「眼鏡をとってコートを脱いで……それで変装のつもりですか?」
「……それで会社帰りのサラリーマンのつもりかい?」
夜になってもキヴォトスに銃声は鳴りやまない。どこか遠くでずっと轟音が鳴り響いていて、なんとなくそれを肴に安い酒を煽っていた。コンビニで買った安値のチューハイは後味が悪くて、でも簡単に酔えるから好きだった。
……酔っているときは楽だ。そういう免罪符が得られる。普段は言えないようなことでも言っていいし、出来ないようなことだって出来るような気がするから。
簡単に言えば、それは私にとっての殻を破る手段であり、また私にとっての軽い自傷行為なのだろう。
でもそんなふうに自分可哀想と浸れないからこそ、こうして安い酒をちまちまとしか飲めないのだ。どうせだったらもっと度数の高い酒をがぶ飲みして、煙草でも咥えてしまえたら良かったのに。
男は当然のように私の横に腰かけた。別に誰かのために空けていたというわけではなかった。横に長いそれを、一人で占領する気にはなれなかっただけだ。
どうせ自暴自棄に近しい状態、ベンチで横になっても誰一人気にも留めないだろうけれど、なんとなく憚られたのでしなかっただけだった。そこに深い意味は勿論ないし、酔っているんだから多少のことは許されると思っている。
「お酒、強いんですね」
「どこをどう見たら」
「いえいえ、充分お強い」
足元にはコンビニの袋が落ちている。中にはまだ一缶のハイボールが残っているから、風に吹かれるということはない。
「しかし、キヴォトスもすっかり過ごしにくくなってしまいましたね。そうは思いませんか? 先生」
「……」
黒服はなんてことはないように、私に語り掛ける。
どうしてこんなところに、だとか。
何故私の元に、だとか。
暇なのか、だとか。
そんなことを尋ねる余裕はなかった。
「それが、子どもたちの判断だったんだよ」
「……」
「そしてそれは、大人の責任でもある」
生徒たち子どもを支えてあげたいと思った。助けを求める子には皆一様に手を差し伸べられたつもりでいた。けれど、その結果がこれだ。手のひらを反すように――なんていうと、少し傲慢かもしれないが――今までの努力が否定されてしまった気がした。
自分のことを、多少なりとも頑張っているとは思っていたのだ。朝から晩まで働いていたのは、生徒たちのことを思ってのことだった。恩着せがましいようだが、それは私の中で事実なのだ。
「先生は――――いえ」
「……」
「貴方は、先生という職業をどうお考えなんですか?」
「どうしてそんなこと聞くの? 何を知りたいの?」
「別に腹を探っているわけではありませんよ。純粋な興味です。もしこのキヴォトスから大人が消えてしまうとしたら――もう、貴方には会えないかもしれない。私たちは敵対こそすれ、憎み合っているわけではないでしょう?」
「……」
まあ、そうとも言えるか。
私と黒服――ゲマトリアの面々は致命的に反りが合わない。お互いの持つ矜持が、望みが、決定的に異なっているのだ。
彼らのやっていることは許せない。許されたことではない。けれどそれでも――どうしても自分の願いを叶えたいという意思だけは、理解出来てしまう。
そういう点では彼らと敵対はしていても――いや、やっぱり多少は憎いか。そこまで肯定はしてやれそうになかった。
そんな私の逡巡を察してか、黒服は「まあ」と続けた。
「本当に純粋な興味なのです。私は貴方のことが知りたい。単純な疑問ではダメでしょうか?」
「ダメじゃないよ」
「……」
「……いつかどこかで、誰かに話さないといけない内容だったとは、思ってるから。でも考えれば考えるほど、生徒に話せるような内容じゃあない。そういう意味では、アンタ――黒服は丁度良いよ」
この気持ちはきっと、贖罪に近いのだ。自分が抱えた続けた罪を裁いてほしいという願いなのだ。
黒服は沈むように、押し黙る。私に早く話せと、そういうことらしい。そこまでして聞いて、面白い話ではないだろうけれど――今日はアルコールも入っている。少しくらいは、口が滑っても、仕方ないのだ。
「私って正直、先生なんて向いてないんだよね」
「……ほう。私からすれば、貴方ほど先生に向いている熱心な方は他にいませんが。その心は?」
「昔から人の気持ちを汲むのが多分、上手かったんだと思う。相手が何を欲していて、何を拒んでいるのか。少し話していたらなんとなくわかっちゃうんだ。だから……相手が言われたい言葉って、案外すぐ分かっちゃうもんで」
「そういうの、誰だってそうではないですか?」
「本当かい? でも、相手にかける言葉は私の本心なんかじゃないんだぜ」
「相手のことを思っているが故、でしょう。傷つけたくない、相手の嫌がる顔を見たくない、泣いてほしくない……それは至って当然の感情です。言いたいことよりも言うべきことを優先することに、何の罪があるというのでしょうか」
「そう言ってくれるのは嬉しいけどね。でも結局さ、それってただのロールプレイの延長線に過ぎないだろう。まるでゲームみたいにさ……相手の欲しい言葉を言って好感度を稼いで、自分を好きになってもらってさ」
「物事を難しく考えすぎなんですよ」
黒服は私の言葉をぴしゃりと断ち切った。
「……ハイボール。飲みますか?」
「ぶっちゃけコーラの方が美味しくない?」
それだけ聞くと、黒服はレジ袋からハイボール缶を取り出して、かしゅりと空けた。
「奢ってください」
「ツケだぞ」
そのまま、缶を思い切り傾けた。見ているだけでも驚くくらい、気持ちの良い飲みっぷりだった。
「……誰だって誰かに好かれていたいものです。八方美人とは言いますけれど……嫌われるよりずっとマシでしょう」
「驚いたな。いや、二つの意味で……まずどこから酒飲んでるのか分からなかったことと、アンタでもそういう気持ちが理解できるものなんだっていう、驚き……」
「そりゃあそうですよ」
黒服がげふっと息を吐いた。こいつはこういう、ある種人間的な生理現象もあるんだな、と思って、少し可笑しくて笑ってしまった。
「それ自体は間違ってなんかいない。誰かに好かれるために自分を偽るだなんて……誰だってやっていることでしょう。仮にそれが――貴方の先生を真似ていたとしてもです」
「どこで知った? その情報」
「秘密です。大人なので」
「そんな言い訳があるか」
多分だけれど、黒服はにこりと笑った。よくわからなかったが、きっとそうだと思った。
もしそうでなかったとしても、私の中ではそういうことにしておくとしよう。
「大人って大変ですよ」
「……子どもだって大変じゃない?」
「何を仰いますか。大人だからだなんて言い訳、許されるのは酒と煙草くらいでしょう」
「さらっと今の自分を肯定したな、アンタ……」
「――まあ、そういう先生という仮面を被ること自体に、ある種の申し訳なさを感じるのは理解できます。口では本心でぶつかっていると言い、他者からは情熱的な先生だと言われ、内心そんなことはないのにと考え、その矛盾と演技に苦しむのは」
「厭に解像度が高いね。そういう経験でも?」
「おっと。口が滑り過ぎましたか」
黒服は口調だけは芝居がかったように、しかし一向に気にも留めていないような態度で再び缶を傾けた。アルコール度数は9%。ごくごく飲めばすぐにアルコールが回ってしまうだろうに。
「話を戻しましょうか。つまるところ、先生という職業は――」
「――私にとって言えば、向いてない。無理矢理やっている」
「……成程、成程。では、他にどんな仕事だったらやっていたのでしょうか?」
「他にやれる仕事なんてあると思う?」
「言わせるつもりですか?」
「いいだろう、大人しかいないんだ」
「……思いつきませんねぇ」
「やかましいなアンタ」
あまりにもわざとらしくって、ついつい笑ってしまう。
本当に――どうしようもなくてこみ上げた笑いだった。
「ということは……貴方が生徒を守ろうとしているのは、貴方がそれを正しいと思っているから、なのですね。先生という仮面はさておいて。本当の貴方が、それを正しいと思っているから、なんですね」
「……」
その言葉は正しくない。それは間違っている。
心の中でぴちゃんと波紋、それが静まるにつれて……言葉が小さく浮かんできた。
「いや……」
「……」
「私はね。違うんだよ、そんな高尚なモンじゃない。ただのエゴだ」
「……して、その本性とは?」
「俺が言われたかったこと、言ってほしかったこと、それを……誰かに渡してあげたいだけなんだ」
それはどこまでも、ただの一人の男の傲慢な欲望でしかない。誰かを操り人形にしてやろうだとか、弄んで好き勝手にしてやろうだとか、そんなつもりはない。
昔から俺はダメな子どもだった。要領も悪くて、何もかも上手く出来ない子だった。幼くして何も持っていないと思った手はとても小さくて、背格好ばかりが大きくなっても、まるで何も育ってはいなくて。
――でも、そんな愚かで矮小な子どもでも、誰かに認めては欲しかった。
それが傲慢であることは分かっている。何も成せず、何もできず、ただ生きているだけの俺が誰かに認めてもらえるわけがない。
それでも欲しかったのだ。だからエゴなのだ。誰かに一方的に求めるだけの利己的で自己中心的なナルシストなのだ。
「他人にかける言葉は、自分に戻ると言う。貴方は……生徒を自分に見立てて、あの時欲しかった言葉をかけていたのだ――と」
「全く幼稚なクソガキだ。歳ばっかり幾つ積み重ねても……生きているだけでしかない。それ以上なんて元々、出来っこないんだけどさ」
「であれば、運よく絡みあっただけ……というのが正しいのでしょうかね」
黒服は納得するように、何度か頷いた。
「私は時折、貴方の行動原理にヒロイズムを内包しているのだと考えていました。誰かを助けるだなんてことは当然のことで、救いを求める者がいればやはり当たり前のように足を動かす。自然から生まれたナチュラルボーンヒーロー、それが貴方であり、先生の正体なのだと。しかし……それはどうやら、違っていたようですね」
「……」
「貴方は――貴方のエゴで、虚ろに乾いた心を満たすために、誰かを助けるのですね」
そう言われて――ようやく納得出来た。穴の空いたスペースが綺麗に埋まるような納得と満足があった。
きっとこれまで、この行動理念に正しい言葉を見つけられないままでいたからこそ……ずっと迷い続けていたのだろう。
指針がなければ、篝火がなければ、迷いいずれ朽ち果てるのは道理だ。
「考えてみれば自己犠牲も当然。誰かのためではなく、貴方自身のための行動なのだから。どれだけ傷ついたとしても――助けることさえ出来れば最終的には満足できる」
「……人のことを悪の親玉みたいな言い方するな」
「いえ、褒めています。素直に、心からです」
じろりと顔を見ても、笑っているのかすらよくわからなかった。
「欲望と他者の求めるモノが
「あんまり考察を続けないでほしい。少し酔いが醒めてきた」
「おや、夜風は体に響きますか」
「コートも脱いできたし、ちょっと寒いんだよ」
「――それとも、夜風がなくともお体が響いているだけですか?」
一見すると意味がわからない言葉だった。でも、すぐにその意図は読み取れた。
全く――黒服の行動原理はまるで理解出来ない。
結局、自分のことは自分しか理解できないということか。
「……何が言いたい? ハッキリ言ってくれよ」
「貴方の体は、あと何度まで保つのですか?」
「……」
しばしの静寂。夜に吹く風は、どうしてこんなにも明瞭なのか。
誰もが寝静まる閑静な夜。私の懺悔を聞き流してくれるのは、得体のしれない黒服と、この厭に冷たい夜だけだ。
「わかんない。考えたことないね」
「ご冗談を。貴方ほどの自殺志願者が、それを考えないわけがない。嘘は相変わらず下手ですね」
「……うるさい」
言いながら、私は懐をがさがさと漁った。すぐに手に触れる、硬い感触。
『
「ずっと不思議だったのです。貴方のその力は……いえ、『奇跡』と言いましょうか――その『奇跡』は異質すぎる。まるで理屈がなっていない。強引に全てを解決するための切り札だと」
「私もよく分かってないよ」
「ですが、ある程度納得はしました。今の話を聞いて、仮説ではあれど――」
「――」
「――貴方のその『奇跡』は、ある種の『神秘』なのです。貴方そのものに『神秘』はなくとも、貴方の歩んだ道程にこそ『神秘』が生まれ得るのです」
「……なんだか要領を得ないな。こっちは醒めてきたとはいえ、まだ酔ってるんだ。具体的に――」
「――生徒の
それはまるでプロポーズのようだな、と思って、少し可笑しくなってしまった。もしこんなやつにされても断るだろうけれど。
「貴方の大人のカードは切り札であり、そしてその『奇跡』は、これまで貴方が培ってきた生徒との絆そのものであり――過去、貴方が埋められなかった傷を埋められるモノでもあります」
「――――っ」
「このキヴォトスとは、
一拍貯めて、それから。
「――――名を冠すならば
そう、黒服は言い切った。仮説だとか自信なさげではあったけれど……その言葉は確信めいていた。
だから……それはなんとなく、そうなのだろうな、と私は飲み込んだ。
「貴方は貴方の築いてきた絆を、あるいは貴方が過去成し得なかった関係性を、具現化しているのです」
「……はは、それは面白い解釈だ」
濁すことしか出来ない。仮にその話があっていたとしても、間違っていたとしても、私にはどうすることも出来ないのだから。
『青春証明』。それは、私の後悔の証でもあるのだから。
湿った青春は露と消えた。後悔だけが残って虚無と化した。だから、私はそんな過去を清算するように――今を生きているのだろうか。
きっと悪いことなんかではない。自分の過ちを後悔すると書いて、人生と読む。人は生きながらに違えて、一生をかけてそれを悔いる。例え死の間際に至っても、満足などありはしない。
「……しかし、過去をやり直す代償は、未来しかありません」
黒服は次いで、そんなことを言った。
どうしてそんなに声音が寂しいのだろうと思った。
彼も夜風に吹かれたか、酒が回ったのかと思った。
くしゃり、とハイボール缶がへこんだ。彼はそれをレジ袋に突っ込むと、ひょいと立った。
「貴方は、これから何をなさるおつもりですか?」
尋ねるようでもあり、疑うようでもあり、私を確かめるように、黒服は言う。
「……アンタの考えは、あってる」
「……」
「
「貴方は破綻者であり裁定者でもあります。貴方の選択は、貴方にしか出来ないことですから」
意味ありげに、黒服はぽつりと零した。何を言っているかはまるでわからなかったけれど、これはいつものことだ。
私は彼の言葉を聞き流して、同じようにベンチを立った。
二人の間に言葉はなかった。お互いに示し合わせたようにその場から離れた。もう未練はなかった。話したいことはお互いに全部話してしまったからだろう。
あとは結果が語るのみだ。黒服が言うように、私の選択がどのような末路辿るのか。
それは結局、見てみるしかないのだ。
二人の大人の時間は終わって、じきに夜が明けるのだ。