「……」
ざあざあと降りそそぐ大粒の雨。予報によれば、明日の夜までは降り続けるらしい。しばらくはじめっとしてしまう。
しかし――ここを動くわけにはいかない。なんとしてでも――――彼の平穏を保たなければならない。
狐坂ワカモは考える。ありとあらゆる外敵は排除する。何人たりとも、悪意を持った人間には近寄らせない。
……それが、先生にとって最も良いことなのだとわかっていたから。
小さなマンションの屋上で、彼女は階下を見下ろす。屋根はついていないから雨ざらしだが、気にはならなかった。
いつも通り、このマンションに住んでいる者が出入りを繰り返す。不自然な人物はいない。
そう言えば――と、ワカモは思い返す。先生が人目を忍ぶようになって、一度だけシャーレに行ってみたことがあった。いつもと違って主人のいない場所はすっかり暗くて、とても恐ろしかったのを覚えている。彼がいないだけで、これほどの建物が沈んでしまうんだな、と少し驚いた。
周囲を歩く者は、シャーレを横切る時だけ少し緊張するように、背筋をぴんと立てていた。どうしても前を通らなくてはならないこともあるだろう――人によっては、歩きながら銃に手を掛けている者までいた。
「ああ――お労しや、あなた様。あなた様がどれだけこのキヴォトスに尽くしてくださったのか――彼奴等はまるで理解などしていないのです。我々生徒のために汗水たらして身を粉にして働いて――その返礼がこれとは……」
全く情けない。先生に対し――感謝こそすれ、仇など感じたことがない。いつもいつも、彼が思っていたのは私たち生徒のはずなのに。
それを知らず、知れず、いたずらに情報に足元を掬われ、まるで糸人形のように弄ばれている。
こんなことがあって良いわけがない。そんなことはワカモだってわかっていた。それでも、彼女は先生に直接止められていた。
『何があっても――誰かを傷つけちゃダメだ』
彼はそう言った。衝動的に全てを燃やし尽くそうと画策した、その瞬間だった。
『今キヴォトスで事件が起きたら……大変なことになってしまう。だからワカモ……苦しいかもしれないけれど』
『じっと、我慢してほしい』
何を言うのか、と思った。目の前でそんなことを喋る彼を見て、ワカモは目を疑い、耳を疑ったのだ。
だって――本当に我慢ならないのは、何よりも先生であるはずなのに。
謂れのない罪を背負わされ、守ろうとしていた生徒からは後ろ指を指され、腹が立ってしょうがないだろうに。
それでも彼は唇をぎゅっと噛みしめて、それをどうにか飲み込んで――告げたのだ。
そんな先生の、絞り出した心血のような思いを、無碍には出来ない。
「心底――ワカモは、ただあなた様のお心だけが心配にございます」
それで目が覚めた。頭に水をぶちまけれたかのような気分だった。
――だから自分は、あの人が好きなのだろう、と。信じられないモノを見た自分の瞳を、ワカモは信じられたのだ。
それに比べれば、今こうして雨ざらしになっていることなど、どうということはない。ただ雨風に吹かれても、彼の感じる冷たさに比べれば何倍もマシなのだ。
後ろ指を指されることは慣れている。人に恐れられることも慣れている。腫れ物のように扱われて、化物のように思われて、人でないように言いふらされることは少なくなかった。
少なくともワカモ自身、そういう自覚はあった。自分は他人とどこかでズレていて、モノというものは、奪っても壊してもいけないのだということはわかっていた。だからこそ、こうして思うが儘に力を振るって、略奪と破壊の限りを尽くすことが、世間的に見て間違っていることもわかっていた。
でも――――彼はそこまでズレているわけではない。後ろ指を指されてなんとも思わない人ではない。内心では驚くくらいに傷ついて、でもそれを人に見せないように隠して、あっけらかんと歩き出してしまう。
強い人ではない。でも、彼は踏み込まなくてはその脆さがわからない人だ。そして何より、彼の方が踏み込まれるのを嫌うから、誰にも本性が露見しない。
そんな――危うい人なのだ。だから……ワカモはそんな先生に尽くしたいと思うのだろう。
雨が強くなってきた。既に髪の毛はぐっしょりと濡れていて、シャワーでも浴びているみたいだった。それでも、衣服が張り付いて気持ち悪いのは変わらない。
「――――」
近くを飛んでいたドローンを見つけて、すぐさま撃ち落とした。キヴォトスでは銃声など日常茶飯事だ。誰も気に留めない。
あのドローン――ミレニアム製だった。きっと、先生のことを探しているのだろう。
だが、見つけられるわけにはいかない。それは、彼からの直々のお願いだった。
「……」
それが悪手であることは、ワカモも気付いていた。先生は今、動くべきだと思った。前に出て、自らの潔白を証明すべきだと思った。こうして閉じこもっていては何も変わらない。隠れたことによって、根も葉もない噂には尾ひれまでついてしまう。
それでも、ワカモはそんなことを告げるつもりはなかった。むしろ、先生が隠れたことで安心した。
そうでもしないと、彼は壊れてしまうから。
人間は、そこまで強くは出来ていない。それは大人であっても変わらない。先生であったとしても、それは同じだ。
どれだけ強そうに見えて、どれだけの反発に耐えているように見えても、内心では物凄く傷ついている。場合によっては、もう二度と立ち上がれなくなってしまうかもしれない。
特に――先生はそういう人だ。ワカモはそれを見抜いていた。
「……まあ、こういう時に頼る相手が私でないことだけは、少々気に入りませんけれど」
ぽつりと零す。その音は、ワカモの心情と同様に、雨風に流されていった。