先生と二人、外を歩くことにした。彼もキヴォトスのことを知りたいということだった。何かを見たら思い出すかもしれないとは言っていたけれど……内心では、そんなことはあり得ないだろうと思っていた。
だって、先生が受けたのは『天災』による攻撃だ。時間経過でそれが治るとは……どうしても思えない。
文字通り、先生は記憶を『忘却』しているのだと思う。『天災保有者』――政島ナギに直接触られるということは、きっとそういう意味なのだ。
ベアトリーチェの狙いは、そこにある。先生の、先生としての記憶を奪うことで、『大人のカード』を使えなくさせるつもりなのだろう。
あれは文字通り、キヴォトスにとっての切り札なのだ。あらゆる絶望も、あまねく終着点も、強引に捻じ曲げてハッピーエンドにしてしまう、先生の持つ『神秘』。だからこそ彼女にとっては脅威であり――何よりも排除したいチカラ。
本当に、最早尊敬すら覚えるほどに――清々しいまでに、彼女は大人だ。大人としての彼女は確立しているし、理念に賛同できるかはともかくとして、強固ですらある。突き崩そうと思って崩せるモノではない。
「……そういえば、ここの珈琲は美味しいんでしたっけ」
「そうなの?」
「話に聞いた程度ではありますが……」
食堂横のカフェテラス。気づけばそんなところまで来ていた。
ゲヘナ学園のことはあまり知らない。そもそも来たこともないし、珈琲の味なんて知るわけがなかった。
全くと言って良いほどに人気はない。寒風すら吹くテラスは、孤独に靡いている。
「飲んでみますか?」
「気になるね」
「じゃあ……ちょっと待っていてください。私が買ってきますから」
「いいよ。俺が払……う、よ?」
「もう、気にしないでください」
クレジットに関しても、忘れているのだろう。このキヴォトスにまつわる全てを喪失しているというのは……そういうことだ。
「すぐに暖かい珈琲をお持ちしますから」
そう言うと、私は室内に入った。普段ならば人でごった返すであろう食堂付近が、こうも人がいないというのは……少しばかり物寂しく感じる。特に、ゲヘナの給食部は様々な意味でも有名だから、一目くらいは見られると嬉しいのだが。
とはいえ、この閑静さから察するに、今日は生徒もほとんどいないのだろう。すっかり時間感覚が狂っていたけれど、気付けば夜になっていた。道理で肌寒いわけだ。
……こんな時間に珈琲なんか飲んでしまうと、中々寝付けないのだけれど。でも、先生はずっと寝ていたし――一緒に起きているのも良いか。
そんなことを思いながら、私は自販機まで駆け寄った。ホットコーヒーを二つ。先生の舌は……確か、甘さは控えめ、くらい。
不意にがしゃん、と強い音がして、私は咄嗟に振り返った。
「――――政島、イヴ……!」
見れば、食堂の机を薙ぎ倒しながら――地面に倒れ伏す、一人の少女がいる。
見間違えようもない、政島イヴだった。
それを少し遠くから見る――イヴを殴り飛ばしたのであろう――ミカさん。
ミカさんはすぐに彼女の元まで駆け寄って、胸元を思い切り掴んだ。
「……な、なんですか、いきなり……! 私はよくわからない聴取も終わったので、ただ珈琲でも飲もうかと思っただけで――」
「――うるさいっ! 誰のせいだと思って――!」
――マズイ。咄嗟にそう思った。状況はわからなかった。でも、彼女を止めないといけないと思った。
そうじゃないと――取り返しのつかない事態になる。
ミカさんは思い切り拳を握りこんで、振り上げる。
「ミカさ――――」
間に合わない。彼女は早い。私が駆けつけるよりもずっと早く、イヴに手をあげてしまう。
ダメだ。そんなことをしてはいけない。
しかし、足が動かなかった。いや、動いてはいた。遅かっただけだ。絶対に間に合わなかっただけだ。
――その時、乾いた銃声が食堂の奥からした。
「おやめなさい、ミカさん」
「ワカモちゃん……!」
「何を考えているのですか!? 彼女は何も――」
「――この女が憎くないの!?」
「……っ!」
ミカさんの怒号に、思わず竦んでしまう。
それは――確かに。
私も同じように、思ってしまったことではあった。
割り切れたつもりではいた。彼女は結局、何も知らなかったのだ。事件についても蚊帳の外、名前ばかりが使われて――まるで全容を理解出来ていなかった。
だから、罪を被せられた人なのだ。
でも……もし彼女が、どこかで止められていたら。
起こってしまった出来事にイフを言うのは良くないのは知っている。それでも――どうしても考えてしまうのだ。
もし彼女が事件を止められていれば。取材に来なければ。何も起こさなければ。
「それでも……よしてください!」
「止めないでよ!」
「止めますよ!」
ワカモさんらしくない檄。からん、と排莢の音。二発目だって撃ってやる。その覚悟の音。
「彼女に当たるのは間違っていま――」
「――分かってるの! そんなことは分かってる! 全部分かってる! ワカモちゃんのバカ!」
「……っ!」
「この子だって……何も知らなかったんでしょ! こうなるとは思ってなかった! あの時と私と何も変わらない、賢くないし何も考えずに動くし、無鉄砲で無茶苦茶で……わかってるの、そんなことは!」
悲鳴にも似た怒号。胸倉を掴む手は、ぷるぷると震えている。
彼女だって、分かっているはずなのだ。政島イヴは、悪くない。彼女は何も知れなかったのだから。
だけど、それで無罪放免と言うのも、何か違うようで、納得がいかないようで、やるせなくて、許せなくて、どうにもならなくて、気持ちに整理がつかないのもわかる。
何もかも……わかってしまう。痛いほどに。
「先生は……先生は嫌だったの……!」
心の底から声を出している。間違えようもなく、それは聖園ミカの真実。
「先生が、記憶喪失になっちゃって……私、どうかしちゃいそうなの! 胸の中の黒くて熱いこれが弾けて壊れちゃいそうなの! どうして……どうしてあんなことになったの!? どうしてあんなことに、ならなくちゃいけなかったの!? 先生で、先生でさえなければ、私は良かったのに!!!」
行き場のない思いを、いつまでも封じ続けることは出来ない。特に彼女は――それが破裂するのも衝動的だ。
ぱっと爆ぜるように、動き出してしまったのだろう。
「だから――返してよ、私の王子様……!」
「……っ」
「私の先生なの、大切な王子様なの……! 戻してよ、あの人を、元の先生に――!」
その時、鋭い音が部屋中に響いた。
――ぱぁん、と乾いた音。
「――――っ」
「……ハナコ、ちゃん……?」
自分でもよくわからなかった。自分でも意味がわからなかった。
でも、私の足は自分でも驚くくらい流暢に、その体をミカさんの元に運んでいた。
右手にびりびりとした痺れ。痛い。
……でもきっと、ミカさんの頬の方が、もっとずっと痛いのだ。
「それは――」
「……っ」
「――それだけは、言わないでください」
多分、彼女の言葉が原因で、私の中の何かが外れてしまったのだ。
それは安全装置のようなモノであり、限界値でもあった。だから、そんなモノが外れて、壊れてしまったということは、私ももう何をしでかすかわからないということだった。
頭の中に熱湯を流し込まれたかのように、思考がどろどろとしていて、でもやけにクリアな感覚。
全身が熱く、だというのに思考だけは透き通っている。
頭と体で起こる矛盾の意図は理解できない。そんなことを考えている暇はない。それでも、私は彼女に言わなくてはならない。
「あの人はあの人でいいじゃないですか。なんで貴方がそれを認めてあげられないんですか。ばかなんですか」
「な――っ」
言わなくていいことを言った。でも仕方なかった。既に舌先などは私の判断を越え、脊髄と直結して動いているのだ。頭で考えてから喋ることなど到底不可能。本能的にとろとろと蕩けだす脳汁の残滓がその言葉なのだ。
「先生じゃないとダメなわけがあるものですか。別に私は先生じゃなくたっていい。寂しくてもいい。どうでもいい。知ったことじゃない。あの人はあの人だから。変わるわけがないんです。ミカさん、貴方は先生じゃないとダメなんですか。どうして貴方がそんなことを言うんですか。私たちが、あの人を認めてあげなくて、一体誰が認めてくれるんですか。あの人はいつもいつも私たちのことを考えていた。それは先生だからなんですか。違いますよ。あの人だからですよ。だったら、あの人が困っている時こそ、私たちが彼のことを考えてあげなくちゃ嘘ですよ!」
矢継ぎ早に言って、息が切れた。最後の方はすっかりへろへろで、声音は掠れて、細くなって、本当に彼女に伝わっていたかは定かではない。
でも、言わなくちゃいけないと思ったのだ。
それがどれだけミカさんを傷つけることになろうとも――知ったことではない。
「答えなさい! 貴方は誰が好きなんですか! 誰が大切で、誰を求めて、誰の傍で死にたいんですか!」
「そ、それは――……っ、先生が、先生だから……!」
「……っ!」
違う。そうじゃないのだ。本質を理解していない。肝心なところはそこではない。
私たちこそが、彼を、支えなくてはならなくて。
肝心の彼は、『先生』というモノに支えられていて。
その『先生』という仮面は、今や奪い取られてしまって。
――だから、丸裸になってしまった先生を……今度こそ、私たちが守ってあげなくてはならないというのに。
「――――お二人とも、落ち着いてください」
全く気付けない間に駆け寄ったワカモさんに、背中を撫でられた。
――彼女の手つきはどうしても優しくて……急にぼろぼろと、涙が溢れ出た。きっと、ワカモさんが私を泣かせてしまったのだと思う。涙を拭う余裕もなくて、そもそも今自分の手がどこにあるのかもわからないくらい、頭に血が上っていた。
何故かそこにあった平手をそっと降ろす。いつの間にか、また手をあげそうになっていた。ワカモさんがいなければ、もう一発いっていたかもしれない。危なかった。
「……っ、ハナコ、ちゃ……」
「焦っても何も解決しません。焦って解決するのであれば私も焦りますが、そうではない。今こそ冷静に、物事を見極める時なのです」
ゆっくりと、彼女の手は私を撫でる。言葉にしなくとも、それだけの小さな動作は実に雄弁だった。
――ワカモさんだって、本当は狂ってしまいたいのだろうに。思うがままに衝動的に破壊して、そのまま破滅してしまいたいとも思うだろう。でも、そんなことは出来ない。責任感もあるのだろう。
私たちは皆同じなのだ。誰もが同じように矛盾を抱えて――たまたま、ミカさんが最初に弾けてしまっただけ。そして次に、私が弾けてしまっただけなのだ。
……申し訳ないことをしている自覚はある。どの口が、と思われても仕方ない。
ワカモさんに止めてもらえなければ……私はまた罪を重ねていたかもしれないというのに。
「ハナコさん。貴方は聡すぎます」
「……」
「ミカさん。貴方は貴方で鈍すぎる」
「……」
「――でも、それは私たちが同じ人を違うように思っているから、当然のことなのかもしれません。思いのカタチはそれぞれで……だからお互い、気付けるところも気付けないところもある」
優しい口調。でもやっぱり、その舌は震えていた。
……ああ、本当に。
私たちは同じなのだ。どうしようもなく彼に魅了されて、どうしようもなく犯されて、脳髄までもが溶かされていて。だからこそ夢中になって、狂わされているのだ。
誘蛾灯に招かれる蛾のように、私たちは同じ篝火に向かっている。
「私だって悔しいですよ。先生が、私との逢瀬や蜜月を忘れるなど。しかし……それは先生も同じです。ですから――」
「――っ!」
「? ……ミカさ――」
「――――っ」
目を見開くミカさん。彼女の瞳は私の遥か後方、この食堂への入り口に向けられている。
がたん、と何かの物音。私もそこを見る。釣られるように、ワカモさんも首を動かした。
「――――」
そこには彼が立っている。遅すぎて心配になったのか。それとも音が派手で見に来たのか。どっちでも良かった。そんなことは二の次だった。
我々が真っ先に、まず把握しておかねばならないことは――先ほどのミカさんの怒号を、聞いてしまったのかどうか――――。
「……そ、っか」
ぽつり、彼は言う。続く言葉を待つしかない。
断頭台か、証言台。どっちでも変わらない。
時は
「……俺じゃ、ダメ、だよな――――」
「――ひっ、違――――っ!」
彼の背中に声をかける間もなく、扉が閉まる音がした。
彼女の声は、届かない。
「――違うっ! 違うの――――そうじゃない! せんせぇ! 待って、違う、行かないで! 話聞いて!」
ミカさんの悲鳴だけが部屋に響く。しかし、その声を届けるべき相手は、もうここにいない。
虚空に手を伸ばして、濡らした顔を拭うことも出来ないまま、慟哭だけが響き続けている。
私たちも口を開くことは出来なかった。ミカさんの叫喚を前にして言葉が出なかったのもそうだし――何より、今のを全て見られていたという放心があったからだ。
「ちがうっ、嘘……せんせぇ……やだ、ごめんなさい……! いかないで……! やだぁっ、ごめんなさいっ! ごめんなさい、ごめんなさい――――……っ」
力なく、その手は空を掴むことしか出来ない。嗚咽が混じってまともに呼吸も出来ていない。もはや伝えるべき相手はここにいないのに、彼女はただ何もかもに謝るように――言葉を続ける。
「……最悪のタイミング、ですね――」
「――……」
「ハナコさん、先生をお願いします。私はこっちを」
「……ワカモさんが、行くべきでは?」
涙を拭いながら、私は言う。彼女は冷静だから、私も少しは頭が冷えてきた。
――そうだ。こういう時こそ冷静に。丁度今、ワカモさんの言っていたことだ。
「頭が冷えてきたのは良い事ですが――私ではないでしょう。それに、今のを聞いて、もっと安心しました」
「……っ」
「辛いことを言いますが……私たちのうち、二人以上が折れたら終わります。どうか、心を強く保ってください」
そう言って、ワカモさんは私の背中を押した。
――本当は、自分が何よりも今すぐ先生の元に駆け出したい癖に。
――本当は、誰よりも自分が先生の横にいるべきだと思っている癖に。
その
「……わかり、ました」
「ありがとう、ございます……」
「任せてください」
それだけ言うと、私は走り出した。
先生を支えてあげなくてはならない。どうやら、今ここで最もそれに適しているのは――私のようだった。