し寂しそうな笑顔を浮かべていた。
妻は片手でマイスの二の腕を握りしめ、もう片方では目もとをしきりに拭っていた。
しばらくそのままでいた。
やがて中くらいのため息をついた後に、マイスは、今日の夕食の献立を尋ねた。
了