ぼくは、『女の子』になりたかった。
父さんは、夜遅くに来ては、朝まで居ることはなかった。
戻ってくるたびぼくと母さんを殴ったし、いつも酸っぱくて辛い変な臭いがした。
母さんは、父さんがいない間ぼくを怒った。
ぼくが女の子だったら、そういって母さんはぼくを叱った。その顔はとても歪んでいた。
なんども、なんども、そう言われ続けてきた。
だから、ある日ぼくは『女の子』になることにした。
脱ぎ捨てられていた母さんのドレスを着て、床に転がって欠けた母さんの口紅を塗った。
切ってもらえない髪を、窓辺に飾ってあった人形みたいに結んだ。
その日から、父さんも母さんもぼくを褒めてくれた。
毎晩僕の寝ている布団に、父さんは帰ってきた。酸っぱくて辛い臭いは、生臭くてえぐみのある臭いになった。
毎朝汚れる僕を母さんは洗い、髪をとかし、新しい服を持ってくるようになった。その顔はもうぐちゃぐちゃに歪んではいなかったけど、目を見てはくれなくなった。
そうして、もうしばらく経った頃。
目の前に現れた、真っ赤な髪の女の人が、ぼくを攫った。
◆ ◆ ◆
連れてこられた豪華なお屋敷には、ぼくくらいの歳の男の子がたくさんいた。
みんな綺麗な髪、綺麗な服、綺麗な声と綺麗な匂いをしていた。
赤い髪の女の人は言った。
「不幸で可哀相なあなた、大丈夫。あなたは私に愛されていなさい、そうすればきっと幸せよ」
そうなのかな、そう思った。
ぼくは身体を洗われ、伸びていた髪を切られ、新品の服を着て、つくりものみたいにきらきらしたご飯を食べて、たまに戻ってくる赤い髪の女の人と一緒に眠った。
これが幸せなのだろうか。ぼくにはわからなかった。
殴られなかったし、お腹は痛くも空くことも重くなることもなかったし、朝起きたら身体が汚れていることも、口の中や喉がトゲトゲすることもなかった。
でも、ぼくにはそれが幸せなのかは、わからなかった。
◆ ◆ ◆
赤い髪の女の人に、してはいけないことをいくつか教えて貰っていた。
その中に、女の服を許しなく着てはいけないというものがあった。
たまに何人かの男の子が、赤い髪の女の人に言われて着ていたそれが、ひどく羨ましくて。
ぼくは直接赤い髪の女の人に言った。
「ぼくもあの服が着たいです」
そう言った僕を、赤い髪の女の人は驚いたように見つめたが、すぐにこう言った。
「それなら私の弟子になりなさい」
それで許されるのならと、ぼくは頷きたかった。
けれど周りの男の子たちは、それを止めた。理由は話してくれなかったが、みなひたすらに、「今の方が幸せだよ」と。
でも、ぼくは赤い髪の女の人の弟子になることにした。
きっと、そうならなければいけないと思ったから。
ぼくの答えに赤い髪の女の人は少しだけ悲しそうな顔をした。
そして、ぼくに大きな大きな帽子をくれた。
「今日からあなたは私の弟子よ」
その日から、ぼくの生活は変わった。
女の子の格好をして、毎日変な文字が書かれた本を読まされた。次の日に、それがどんな本だったかを訊かれ、答えられなければ焼きごてで背中を突かれた。
傷は赤い髪の女の人が息を吹きかければすぐに治ったけれど、毎度寝る前になってじくじくと痛んだ。
痛いことはなんでもなかった。
ただ綺麗な服が、焼きごてを押し付けられるときに破られるのが悲しくて、ぼくは頑張って本を読んだ。
本を読んで、焼かれ、読んで、覚えて、
本が増え、読んで、焼かれ、覚えて、また本が増え。
焼かれて、覚えて。焼かれて、覚えて。焼かれて、覚えて。
そんなことをしている間に、焼きごてを押し付けられるときに服を破られないように、焼きごてが直接僕の肌に当たるようにすり抜けさせるようにしたり。
本に書かれた文字はすらすら読み取って、わざわざ何かに書きとらなくても覚えられるようになった。
そのくらいになって、赤い髪の女の人が牢を開けて、ぼくに言った。
「出てきなさい、話をしましょう」
呆然とする僕の手を取り、半ば強引に赤い髪の女の人は僕を立ち上がらせ、牢から引きずり出した。
久しぶりの照明の光が、眩しくて目がちくちくしたのを覚えている。
それから、どれほどの時が経ったかはわからなかったけれど、豪華なお屋敷にいた子達は戻ってきたぼくを見て目を丸くしたことも。
とはいえ、ろくにお話もできずぼくは赤い髪の女の人に言われるがまま、お風呂に入れられ、デザートのついた食事を食べて、新しい洋服を着た。
そしてそれが終わったら、彼女は僕を寝室へと招いた。
何度も入った寝室の奥。天蓋つきのベッドの柱に触れると、ずずとそれがズレて階段が現れる。
招かれるままに、足を踏み入れると。
ぼくが読んだ本が、ぎっちりと収められた本棚。
濃い青緑の石の板にびっしりと張り付けられた紙と、無数の文字。
見たこともないような植物や、何かの身体の欠片が入った瓶。
これまで読んでいた文字だらけの本じゃなく、絵本の中で出てくる悪い魔女の家のようなその場所で、赤い髪の女の人は口を開いた。
「まさか、あれだけ痛めつけても音を上げないなんて」
半ば呆れたような言葉だった。
たしかに身体は痛かったけれど、痛いのには慣れている。それに、やれと言われたならやる。
「……そう。なんにせよ……あなたは私の与えた課題を熟した。あらためて名乗りましょう」
少しだけ髪を揺らしたが、女の人はすぐにいつものしゃんとした姿勢に戻った。そして、綺麗な手を自分の胸の上に置く。
「私は魔女。赫の魔女、ガーネット。ダンジョンを掘り進み、その外法を色濃く身に宿した女」
それを聞いて、ぼくは納得した。
母さんや父さんたちが、指先を向けられただけで燃え上がり、真っ黒な炭になったのも、魔法のお陰だと思えば腑に落ちた。
けれど、どうしてそれをぼくに教えたのだろう。それも今更。
きっとぼく以外の同じ年代の男の子たちもわかっていることのはずだ。
そう思ったが、よくよく考えて思い出す。
ぼくが学んでいた変な文字。いつの間にか使えるようになったおまじない。
あれはつまり、そういうことだったのかと。
「そうよ。あなたは私と同じ、魔術を扱う人間となった」
憐れむ目を、ぼくに向けながら。赤い髪を一房取り上げ、手の中で弄びながら。その人は言う。
「だからあなたには伝えなくてはならない。魔術師とは何か。そして、それを会得するのはどんな人間か。そして、あなたがどんな人間かを」
◆ ◆ ◆
ダンジョンという、怪物が生まれる場所がある。
そこの中では、奇妙でおそろしいものたちが自らの血族を産ませ、殖やすために他の生き物を使う。ダンジョンはその意志を後押しするかのように、様々な悪意ある罠を作った。
たとえば、男を女に、女を男に変えてしまう罠。
たとえば、宝が入っていそうな箱を模して、誘った相手を呑み込む罠。
たとえば、噴霧することで心身に異常をきたす物質をまき散らす罠。
あげていけばキリがない、そんな場所。
このダンジョンの中で見つかる希少で再現の難しい道具や薬品、それに未知の技術を記す知識もまた、このダンジョンに知恵あるものを引き寄せる罠ともいえるかもしれない。
――そして、魔術もまた、そのダンジョンの中から見つかる知識の一つであり。
それを会得するためには、ある素養が必要になる。
「ダンジョンに愛されているもの。ダンジョンの邪悪に共鳴する、どうしようもなく疼く
それを聞いて、ぼくは不思議に思った。
ぼくが変だ。そう言われたら実感はわかないけど「そうなのかな」と思う。
でも、目の前の赤い髪の女の人は、ガーネットさんは。確かに変わった力を持っていて、ぼくを助けたり変なことをする人だけれど。どうしても、悪い人には見えない。
殺したとか、奪ったとか、そういう話は自分でしていたけれど、どうにも変な人には見えなかったから。
そういうと彼女はおかしそうに揺れる。
「ならよく考えることね。あなたは無知だけれど、決して愚かじゃないのだから」
なるほど。
そういうものなのだろう。
ならば一層気になる。ぼくは、そんなに変な性をもっているのだろうか?
「あなたの場合は、生まれつきよ。
椅子に腰かけて。足を組みながら肘をついて。
彼女が僕をじっと見た。
「でも、それと同じくらいに、あなたはダンジョンに相応しく育ってしまった。そうなってほしくなかったけれど、そうなってしまった」
……そうなのだろうか?
ぼくには何もわからな「嘘」
「男が、女に変わる罠。その話を聞いてから、あなた、ずっと
わからない。
わからない。
わからない。
ぼくは今そんな顔をしているのだろうか。期待しているのだろうか。
本当に、ぼくが。『女の子』になれると。
そうしたら、ぼくは。
この『どす黒く塗りつぶされたような、みにくいみにくいこの顔』を、やめられるのだろうかと。
「顔が、わからないのね。自分のものも、他人のものも」
そんなことはない。皆の顔はわかっている、見えている。
みんな母さんと同じ顔だ。笑っているときも、怒っているときも、いつも、いつも同じ。
でも、髪はみんな少し違うから。そして、同じ顔でもみんな違う人だとわかったから、敢えて人の感情や思いを感じたり、覚えたりするのに意識してこなかっただけで。
「……そう」
僅かに、悲しそうに俯いたあと。
「あなた、冒険者になりなさい。そして、望むのならその罠を受けてくるといいわ」
と、そう言った。
嬉しかった。
胸の奥がどくどくと強く脈を打ち、全身がぞわぞわと上に引き寄せられるように感じた。足の裏が軽くて、歩こうとしたら全部スキップになってしまいそうなくらい。
なのにぼくのそんな喜びとは裏腹に。
ガーネットさんは、俯いたまま。静かに告げるのだった。
「けれど覚えておきなさい。ダンジョンによって変えられるということは、ダンジョンに染まるということ。それは決して、平坦な道ではないし、後戻りも出来ない。それを、よく覚えておくことね」