目の前にいたのは二人の女だった。
肩口までのセミロング。頭髪は真っ黒だが、インナーは薄く緑がかかっており、ゲヘナらしく角も二本生えている。快活そうな性格通りの見た目――少女。
もう片方も、私の知っている女。長身長髪に真っ赤な肌。それを隠すように纏ったドレスは、黒く染まっている。
「どうしてお前がここに――――」
私は知っている。彼女の名前を。
私は覚えている。彼女の悪行を。
忘れられようはずもない。それだけのインパクト。彼女の名前は――
「――ベアトリーチェ――――!」
「――――お久しぶりですわ、先生」
なんでもないことのように、彼女は言う。傍らには一人の生徒。それだけで――もう充分に、私は臨戦態勢を取っていた。
懐から『大人のカード』を取り出す。構える。いつでも彼女と、戦うことが出来るように。
「別に、争いに来たわけではありません。それはしまってください」
「どうだかね。アンタほど私が信用してない人物は、このキヴォトスには存在しないから――」
目配せでミカを止めるよう、ワカモに指示を出した。彼女も多少はエデン条約のことは知っているはずだ。今最も危険なのは――あの時の復讐のため、ミカがベアトリーチェに飛び込んでいくこと。
しかし、考えていたよりもミカはずっと冷静だった。ハナコの心配を優先し――庇うように背にして立っている。とてもではないが、衝動的に突っ走るようなことはないだろう。
「お前が……仕組んだこと、なのか?」
「ええ」
さらりと、ベアトリーチェは言う。
「先生を排除するという考えは、当初よりのモノでしたから。一度は失敗しても……最終的な目的を諦めるつもりなどありません」
「――――っ」
合点がいった。成程、全ては――彼女の企みだったのか。
大人全ての排他というのはあくまでも別の理由に過ぎない。本来の狙いは、先生である私や黒服を一掃し、その後の行動を楽にするため。そしてそのために、新聞部を裏で操っていた。
道理で彼女たちの計画に違和感を覚えたわけだ。大人をキヴォトスから消し去るだなんて、普通に考えれば突拍子もないことだとすぐ分かる。実際に私の生徒たちがそうだったように、それ自体を嫌がる者は当然いる。だと言うのに強硬したのは、ベアトリーチェの願いを叶えるため。
「私は私の求める『崇高』のため――貴方はあまりにも、邪魔過ぎましたから」
「勝手なことを言ってくれるな……」
ならば、ハナコが襲われたのも先ほどのマカの口ぶりからして、彼女の作戦だろう。
――きっと、イヴだけが彼女と繋がっていたのだ。マカもセイもそのことを知らずに、彼女についていった。
「――イヴ。君は……大人を嫌っていたんじゃなかったのか?」
イヴに話しかける。ベアトリーチェと対峙し続けるのが苦だった、というのもある。しかし――こうして彼女に付き添っているイヴに対し、幾つか聞きたいことがあったのが大きい。
「……」
だが、彼女は何も言わない。口を閉ざしたまま、黙っている。
「イヴ……?」
「厭ですわ、先生。レディの名前を間違えるモノではありませんよ?」
「……――!」
はっとした。息を飲んだ。
――嘘だ。そんなことがあるわけがない。
だって私は――彼女の墓石の前に立ったのだ。確かにそこには彼女の名前が刻まれて――――。
「……な――――っ――」
声が出ない。
違和感が凄い。
頭がごちゃごちゃしている。
自分の知らない情報を、無理矢理脳味噌に突っ込まれているような。
「――――、っ」
唐突な吐き気で目の前が真っ白になる。額に脂汗が滲んで、一人で立っていられない。
「――先生っ!」
すぐにワカモが肩を支えてくれた。それでも、彼女に助けられて立っているのがやっとだ。
内臓がかき混ぜられている。体の中がぐちゃぐちゃになっている。思考を整理できない。
――――本当に、あの墓石には、
――――本当に、あの墓石には、
私は確かめたはずだ。でも、覚えていない。多分書いてあったと思う。でも、覚えていない。
流石に骨壺までは調べていない。けれど、そんなこと考えなかった。
いや、それよりももっと前。そうだ、おかしかったのだ。
あの時はまるでおかしいとは思えなかったけれど、今考えればそうなのだ。
ずっとずっと前から、おかしさはあったのだ。
ヒナが初めて新聞部を連れてきた時、私は何を見た?
シャーレにやってきた彼女たちを見て、私は何を見た?
ぞろぞろと集まった彼女たちを見て、私は何を見た?
あの時を――――私は確かこう記憶していたはずだ。
『ぞろぞろと四名ほど、ゲヘナ学園の制服に身を包んだ者と――空崎ヒナがいた』と。
それって――――
新聞部は……何人なんだ?
「――――ァ……く――ハ……っ」
呼吸が上手く出来ない。息を吸えない。息を吐けない。呼吸が滞っている。
どうして気付かなかった。どうして気付けなかった。
彼女はずっと――――
「政島…………ナギ……?」
「ご名答。嘆かわしいですわ、貴方ともあろう人が――生徒の名前を呼び間違えるだなんて」
「おかしい……だってナギは……っ」
「ええ。行方不明、でしたね」
「……っ」
「――聞いてるかマカ……!」
『――――聞いてますよ。私だって、信じられない……!』
その声には困惑が多分に含まれている。疑うわけではないけれど、きっと事実なのだろう。
マカもセイも、きっと知らなかったのだ。彼女が――政島ナギが生きていることなど。
『で、でも……だったらおかしい、ですよ……!』
セイが声を張り上げる。
『だって――――イヴちゃんは……ナギちゃんの、仇を討ちたいって……! そのために、大人を……!』
必死な声。だとすれば、これは矛盾している。
――しかし、やはりベアトリーチェは悠然と、モノを言う。
「それは本当に、政島イヴの口から聞いたのですか?」
『――――っ』
無線越しに、二人の息を飲む声が聞こえた。
確かに――今私の前に立つ彼女が政島ナギだと言うのなら……それはあまりにも似すぎている。まさしく瓜二つ、私の記憶の中にある彼女の姿と相違ない。
――いや。もしかすると、私はイヴと話していたつもりで、ナギと話していた可能性まであるのか。
それほどまでにそっくり似通った二人。イヴとナギ。二人は合わせ鏡のように同様で――誰も、それに気付けていなかったのではないか。
「……っ」
頭がくらくらする。吐き気はすっかり臨界点など超えているのに、何も吐き出すモノがない。空気ばかりが喉を
「あなた様……っ!」
ワカモがぎゅう、と私の体を抱き寄せた。全身に張り付く汗が衣服に触れて、気持ち悪い。
彼女の長い髪がふわりと触れて、頬についた。それを振り払う余裕さえもがない。
目の前の女が、にやりと滴る笑顔を見せる。
――まるでそれは、悍ましい狂気のように思える。それを知ってはならない、それを理解してはならないという本能が私の体に全力で拒絶反応を示していて、その結果が身体に現れているのだと把握できる。
それはきっと、人が理解してはならないモノなのだ。触れることはおろか、知ろうとすることですらも恐ろしい。冒涜的で耐えがたい恐怖によって生み出された存在なのだ。
直感する。私はそれを、既に知っているのだから。
「『色彩』――――か……!」
ベアトリーチェは小さく頷いた。
「政島ナギ、彼女は『色彩』に触れているのですよ」
「……っ」
あの時のシロコと同じか。
ならば、ナギの内包する『神秘』は――。
「政島ナギの本質は、冥府への案内人にして死を呼び寄せるモノ。開ける必要のない扉を開け、いたずらに全てを破壊してしまう創造主――すなわち伊邪那岐命そのものです」
「ナギが……?」
「その通り。今の彼女は最早全てを黄泉に送る悪戯な蝙蝠。このキヴォトスから人を滅ぼす概念とでも言いましょうか。少しずつ、ゆっくりと……しかし、着実に。人を殺すための存在です」
彼女の言うことは――本当、なのだろう。確証はないが、理解できない実感があった。
頭はぼうっとしていて、目の前の事象を完全に理解出来ているわけではない。
それでも――。
「あなた様、何を――!?」
私は『大人のカード』を掲げる。
コイツは――この女は、ベアトリーチェだけは、ここで止めなくてはならない。
彼女のせいで、どれだけの生徒が傷ついてしまうのか。今ここで彼女を逃すことで、今後どれだけの生徒が苦しめられてしまうのか。ナギだって――そんなことを望んでいるのか。
シロコの時だって、彼女はそんなこと望まなかった。『色彩』に反転させられてしまえば、望もうが望むまいが、破滅を導く存在に姿を変えられてしまうのだ。
そんなことがあって良いはずがない。彼女と私は、絶対に相容れない水と油なのだ。
だから――!
「――『
「……っ」
「貴方に『神秘』はなくとも……貴方の歩んだ道が、過去が、選択が――他者との絆が、貴方の『神秘』になる。全く悍ましいチカラです。先生だって、私のことは言えないのではないですか?」
「うるさい……!」
「子どもと仲良くなるほど強いだなんて……本当にバカらしい。他者頼みの低俗なそれは、真の意味でチカラとは呼べないでしょう。本当のチカラというものは、崇高なる存在のみが持ってこそ輝くというモノ。そこに他者は介在し得ない――」
「黙れ――!」
「――しかし厄介なのも事実。私は大人なので、先生からチカラというものを、取り上げようと思います――――」
その時、ハナコが私に思い切り抱き着いた。『大人のカード』を使用する、寸前だった。
「……っ、ハナコ!?」
「先生っ! 逃げてください!」
「ダメだ――アイツは今、やらないと――――!」
「――――違います!
「……思い、出した? 何を……?」
ぎゅう、と私の服を掴んで。
目元には涙を耐え、堪えられぬ吐き気と悍ましさに包まれながら――それでも、ハナコは必死に声を振り絞る。
「あの時、トリニティの古書館で調べていたこと……! 何故今まで忘れていたのか――いや、それも、仕方なかったんです!」
「ハナコ、落ち着いて……! 今は――!」
「『天災保有者』は全員で七人……! そのうち、最も危険なのは――――『
彼女が言い切る前、咄嗟にそれに気付いてハナコを押し飛ばした。
誰も気づかない間に、彼女は私の元まで歩いていたのだ。本当に、全く、おかしな話ではあるけれど――彼女は悠然と私の元まで普通に歩いてきて、それに誰も気づかなかったのだ。
私たち全員はそれを視認していた。ずっと見ていて、そのうえで、ゆっくり近づく彼女に気付けなかった。
でも、それも仕方ないことなのだろう。
「――――『第一天災』のチカラは『
ハナコの声が、やけに耳に響く。
――その瞬間、ぴたり、と私の体にナギが触れた。
ぞくりとして、狂気的な痺れと寒気が全身に迸って――耐えられなくなって。
ぽっかりと体から、何かが消えていく感じがして。
「――さて。貴方から『先生』という仮面を奪った時……そこに何が残るのでしょうね?」