浦和ハナコは言付ける   作:浅笠紗々

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陸/『近日公開第二章』

「先生、あまり見ない方が良いと思いますよ」

 

 ハナコは不意に、そんなこと言った。私もその意見には納得だったから、一度頷いてテレビの電源を落とした。

 

「まるで悪のカリスマですね……」

 

 ぽつりと零して、私の横に座る。ソファが小さく揺らいで、すぐに収まる。

 

 私の隣に、彼女の熱がある。自然と安心する温度。少しばかり高鳴った鼓動が、ゆっくりと元の速度まで戻っていく。

 

「このままでは、やがて大人たちを排斥しようという動きも強くなっていくことでしょう。彼女たち新聞部は今や、強力な軍隊だと考えて違いないでしょう」

 

「だろうね。彼女たちの側につく子もいるだろうし……大人に対する猜疑の念は強まっていくだろう」

 

 まさかここまで――とは思わない。彼女たちに言葉に賛同する子は、少なくないのだ。つまり、それだけみんなの間で様々な恐怖が高まっていたということ。

 

 私もキヴォトスに住んでもう数年だ。最近はすっかり慣れてきて――麻痺してしまっているけれど、事件発生数だけを考えればとんでもない治安の地域なのだ。争いを好まない子も少なくはない。彼女たちを鑑みれば、そこに芽生えた恐怖はごく当然のことだろう。

 

 大人に対する恐れ。それは未知に対する恐怖だ。何故なら子どもはまだ大人ではない。だからこそ、政島イヴは群衆の感情を煽ることが出来た。

 

「とんでもない政治家だよ。彼女がトップの党だなんて、末恐ろしい」

 

「感情のコントロールが巧みですね。ああも堂々と宣言されてしまうと――人は折れやすいですから」

 

 ハナコも頷いた。

 

 認知的不協和に陥った者は、その矛盾を解決してストレスの軽減を図ろうとする。大人の存在が自らにストレスを与えるのであれば、大人を排斥すれば良い。冷静に考えれば極論に過ぎなくとも、彼女たちにとっては大真面目な結論になる。

 

 そういう意味でも、イヴの演説は実に効果的だった。毅然とした態度、一切悪びれもせず、怯えもせず、強かに語る彼女の姿を中継してしまったのだから。

 

 心が脆く、怯えている子ほど、ああいう子に弱い。自信があって堂々としていて、体制には決して引かないという意思を表す。

 

 ……連邦生徒会長が不在、というのも大きいだろう。キヴォトスはただでさえ、普通の状態ではない。そんな波紋だらけの池に一石を投じてしまったのだから――荒れるのも当然だ。

 

「先生は、大丈夫なんですか?」

 

「ん、私?」

 

 私はなんでもないように、ハナコに言葉を返した。

 

 大丈夫だよ、と言おうとして、指で止められた。

 

「……言葉を変えますよ。大丈夫じゃないですよね」

 

「……」

 

 強い言葉だと思った。ハナコらしくはないと思って、でも同時にハナコらしいとも思った。

 

 彼女は聡明で、機微に鋭く、何より他人を思う普通の子だ。だからこんなに強い言葉を使うのは珍しいようで――しかし、彼女の芯からは何もズレていなかった。

 

 だから一瞬迷って、それでも口を開いた。

 

「そんなこと、ないよ」

 

「嘘」

 

「……本当だって」

 

「嘘つき」

 

「本当なんだよ。本当に、大丈夫。私はまだ――」

 

「――まだ、なんですか?」

 

「……」

 

 言葉に詰まった。急にぐいぐい詰めてくるものだから、何を言えばいいのかわからなくなった。

 

 頭が空っぽになって、どうしようもなくなった。口をぱくぱくとだけ動かして、言葉と声がついてこなかった。

 

もう(、、)――ではありませんか?」

 

「……」

 

「ねぇ、今先生の言葉を聞く者は……私だけです。他の誰が聞いているわけでも、生徒が聞いているわけでもない。浦和ハナコだけが、先生の横に座っています」

 

「でも――」

 

「――だから」

 

「……っ」

 

「良いじゃ、ないですか――」

 

 ハナコは続ける。

 

「先生は、私たちが辛くて苦しい時、傍にいてくれました。いつも先生は私たちを支えてくれました。でも、先生が辛くて苦しい時――――先生は、一体誰を頼ればいいんですか?」

 

 見れば、目元には薄く涙が貯まっている。

 

 それだけの感情が籠った言葉だったのだろう。それほどまでに私を案じてくれていることくらい、言葉にされなくても分かった。

 

 ――ああ。これじゃあ先生失格だ。生徒を泣かせてしまうだなんて……まるでなっていない。

 

 ……それでも、私はそんな、ハナコに想われる価値のある男ではないから。

 

「私を……先生の逃げ場に、してください」

 

 それはふとすればプロポーズのように思えたかもしれない。震える舌を懸命に動かして吐き出したその言葉はとても綺麗で、心が揺れた。

 

 一瞬、そんな幻想を見た自分がどうしようもなく馬鹿に思えて、そんな妄想を吐き捨てようとして、なんとか口を動かす。

 

「……私は」

 

 でも、続く言葉がなかった。なんと言えば良いのかわからない。

 

 嫌だ。私なんかのために、涙を零さないでほしい。その涙は君だけのものでなくてはならない。

 

 だから――。

 

「……私から先生を取り除いたら、そこに何が残るんだろうね」

 

 そう、弱音を吐くしかなかった。

 

 ハナコはゆっくりと私に近づいてきて、吐息すら触れ合ってしまうほどの至近距離で――優しく、私の首元に腕を回した。柔らかな肉肌が触れて、熱。じめっとした天気もあるだろう――やけに湿った体が触れ合った。

 

 彼女の腰は私の太腿の上。腰の位置も少々高くなって、見下ろされるカタチ。異様な密着率。衣服だけが、今の私と彼女を分け隔てている。もしそれを取り除いてしまえば、どうなってしまうのだろうか。

 

「ハナコ……?」

 

「ごめんなさい、はしたない子で……」

 

 いつになく、色っぽい彼女。顔はほのかに赤く染まっていて、影に隠れて表情が薄暗い。けれども、私の首に触れる指先から――彼女が震えていることだけは、分かった。

 

「こんな時なのに……ごめんなさい……ごめん、なさい」

 

「どう、したの」

 

「嘘つき。わかってますよね」

 

「――――」

 

 まるで、蛇に睨まれたカエルだった。これから食べられてしまうことを知って、指一本動かせなくなってしまう。

 

 逆らうことは容易だと思った。彼女を拒絶することなど簡単だった。

 

 でも、そんなこと出来なかった。違うのだ。私はカエルではないのだ。

 

 胸を射抜かれた、ただの一人の男でしかないのだ。

 

「先生、好きです」

 

 何でもないことのように、ハナコは言う。ただ事実を告げるように。

 

 それは、今日の天気を話すことと何ら変わりはない。雨が降っていて、部屋の中までじっとりして、少し居心地が悪くて、早く晴れないかと願う。その本心と、彼女の中では何も違わないのだろう。

 

 蠱惑色の唇が蠢く。彼女の白い歯がちろりと頭を出して、すぐさま消えた。

 

「ごめんなさい、こんな、卑怯な……」

 

「卑怯、って」

 

「先生を家に連れ込んで、先生がここから出られないことなんて知っているのに。無理矢理、貴方に告白して……」

 

「……」

 

「でも、それでも、私――貴方が欲しいんです。先生じゃなくて、本当の貴方が。これが、浦和ハナコじゃない、私の本性なんです」

 

 そこまで話して、彼女は涙をこぼした。頬を伝って顎へ、それからぽとりと私の衣服に落ちた。

 

「ずるい子で、ごめんなさい。でも、本気なんです。貴方が好きです」

 

 彼女はそう言って、私の体にぎゅうと抱き着いた。柔らかな彼女の胸が押し付けられて、心拍数が急に高鳴る。

 

 ハナコもそうらしい。彼女の胸を通して、鼓動が聞こえてくる。

 

 ――彼女の嫌いな、彼女の心音。でも今はそれだけが、ハナコが今ここに生きていることを証明している。

 

「……ダメ、だよ」

 

「それは、貴方が先生だから?」

 

「違う」

 

 私はそう言って、逆に彼女を押し倒した。

 

「――っ」

 

 ソファでハナコを横にして、その上に馬乗り。腕を掴んで、組み敷いた。

 

 ハナコにはヘイローがある。『神秘』がある。だから、私のような大人であっても、簡単に振りほどくことが出来る。

 

 ……でも、彼女は顔を見下ろす私を、ただじっと見ていた。

 

 悲しそうに、しかし少しばかり――嬉しそうに。

 

()みたいな男、好きになっちゃダメってことだよ」

 

「――――ぁ、うふ……♡」

 

 その言葉を聞いて、彼女は深く納得したように。

 

 嬉しそうに、少女を捨てた。

 

 雌の顔。女の顔。雄を受け入れて、花開くように。

 

「だったら教えてください。貴方のこと。大人のこと。私が騙されてしまった――先生のことを」

 

   〇

 

 思い返せば湿った青春時代だった。私は小さい頃から要領の悪い子で、よく両親には叱られていた。

 

 虐められていた――というわけではないだろう。何か暴力を振るわれたとか、そういうことはなかった。強いて言えばよくある地味な男の子で、クラスの端で机に突っ伏してばかりいるような子どもだった。

 

 休み時間のサッカーは苦手で、体育のドッヂボールは外野からだった。人に弾を当てるというのが苦手だったから、なるべくボールに触らないようにしていた。

 

 夏休みの宿題も八月の末に慌ててやっていた。出来の悪い子どもだったから本当にギリギリだった。答えを見ながら解いた気分になって満足していた。日記なんて最終日に適当に考えて書いていた。それほどまでに忙しい、満喫した夏休みというわけでもなかった。特に何をするというわけでもない、引きこもってエアコンの効いた部屋から出ることなく、アニメかゲームをしながら過ごしていた。

 

 だからといって勉強の出来た子かと言えばそんなことはなかった。本ばかり読んでいたけれど、それは小説ばっかりで、何か知的に賢い子ではなかった。国語とかだけは少しだけ自信があったけど、算数はてんでダメ。そんな子どもだった。

 

 将来の夢なんて微塵もなかった。そんなことを考えるほど、未来に夢を馳せることはなかった。自分はきっと普通に生きて普通に死ぬのだろうと思っていたけれど、そんな普通の人生がどれだけ難しいのか、子どもの頃はまるで分かっていなかった。ただ無茶な夢を、当然のように待ち構えていた。

 

 高校生の頃にそれがようやくわかった。自分がどれほど普通からかけ離れている存在なのか。自分は落第者であり、当たり前の人生というレールからは完全にかけ離れたところを走っているのだと分かった。でもそんなことに今更気付いてももうとっくに遅くて、周りの子たちは限りある青春を謳歌している中、やはり私は湿っぽい青春を続けていた。

 

 友達と言えるほど仲の良い子もいなかった。口下手でなかったのがせめてものことだと思う。私は誰とでも話すことは出来た。だから虐められたりすることはなかったのだろうし、受験はちょっぴり頑張ったから、校風も穏やかだった。けれども私の周囲に人が集まることはなくて、ただそこにいる一人でしかなかった。

 

 そんなことを言うと、ナルシズムにハマっているだとか、過去の自分が可哀想だという痛みに溺れているだとか思われてしまうかもしれないけれど、私には確かにそれは息苦しくて、きっと自分はこういう生活に向いていないのだろうと思った。その時私は確か、自分のことを『水のない金魚鉢にいるみたいだ』と例えていた。今考えてもそれは適切で、皆が当たり前のように吸っている酸素を吸えていなかったのだから、その息苦しさは当然だった。

 

 ともかくとして、私の青春は取り留めのない、大きな事件もない、ただ生まれて死んでいくだけ起伏のない道のりだったと思う。

 

 それでも不思議なことに、人間と言うのは勝手に生きてしまう。底の見えない不安感は常にあって、それと向き合い続けていた。周りが凄かったもので、劣等感が強まっていた。何度も死のうと思ったけれど、結局一度も達成できなかった。それどころか、死にたい死にたいとだけ考えて、実行に移したことなんてなかった。

 

 何も食べなければ死ぬらしいと聞いて、絶食を図った。でも途中でどうしてもお腹が空いてハンバーガーを食べたら死ぬほど美味しくて、死ぬのはやめた。

 

 自殺に関する事象を纏めた書籍があると聞いて、一番楽なモノを探すために借りて読んでみた。結局、最後まで読んで満足してその本は返した。

 

 つまるところ、私には何もなかったわけだ。自分から大きなことをやってやろうだとか、勇気を出して飛び込んでやろうだとか。毎日目の前を通る電車に身を投げたら、体の中で渦巻き続ける言語化出来ない淡い焦燥感から逃れられることはわかっていても、そんな勇気はなかった。

 

 だって、死ぬのは怖かったから。

 

 そうしてずるずると、柔らかな希死念慮だけを抱えて歩き続けるしかなかった。きっと私は、なんだかんだこれまで上手に失敗したことがなかったから、上手なこけ方を知らなかったのだと思う。いっそ引きこもりになっていたり、虐められたりしていれば、まだそっちの方が良かったのかもしれない。

 

 結局私は上手な転び方も知らず、運が良いことに転ぶことがないまま、ただ生き続けていた。自分がダメな人間であることは分かっていた。けれどもやっぱり、それを打開してやろうだとか、そうとは思わなかった。だから私はダメなまま、ただ生きていた。

 

 ――けれど、ある日私はその人に会った。

 

 初めて会ったのは塾でのことだった。大学受験を控えた高校二年生の秋、そろそろ進路を決めるという頃になって――やはり私は何も思いつかないまま、何になれば良いのかわからないまま、とりあえず大学には行ってほしいという親の願いを叶えるために、適当に勉強を始めた。

 

 そこで、塾の先生に出会った。彼は全然真面目というわけではない、至って不真面目な先生だった。授業もかなり適当なモノで、とにかくありとあらゆることを暗記することだけを推奨していた。ふざけた講師だと思ったけれど、特に口に出すこともないまま、淡々と勉強していた。

 

 それでもある日、ひょんなことから彼とマンツーマンで授業を受けることになった。確か、どんどんと塾に通う者が減っていたらしい。丁度近くに名高い塾が開設され、ほとんどの子はそっちに行ってしまったのだという。

 

 けれども私は塾を変えるというのが面倒で、彼との勉強を受け続けるハメになった。

 

 初めに対面して、普段会っているはずなのに、彼はいつもと雰囲気が違うな、と思った。多分だけれど、それは煙草の匂いが原因で――膝まではあろう長いコートには、鼻をつまみたくなるほどに強烈なにおいが染みついていた。

 

 彼は私に言った。「キミ、やる気ないだろ」

 

 どきりとした。私は言い返した。「そんなことはありません」

 

 彼はからからと笑って、掠れた声で続けた。「はい、今の嘘。私はね、なんでも分かっているんだよ」

 

 だったらこんな辺鄙で寂れた小さい塾ではなくて、別の場所で教鞭をとっているべきだろうと思った。すると彼は私の思考を読んだように「だったらこんな場所じゃなくて、あっちの綺麗なビルで塾講師やってるだろ、って思ったでしょ」と言った。

 

 「当たり」、と彼は言った。「マジでその通り。でも、キミのこと分かってるってのはマジさ」まるで私の心中を舐められるかのような感じがして、怖気がした。

 

「だってキミ、私に似てるもんね」

 

 彼にはぼさぼさの頭をがりがりと掻きむしる癖があった。指先には何本かの髪が抜け落ちていて、そのままゴミ箱までぽてぽてと歩く。そうして私を振り返って、また言った。

 

「ま、気楽に行こうや。勉強してばかりじゃ、すぐに青春は終わっちまうぜ」

 

 私と先生の授業は、そうして始まったのだった。

 

 けれども始まってみれば意外なことに、彼の教えは非常に分かりやすかった。多分、彼の言ったことは正しくて――私と彼は似たもの同士だったのだ。

 

 だからどこが分からないのかすぐに分かるし、どこが分かっているのかもすぐ分かる。言いたくはないけれど、多分私たちは以心伝心だったのだと思う。

 

 気があった、というのもある。彼の趣味はとても子どもっぽくて、最近流行のゲームや玩具ばかりを繰り返していた。私も同じだったから、発売日は近づくとそわそわして浮足立っていた。勿論、それが売り出されると勉強なんてそっちのけで熱く議論を交わした。

 

 ――それが、それだけが、私にとっての青春だった。

 

 受験が近づいてきて、流石に真面目に勉強をするようになったある日、彼はぽつりと零した。

 

「教師ってモンはさ、やってるといつの日か……良い生徒と結びつくんだと」

 

 私は机について、かりかりとシャープペンシルを動かしていた。彼は私の応答など気にも留めず、そのまま言葉を続けた。

 

「つまりベストカップルってことだな。相性が良くて、互いに高めていける存在っつーわけだ」

 

「それ、今季ですか?」

 

「アニメの話じゃあねぇよ。俺の先生が言ってたのさ」

 

「先生にも、先生がいるんですね」

 

「当たり前さ。どこの畑だって、ここまで優秀な苗は育たない。誰かが丁寧に水と肥料を渡してこそ、俺のような最強の人間が育成されるわけだ」

 

「……」

 

 彼がそういう軽口を叩くのはいつものことだった。自信過剰。それだけは、私にはないところだった。

 

「先生はそういう生徒と、出会ったことがあるんですか?」

 

「ないね」

 

「……そこは、俺って言うところじゃないんですか?」

 

「お前みたいな落伍者が俺をどう高めてくれるって?」

 

「……」

 

「ああ悪かった言い過ぎたよ。輪ゴムから手を離せ、この距離だと顔面に行く可能性がある」

 

 本当はほんの少しだけ期待していた。彼が、私を認めてくれることに。

 

 だってそうすれば、私は私であって良いことになる。誰かに頼られて、貢献できて、自分が生きていて良い証明になる

 

 だからその時、私は気付いた。きっと、私は生きている証が欲しかったのだ。

 

 ずるずるとただなんとなく生きて、生き続けていて、何も残せるモノなんてなく、誰かに頼られることもなく、存在の証明も成し得ない。もし私が明日死んでも、両親が少し悲しんでくれる程度なのだろう。クラスの子たちは嫌々葬式に参列して、集会に集められた生徒たちはまるで話なんて聞いていない。

 

 ――きっと、私は、死んだとき誰かに泣いてほしかったのだろう。

 

 それは誰かの想いが、私に載せられているということだ。生きていて欲しかったと思われるだけの何かを残せたということだ。それは私にとって素敵な願いで――心底叶えたい、夢だと分かったのだ。

 

 ひょっとするとその願いは――先生にとっても、そうだったのかもしれない。だから先生をやっていたのだろう。こんな辺鄙な場所で、何かを残せるように。

 

 私のような不出来な生徒であっても――先生の残したモノを持って、先へ歩いていけるように。

 

「先生は――いや」

 

 少しだけ言葉を考えた。この思いを愚直にぶつけるのは阿呆らしかった。どうせ二人きりなのだし、彼は少しくらい待ってくれるだろう。

 

 部屋に短針が少し動くくらい部屋は静かなままで、不思議と居心地は悪くなかった。

 

「先生はどうして先生に?」

 

「んあ、どうしてそんなことを聞く」

 

 確かめたかっただけだった。先生も、私のような者なのだろうから。

 

「先生になりたかったとか?」

 

「別に。こんな仕事、ロクなモンじゃねぇ」

 

「じゃあ先生以外にもなりたいものがあって、なし崩し的に?」

 

「それも違う」

 

「じゃあ何故?」

 

「先生になるしかなかったのさ。こうやることでしか、俺は生きられないガキだからよ――」

 

 そう言って、先生は変に笑った。不思議と私はその顔がどうしても忘れられなくて、今でも鮮明に思い返すことができる。

 

 だから私はそんな彼の笑顔が忘れられなくて――先生になろうと思ったのだ。

 

   〇

 

「結局のところ、私は今でも根っこは子どものまま。大人のふりをして……先生という仮面に必死にしがみついているだけの、みっともない大人擬きなんだよ。ただ歳だけ取って……中身なんてまるで変わっていない」

 

「……」

 

「そういう意味じゃあ……ハナコは私には、ちょっと眩しすぎるかもね。だって私と君は正反対で――」

 

「――――でも、凄く似ている」

 

「……」

 

「……と、私は思いましたよ」

 

 黙って話を聞いていたハナコが、ようやく口を開いた。

 

 どうせ話はこれで終わりなのだ。言ってしまえば――ただ、普通の大人になり切れない落第者が、どうにか大人のふりをし続けているというだけのこと。

 

 蓋を開けてみればなんということはない。私は良く出来た大人なんかじゃなくって、ただの出来の悪い子どもで。それを誰にも気付かれないように、必死で隠し続けていただけなのだ。

 

「でも、こんなダメ人間を好きになっちゃダメだよ」

 

「それを言うならば、私だってダメな子です。すぐに猥談をしますし、水着で外を歩いたこともあります。晄輪大祭の時なんて、凄く悪い子でした」

 

「……それは、ハナコの本質じゃない」

 

「……っ」

 

「私みたいなダメ人間はね、自然と自分と似たような人が分かっちゃうんだ。だから先生もそうだったんだと思う」

 

 先生は初対面の私を見て、あっさりとその正体を見抜いた。まあ、普段から真面目だったわけではないから、それも当然かもしれないけれど。

 

「ハナコ。君は凄く良い子だ。優しい子だ。私の逃げ場になろうとしてくれているのが、よくわかる。嬉しい。でもね――」

 

「――――だ、ダメですっ!」

 

「……」

 

「続きを……続きを言わないでください! そこから先は……聞きたくなんてない……!」

 

 本当に聡い子だ。私もこうだったら良かったのにな。

 

 誰だって抱えている悩みは違って、それによるストレスも異なる。特に心なんて言うモノは、思っているよりも脆い癖に目に見えないのだから――猶更タチが悪い。

 

「ハナコ」

 

「嫌です! やめてください!」

 

「……ハナコ」

 

「私は――――貴方を、好きでいたいんです。大人のふりをしている先生を、本当は子どもっぽくてダメな貴方を、全部……好きになって、しまったんですから……」

 

 ああ、もう。

 

 ぼろぼろと涙がこぼれて、ソファを濡らした。彼女の涙は私の影が覆っていて――他の誰が見ることも出来ない。

 

「隠さないでください。私は貴方の声が聴きたいです。大人の理屈で誤魔化さないでください。本当の貴方を、私に見せてください」

 

 口が震えて、舌が怯えて、それでも絞り出すように。

 

 ハナコは言う。

 

「私だって……ダメな子なんです。ずるくて卑怯で、抜け駆けだってわかっていて……でも、貴方のことが好きで……どこかになんて行ってほしくなくて、ずっと傍にいてほしくて、傷ついてなんてほしくなくて、ただ毎日幸せに、笑っていてほしくて!」

 

「……それでも、私は先生なんだ」

 

「だったら、先生なんて止めてしまえば良い」

 

「――――っ」

 

 それはなんて。

 

 素敵で。

 

 綺麗で。

 

 尊くて。

 

 それでいて――残酷な言葉なんだろう。

 

 胸にざくりと突き刺さって、優しく蕩けるような感覚。

 

「二人で逃げましょう? キヴォトスから出てしまってもいい。私、貴方さえいれば――他には何も」

 

「……それは」

 

「きっと、外に出れば大人は更に排斥される。キヴォトスはぐちゃぐちゃになります。そうなれば、貴方はまた……撃たれてしまうかもしれない。これまでみたいに、先生ではあり続けられないかもしれない」

 

 ハナコがそう言って、私は合点がいった。

 

 そういえば――私に銃を持つよう強く進言していたのは、彼女だったか。

 

 それはきっと、エデン条約の時のせいだ。私が撃たれて、巻き込まれて、死にかけて……プレナパテス決戦の時も、別世界の私はやっぱり撃たれていた。

 

 所詮私はただの人間で、暴力に弱く、たった一発の弾で死んでしまう。

 

 高まる大人排他の世論。そんな中で、私の存在は――酷く脆い。

 

 だからなのだろう。彼女もまた、恐れている一人なのだ。私がいなくなってしまえば――――彼女は、どうなってしまうのか。

 

「怖いんです。貴方を、失うことが……」

 

「ハナコ……」

 

「――だから嫌……私を、浦和ハナコを貴方にしてください……」

 

 それは。

 

 どれだけの意味の籠められたメッセージだったのだろうか。

 

 彼女の全身全霊を吐き出したかのような言葉が部屋に響いて、私の体に馴染んだような気がした。強く納得があって、深い頷きがあって、それでもきっと、ハナコが本心から思っていることの、数割程度しか伝わっていないのだろう。

 

 だから彼女は言を重ねる。繋げて、増やして、より理解を求める。

 

「――――それでも、私はまだ、彼女のことを叱ってあげなくちゃいけないから」

 

「どうやって!?」

 

 強く、爆ぜるようにハナコは叫ぶ。

 

「私は大人だから、色々やり方はあるんだよ。それに、それでもみんなが私を要らないと言うんだったら……」

 

「っ……」

 

 そこで止めて、私は怯えるハナコの唇を奪う。

 

「ん――――む」

 

 柔らかくて、濡れていて。どこまでも溶け合ってしまって、二人の体が混ざり合ってしまって、頭がぐちゃぐちゃになるほどに幸せで。

 

 それでも、私はゆっくりと口を離す。

 

「……その時は、この続きをしてあげる」

 

「……は……ぁ」

 

 息を止めていたのだろう。彼女は肩で息をしながら、ゆっくりと焦点を合わせる。

 

「大人のキス……ってやつ。どうしようもなくなって、本当に打つ手がなくなったら……その時は、ハナコのことを頼ってもいいかな?」

 

「え――――あ、はい……っ」

 

 ハナコは虚ろな表情のまま、小さく頷いた。

 

「ごめんね、悪い大人で。君の唇、貰っちゃった」

 

「……どうせ、他の誰かになんて、渡すつもりありませんでしたから」

 

 窓の外を見ると、雨は止んでいた。外はすっかり暗くなっていたけれど、雲ひとつない晴れ渡った空があった。

 

 彼女の願いを聞くことは出来ない。何故なら私には、大人が背負うべき責任がある。それを果たさないうちは、逃げることなんて出来やしないのだ。

 

 けれども、ハナコのことも大切にしたい。彼女の望みを叶えてあげたい。こんなダメな私を好きになってくれた彼女を、不幸せになんて出来ない。

 

 さっきもハナコが言ったように、きっと私たちは似ているのだ。お互いがお互いの逃げ場になって、大人と良い子という仮面を脱ぎ捨てて、裸で接しあえるようになれば――それは、とても良いことだと思う。

 

 でも、今はまだ、出来ない。

 

「先生、好きです」

 

「……うん、ちょっとだけ、俺も本気になっちゃった」

 

「――――っ」

 

 彼女が目を丸くする。それはどうしようもなく悪質な、私の本音だった。

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