浦和ハナコは言付ける   作:浅笠紗々

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00/プロローグ

 

 

 

 

「――――ちゅっ」

 

 啄むように唇に触れて、そのまま離れた。熱い感覚だけがすぐさま冷めていくようで、俺の体温が急激に下がって、気持ち悪い。

 

 けれどもそれは俺を油断させようとする狩人で――再び二度、三度と啄むように雛鳥の雨が降る。

 

「ちゅ……ちゅ、ん……」

 

 繰り返すたびに二つが混ざり合って、次第に感覚が薄れていく。びりびりとした痺れを帯びた痛みと快楽だけが残される。触覚は鋭いのか鈍いのかまるでわからない。

 

 ただ、無垢で素直な、彼女の熱だけが俺に伝わる。

 

 じんわりと、触れている場所が汗ばむ。衣服が汗を吸って気持ち悪い。前髪が額に張り付く。吐いた呼気が口元で溢れて水滴ずく。しかし、そんな触覚は次第に薄れていって、やはり彼女の熱だけが俺の中に残る。

 

「ちゅ――――ん、ふふ……」

 

 ようやく雨が止んだらしかった。彼女は遠くから俺を見るように少し離れて――けれども大した距離ではない――その蠱惑的な瞳を合わせた。

 

「先生」

 

 そう呼んだ。だからきっと、それは俺なのだ。俺は先生なのだ。よくわからないけれど、彼女がそう言うのであれば、そうなのだ。

 

「そろそろ……大人のキス、ってものを……試してみてもいいでしょうか?」

 

 ひたり、と彼女の唇を舌が撫ぜた。実に煽情的で、魅力的で、魔的で……胸が高鳴った。

 

 急に胸元が熱くなって、呼吸器を燃えるような蒸気が焦がしている。上手く酸素を吸えているかどうかすら、明瞭でない。

 

 大人のキス。それが何なのか、俺にはまるでわからない。子どものキスと大人のキスで、何が意味が違うとでも言うのだろうか。それとも、お互いを求めあうようなディープキスならば大人のキス? 啄むようなフレンチキスならば子どものキス?

 

 理解出来ない俺を無視して、彼女は再び距離を詰める。逃れることは出来ない。股の上に俺向きに座った彼女はすっかり体勢有利で――腕力で抵抗しようにも、敵わない。

 

 また、彼女の唇が近づいてくる。それは捕食者の唇だった。俺を奪って、染めて、何もかもを自分色にしてしまう――侵食めいたキス。

 

 彼女の熱が触れると、今度はこじ開けるように、一際熱い何かが俺を撫ぜた。それが舌である、とすぐに理解できなかったのは、たんに俺がびっくりしたからだった。

 

 本当にやるんだ、と思った。そこまでして奪う俺の唇に、果たしてどれほどの価値があるというのだろうか。

 

 不意に浮かび上がった疑問。彼女は俺の心を掬いとるように――動きを止めた。そして一寸離れて至近距離、艶やかな唇が瞬く。

 

「先生」

 

「……っ」

 

 どきどきする。彼女を前にしてしまえば、どんな男だってこうなってしまうだろう。

 

 だって、こんなにも――――彼女は綺麗なのだから。

 

 いや、綺麗だなんて陳腐な言葉では語りつくせない。白磁めいた傷一つない綺麗な肌も、汗の垂れる湿った首元も、濡れて鈍く光る唇も、僅かに上気した頬も、若葉色に染まったとろんとした瞳も、乙女色に靡く髪も、何もかも。彼女を構成するありとあらゆる要素は完璧で、完全だった。

 

 だからこそ、何よりも――俺じゃないだろう、と、そう思ったのだ。

 

「私……先生が良いんですよ?」

 

「……」

 

「あ、違った……先生じゃないと、ダメ、なんです……ふふっ――肝心なところが、まだ甘いですね、私――――」

 

 つらつらと吐き出される言霊に気圧される。ああ、そうか。そのはずだ。これだけ整った容姿の彼女なのだから――その声音でさえも、完璧でなくてはならないのだ。そうでなければこの世界は嘘なのだ。

 

「未来永劫、もし他の誰かとくっついたって……きっと私、先生のこと忘れられないんです。どれだけの残酷な時間があっても、私の中には先生が残っている、なんて――ちょっと、重いですかね……?」

 

 照れくさそうに、彼女はふいと視線を逸らした。たったそれだけの動作に、彼女の長い髪が大きく靡いた。はらはらと俺の体にそれが乗って、艶やか。

 

「だから――私のこと、忘れちゃうだなんて、本当に――――」

 

「――――」

 

「許しませんよ」

 

 闇の中で、きらりと何かが光った気がした。それを見てはいけないような気がして、俺は目を逸らした。けれど彼女は俺の顎を掴むと、無理矢理に正面を向かせた。

 

「――っ、あ」

 

「ちゅ、ん」

 

 そうして再び、唇に熱。今度はすぐにざらざらとしたぬめりを帯びたそれが侵入してきて――瞬く間に俺の城塞は崩れ落ちた。

 

 まず初めに蹂躙。口内の全てを奪おうとでも言わんばかりに、俺の全てを舐めまわす。舌と舌が触れ合って、頭がおかしくなりそうなほどに気持ち良くなって、歯を撫でられてぞくりと背筋を責められる。

 

 ぎゅう、と抱きしめられている。それだけは感覚でわかった。けれど俺は同じようにぎゅうと目を閉じて、視界を閉ざしたから、きっと彼女に抱きしめられているのであろうことしかわからなかった。

 

 首に回された両腕。じっとりと湿っているのは、きっと彼女の方が熱いから。

 

 胸板に押し付けられた柔らかな双丘。高鳴る鼓動は俺だけではないらしい。

 

 やがて衣服が一滴に濡れて、納得。やはり、彼女を傷つけてしまったらしかった。

 

 それでも、彼女は俺を求めるのを止めはしない。もっと奥へ、もっと全てを。寄越せと、差し出せと、無慈悲にひたすら責め続ける。だから俺は抵抗なんてすぐに止めて、彼女に全てを渡そうと思った。

 

 ――俺なんかの全てで満足してくれるのであれば、それで良かった。

 

 彼女が願うならば、この身全てを捧げても構わなかった。それに価値があるのかはわからないけれど、命はおろか、魂だって彼女に渡してあげなければ、と思った。

 

 ――だって彼女は、とても、寂しそうに思えたから。

 

 だから、助けてあげなくちゃ――と。そう思ったのだ。

 

 不意に、溶岩のような何かが口内に侵入した。唾液だろう。味があるのかはわからないけれど、きっとこれは甘露。だから黙って飲み込んだ。ほんの少しだけ、蒸気の吐息が薄れて心地よかった。

 

 彼女の侵食は続く。いつまでだって飽きないのは納得だ。だってこんなにも――気持ち良いのだから。

 

 たかだか舌と舌の粘膜接触。お互いの器官が触れ合っているだけだというのに、脳味噌がぱりぱりと痺れて、背筋がぞくぞくと震えて、体中が幸福でいっぱいになっている。

 

 ――なのに、どうして。

 

 君は泣いているのだろう。俺にはわからないけれど、多分、それはきっと俺のせいなのだ。

 

 その涙を拭ってあげたいと思った。本心から湧きだした、不釣り合いな思いだった。

 

「ちゅ――――ん、ふ……ぅ」

 

 くちゅくちゅ、と唾液が湿った音を立てる。すっかりお互いのモノが混ざってしまって、どこからどこまでが自分で、どこからどこまでが彼女なのか、まるで見当もつかない。

 

 境界線を越えて、すっかり二つが混じりあっている。一対の雄と雌が互いを求めあっている。だから、その二人が一つになってしまうのは、致し方ないことなのだろう。

 

「は――――ふ」

 

 不意に、彼女の方から口を離した。けれど俺の首から手を引いてはいないようで、まだ続けるつもりはあるらしい。

 

 彼女が続けるつもりなら、何年だって、百年だって、してあげたいと思えた。

 

「先生って……昔からお上手だったんですね? キス」

 

「……鼻で呼吸するんだよ」

 

「……ばか」

 

 それだけ言うと、彼女は再び俺の口に飛び込んだ。すっかり同じになってしまった舌が混ざり合って、気持ち悪くて、気持ち良い。矛盾した感覚だけが頭の中で渦巻いて、混沌として、それでもとめどない快感だけが満たしている。

 

 ――ああ、彼女も、そうであってくれると嬉しいのだけれど。

 

 ただ気持ち良くなってくれれば良いのに。でも彼女は賢い子だから、きっと良くないことを考えてしまうのだろう。

 

 だから――。

 

「ん――、ちゅ、んぅうっ!?」

 

 彼女の口内に唾液を送り込む。どろりとした粘ついた液体が入り込んでいく。彼女もびっくりしたようだけれど、すぐに理解して――、

 

 ――――ごくん。

 

 喉を鳴らして、俺の体液を飲み込んだ。

 

「――ぷ、は……ぁ」

 

 それから、荒れた呼吸を整えるように何度か肩を上下させる。すっかり体は解れてしまったようで、先ほどよりもずっと熱を帯びている。けれど彼女の熱は俺にとって毒薬で――媚薬にも等しかった。

 

「先生」

 

「……何?」

 

「……まだ私、大人のキスってよくわかっていないので――全部取り戻して、このキスの意味がわかったら」

 

「……うん」

 

「また教えてください」

 

 そう言うと、彼女は口元を拭った。すっかり汗ばんだ首元が外気に触れて、急に寒く感じた。

 

 股の上にいたはずの彼女は気付けば立ち上がっていて、急速に冷え込む体温に、悍ましさを覚える。

 

 熱は勝手に薄れていって、どれだけそれを惜しんでも、仕方がなかった。

 

「……」

 

 ばさり、とカーテンが揺れた。真っ黒な空は晴れていて、差し込む月明かりの半分だけが、俺達を照らしていた。

 

「じゃ、私は行きますから……」

 

 身なりを整えて、彼女は歩き出す。どこに行くのだろうか。俺にはわからない。

 

 彼女は一人、体を全て闇の中に突っ込んで、つかつかと歩き出した。未練と満足が混じったような足取りだった。

 

 だから俺は――彼女を見て、なんて脆い子なんだろう、と、思ったのだ。

 

 

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