全身が浮足立ってそわそわとしていて、どろどろとした温い焦燥感が包んでいて、端的に言えば、頭がどうにかなってしまいそうだった。
じっとりと滲むような汗で体中が満たされていて、普段よりも少しばかり早い心拍がやけに明瞭で、つまるところ、私は全く持って普通ではなかった。
……いや、こんな状況下で普通で居られる方が普通ではない、か。
病室には恐ろしいほどの沈黙だけが満ちていて、誰一人として声を出すことは出来なかった。まるでこの雰囲気が私たちに何かを話すことを躊躇わせているみたいで、変だった。
目の前のベッドには――先生が眠っている。安らかそうに。
それはある意味では当然でもあったのだろう。何せ外傷は何一つないのだ。精々意識を失った際に、体を地面に打ち付けただとか、僅かに皮膚を擦った程度の小さな傷がある程度だろう。
「……」
ゲヘナの医務室。故あって、私たちはそこにいた。
本来であればトリニティの救護騎士団を頼るのが正しかったのだろう。何せ私もミカさんもトリニティ生であるし、こういう時本当に信じられるのは身内びいきだと思ったからだ。
ただ、身を隠している先生をトリニティに連れて行くことがまず憚られたし、私が何か行動するよりも先に、ワカモさんが動いていた。彼女は冷静に、最も近くて先生の安心できそうな――ゲヘナを選んでいた。
それに加えて、ゲヘナの風紀委員会――空崎ヒナの判断は素早かった。
私たちの現状を理解するとすぐさま救急医学部を派遣し、救助してくれた。ベアトリーチェは――まるでそれが計画の一部であるかのように、私たちを見逃した。最早興味もないみたいだった。
結果、そのまま流れるようにゲヘナに向かい、意識を失ったままの先生をベッドで寝かせ続けている。
――あれから、先生は一度も目を覚まさない。だから私たちも動けないまま、数時間が経過していた。
「……やっぱり、まだいたか」
がらり、と戸を開けて、ヒナさんが入ってくる。片手にはトートバッグを持って、私たちと同様に、やはり表情は落ち込んでいた。
彼女が先生に好感を抱いているという話は、よく聞いていた。だからこそ、またしても――先生がこんな目にあったことを、悔やんでいるのだろう。
それは私も同じだ。いや、きっと、私の方がその感情は大きいのだ。
まあ――それも彼に言わせてみれば、どれだけの言葉を使って伝えたところで、結局自分のことなんて自分にしかわからないのだろうけれど。
「ご飯は食べておいた方がいい。入らなかったとしても……詰め込んでおいた方が」
そう言うと、彼女はトートバッグの中に詰め込まれた幾つかの食べ物を見せた。購買で売ってあるような惣菜パンやおにぎり、カップ麺なんかもあった。お茶や珈琲、炭酸ジュースなんかが種類を問わずに入っていた。
「……みんなが何を好きかわからなかったから、適当に買ってきた」
少しだけ申し訳なさそうに言う彼女を見ると、スーパーにでも行って私たちのことを考えながらご飯を調達してくれたのだろう状況が想像できて、ちょっぴり嬉しかった。
「ありがとうございます。では、パンを」
私は頭を下げて、バッグから一つだけ引き抜いた。
ヒナさんの言っていることは事実だった。こういう時にこそ、私たちは英気を養っておかなくてはならない。先生が倒れてしまった今だからこそ、事態が急転することを想定しなくてはならないのだ。
感傷に浸っている場合ではないことは、分かっている。それでも、食事が喉を通らないのは、どうしても仕方ないだろう。
「……ミカさん。インスタントですが、スープも頂けました。飲み込んでおいてください」
ワカモさんが言う。ミカさんはさっきからずっと塞ぎこんでばかりだったけれど、彼女に言われてはっと顔をあげた。
「――うん。そうする」
病室に備えられた魔法瓶でお湯を注いで、彼女は再び席に戻った。そんなミカさんを見て、私も無理矢理パンを詰め込んだ。
「……今、話出来る?」
「私がしましょう」
ミカさんとワカモさんは、口を動かさないまま頷いた。ミカさんのダメージは甚大だ。そこまで精神的に強い人ではないから――私が話すのが道理だと思った。
「じゃあ、経緯を教えて」
「はい。私たちは先生を連れて新聞部に潜入しようと思ったのですが――そこに、ベアトリーチェと政島ナギさんが来ました」
「政島ナギ? 彼女は死んだはずじゃ……」
「彼女は『第一天災』のホルダーだったようです。能力は『忘却』――」
「――成程」
今の会話だけで、概ね理解してくれたようだった。先生が溺愛するほどには、仕事が出来る人みたいだった。
「先生はナギさんに直接触られてしまい……それから、今に至ります」
「セナ曰く、目立った外傷はないし、内部に何か異常があるわけでもないらしい。でも、その調子だと……
「……」
「起きるまで、わからないだろうけれど」
『天災』による後遺症は未知数だ。私自身、別に『天災保有者』というわけではないし、後ろに控えた二人が何も言っていない以上――わかることもないだろう。
「しかし、ベアトリーチェ……ゲマトリアが関わっているなんて」
「こうなってしまっては、彼女ほど厄介な相手はいません。不安定を好み、そして不安定に強い。混沌とした状況こそが、彼女のパフォーマンスが最大限に機能してしまう――」
考えれば考えるほど、心底厄介な女だ。初めからターゲットを先生のみに絞り、最大のタイミングで最大のリターンを得るまで、それに勘付かれないように着々と計画を進めていたのだ。
こればっかりは経験の差か、あるいは彼女が大人だからか。こういう邪悪さを隠そうともしない判断能力は、いっそ清々しいほどに高い。
「彼女はキヴォトスを滅ぼすことだって辞さないほど、危険な存在です。手を打つなら、早いに越したことはないはずです」
「わかった。連邦生徒会に連絡をしてみる」
最早これは、ゲヘナとトリニティのみに限った話ではなくなっている。二つの学校のみで解決できれば良かったのだけれど――ゲマトリアが関わっているとなれば話は別だ。
虚妄のサンクトゥム。あの一件を思い出さなくてはならない。キヴォトスが手を取り合って事態を収束させねばこの問題は解決しない。しかし――。
「――考えれば考えるほど、最悪なタイミングね。いや、彼女からすれば最良なのでしょうけれど――」
「――ええ。何せ、ただでさえキヴォトスは不安定で……何より、大人に対する悪感情が高まり続けていますから」
本当に良く出来た策だ。もう素直に褒めてあげたいくらい、良く出来ていると思う。
結束すれば問題は解決できるかもしれない。しかし、先生がおらず、しかもただでさえキヴォトスでは不安が徘徊し続けている状況。こんな時、一体誰を信じれば良いというのか。
その不安はキヴォトスの人間全てを覆っている。勿論、この場にいる私たちであってもだ。
ぎり、と何かを噛むような音がした。見れば――ヒナさんが爪を噛んでいる。
「――――私がいれば……いや」
ぼそりと呟く。
それは、私たち全員が抱えている感情でもあった。
ヒナさんならば『もし私がいれば』。私たちならば『私たちがいたのに』。異なるようで本質は同じで――それは、先生を守れなかったことのみに起因する。
だが、結局は同じだったのだろう。ベアトリーチェは今がチャンスだと踏んだから攻めてきた。ヒナさんがいて、チャンスだと思えなければ攻めてはこないはずだ。
ゆっくり、じっくりと待つ。舌を舐めずりまわし、焦れる心を抑えつけて、その時を待つのだ。
「……」
そういう意味では――ベアトリーチェにとって、突くべき弱点というのは、まさしく私だったのだろう。
私と先生は二人で家に隠れていた。充分に狙えるタイミングだったと言える。しかし、結果として狙わなかった。何故か。
考えられるのは――――ワカモさんが守ってくれていたから、これに限るだろう。
しかし先生が動くとなって話が変わった。ミカさんとワカモさんと、アキラさん。三人に私はついていき、更に先生の守りは強固になった。はずだった。そう思っていた。でも違った。
私を狙えば、先生は必ず私を守ってしまう。守ろうとしてしまう。
……だって、先生はそういう人だから。
幾ら自分が先生に向いていないだとかまだ子どもだとか言って濁しても――結局彼はどうしても大人のままで、生徒が襲われてしまえば咄嗟に手を伸ばしてしまう。そんな人なのだ。
アキラさんが私たちから離れ、弱点が出来た。彼女の『天災』は『劫略』――トリッキーなチカラではあるが、『忘却』からしてみれば最も相手にしたくない存在だ。それに比べれば、『隕石』も『噴火』も幾分かマシだったのだろう。
畢竟、ベアトリーチェは賢かったという話だ。私たちに出来た一瞬の隙を的確に突くように動いて、まんまと術中にはまったのだ。
「……っ」
ぞむり、と胃の奥がせりあがった気がした。今しがた飲み込んだパンが戻ってきそうだった。
ヒナさんに貰ったお茶を急いで開けて、思いっきり流し込んだ。一気に飲んで少し咽せてしまったけれど――なんとか吐くのは堪えられた。
「浦和ハナコ……?」
「……だ、大丈夫、です……」
「……」
訝しむように、ヒナさんが言う。隣に座っていたワカモさんが私を一瞥すると、そっと目を閉じた。
……察してくれたのだろう。聡い人で助かった。
「ちょっと、喉に引っかかっただけです。何分、水も飲んでいなかったもので」
「……」
やはり彼女は私を疑うように、少し眺めた。でも、途中で止めて――不意に踵を返した。
「……ここを出たくない気持ちはわかる。でも、貴方たちも休んでおくべき。毛布くらいだったら持ってくるけれど……必要?」
「何から何まで、ありがとうございます。では……是非」
小さく頷くと、ヒナさんは部屋から出て行った。するとまた、部屋に沈黙が戻ってきた。
「少し……寝ますか?」
「……」
「私たちはずっと動きっぱなしですし……先生が寝ている間に、ね?」
「ううん、起きてる」
「……」
ミカさんはそう言って、椅子を立った。
先生の元に近づいて、手を伸ばす。頬を優しく撫ぜて……小さく零す。
「……何が」
「……」
「何が……先生を護る……なんだろうね」
それはまさしく懺悔だったのだろう。自らの後悔を、絞り出すように。
「調子に乗ってたんだ……私」
彼女を見守ることしか出来ない。何か声をかけてあげようとして、それを出来ないことに気付いてしまった。
だって――それは、私たちもそうだったのだから。
先生と一緒にいることで、彼を護れると思っていた。助けられると思っていた。少なくとも支えてあげられるとは思っていた。
でもそれは間違いで――ベアトリーチェからすれば、私たちが先生と一緒に行動している状況こそが突きやすい弱点になっていたのだ。
「ごめんね……ごめん」
何を勘違いしてしまったのか。私たちはたかが子どもなのだ。
……大人なんかじゃない。まだまだ成長し切れてなんかいない。
自分が少しくらい強いからと勘違いしていた――ただの子ども。
それが私たちだ。
ミカさんが先生を撫ぜるのを、ただ見ていることしか出来ない。私たちにそんな資格はない。
――歯がゆい。でも、そんなのは皆同じなのだ。
「――――っ」
その時、ミカさんがはっと息を飲んだ。咄嗟に言葉に詰まって、体が固まった。
「先生――っ?」
声を吐くようにして、ミカさんは言う。
私も立ち上がって、先生のベッドに近寄った。
ゆっくりと……彼は目を覚ます。穏やかな寝顔に、柔らかな眼。眼鏡をかけていない彼の顔は、こんなにも儚かったのか。
「先生……良かった……目、覚めたんだね……!」
ミカさんが嬉しそうに言った。私もどうしようもなくて、先生の顔をただ見つめることしか出来なかった。
――――けれど先生は極めてのんびりと、平穏そうに、まるで何が起きたかも知らないような声音で、ぽつりと零した。
「……君たち、誰?」