静かに手を合わせて、目を閉じた。
考えるべきことはいっぱいあった。どれをどれだけ考えたところで答えは出し尽くせないことくらいはわかっていて、それでもとりとめがなくとも何かを考えていないと頭がどうにかなってしまいそうだった。
頭の中が静かになってしまうと、きっと私はそのままおかしくなってしまうのだ。とち狂って壊れてしまう。だから本質的な問題から目を背けていた。
それでも……流石に限界だった。いつまでも休職してはいられなかった。
生徒たちが求めているのは先生である自分だ。だったら、その願いを叶えてあげなければ、私のこれまでは全て嘘なのだ。
目を開ける。そこには一つの石が立っている。
――政島家の墓石、である。
「……」
ここには、彼女の――政島イヴの妹、政島ナギが弔われている。
いい加減、私も行動を起こすべき時期だと思った。だけど、何かをする前に必ず、ここに来ておかなくてはならないと思った。
キヴォトスが幾ら広いと言えど、霊園ともなれば大した数はない。そこから彼女の家系を探し出すのは、そこまで難しいことではなかった。
イヴも時折訪れているのだろう。周囲は清潔に保たれており、私が何かをする必要はなさそうだ。
持ってきた花を添える。出来ることと言えば、萎れかけているこの花を変えてやるくらいか。
一歩引いて、墓石を眺める。静かな時間だった。それが明け方なのもあるだろうが、それにしても妙に静まり返った、ともすると奇妙な時間だった。
空は雲一つなく晴れ渡っている。すっきりとした青が一面に広がるばかりで、ほんの少しだけ、私の胸中のわだかまりも薄れたような気がした。
なんて単純な男なのだろうか。天候に気分は左右されるけど、少し晴れたくらいでここまで気分が明るくなってしまっては、自分の抱えていた悩みが馬鹿らしく思えてくる。
あまり長居していても何も変わらない。そう思って、私は踵を返して――彼女を見つけた。
「せ……先生……」
「君は……湯谷セイ、か」
そこに立っていたのは、新聞部一年生、湯谷セイだった。腰まではある長い髪の毛を一つ結びにして、私の前までおどおどと歩いてきた。やっぱり前髪で表情は隠れていて、その真意は読み取れなかった。
「お願いが、ありまして……ですね、その……」
「……うん。どうかした? 私に出来ることだったら、なんだってするよ」
「ほ、ほんと、ですか……?」
「勿論。私は君の先生でもあるんだから」
――どうやら、もうしばらくは、私の人生は続いてくれそうだった。
〇
「イヴちゃんを、止めて欲しいんです」
そうハッキリと、セイは言った。
「止めて欲しいって……そもそも君は、イヴの意志に賛同してたわけじゃないのか?」
「それは、そうなんですけれど……」
言いにくそうに、セイは顔を俯けた。わざわざ政敵である私のところまで来ているのだから、言いにくいのは当然か。
「初めは、私も……イヴちゃん側で……大人のせいでナギちゃんがって思ったら……許せなくなって」
「……」
ぽつりぽつりと彼女は続ける。
……今は黙って、聞き役に徹していた方が良さそうだ。
「だから、イヴちゃんの言う新しいエデン条約は、正直……良いなって、思ったんです……」
「……」
「でも――」
ぱ、と顔をあげた。前髪がふわりと舞って、ようやく彼女の瞳が見えた。
――梔子色の虹彩。文字通り、私を吸い込んでしまいそうなほどにそれは魔的で――綺麗だった。
「わ、わわっ!」
私と目が合って、すぐに彼女は大きくのけぞった。後方へ下がって、距離を取った。
……正直ちょっと傷ついた。そこまで逃げなくても。
「ご、ごめんなさいごめんなさい! 私なんかが先生と目を合わせてしまって!」
「い、いやいや、こっちこそ……ちょっと近すぎちゃったね?」
「そんなことはありません私なんかが先生に近づくだなんてそもそも愚かなことなんですから!」
そこまで自己評価が低いと逆に逞しさが勝つ。
「……えっと、とりあえず話を戻そうか」
「……あ、そうですね。それで……でも、イヴちゃん、最近なんだかおかしくて」
「おかしい?」
「あ、はい。魘されてるっていうか……普通じゃないっていうか……」
「……」
あれだけのことをしたのだ。日常から大きく外れ、その結果として普段の生活が噛み合わなくなってしまうだなんてことは、よくあるだろう。それだけストレスもかかるし、いつもより苛々することだってあるはずだ。
「独り言も増えていて……私が話しかけても、あんまり話してくれなくて……」
「それで心配になったの?」
「はい。こんな時に頼るべき人は、どうしても――先生しか、思いつかなくて……」
とんだ手のひら返しだ。が、それもまた子ども特有のモノだろう。
別に責める意図はなかった。怒りも恨みもなかった。
ただ――イヴに少しだけの、同情が残っただけだった。
「……私が話して、なんとかなると良いけど」
「話してほしい、というよりかは……止めてほしい方が、強いんです」
「? どういうこと?」
「今イヴちゃんは、大人を追いやろうとしてます。そのために色々駆けまわって、テレビにも出て……でも、私、思ったんです。それって間違ってるかも、って――」
「――……」
「……先生みたいな人だっています。私の話を聞いてくれて……こんな地味な私にも、話を振ってくれる……それに、行きつけのカフェのマスターだって、本屋さんの人だって、大人ですから……」
「だから、彼女のやっていることを止めて欲しいって?」
「そういうこと、に、なります……かね……」
「……」
「わ、わかってます! 勝手なことを言ってるって言うのは……自分勝手、ですよ、ね……あれだけのことをしておいて、今更……」
「――いや、いいんだよ。私は先生だから。君たちが助けを求めるんなら、いつだって手を差し伸べるよ」
「……」
「それが大人の責務だから。やらなくちゃいけないことを、やらないとね」
話は概ねわかった。それから察するに――政島イヴに、何か起こっているのだろうか。
彼女は初めからこの状況を目論んでいた。ならば、その後自分がどんな目に合うか――想定していなかったはずがない。彼女は賢い子だ。実際、私が手玉に取られてしまったように。
ならばそれによって生じるストレスの軽減は計画に含んでいるはず。だが、話を聞くにそれなりに苦しんでいるようではある。この二つの考えは、矛盾している。
だとすれば、どちらかが間違っていると考えるしかないが――。
「……もしかして、イヴはこんなこと望んでいなかった?」
「え?」
不意に、そんなアイデアが浮かんだ。
「わからないけれど……もし心底やりたくて大人を排斥しようとしていたのなら、覚悟があるはずだ。でも、セイの話を聞いていると、なんだかそうじゃないような気がしていて」
「……言われてみると、ではありますが……確かにイヴちゃんは、そういう子ではありませんでした。ナギちゃん……妹が、いなくなってからはしばらく塞ぎこんでましたけど……」
「その時、誰かに会ったとか……何かあったとか?」
「そこまではわかりませんけど」
「……」
分かっていればそれを解決する、か。手段がわからないから、今こうしてここに来ているのだろう。
ある意味では、既にイヴは暴走しているのだ。目的は手を離れ、仮に彼女がいなくなったとしても、キヴォトスの大人への悪感情は淘汰されないだろう。
それが心理的なストレスとなっているのか――あるいは。
「協力者がいるのか、だね」
「……」
セイは黙ったままだった。察しはついていたのだろう。
確かにイヴは計画的だ。だが、ここまで大仰な計画をしでかすほどに大胆かと言われると――それはどこか、違う気がしている。
背後に誰かの影がある。そう考えれば、色々と想像はつく。
ゲマトリア――一瞬だけ考えて、すぐに振り払った。黒服は何を考えているかわからないし、策略謀略はお手の物の厄介存在ではあるが、ある意味では奴ほど誠実な者はいない。あいつは損得勘定で動ける者だ。自分の感情だけで単純に動いたりしない。ましてや、その計画がゲマトリアとしての行動を阻害するものであれば、まず黒服がそれを許さないだろう。
「……」
そういう意味では、私は黒服を信用していると言えるだろう。今回の事件には、ほぼ関わっていない。昨晩私の元に来たのが、何よりの証左だ。勿論、姑息な彼らのことだから、何かしらの対抗策を練っている可能性は充分にあるが――。
――とはいえ、少なくともゲマトリアが関わっている線は薄い。ならば他の誰か。
「……ちょっと、今は考えてもわからないな」
それが私の結論だった。現時点では判断材料が少なすぎる。そもそも、イヴとも数回しか話してはいないのだ。たったそれだけで、彼女の全てを察せるほど、私は賢くなんてない。
「――――だったら、私が探りを入れてきましょうか?」
「――!」
聞き覚えのある声音。どこまでも澄み渡るような、飄々とした、そんな声がした。
「アキラ……?」
「――嗚呼、先生。私のことを覚えていてくださったのですね。最早私たちは互いの心に巣食いあい、奪い合った相手と言って過言ではないのでしょう」
真っ白な衣装に身を包んだアキラが、その場で仮面を外した。
「せんせっ☆ 私も力になるよ!」
「ミカまで!? どうしてここに……!?」
「探したんです。あなた様のことを、想っていましたから」
「……ワカモ」
「お嬢さんたちだけではありませんよ、先生。随分と酷いことをなさるのですね。思い人を、置いていくだなんて――」
アキラはそう言うと、背後に隠した少女を私の前に見せた。
……ハナコだった。
「どうして……」
「……」
ハナコは一瞬黙って、それから、口を開いた。
「ばか」
「……っ」
「先生は……ばかです。困ったら頼れだなんて言っておいて……自分が困っても、私を頼ってはくれない。ずるくて、卑怯で、だから……だから、追いかけてきました」
沸々と湧き上がる感情を、どうにか抑え込むように。しかしどうにも、収まり切らないように。
「何が大人のキス、ですか! これが終わったらだとかはどうでもいいですから――やっぱり、今すぐ欲しくなったんです!」
そう言うと、ハナコはずいずいと私に距離を詰めてきた。思わず一歩引いて、それでも逃げ切れなくて、彼女に捕まった。
「ひ……っ」
小さく悲鳴。しかし、ハナコはその程度では一歩も退かない。
頬に手を添えて、そのまま顔が近づく。逃げられない、と思ったのは――彼女の唇が、私に触れてからだった。
「ちゅ――――」
「……っ」
「……わーお」
すぐに離れる。ぶちゅう、と何のロマンチックさもないただの粘膜接触。唾液の橋がぷつりと切れて、落ちていく。
呆気なく、私はハナコに唇を奪われた。
「あ、あ、あ、貴方……! 何してるんですか!」
「大人のキスです! 間違ってますか!」
「間違ってるって言うか……ええ!?」
「おやおや、お転婆なお嬢さんだ……」
「やっぱり見過ごせなかったんです。先生が先生であり続けることを。だって貴方は、貴方こそが、私に本当の私でいて良いのだと、そう言ったじゃないですか――――だから、貴方の言葉を貴方に返すために、私は先生を追いかけることにしました」
私は急に盛り上がるその場で、ただ固まるしかない。
何故。今。キスを。されたんだろう。
まるで理解が追いつかない。氷のように指先までもがかちこちと凍って、動けない。
――それでも、ハナコの言っていることだけは、どうにか解きほぐさないといけないと直観した。
「ずるーい☆ 私もちゅーしていい? 先生」
「お待ちなさいバカ姫! 実装順で言えば次は私です!」
「こういうのは早い者勝ちって言うよね☆」
「最終的に先生の全てを頂くのは私です。多少手垢がついていようとも、私の元で清めてみせましょう」
「今私のちゅーのこと手垢って言った?」
「……前言は撤回しましょう」
「ミカさん、拳を握るのは結構ですが一応ここが霊園であることは覚えておいてくださいましね」
……その前にどうにかしないといけない問題もあるし。
〇
一旦霊園を離れ、近くの公園までやってきた。完全に蚊帳の外になってしまったセイを宥めてまたひと悶着あったが、とにかく逃げるようにして私たちは椅子に腰かけることが出来た。
屋根のある小さな空間。テーブルと横長の椅子が二つ備えられたそれに腰かけて、私たちは改めて対面する。
「……一旦、話を元に戻そうか。皆がここに来た理由、からだ」
「そんなの決まってるじゃん」
「……」
「先生が困ってる。それ以上の理由なんて、いらない」
その場の全員が、全く同じ意見であると頷く。それ自体は嬉しいことだ。心の中がぽっと明るくなるような気がする。
――実際、私一人でどうにか出来るとは思っていなかった。純粋に、人手が増えるだけでも行動範囲は大きく増える。それ自体は嬉しいことだ。
「ハナコ。その……」
「……ごめんなさいは後で聞きますね。細かい話も後にしましょう」
「……う」
別に彼女を切り捨てたわけではない。単純に、今の私と行動を共にするのが危険だと思っただけだ。
もしかすると、ただ道を歩いているだけで石を投げられる可能性だってある。私といることが彼女にとってマイナスな方向に働くことが増えるかもしれない。そういう理由で単独行動を選んだわけだが――そうまでしてついてきてくれると言うのならば、今更私から何か言うことはないだろう。
彼女のことだ。何が起こっても、受け入れる覚悟はあるのだろう。
「先生は格好つけたがりだもんね。すーぐ陶酔しちゃうんだから」
「そうですね。自己犠牲を美徳だと思っておられます」
「それ自体は美しくとも――貴方と言う芸術品を失うことは人類の損失であることを重々承知して頂きたく」
「……」
四面楚歌だった。もしかして助けに来てくれたんじゃなくて、責めに来たのか?
……それだけのことをしている自覚は、ないわけではないけれど。
「――ま、まあ、とにかくセイ。イヴを止めて欲しいってことだったけど……アキラ。何か策でもあるの?」
「ええ。政島イヴ、彼女の居場所さえわかれば、止めることなど私には容易きこと。問題は肝心の居場所でしたが……内通者がいるとなれば話は別です」
「な、内通者、ですか……」
「言い方が気に食わなければ協力者、でも構いません。ですがようはそういうことです」
今のところ、イヴの背後に誰かが潜んでいる可能性は十二分にある。しかし、尻尾を隠すのが上手いのだろう――同じ仲間であるセイにすらそれを掴ませていないというのは、それだけ計画の隠蔽が上手なのか、あるいは――。
「……」
――セイがこうして私の元に来ることを理解して、なのか。
彼女たちの関係は決して浅くはないはずだ。それなりに長い時間を共にしているはず。であれば、セイが私を頼る可能性を鑑みるのは当然かもしれない。
セイの正義感や罪悪感が溢れて、突発的に動いてしまう。イヴならば考え付くだろう。ならば、今のこの状況下さえも、イヴの想定の範囲内という可能性はある。
とはいえ矛盾点も少なくはない。セイの証言にあった、イヴがおかしくなっているという点だ。勿論、これだけのことをしでかしたのだから、多少なりとも精神面に異常が出ることは普通なのだろうけれど――。
――一人でばかり考えていても仕方ない、か。最早私たちは一蓮托生なのだ。
「いずれにせよ、イヴの元へ行くしかなさそうだね。仮に罠を仕掛けているとしても」
「……先生。先生が行くのを控える、ということはできませんか?」
ハナコがそう言った。
「どうして?」
「相手はただでさえ厄介です。もし先生が勢い勇んで突っ込んでくることも想定していたとすれば――より状況が悪化する可能性があります」
「確かに一理あるけれど……私がいないとなると、ハナコたちだけが行くことになるんじゃないのかな」
「そう言っています」
「それはダメだ」
「……どうしてですか」
「危険すぎる。何が起こるかわからないのなら、大人である私も行くべきだと思う」
「それはダメです」
「……どうして?」
「危険すぎます。何が起こるかわからないのですから、先生は来るべきではないと思います」
「……」
「……」
二人して、言葉に詰まった。
ナッシュ均衡。ゲーム理論でよく使われる言葉である。
お互いが考えられる最大の選択を取ろうとした場合、結果として状況が行き詰ってしまうこと。
私は生徒たちだけで行くことを危険だと思うし――生徒たちは、私を同行させることを危険がる。二人の意見は完全に別のものであり、意志が異なるからこそ合致はしない。
ハナコはこういう子だった。多分、この場において意見を変えることはないだろう。勿論、それは私も同じである。
「――お二人とも、ここに誰がいると思っているのですか?」
アキラの言葉ではっと顔をあげた。
確かに、二人の意見は正面突破を想定するモノだった。それ以外に策はないと思っていた。
しかし――そうではない。ここにうってつけの者がいる。
こういう鉄火場の侵入者筆頭――。
「ようは情報を持ってくればいいのでしょう? それが正攻法でなくとも――彼女の美学を盗むことに変わりはありません」
「アキラ……!」
「潜めて侵して集めて調べて――『